38(侍女:今世1)
それはあまりにも突然のことだった。
私は窓を雑巾で拭きながら、渡り廊下を渡った向かいにある屋敷の中をふいに見た瞬間だった。偶然、ただ何となく目を向けた先に、私の勤め先である屋敷の主人の一人娘であるお嬢様が歩いていた。腰まで伸びた銀の髪をなびかせて静かに歩いている。
彼女を見るのは初めてだったが、すぐにわかった。後ろにメイドと執事をつけて姿勢正しく歩く姿が貴族であることを示していたという理由もあったが、私ではない私が、彼女の存在をよく知っていたためだった。それは、私の記憶。私の知らない未来を知っている記憶だった。
頭の中に膨大な量の記憶が流れ込み、思わずふらついてしまうが足にぐっと力を入れて倒れないように耐える。じきに目眩はなくなり、私は足から力を抜き、目眩に耐えようときつく閉じていた目を開いた。向かいの廊下を歩いていたお嬢様は私が目を閉じていた間に窓の前を通り過ぎたようで、もう見えなくなっていた。
私はふっと息を吐くと、すぐに窓拭きの作業に戻った。
私の名前はネオラ。平民生まれの平民育ちなので、姓はない。人より物覚えが良いことと、相手の目を見れば感情が読み取れてしまうということ以外は至って普通の少女だ。その二つがあれば普通とは言いづらいだろうが。
そして今流れ込んできた記憶は、私の前世というものの記憶のようだ。私の住んでいた国では平民だろうがそうでなかろうが全員に姓名もあり、私の名前は木下愛由美だった。今の私と同じように、少し変わったこの力を持っていること以外は普通の少女だった。
そんな私は、目を見ても感情の読めない友人を、たった一人の大切な親友を亡くしてしまった。守れなくてごめんねって思ったのは最期だった。側にいてあげたかった。気づいてあげたかったのに、私は何もできなかったのだ。
その彼女が、私の近くにいる、生きている。別の女の子となって、私の雇われ先の娘として。
そのとき私は誓ったのだ。そのときはまだ、私がネオラなのか愛由美なのかわかってもいなかったけど。
あの人の人生を今度こそ、幸せだったと思わせてあげられるようにする。と
それから二年程経ち、私はシェーヌ様の侍女に任命された。シェーヌ様本人からの指名だと旦那様から教えていただいた。その時点で、シェーヌ様は自分の前世のことを既に思い出し、私が愛由美であると気付かれたのではないか。と何となく気付いた。ゲームにシェーヌの侍女など全く登場していなかったから、本来ならば誰が侍女になるはずだったのかはわからないが、きっと私ではなかったはずだ。あくまで勘ではあるけれども。
私の予想は的中していた。私が何も言わずとも、あちらが先に口に出してくれたのだ。
「改めてよろしくね、愛由美ちゃん」と。
お互いがいつ思い出したのかという話をし、彼女になぜ私のお辞儀が綺麗なのかと問われた。私はそれに対し前世で読んだ本の通りに動いただけだと言った。本当はここでメイドとして働くと決まったときに教えていただいただけなのだが、彼女は私の嘘をあっさり信じてしまったらしい。純粋だね。
話は変わり、彼女が無理心中をしてしまった理由を問う。何となく察してはいたが、やはり嶋田が咲良を裏切ったようだった。すでに死んでしまっているが、殺したいと思ってしまう。でも、彼が裏切ったのには何か理由があるはずだとも思った。咲良を嫌いになったや、飽きてしまったなどの理由ではない他の理由が。彼がそのような理由で彼女と別れるわけがない。目を通して彼の感情を読んでいたから、私にはわかる。
彼女の感情は目を見ても、やはり変わらずわからない。だから絶対にそうだとは言いきれないけど、彼女が言った『信じていた人に裏切られた』という言葉に、嘘は感じられなかった。
この件はきっと、"付き合っていた片方が浮気をして無理心中した"などという単純な話ではなさそうだな、と表には出さず心の中でため息をつく。
長く話している間に、彼女はここが私が前世でよく話していた乙女ゲームで間違いないという話をしてくれた。驚くことに、彼女には前世だけではなく、そのまたさらに前世の記憶があるらしい。その人生では今と同じくシェーヌとして生を受け、"レヴォンルートのハッピーエンド"の場合のような人生を歩んだらしい。シュゼットという少女、つまりゲームのヒロインが現れるまでは、レヴォンと相思相愛であったのに。
私はこのときから、もしかしたら彼らには強制力が働いているのかもしれない。と考え始めた。あくまで可能性の一つではあるし、それは本の中にしか存在しないはずの非現実的な話で、私たちの生きている世界で実際に起こっているとは言いきれない。
私は曖昧な返事をして、その話はそこで終わった。
私がシェーヌお嬢様の侍女となり一年ほど経ったころには、私は自分の人格がネオラであるのか愛由美であるのかなどと迷うことはなくなり、自分は他の誰でもないこの世界で生きるネオラだと思えるようになっていた。ただ愛由美だったころの記憶のあるネオラという人間なのだと。
そのうち私はお嬢様のことを、前世の唯一の友人だから幸せにしたいのではなく、自分の主人だからこそ幸せになれるように頑張って差し上げたいと思うようになっていった。
お嬢様は恋をしていらっしゃる。婚約者であるレヴォン殿下に。だが彼女は、殿下に恋などしていないのだと、自分を偽っていた。そうでなければ自分を守れないから。また同じ未来になってしまったときに、深い深い傷を負ってしまわないように。
今まで目を見てもわからなかったはずの感情が、今では殿下と話しているとき、殿下について話をするときのみわかるようになるほど、彼女は不安定になっていた。
残り一週間ほどでシュゼットが現れるらしい。お嬢様は殿下を避けておられるようなのだが、最近急に殿下が追いかけてくるようになったらしい。学校から帰られると、なぜかすごくしつこくレヴォン様が追いかけてくるの……。と愚痴を言う。休み時間も放課後も必ず教室を訪れたりお嬢様の行きそうなところへ行ったり、とにかく探し回っているのだと言っていた。
何で今更……とため息をつくお嬢様を見つめ、私はもしかして殿下も記憶を思い出したのかもしれない。と考える。お嬢様の反応を見るに、殿下の前世が嶋田である可能性が高いと見ている。さらにその前の人生も、あの殿下なのだろうと。だから、もし本当に殿下が予想通りであるのならば、私とお嬢様が思い出しているのだから彼が思い出していてもおかしくはないだろう。と考えた。
シュゼットが現れてから、お嬢様は目に見えてショックをお受けになっていた。殿下の話をしている訳でもないのに感情を読み取れるようになっていたし、自分では全く気づいていない様子だったけれどため息の数も増えていた。
お嬢様がシュゼットを目にしたときの話を私にして下さった。話を聞く限りどうやらお嬢様にも強制力らしき力が働きそうな、予兆のようなものが現れたようだ。声が聞こえたという話は私にもよくわからないが、それに関係しているのかもしれない。私はまだ彼女たちに強制力が働いていると言いきれる根拠がないため、はっきりしてからお伝えすると話しておいた。
少しして、殿下が16歳となられる誕生パーティーが開かれお嬢様はそちらに向かわれた。
「以前はこのパーティーのときレヴォン様はシュゼットの話をして、そのとき私は初めて彼女の存在を知ったのよね。また私その話を聞かされなきゃいけないのかしら」
と言っておられた。何でもないように笑って言っているのに、悲しげな表情を隠しきれていない。それに関して何もしてあげられない自分を不甲斐なく思いながら、私はお見送りした。
空を見上げ今夜は満月でとても綺麗だな、と思いながら馬車の近くでお嬢様たちが帰ってくるのをぼんやり待っていると、まだ戻ってくるはずのないお嬢様が、しかもパートナーを伴わずに早歩きで戻ってきた。殿下の衣装を羽織った彼女は私の前まで来ると説明もなしに馬車を出すように言い早々と帰ってしまった。今にも泣き出しそうな表情をした彼女は、馬車の中で殿下の衣装を脱ぐと、乱暴にそれを投げようとしてその手を止めた。それを丁寧に畳み膝の上に置くと、外の空を見上げた。とても辛そうにしていたけれど、決して涙は流さなかった。
その日は帰るとすぐに部屋にこもって寝てしまわれた。シュゼットの話をされただけではあんなに取り乱さないだろう。何かショックを受けてしまうようなものを見たか、出来事があったのか。それは次の日になって本人の口から説明された。
昨日のパーティーで、殿下はシュゼットの話はされなかったらしい。だが途中でバルコニーに行き話をしたとき、彼は今までのことを覚えていないのだと言った。何があったのか、という出来事のみしか覚えておらず、お嬢様に何度も告白していたことも覚えていないようなのだ。
それも強制力の力の一つなのだろうか、と考えながらお嬢様を宥めた。
それからだいたい二週間後のことだった。お嬢様が学園から帰ってこられると、彼女はおそらくだが強制力にかけられて帰ってきた。帰ってくるとシュゼット様の愚痴をこぼし始め、今日こそは返してくるわ!と意気込んで持って行かれた殿下の衣装が入った袋を、いつの間にか持っていたの。と説明して私に渡した。袋の中身を見せてもそれが何であるかわかっておられない様子だった。記憶も塗り替えられているらしい。
これは強制力だろうと言える大きな根拠となった。ならば、もし私の予想が合っていれば。と、私は話をするために、行動を起こした。
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