020 とある冒険者の流儀
「――たっ! たすえて! たすえ……ひぃあっ!!」
息が上がり、ろれつの回らない口から発される言葉は不明瞭だが、ラスムスたちのパーティを目前に足がもつれて転んでしまった血まみれの少年が、何を伝えたいのかはよくわかった。
彼の後ろから殺気立って追いすがってくる4体のゴブリンを見れば、たとえ言葉の体裁を取らない悲鳴だけであったとしても、その意は伝わろうというものだ。
(これは!? 前後を魔物に挟まれてしまったということか!?)
助けを求める少年が、とんでもない危機を連れてきた――現状を即座に把握し、ラスムスは戦慄した。
こちらのパーティの最大戦力である冒険者たちは前方の4体のコボルドに対峙しており、今この場で余力があるのはラスムスと弟のルカ、そして荒事はからっきしである回復役の家庭教師しかいない。ラスムスもルカも魔物と戦う覚悟と勇気は持ち合わせていたが、少年2人(と数に入らない回復役)でゴブリン4体を相手取るというのは、いかにも分が悪い。
ラスムスは必死で声を張り上げ、パーティに指示を飛ばす。
「マイク! 後ろからゴブリンが来てるぞ! 加勢してくれ! ルカ! お前はマイクと交代してコボルドに当たれ! タズはそのまま先頭を頼む!!」
その声に振り返った冒険者の片方は、状況を確認すると目を見開いて驚いていたが、対応は素早かった。対してルカは、自分が何を言われたのかもわかっていない様子で、呆然と立ちすくんでいる。
その様を見て舌打ちしつつ、ラスムスはルカの肩を強く掴んで顔を向けさせる。そして両肩を勢いよく揺さぶると、顔を近づけて怒鳴った。
「しっかりしろ、ルカ! マイクと交代してコボルドをやるんだ!」
怒鳴られてようやく状況を把握できたのか、のろのろと前方のコボルドへと向き直るルカの姿を見届けて息を吐くと、横に立ったマイクの呟くような声が耳に入ってきた。
「ゴブリンが4体……。こりゃあちょっと手に余るかもしれねえな……。坊っちゃんよ、やるだけのこたあやるが、どうなっても恨んでくれるなよ……」
一瞬、何を言われているのかわからなかった。
いや、わかったはずだが、その言葉が指す正確な意味を、拒絶したかったのだ。
そんなラスムスの心情とはお構いなしに、マイクは絞り出すように言葉を続ける。
「坊っちゃんよ、そこで転んでる小僧はもうダメだ。だからな、あいつは餌にする」
「なっ……!」
「ていうか、そうでもしねえと、俺と坊っちゃんで4体は無理だ。せめて家庭教師のおっさんが、動き回る俺らに回復を届けられりゃなんとかなったんだが……」
家庭教師が回復魔法を使えることは間違いないのだが、それは対象となる人物がおとなしくしている状態で、呪文を繰り返し唱えて少しずつ魔力を練ったのちに、対象の間近に手をかざしつつじっくりと癒やすという代物であった。
貴族の家に常勤する回復士としてはそれで十分ではあるが、迷宮探索における不測の事態に対応するには、いかにも力不足である。
「それで構わないって言ったのは俺達だからな、だから泣き言は言わねえよ。だがな坊っちゃん、今がそういう状況だってことだけはわかってくれ」
「……了解した。では俺はどうすればいい? 転んでるあいつが襲われたら、一緒に斬りかかればいいのか?」
「いや、俺ひとりでやれるだけやるぜ。坊っちゃんは家庭教師のおっさんを守ってくれ」
「……役に立たんのにか?」
意外に思ったラスムスがマイクの顔を伺いながらそう言うと、マイクは光の消えた目でぼそりと呟いた。
「……生きたいんだったらな、そういう役立たずを役に立てる方法もあるんだぜ」
その言葉の意味を理解した瞬間、ラスムスは全身の血が凍りついたような感覚を覚えた。
守るという体で、いざとなれば家庭教師も餌にしろと、この冒険者はそう言っているのだ。
「たすえっ! たっ……! たすえてえっ!!」
泣きながら声を振り絞り、必死にこちらへと這ってくる少年に、ゴブリンが追いついてしまった。しかし、マイクは軽く身をかがめて両手剣を構えた体勢のままで、まだ動かない。
3体のゴブリンが少年を取り囲むと、剣を無造作に逆手に持ち替えた。突き下ろすのだろう。
その様子を見て、マイクは舌打ちをした。残る1体のゴブリンはどうやら頭が回るようで、少年には目もくれず、よりによって槍を構えてこちらを警戒しているのである。
(……こりゃあどうしようもねえな……。どうにか2体は持っていって、あとは坊っちゃんの運に賭けるしかねえか)
「たすっ――いやああああああああああッ! いたいっ! ああああああッ!!」
マイクが覚悟を決め終わった瞬間に、その時は来てしまった。せーので突き下ろされた3本の剣が這いつくばる少年を貫き、断末魔の悲鳴を上げさせる。その悲鳴を合図に、弛めた体に蓄えていた力を解き放って地を蹴り、マイクは少年の肉を抉る感触を楽しむ3体のゴブリンへと疾駆する。
駆け寄るスピードと十分に体重を乗せた斬り下ろしの一閃で、1体のゴブリンの首を斬り飛ばした。
振り下ろした勢いと剣の重さに任せて体を捻じって力を蓄え、斬り上げの2撃目。
初撃ほどには力が乗らなかった両手剣が、それでも2体目のゴブリンの胴に深く食い込み、ゴブリンに絶叫を上げさせた。と同時にマイクは腹部に灼熱した棒を突きこまれた――ような感覚を覚え、顔を顰める。
おそらくは後方で警戒していた槍持ちに突かれたのだろうが、どうせならこうなって欲しいと期待していた通りの展開でもあった。そのせいか、熱さが痛みに転じるより先に歓喜のような感情が湧き上がってしまい、マイクはなんとも不思議な気持ちだった。
(ここまで来りゃあ、あとは簡単だ。我ながらよくやったもんだぜ……!)
歯を食いしばり、斬り上げを見舞ったゴブリンから両手剣を引き抜く。そして、少年を突いた剣をようやく構え直してマイクに突っ込んでくる無傷のゴブリンに向けて――放り投げた。
(へへっ、最後の最後で、ツイてるじゃねーか……)
マイクの手を離れた両手剣は鮮やかにゴブリンの頭を打ち、いくらかのダメージを与えたようだ。望外だったその結果を見届けると、マイクは己の腹に突きこまれた槍の柄を両手でしっかりと握り、力尽きたかのように膝を折った。
(さー、根性の絞りどころだ。あとはこの手さえ離さな、きゃ、坊っちゃんもちったあ楽に、戦え……ん、だ、ろ)
次第になにも考えられなくなっていくマイクは、最後に誰か少年の悲鳴を聞いた気がした。しかし、満足気に微笑を浮かべて崩れ落ちる彼にできることは、もうなにも残っていない。
――この両手で握った槍の柄を、死んでも放さないこと以外は。
「くそおおおおおおっ!――――ぎゃああぁっ! いたいッ!!」
「馬鹿ッ! 下がってろ坊主!!」
ついさっきも耳にしたばかりのような悲鳴と、野太い声での叱咤が背中の方から聞こえてきた。そしてその瞬間に、ラスムスは剣を振り上げ、駆け出していた。マイクが放り投げた剣に打たれた、ゴブリンに向かって。
ラスムスの脳裏を埋め尽くすのは、マイクがゴブリンに躍りかかった直前の言葉。
(役立たずを、役立たせろって――! どうしてお前、マイクッ!!)
必死に助けを求めていた少年を見殺しにした判断と、ラスムスの眼前で膝立ちのまま動かなくなってしまったマイクの姿。その一連の流れは、マイクの足りない言葉を完全に補っていた。
俺を餌にして、なんとかしろ――と。
よくわからない怒りがこみ上げてきて、ラスムスの全身に力が漲る。そしてその怒りに任せて、マイクの剣に頭を打たれたダメージから回復しつつあるゴブリンに、袈裟懸けの一撃を見舞う。ゴブリンが上げる絶叫と、背中に飛んでくるルカの2回めの悲鳴とが重なった。
もうダメなんだろうな――そんな思いが頭をよぎるが、ルカの方を振り向く余裕はまったくない。
絶叫しているゴブリンから剣を引き抜いて全力で蹴り飛ばすと、残る1体のゴブリンに向き直る。ラスムスの目に映ったのは、マイクががっちりと握った槍を引き抜こうと奮闘している、どこか滑稽なゴブリンの姿だった。
「お前……役立たずになってないじゃないか……」
マイクがどれほどの働きで報いてくれたのかに気づいてしまい、思わず言葉が漏れる。急速に怒りが冷めていき、涙が溢れてくる。
しかし、ラスムスは歯を食いしばった。怒りとともに体から力が抜けてしまう前に、ゴブリンを始末しなければならない。
ラスムスが剣を振り下ろす瞬間、ゴブリンはようやく槍を諦めて両手を自由にしたが、その手がラスムスの剣を妨げることはなかった。
すっかり体からは力が抜けてしまったが、ラスムスはどうにか振り向くことができた。
その方向に絶望が広がっているということは、ルカの悲鳴でわかっていた。その通りの光景だった。
マイクと共に前衛を務めていたタズの声はとっくに、ルカの声ももう聞こえない。
おそらくは恐慌状態に陥ったルカを庇う羽目になってしまい、十全に戦えなかったのだろう。タズはルカよりも数歩先でうつ伏せに倒れ、ルカは尻餅をついて壁を背にした体勢で絶命していた。そしてもうひとり、ルカとまったく同じ体勢で壁際へとにじり寄っていく家庭教師の前には、2体のコボルドがいた。
今度こそ、役立たずを役に立たせるべきかと一瞬だけ考えてみて、ラスムスは静かに俯いて息を吐き、その考えを取りやめた。
家庭教師を追い詰めていくのは片方のコボルドだけ。もう片方はしっかりとラスムスに注意を向けており、先程の2体のゴブリンとは状況がまったく違う。そしてラスムス自身も、ついさっきのような衝動任せの力を揮える気がしなかった。あのとき湧き上がった力のいくらかは、マイクから借りたものだったのだろう。
今のラスムスは、血を分けた弟の死を前にしてさえ己を奮い立たせることができなかった。
「ひっ……!ひっ……!」と小さく漏れる家庭教師の悲鳴を不快に感じながら、ラスムスはもう一度息を吐くと、顔を上げてそちらに目をやる。
――と、コボルドの後方に見える十字路に、2人の冒険者の姿があった。
ラスムスは驚きに目を瞠ったが、同時に違和感を覚えた。冒険者たちはこちらを眺めているだけで、近寄ってくるような気配が感じられないのだ。
助けを求めようとしたが、冒険者たちがそうしている理由にすぐに思い当たり、ラスムスは苦笑してしまう。
(ああそうか、今度は俺らが餌になる番なのだな)
冒険者の壮絶な流儀というものを骨身に沁みて分からされたからなのか、その薄情さを恨むどころか、悪い気分ですらなかった。
(いっそ清々しいな。命を張ったマイクたちには詫びようがないが、共に逝くのであれば、まあ、お互い様か)
そんなことすら考えてしまう己の異常さがまたおかしくて、くつくつと笑い声を上げてしまっているラスムスが最後に見たのは、ラスムスたちから遠ざかりつつ、杖を構える冒険者たち。
そして、その杖から放たれた業火は、コボルドの死体を、タズの死体を、ルカの死体を焼き尽くし、マイクの死顔とまったく同じ笑みを浮かべるラスムスへと迫っていた。