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アシュリーはルーヴィスの腕の中で首を傾げた。
「魔獣って……あの犬みたいなやつでしょう?」
「全ての魔獣があの姿をしているわけではありません。魔獣はそもそも人間から魔力を得るための交渉ができないがために、人間そのものを喰らって魔力を得る魔精のことをいうのです。人間界に長時間滞在するには、人間の魔力が必要ですから。人の言葉を理解していても、人間と交渉ができずに、人間を喰らって魔獣になる精霊もいます。他にも精霊と魔獣の違いはありますが、人間にとって重要なのはその部分でしょう」
「精霊が魔獣になるなんてあり得るの?」
「ええ、魔精はそもそもあやふやな存在です。確固たる違いがあるわけではありません」
アシュリーは考えてみた。
あの大蜥蜴は人の魔力を喰らう魔獣で、サディをずっと狙っていた。そしてルーヴィスが聞いてきた、喰われるところを見たのかという言葉。
「サディは処刑されて死んだんじゃないの?」
アシュリーは処刑の直前まで夢で見た。しかし最後までは見ていない。これはサディが本当は死ななかったとかそういうことではなく、ただアシュリーが見ることを拒絶したせいか、サディの意識があの時点でなくなったからだという気がする。サディはあの直後に死んだのだ。
しかし、それなら「喰われるところ」とは何なのだろうか。
「……そうです。サディは処刑によって殺されました。アシュリー、昼間の魔獣が死んだ後の状態を覚えていますか?」
「え? うん」
急に魔獣討伐のことを言われて戸惑ったが、これは関係のある話なのだろう。アシュリーは頷いた。
「魔獣が事切れてしばらくした後、灰になっていましたよね」
「うん、さらさらって砂みたいになって飛んでいってた」
それまで魔獣を形作っていたものがなくなり、溶けるように灰になっていたのだ。あれにはアシュリーも驚き、ハルベルトが理由を教えてくれた。
魔精のものは体を形成する成分に魔力が多分にあるが、魔獣が死んだことにより、魔力を体に留めておく生命活動が停止して、魔力が大気に溶けていったのだ。魔力というのは、とにかくあらゆるものに溶けやすい。そして残った成分が灰になったのは、恐らく元は精霊界で誕生した生命であるから、人間界では魔力がなくなったことで、本来の形ではないものに変化しているのではないかと言われている。
「あれは魔獣が死んで、数分後に起きる状態なんです。死んだ瞬間に魔力が大気に溶けて灰になるわけではありません。少しの間、魔力は体に留まっています」
「うん……」
続きを待っていると、ルーヴィスは言いにくそうに目をふせた。
「人間も、同じです。死んでも少しの間、魔力は体に留まっています」
アシュリーはルーヴィスが何を言おうとしているのか理解した。
「サディは亡くなった直後に、魔獣に喰われたんです」
脳裏に夢の中で聞いた声が甦る。
──さあ、早く。
背筋にぞくりと悪寒が走った。
アシュリーはルーヴィスにしがみついて震えた。あの魔獣が何を待っていたのかわかった。
はっとしたルーヴィスがアシュリーを抱きすくめる。
「すみません、アシュリー。恐がらせてしまって」
普段は人間のような気遣いができるルーヴィスだが、やはりふとした時に感覚のズレが生じてしまう。こんなにも怯えさせてしまうとは思わず、彼は後悔した。
「アシュリー、大丈夫です。今度は絶対に守ります。絶対にあんな死に方はさせません。私が守ります」
ルーヴィスは何度も言い聞かせた。
迷うことなく自分を頼り、すがりつく少女の頭を撫でる。まだ子供と言える年齢の小さな少女だ。夜中に少し離れただけで、自分を探しに出てしまうほど寂しがりの。
出会う前から守ると決めていた。しかし、出会ってからはその思いが日に日に強くなってくる。
サディとは違い、アシュリーにとっては自分が必要な存在なのだという実感は、ルーヴィスを長い微睡みから覚醒したような感覚にさせた。
「……あの魔獣は、どうなったの?」
勇気を振り絞るようにアシュリーが尋ねた。
「……大丈夫ですよ。守りますから」
先程のことを振り返り正直に口にすることを躊躇ったルーヴィスだったが、アシュリーはしっかり意味を理解した。
「生きてるんだね」
ルーヴィスの服を握りしめたアシュリーを宥めるように、背中を撫でる。
「私がいます」
アシュリーの体の力が微かに弛んだ。
「あの魔獣はあの後、精霊界に戻って、それ以来は人間界には来ていないはずです。ほとんど人間界にいた私とは会うことがありませんでしたが、大丈夫ですよ。今は私のほうが強いのですから」
少しの沈黙のあと、アシュリーはうんと頷いた。
「ルーがいるなら平気」
しがみついたままの、平気とは思えない様子で呟く。強がりだとしても、自分がいるならと、言ってくれることがルーヴィスは嬉しかった。身の危険だけでなく、不安からも守れたならどんなにいいだろう。
「あのね、サディは気を付けろって言ってくれている気がする」
「え?」
アシュリーはゆっくり顔を上げた。
「わたし、こんな夢を見ているのって、ずっと何か意味があるような気がしていたの。だって前世の記憶はないままなのに、その記憶を夢では見るなんて、なんか変だもの。もしわたしの魂の中に、サディだった頃のことが残っているのなら、そのサディがわたしに話しかけようとしてできなくて、代わりに夢で何かを伝えようとしているんじゃないかなと思ったの」
「……それは、あの魔獣がまたアシュリーを狙いに来るということでしょうか?」
眉間を寄せるルーヴィスに、アシュリーは考えながら頷いた。
「多分。他に思い当たることある?」
「ありません」
「じゃあ、そうなんだと思う」
ルーヴィスは理解した、というように深く頷いた。
「油断をしていたことはありませんが、もっと気を付けるべきですね。学校でも姿を消して、もっと近くにいるようにしましょう」
いつもアシュリーのすぐ側にいるルーヴィスが、唯一少し離れた場所で待っているのが学校だ。ルーヴィスとしてはそれでも守れる距離を保ってはいたし、あの魔獣が再びアシュリーを狙う可能性も考えていた。しかし、油断はしていないが、もっと気を引き締めるべきだ。サディは妙に勘が鋭い時があったのだから。それはアシュリーも同じなのかもしれない。
「離れることはありませんが、万が一何かあった時はすぐに呼んでください」
「うん」
「大丈夫です。アシュリーが傷付くことはもうありません」
「……うん」
幼子をあやすように優しく囁くルーヴィスの声と温かさが、アシュリーの恐怖を塗りつぶしていった。
ルーヴィスがいるなら大丈夫だ。
安心したアシュリーはそっと瞼を閉じた。その温もりを堪能するためにじっとする。そして、やがて夢も見ないほどの深い眠りに落ちていった。
ルーヴィスは大きな銀狼の姿で屋敷の廊下を歩いていた。
月明かりすらない暗闇の中であったが、行き先に迷うことはない。彼には周囲の光景がしっかり見えていたし、足を踏み入れたことのなかった場所でも、魔力を辿れば目的の部屋まで行ける。
普段、弟子たちには立入禁止となっている三階の廊下の、とある部屋の前でルーヴィスは止まった。
人間社会にある程度慣れている彼はノックをしようとしたが、部屋の中から魔力が動いて扉が開いた。
「どうぞ」
真夜中だというのに、しっかりした口調で招き入れられる。
入室したルーヴィスは、ソファーに座った寝間着姿ですらない、この屋敷の主と対面した。
人間は夜に眠るものだという認識を持っていたルーヴィスだが、彼に関してはそれは当てはまらない。昼間に寝ているというわけではなく、睡眠時間が極端に少ないのだ。
だからこそ、先程のアシュリーの魔力の異変に気づいただろうと思った。
「彼女は大丈夫か?」
案じる響きを滲ませてハルベルトが尋ねた。
「ええ、今は眠っています」
本当は側を離れたくなかったが、すぐ近くにはいるし、屋敷中の精霊を呼び寄せて護衛をさせている。その中で眠りを深くする魔法が使えるというウンディーネに、アシュリーがすぐに目覚めないように魔法をかけてもらった。
「他に誰か気づいたでしょうか」
「いや、君がすぐに魔力を遮断したから、誰も気づいていないはずだ。あれのせいで目が覚めたとしても、理由はわからないはずだよ」
それならいい。ルーヴィスにとって重要なのは、人間にアシュリーの魔力の高さを知られることよりも、あの魔獣にアシュリーの存在を知られることなのだ。
あの魔獣はかなり特異だが、ルーヴィスには奴をおびき寄せて殺すための理由を持っていない。魔精にもルールは存在する。サディが亡くなった後の魔力を喰っただけの魔獣を殺すことはできない。
しかしあの魔獣は恐らく、サディの魔力が高すぎたせいで生きている間に喰えなかっただけで、サディのおかげで強くなった今は、アシュリーを生きている間に喰おうとするかもしれない。狙い定めた獲物は逃さない狡猾な魔獣だ。
「アシュリーがあの魔獣の存在を知りました」
「それでか。以前も言ったが、私はそのほうがいいと思っている。それに何かあれば協力は惜しまないよ。君には助けられているからね」
ハルベルトは珍しく言い淀んだ。
「それとやはり君は彼女に全てを話すべきだと思うよ。あの子は君に頼りきっているように見える」
「……あなたのことも頼りになると判断したようですよ」
ハルベルトは大きな溜め息を吐いた。
「まあ、強制はしないよ」
「では私は戻ります」
確認のためだけに来たルーヴィスは踵を返した。嫌な話題から逃れたかったというのもあるが、早くアシュリーの元に戻りたかった。
そんなルーヴィスの背中に向かってハルベルトがポツリと呟く。
「本当に君は神獣なのに、人間みたいになってしまったんだな」




