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この部屋にはアシュリーと、この銀狼しかいない。
しかも声は目の前から聞こえてきた。若い男性のような低い声だ。
「しゃべった?」
念のため尋ねてみる。頷きとともに返事が返ってきた。
「はい」
ここでようやくアシュリーはこの銀狼が、普通の狼ではないことに気がついた。気づく前にこんな大きな獣が近くで眠っていて、危機感が全くなかった自分もどうかと思うが、魔獣と違い、恐怖心が湧かなかったのだから仕方がない。
よく考えれば、隣の森に狼が出るという話は聞いたことがないし、こんな神秘的な生き物が野生の獣であるはずがない。
「あなた精霊?」
「違います、主。ルー、ルーヴィスです」
種族的なことを聞いたのに、彼は名前を教えてくれる。おまけにちょっと不満そうだ。
しかし主とは何だろうと、アシュリーは首を傾げた。魔精の生き物の主になった覚えはない。狼や犬の主になったことだってない。
「そう、わたしはアシュリー」
とりあえず名前を教えてもらったので自己紹介する。
「わかりました。アシュリーですね、主」
「いや、主じゃないよ?」
「わかりました。アシュリー」
多分わかっていない。しかしずっと嬉しそうな顔をしているので、どう言えば傷つけずに否定できるのか悩む。
悩んでいるうちに、シスター・ヘレンが戻ってきた。起きているルーヴィスに少し怯んでいたが、特に何もなく、アシュリーにオートミールとヤギの乳を差し出してくれる。
「ゆっくり食べなさいね」
「ありがとうございます」
お腹が空いていたアシュリーは、問題はひとまず置いておいて食事に取りかかった。起き上がれる程度には回復していたし、食欲が減退するような気持ちの悪さでもなかった。
シスター・ヘレンは部屋から出て行かず、心配そうにアシュリーを見ながら、体調を窺っているようだった。
「ちゃんと食べられるのね。よかったわ、大丈夫そうで」
「はい、心配かけてごめんなさい」
食欲が満たされ、体調を気遣われたところで、アシュリーはようやく思い出した。とても重要なことを。
「シスター・ヘレン! トミーとデリックは、大丈夫なんですか!」
二日も眠っていてぼんやりしていたとはいえ、悠長にご飯など食べている場合ではなかった。トミーは血を流して倒れていたのだ。アシュリーは血相を変えてシスター・ヘレンに詰め寄った。
「落ち着きなさい、アシュリー。二人とも無事ですよ」
「本当に? 大怪我してないですか?」
「ええ、怪我は……そちらの方が治してくださったわ」
シスター・ヘレンがちらりと見た視線の先には、銀狼ルーヴィスがいた。
「あなたがトミーの怪我を治してくれたの?」
「ええ、一気に全て治しては体に悪いですから、少しずつですが」
どことなく得意そうにルーヴィスが答える。
「ありがとう」
笑顔でアシュリーは礼を言った。相手が魔精でなければ抱きついていたところだ。失礼になるかもしれないので思い止まったが。
「あなたやっぱり精霊じゃないの?」
「いえ、精霊ではありません。神獣です」
事もなげに言われた言葉に、アシュリーは固まった。
「え? 神獣? 神獣ってものすごく珍しいんじゃないの?」
「そうですね。精霊と比べたら、かなり希少ではあります」
アシュリーは焦った。これは早急に、彼のアシュリーが主であるという思い込みを正さなくてはいけない。
「アシュリー、私はやることがあるのでもう戻ります。あなたがこうなった経緯を、この方にちゃんとお伺いしておきなさい。体調が良くなるまで、この部屋を使って構いませんから」
「え、あ、はい」
シスター・ヘレンはまるでルーヴィスに遠慮するかのように、食器を持って下がっていった。
「え? こうなった経緯って?」
トミーとデリックが言い付けを破って外に出て、魔獣に襲われて、たまたまルーヴィスが助けてくれたわけではないのだろうか。
「アシュリーが寝込んだ経緯です」
「あっ、そういえば二日も寝込んでいたんだっけ。何でそんなに」
「魔力暴発を起こしたからです」
「全然わかんない」
聞いたことのない言葉が出てきたので、アシュリーが正直に言うと、ルーヴィスは少し困った顔をした。表情はあまり動いていないのに、なぜかとてもわかりやすい。
「アシュリーは魔力がとても高い人間なのです。あの時、使い方もわからない魔力を力任せに使おうとして、魔力が弾け飛んでしまったのです。私が行くのが遅かったら、精神に異常が出ていたか、身体機能のどれかが喪失していたかもしれません」
ルーヴィスの説明は簡潔すぎて、アシュリーは飲み込むのに少し時間が掛かった。
「……え? あなたが来てくれなかったら、わたしヤバかったの?」
「はい、間に合ってよかった」
そう言ってルーヴィスはアシュリーの手のひらに頭を擦りつけた。甘えているというよりも、慈しんでいるという表現のほうが近い動作だった。
「ありがとう。三人ともあなたに助けられたんだね」
「いえ、二人ですよ。魔獣を倒したのはアシュリーですから」
顔を上げてルーヴィスが言った。
「……わたしが倒したの?」
「ええ、アシュリーです」
覚えていないのかというように見られて、アシュリーは思い出した。自分の中から出てきたものが、魔獣を強打したことを。あれは自分の力だという自覚が、アシュリーにはしっかりあった。
「わたし魔力が高いの?」
「人としては稀なほど高いです」
「へー」
実感が湧かないアシュリーは相槌だけ打った。世間から隔絶されがちな孤児院で生活しているせいで、それがどんなことに繋がるのかわからないのだ。
「それでその魔力暴発っていうのを起こしたから、わたしは二日も寝込んじゃったんだね」
「はい、アシュリーの意識がなかったのでゆっくりですが、魔力も正常な状態に戻しておいたのでもう問題ありません」
「そんなことまでしてくれたの!? 何から何までありがとう!」
アシュリーは感激した。ルーヴィスの神がかり的な優しさに。さすが神獣。古来では神と同等だと思われていただけある。
「当然です。アシュリーは私の主ですから」
謙虚な言い種だが、得意気に胸を張るという、やけに人間くさい仕草をルーヴィスはした。
たちまちアシュリーは困ってしまう。
「えーと……ルー?」
自分から愛称を名乗ったのでそう呼んでみると、ルーヴィスは忠犬のように姿勢を正した。
「はい」
「あの……多分、人違いだと思うの。わたし、神獣の主になれるような、すごい人間じゃないよ?」
「いえ、間違いありません。あなたが私の主です」
ものすごくきっぱりと言い切られた。
「でも……えっと、じゃあ、わたしが幼い時に会っていたということ?」
記憶力は人並みであるアシュリーだが、こんなに美しくて立派な生き物に出会って、覚えていないのはおかしい。記憶に残りにくい、幼少の頃にもしかして会ったのだろうかと、ルーヴィスが正しい可能性を考えてみた。
「いえ、今世では二日前に初めて会いました」
「……ちょっと、わたしには理解できないかも」
アシュリーは推測するのを諦めた。神獣や精霊たちの性質や事情など、全くと言っていいほど知らないのだ。本格的にルーヴィスが何を言っているのかわからなくなってきた。
しかしルーヴィスは瞳を悲しげに翳らせる。
焦ったアシュリーの前で、ルーヴィスの体がスゥーと小さくなっていった。
「え?」
あっという間に子犬サイズになったルーヴィスは、姿形も子供らしく、短い脚に柔らかな毛並み、円らな瞳でアシュリーを見上げた。
「何か思い出しませんか?」
「かっ、かわ、可愛い! 何それ可愛い!」
首を傾げるという仕草まで加わって、アシュリーはあまりの愛らしさに興奮して、質問をまともに聞いていなかった。
「さっきは綺麗でかっこよかったけど、これはめちゃくちゃ可愛い! すごい、そんなことまでできるんだね!」
あわよくば抱っこさせてもらえないだろうかと、うずうずと手を動かしているアシュリーとは対照的に、ルーヴィスはしゅんと項垂れて、元の大きさに戻った。
「あっ……」
思わず残念そうな声を出してしまう。
「あれは前世のあなたと一緒にいた時の、わたしの姿です」
「え?」
「あなたは前世からの、私の主なんです」
切望するような瞳に見つめられて、アシュリーはぽかんとした。