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あまり得意ではないダンスを失敗しないよう気をつけながら踊る婚約者を見ていると、心が温かくなり肩から力が抜けるような感覚がして、不思議に思いながら見つめていると、俺の視線に気づいた彼女が顔を上げた。
彼女の鮮やかな緑の瞳に、微笑んでいる自分の姿が映った。
それを見たとき、自分が無意識のうちに微笑んでいることに気付いた。
彼女も俺の笑顔を見て、嬉しそうに微笑んだ。気持ちは返せないけれど、彼女は俺を愛してくれているようだから。
本当にそうだろうか?
俺の中にいる誰かが、俺に問いかける。
本当に、俺は彼女に気持ちを返せないのか。俺は彼女に対し、何とも思っていないのか。
彼女の笑顔をじっと見つめる。ざわり、ざわりと俺の中に何かが迫ってくるような気がした。
ねえ、君はなぜ嬉しそうに笑っているのに、そんなにも不安そうな目をしているの?
俺は、何か間違ったことをしてしまっているのだろうか
特に何も話すことなく、ダンスが終了する。
婚約者との一曲を終えると、いつも沢山の令嬢が集まり誘ってほしいという目線を訴えかけてくるので、いつも通り手を離そうと力を抜くと、再び胸の辺りがざわりとした。
何となく、この手を離してはならないような気がして、彼女が離れてしまわないよう繋がれた手に力を込める。
「……」
「……レヴォン様?」
何も話さず、ただ手を握り続ける俺を不思議に思ったシェーヌが声をかけてきた。
何か話さなくては、説明しなくてはならないと思いながらも、言葉が喉に詰まったように何も話せなくなる。
シェーヌは幼い頃からの婚約者。それ以上でも、それ以下でもない。国のためと幼い頃に政略的に婚約させられ、特に愛なんて存在しなかった。
でも、それでも昔から少し前までは上手くやっていけると思っていた……と思う。彼女が悪いことをしていた様子を見たことも聞いたことも、喧嘩をした記憶もないからだ。
だが、今はよく分からない。男爵令嬢であるシュゼットに手を出したり、ここ最近はまず2人だけで話したことがなく、仲は悪化しているように思える。
それに俺が、婚約者であるシェーヌにではなく、シュゼットに好意を抱いてしまった。だから彼女がシュゼットに手を出している姿を見れば止めた、シュゼットが傷ついてほしくなくて。
王太子である俺は、余程の理由がなければ婚約を解消することができないから、せめて彼女には幸せに楽しく生きてほしいと思っているから。
誰かがまた、問いかけてくる。
本当に、彼女に好意を抱いているのか。
彼女は俺の側で支えてくれた。必要とあらば、相談にのったりもしてくれた。そんな彼女に感謝していた。そして気がつけば、好きになっていた。
だから、そのはずだ。と思おうとするが、また誰かは問いかける。
では婚約者は?シェーヌは何もしていなかったのか。
記憶にないのだから、そのはずだ。お茶会で相談にのったりしてもらったことがあるのなら、少しくらいは記憶があってもいいはずだが、お茶会で何を話していたのかも覚えていない。だから、何もないはずだ。
誰かの問いに対し応えるたびに、なぜか心臓の鼓動が早くなり、それが間違っているかのように思わされる。
俺はシュゼットに好意を抱いていないのではないか。シェーヌは本当に今まで俺に対し、何もしてこなかっただろうか。
疑問が浮かび上がり、わからなくなる。俺の好意が誰に向いているのか。今までの記憶が本当に正しいものなのか。
俺は、繋がれた手をじっと見つめた。
俺はこの手を離してはならないと思っている。けど、離さなければならないとも思っている。
なぜ離してはならないと思うのだろうか。俺がシュゼットに好意を抱いているのならば、この手を離して、彼女のもとへ行けば良いのに。
そうしてはならないと思うのは、なぜだろうか。
簡単な話だ。俺がシェーヌから離れシュゼットのもとに行き、シュゼットと俺が離れればシェーヌは彼女に手を出すと、予想ができたからだ。
でも、それもあっているのだろうか。俺自身でも理解していない、もっと深い理由があるのではないだろうか。
もしその理由があっていたとして、守りたいのはシュゼットの方だろうか。
本当は、何かとても大事なことを忘れてしまっていて、その何かが理由で、守りたいのはシェーヌの方なのではないか。でも、次にとるべき行動をとれずにいるのは、迷っているのではないのか。
それが、間違っていない気がするのだ。真実のような気がするのだ。
だとすれば、俺が本当に思っているのはーー
「……レヴォン様」
真実が出そうになったところで、繋いだ先にいる彼女が俺の名を呼んだことで、はっと意識が戻り、先程までの考えがとんでしまった。
「きっと、今ではありません」
言われていることが、どういうことなのかわからなかった。けれど、その言葉は胸に引っかかるものがあり、次の言葉を待った。
「今はまだ、『するべきタイミング』では、ないのではありませんか?」
その言葉に反応するように心臓がドクリと大きく鳴り、はっとして顔をあげた。
俺が迷っていたのは、心のどこかで『今ではない』と思っていたからだ。と気づく。
でも、それでもこの手を離してしまうことに躊躇いを感じた。だが、彼女がその目で離すべきだと訴えかける。
俺は最後に手に力を入れ、手を離した。
手からぬくもりが消えたとき、まだ何かが残っているのだというように、胸がざわりとした。
だがすぐに、『早くシュゼットのもとへ』という思考に移り変わり、俺は婚約者へ背を向けて歩き始めた。
***
レヴォン様とのダンスが終わり、少しの間することがなく適当に歩き続ける。周りの方々の方から、
「あの子、自身のご身分を理解されているのかしら」
「どうせ一年もしないうちに潰れてしまうような男爵家の令嬢が、王太子殿下と踊るなんて、身の程知らずではなくて」
などの陰口が、わざとだろうが私に聞こえるように囁かれていた。
理解などとうの昔からしている。だが、同時に自分の未来だって知っているのだ、王太子と結婚するという未来を。
2年後には私は王妃になる。あなたたちなんかよりもずっと上の身分になるのだから、そんなことをしていられるのも今のうちね。
幸せな未来を思い浮かべ、上機嫌になり歩いていると、銀髪の少女が胸に手をあて、下を向いている姿が見えた。
その姿が目に入り、ああもうその時間なのかと思いながらも、彼女のもとへと近づいて行った。
『大丈夫ですか?』
本当に心配しているかのような声と表情を作りながら声をかけると、俯いていた少女は私を睨みつけながら顔を上げた。
この顔が数ヶ月後には見られなくなるなんて、寂しいことね。という本音はバレないように黙って彼女の行動を待っていると、彼女はゆっくりと動き始めた。
今から起こるのは、シェーヌが私に向かって飲み物をバシャリとかけてくるシーンだ。
彼女は手を伸ばすと、赤いワインの入ったグラスに手をかけた。
さっさと私にそれをかけて、イベントを終わらしてくれないかしら。と彼女の行動をのんびり見つめていると、彼女はそのグラスを掴むのに躊躇った様子を見せ、結局一番近くに置かれていた、ほとんど色のないジュースが入ったグラスを手にとった。
あれではほとんどドレスに色がつかないじゃない。ここだと、赤いワインをかけるのが普通でしょう?ド派手にいかなくてはダメではないの?
内心では彼女のとった行動に突っ込みを入れながらも、ジュースをかけられる覚悟を決めると、彼女はまたも躊躇った様子を見せてからそのグラスを傾けた。
パシャり、とジュースが飛び散る。
目をぎゅっとつぶり、ゲームと同じように小さな悲鳴をあげる。
冷たい飲み物がかかった感覚がなくて、もう終わったのかと疑問を持ちながらも目を開け自分の体を見ると、ゲームと同じようにドレスは濡れていた。裾のごく一部のみが。
こぼされたジュースのほとんどは床に飛び散っており、私のドレスが濡れていたのは本当に少しだけだった。しかも、それはよく見ればわかるというだけで、ほとんど色のないジュースでは私の黄色のドレスに汚れは目立たなかった。
『シェーヌ様、な、なぜこのようなことを……?』
「グラスを渡そうとしたら手が滑っただけよ。ごめんなさいね」
確かに、ゲームでは『シェーヌはグラスを手に取り飲み物を私に向かってこぼし、私のドレスは濡れてしまった』としか言っていなかった。
だが、乙女ゲームで悪役令嬢がヒロインに向かって飲み物をかけるとなれば、大抵は赤いワインで、ドレスがもっと汚れてしまうものだろう。
思っていたよりも小規模で、こんなのでゲームが進むのかと思いあまり納得はいかなかったが、ゲーム通りに動いたことには違いないので、とりあえず進めなければと台詞を話す。
彼女が嘲笑うようにして話し、怯えているように見えるよう体を震わせながらも一歩後ろへ下がると、ゲーム通りにレヴォン様とぶつかった。
『レヴォン様……』
私がポツリと呟きながら彼を見上げたが、彼の視線は私に向いておらず、黙り込んでいる令嬢の方へと向いていた。
「何があったの?」
その言葉は刺々しいものなのに、彼女を見つめる瞳は彼女を責めておらず、むしろ優しいように見えた。
「……ジュースを彼女に渡そうとしてら手が滑り、彼女のドレスにかかってしまいましたの。先程謝罪したところですわ」
「……そう」
彼は何か話そうとしたが、口をつぐんで俯いてしまった。
今日の彼らはおかしい、と思った。2人のダンスが終わった後なかなか手を離さず動こうとしなかった。シェーヌはジュースをかけるときに躊躇った。レヴォン様はなかなか次のシーンへ行こうとしない。
イラっとして舌打ちをしたくなってしまった。私はこれからくる幸せな未来のために、わざわざこんなめんどくさいイベントもこなしているのだ。だから、こんなにつまらないイベントに時間をかけるのは嫌なのだ。
ゲームにはない、私の台詞を挟むわけにもいかず軽く彼の腕を叩くと、彼はようやくはっと顔を上げて私を見た。
「どこにかかってしまったの?」
「この辺りです」
「失礼するよ。……シミになってるね。別室で着替えようか」
「いえ、もう帰るので問題ありません」
ほんの少しの汚れでもゲーム通りに進んだことにほっとしながら話し続けていると、横から黙り込んでいたシェーヌが声をかけてきた。
「私にはこの後用事がありますので、失礼致しますわ」
礼をして扉に向かって歩き始めた彼女の後ろ姿をレヴォン様はちらりと見た。ほんの一瞬だけど、苦しそうな表情をしているのが見えた。
でもまたすぐにゲームと同じ話を始めたので、私もそれに合わせて台詞を話し続けた。
ざわりざわりと何かが私に向かって迫ってくるような感覚に陥った。
上手くいっているはずなのに、少しずつ、何かがずれ始めているような気がした。
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