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アシュリーは庭にいた。
芝生と小さな花壇と数本の植木がある、孤児院よりももっと小さな庭だ。記憶の中にない場所のはずなのに、知っているという感覚がする。
アシュリーは庭の真ん中にいる、白銀色の小さな毛玉に目を向けた。ルーヴィスだ。小さなルーヴィスが右前足で、暴れる何かを押さえつけている。
「こら、ルーヴィス!」
歩み寄りながら、アシュリーは叱りつけた。しかし、確かにアシュリー自身が発した言葉であるはずなのに、声はアシュリーのものではない。
それにルーヴィスが何をしているのかわからないのに、アシュリーがルーヴィスを叱るというのもおかしな話だ。おかしいのは視線の高さもだ。いつもより少し高い。
違和感は当然のようにあるが、アシュリーはそれを当然のように無視できた。
ルーヴィスの前でアシュリーは屈み込む。
「そんなことをしたら駄目よ」
小さなルーヴィスは、大きな目で見上げ、首を傾げた。
「どうして?」
このルーヴィスは声や仕草まで幼かった。首を動かした方向に、そのままコロンと転がってしまいそうな可愛らしさがある。
しかし、やっていることはあまり可愛くない。ルーヴィスの前足の下には、風の精霊らしきものがいて、そこから逃れようと、淡い新緑色の手足と羽をばたつかせている。
「ルーは力の強い神獣でしょう。自分よりも弱い精霊を苛めちゃ駄目よ」
「近くで見たかっただけだよ」
「でもシルフィーは困っているわ」
ルーヴィスはもがくシルフィーをじっと見つめてから、前足を持ち上げた。解放されたシルフィーが、それこそ風のように逃げ去っていく。
「サディ、どうして強かったら、弱い精霊を苛めちゃ駄目なの?」
納得したわけではなかったのか、ルーヴィスはそんなことをアシュリーに──サディに尋ねた。
強き者は弱き者を守るために、その力を授けられたのです。
サディとしてそこにいながら、アシュリーは頭の中で、シスターならこんな時に、こんな風に答えるだろうなと考えていた。
しかし、サディが口にしたのは、違う言葉だった。にこりと笑って、彼女は言う。
「だって強い上に優しかったら、ルーは誰にだって好かれるじゃない」
ルーヴィスはきょとんと彼女を見上げる。
「私の可愛いルーが、皆に好かれるようになるなんて、そんなの最高のことだわ」
その様子を想像して嬉しくなったのか、サディは満面の笑みを浮かべている。
ルーヴィスは俯いて、所在無げに芝生をパタパタ叩いた。
「それなら、優しくしてもいいかな」
照れ臭そうなルーヴィスは、きっと自分のためではなく、サディのために、そんなことを言った。
目が覚めたら、眼前に銀色の大きな毛玉があった。
こんな状況は初めてのことのはずなのに、さっきまで見ていた夢のおかげで、アシュリーは考えるまでもなく、それがルーヴィスだと理解した。
不思議な夢を見た。成長するにつれて、アシュリーは夢をほとんど見なくなっていたのに。
体を起こすと、ルーヴィスが耳をピクピクさせてから顔を上げる。
「おはよう、ルー」
「おはようございます、アシュリー」
「寝てた? 神獣も眠ったりするものなの?」
昨日はまだ疲れていたせいで、アシュリーがすぐに眠ってしまい、聞けずじまいだったことを尋ねる。
「神獣や精霊も疲れたら眠りますよ。多分、人間よりもずっと眠りは浅いですが」
「へぇ。あのねぇ、さっき不思議な夢を見たよ」
アシュリーは夢の内容をルーヴィスに話した。
「これって、わたしの想像なのかな? それとも、実際にあったことだったりするの?」
好奇心を滲ませて聞くと、ルーヴィスは複雑そうな顔をして俯いた。
「実際にあったことです」
「じゃあ、わたしって本当にサディの生まれ変わりなんだね。あ、ルーを疑っていたわけじゃないよ。でもこれで実感しちゃった。あれ? ルー、嬉しくないの?」
てっきり喜ぶと思っていたルーヴィスは、むしろ浮かない表情だ。
「嬉しいです。でも、これがきっかけとなって、アシュリーがサディの夢を見続けることになれば、いずれ辛い思いをしてしまうかもしれません」
サディは病をもたらした魔女として、処刑された。
そのことを思い出したアシュリーも、さすがに顔色が悪くなる。処刑された時のことなど、夢でも見たくない。
「あー、うん。じゃあ、そういう夢見ちゃったら、ルーが慰めてね」
これからは目が覚めたらルーヴィスがいるはずだから。
孤児院に来たばかりの頃、それは祖父母が亡くなったばかりでもあり、アシュリーは夜が特に寂しかった。
大部屋の寝室にはたくさんの子供たちが寝ていたが、寂しい時に側に行って抱き締めてくれる人はいなかった。
でもこれからは、恐い夢を見てもルーヴィスがいる。それなら大丈夫な気がした。
「はい」
ルーヴィスは嬉しそうに頷いた。
体調は回復したとアシュリーが報告すると、さっそく院長からの呼び出しがあった。
きっとお説教を食らってしまうのだろうと、憂鬱な気分になる。
「アシュリー、どうしたのですか? 元気がないです」
隣を歩くルーヴィスが心配そうに尋ねてくる。
「院長先生に怒られるんだろうなと思って」
「では、私がその院長に怒らないようにお願いします」
「うっ。ううん。それはダメ」
神獣のお願いなど脅迫に近いだろう。常人にとって神獣は幻とも言われる、偉大な力を持つ生き物だ。
それにアシュリーはルーヴィスにそんなことを頼んではいけない気がした。守ると言われても、特別な扱いをされたいわけではないのだ。
大人しく怒られることにしたアシュリーは、院長室に入ると、潔く自分から謝った。
「ごめんなさい、院長先生。トミーとフレッドのこと、ちゃんと見ていなくて」
孤児院では年長者が年少者の面倒を見なくてはいけない。子供ばかりで生活するには、これは大切な決まりごとなのだ。だからアシュリーは院長に怒られるだろうと思っていた。
「そのことを気にしていたのですね、アシュリー。いいのです。あれは私たちが悪かったのですから」
皺だらけの顔を持ちながらも、背筋をピンと伸ばした院長は静かに言った。
「あんな小さな隙間でも、もっとしっかり塞いでおかなければいけなかったのです。応急措置で済ましてしまった私たちの落ち度です」
院長は眉間に更に皺を寄せて、悔やむように言うが、彼女が悪いわけではないことをアシュリーは知っていた。
あの塀の穴は、発見した時よりも大きくなっていた。恐らく、誰かが遊び心で広げてしまったのだ。それを言おうか迷って、アシュリーはやめた。
きっと知っても院長は意見を変えない。そのことを予測できなかった自分たちが悪かったのだと言うだろう。子供たちの安全に関しては、人一倍シスターにも自分にも厳しい人だ。
「そのことについて、そちらの方にお礼を言わせていただきたいわ。私の子供たちを救っていただいて、ありがとうございます。神獣や精霊は不必要に人から声を掛けられることを嫌っているとは存じておりますが、ただ耳に入れることだけでもしていただきたかったのです。非礼をお許しください」
懇切丁寧な言葉に、お座りの姿勢でじっとしていたルーヴィスはアシュリーを窺った。目が合うと、彼はとりあえずといった様子で院長に向かって頷く。
アシュリーはもしかして神獣って、力が強いだけではなくて、想像していたよりもすごい存在なのではないだろうかと考えていた。院長がこんなにも丁寧な態度を取るなんて。
「アシュリー、あなたにも大事な話があります」
「あ、はい」
「あなたはとても高い魔力を持っているそうですね」
「そうみたいです?」
アシュリーとしてはルーヴィスにそう言われただけなので、彼のほうを見ると、またこくりと頷かれた。
「でしたら、あなたをこれ以上ここに置いておくわけにはいきません」
「えっ!?」
いきなり出ていけ宣告をされて、アシュリーは動揺した。それならどこへ行けと言うのか。
「あなたのことは市長に相談しました。彼がしかるべき場所を探してくれています」
どうやらただ追い出されるわけではないとわかって、ほっとする。この街は中規模な孤児院がが建っているだけあって、小さくはない街なので市長がいる。その人が魔力の高い子供が行かなければいけない場所を探してくれるというわけか。
「……どんな場所に行かなくてはいけないんですか?」
不安になって聞いてみると、院長は安心させるように微笑んだ。
「恐がる必要はありません。魔力の高い人間は、今や重宝される時代です。この孤児院にいるよりも、ずっといい暮らしができるでしょう」
「そうですか……」
アシュリーは曖昧に答えた。自分だけいい暮らしができると言われても、素直に喜べるものではない。
決まり次第、すぐに行かなくてはいけないだろうから、準備をしておくようにと言われて、アシュリーは複雑な気持ちで院長室を出た。