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アシュリーは生まれてこの方、自分が不幸だと思ったことはない。
両親がおらず、祖父母に育てられたのだとしても、彼らはアシュリーに厳しくも優しかったし、七歳でその大切な祖父母を亡くしてしまった時も、悲しかったが、孤児院に引き取られたおかげで路頭に迷うことはなかった。
孤児院では意地悪な人もいたが、優しい人もたくさんいた。貧乏なせいで畑仕事や水仕事を毎日しなくてはいけなくて、手が荒れて辛かったが、飢え死にの心配はなかったし、勉強もさせてくれた。
だから不幸だと思ったことはない。
しかし、それでも七歳からずっと、アシュリーは孤独ではあった。
孤児院というのは結局のところ、他人が集まった場所で、孤独な子供が何人集まろうが、その孤独が癒されることなんてない。
シスターたちは子供を平等に世話しなくてはいけないから、彼女たちにも全員を愛する余裕なんてなかった。
だからアシュリーは他の子供と同様に、何度も自分を迎えに来てくれる優しい人物のことを想像していた。ずっと側にいて、自分のことを第一に考えてくれる、祖父母のような、存在するはずもない人を。
そんな風だったから、あの時聞こえた言葉は、幻聴なのだと思ったのだ。
死を意識したからこそ、願望が形を持ってしまったのだと。
とても美しい銀色の獣が目の前にいて、アシュリーを見つめていた。
琥珀色の泣いているような瞳が、なぜかとても懐かしい。
ゆっくりと目を閉じたアシュリーの耳に、歓喜の声が届いた。果てしない時間、探し続けていたものを手に入れたかのような声。
やっと見つけた、と──。
「そっちに行っちゃダメだよ」
アシュリーは畑仕事の手を止めて、まだ幼い子供たちを叱った。
五歳と六歳の男の子たちが、孤児院を囲む塀の、崩れた部分から外へ出ようとしていた。その向こうは森で、危険だから決して外に出てはいけないと口酸っぱく言い聞かせられているというのに。
しかし駄目だと言われたことをやりたがる年頃の彼らは、見つかって驚いた顔をしたものの、相手がアシュリーだとわかると、またにやにやとして外へ出ようとする。普段はきつく叱ることのないアシュリーが、怒ると恐いと言われていることを忘れてしまったらしい。
「やめなさい! トミー、デリック!」
アシュリーは農具を放り出して走り出した。
一瞬まずいという顔をしたトミーとデリックだが、まだ幼いだけあって、物事を軽く考えてしまいがちな彼らは、笑いながら外へ出てしまった。
「わぁー!」
「逃げろー!」
追い駆けっこのような呑気なことを言う二人に、アシュリーは焦った。
「トミー、デリック! 戻りなさい!」
崩れた塀の前まで来てみれば、やはり十三歳のアシュリーでは通れそうもない。応急措置で塞いでいた石はあまり大きくないものを重ねていたせいでどかされている。
「危ないから戻って来なさい!」
大声で叫ぶが、笑い声が返ってくるだけだ。
「ちょっと、戻りなさいよ、二人とも!」
心配そうにアシュリーの後を付いてきた二歳年下のロッテも呼び掛けるが、まるで効果がない。
「もう! ロッテ、シスターたちを呼んで来て! わたしは門からあの子たちを捕まえに行ってくるから!」
「わかった!」
ロッテが頷くのを見ると、アシュリーはまた走り出した。
孤児院で年長者組になるアシュリーは、幼い子供たちの面倒を見なくてはいけない立場だ。あぁシスターに怒られるなぁ、という諦めの気持ちと、危ないことを平気でするトミーとデリックへの怒りがない交ぜになりながら走る。
アシュリーにしても、何が危険なのかといえば、森で迷子になる程度のものだと思っていたのだ。それだって命に関わる危険なことなのだから間違ってはいない。
しかしまさか、町はずれとはいえ、自分が魔獣に遭遇してしまうとは、予想もしなかった。
森へ入って二人の名前を呼んでいたアシュリーに応えがあった。
「アシュリー!」
危機迫った悲壮な声に驚いて、アシュリーは足を速めた。
その声の先にあった光景を目にして、あまりのことに事態の把握がすぐにはできない。信じられないものを見ていた。
尻もちをついた状態でガクガクと震えているデリック。血を流して倒れているトミー。そして野良犬のような獣の後ろ姿。
その獣がくるりとアシュリーの方を向いた。
シルエットは犬にとても似ている。しかしその顔には目が四つあり、それが紫色に薄く光って、大きな歯が剥き出しになっている。
魔獣だ。
野生の獣とは違い、積極的に人を襲い、肉ではなく魔力を喰う生き物。普通の人間が遭遇すれば、まず命はない。
魔獣は人間の子供などすぐに仕留められることを理解しているからか、ゆったりと歩いていた。
「アシュリー……」
震える声で呼ばれてアシュリーは我に返った。
助けなければ。でもどうやって。
考えている余裕などなかった。魔獣が立ち止まり、身を低くする。襲いかかる動作。鋭い四つの視線の先にはデリックがいる。殺される。
すっと血の気が引いた。
駄目だ、という強い思いがアシュリーから溢れだした。
その思いがそのまま力になったかのようだった。地を蹴った魔獣にそれは襲いかかり、大岩をぶつけられたような激しい衝撃を魔獣はその身に受けていた。そのようにアシュリーには見えていた。
体が抉れて焦げたようにも見える魔獣は、多分絶命している。訳がわからないながらも、アシュリーはそのことにほっとした。
別の脅威が存在していたのだとは思わなかった。これが自分のしたことなのだと、本能的に理解していたのかもしれない。
でも何だか体がおかしい。気持ちが悪くなって、力が抜けていく感覚がする。
早くトミーの怪我の手当てをしなくてはいけないのに動けない。
血が逆流しているかのように、自分の中の何かが間違った方角に流れ、外に放出していた。気持ちが悪くて体が千切れそうだ。
段々と苦しくなっていく体を、どうすることもできずにいたアシュリーは、意識を失う直前、美しい銀狼の神獣と出会った。
目を覚ましたアシュリーは、ぼんやりした頭で、間近の記憶を辿っていた。
「……夢?」
としか思えない。しかし体にはまだあの時の気持ち悪さが残っている。おかげで起き上がることも、寝返りを打つことすら億劫だ。
ただ、すぐそこに気になるものがあった。寝ているベッドの右側に何かが乗っている。なかなかの大きさで温かいものだ。
首を動かしてみたアシュリーは、白い大きな毛玉を見つけた。いや、白よりもほんの少し黒っぽくて輝いている、見事な銀色だ。こんな毛玉をアシュリーは見たことがない。
「いや……見たかな」
意識を失う前にアシュリーはとても美しい銀狼を見ている。この大きな毛玉はもしかしてあの銀狼だろうか。
確かめたくなって声を掛けてみた。
「おーい、狼さん」
反応がない。眠っているのか、無視なのか。きっと眠っているのだろうと結論を出して、アシュリーはやることがなくなり、ぼーっと天井を見つめた。気持ち悪さはまだ残っている。
「お腹空いたなぁ……」
普段はあまり言わないようにしている言葉も、一人なので呟いてみる。
誰か来てくれないかと考えていると、タイミングよく部屋の扉がノックされた。
「はーい」
声だけは元気よく返事をする。
すると扉が勢いよく開いた。
首だけ動かしてみれば、そこにはシスター・ヘレンがいた。
「アシュリー、目が覚めたのね!」
ベッド脇に駆け寄ってきた彼女は、心底安堵したように膝を折った。
「丸二日も眠っていたのよ」
「二日……そりゃあ、お腹が空くわけだ」
まだぼんやりしていたアシュリーが、まず思ったのはそんなことだった。
「すぐに何か持ってくるわ」
シスター・ヘレンは急いで部屋を飛び出していった。
よかった。すぐにご飯が食べられる。
アシュリーはこのまま待っていることにして、そういえばここは誰の部屋だろうかと、視線を巡らせた。
そして琥珀色の瞳と目が合った。すぐ近くで。
「……え?」
まごうことなき銀狼だった。ふわふわの毛玉、いや毛並みの。
いつの間に起きて、向きを変えていたのか、銀狼はアシュリーを穴が開きそうなくらい、じーと見つめている。
何か言ったほうがよさそうだ。
「おはよう?」
すると銀狼が目を細めた。
「おはようございます」
返事が返ってきた。銀狼はとても嬉しそうに、犬が大好きな主人に頭を撫でてもらったような顔をしていた。
「ずっと、待っていました、主」
「……え?」