鰊の骨
一九二三年九月十八日――フィリップ・ヘリングボーンが子どもたちに〈あんなこと〉をした日――ミシガン州セブンレイクス郡アリソンは不思議な天気に見舞われた。ある人々は晴れだったといい、ある人々は曇りだったといい、住民の一部は晴れながら雨が降ったといい、また風変わりな一団からは数十秒のあいだ、一つの雲から人口千人程度の町目がけて氷の粒が降ってきたという証言も寄せられている(九月にもかかわらず!)。つまり晴れと記録するには雲が多すぎたし、曇りと決めつけるには空が青すぎたし、わずかながらでも水が降ったのでその降水量を無視することができなかったのだ。不思議な天気だった。
天気に関する町の住人の証言はバラバラなわけだが、ある点で共通していた。彼らはみなこういった。「その日の天気を見て、胸騒ぎがしたんだよな。今思えば、あれは前触れだったんだよ」
フィリップ・ヘリングボーンに対するアリソンの住民の評判はあまりよくなかった。彼は傲慢かつ尊大な衒学家だった。彼に話しかけると、必ず自分が学のある人間であることをひけらかし、この世に存在するあらゆる事象を東部の大学教育に結びつけた。ハリス夫人がクランベリー・パイをおすそわけにいったとき、礼を言うかわりに彼は妙な薀蓄をまき散らした。曰く、東洋にはシンラバンショウという言葉がある。これはクランベリー・パイと遠足用の脚絆を一つの単語で表現ができる便利な言葉であり、非常に深い哲学がある。商科大学を出た自分が東洋の思想にも造詣が深くかつ、その知識をこんな片田舎の町で披露してもらえたあなたは幸運であり、わたしに感謝すべきなんですよ、といったことを強引に、しかしあくまで紳士的に強調したのだった。
また、あるときには新型の農耕機械を買い入れて、隣近所に自慢したこともあった。それは車輪と歯車、回転式鍬、ホイットフィールド社製の焼玉エンジンからなる巨大な鉄の塊で、一度スイッチを入れると八ヶ所の弁から煙を噴き出し、牛の肋骨のような鉄の爪が怒れる巨人よろしく地面をめちゃくちゃにえぐり続ける恐怖の機械だった。隣近所の農場主たちは忠告した。明らかに維持が困難で金がかかりすぎる、このあたりの空気に土をふくませるだけなら馬鍬やおんぼろトラクターで十分だと。確かにヘリングボーンの機械は放っておけば州全体を耕し尽してしまいそうな代物で、ヘリングボーン農場の小さな農地には明らかに生産努力が過剰な機械だったが、フィリップ・ヘリングボーンは隣人の忠告にまったく耳を貸さなかった。自分は東部の大学出であり、科学的管理農業に通じている、の一辺倒だった。せっかくの忠告をやっかみと決めつけていたらしい。数日後、ヘリングボーンの農耕機械は農地の外れで立ち木に激突し五十八ヶ所の部品から黒煙を吹き出すハメになった。商科大学出に最新式の複雑な農業機械を修理できるはずもなかった。ヘリングボーンは顔を真っ赤にして怒鳴り散らし、よく耕された土の上でさんざん地団駄を踏んだ。二軒隣の土地に住む自動車修理工のヒューバート・ホワイト・シニアが見てみようかと言ってくれたのに、ヘリングボーン氏はプライドの高さからその厚意を跳ねつけたのだった。
こんな調子だったので、町の人間は彼を煙たがり、理屈っぽい気難しい男だと評した。
だが、悪人ではない。嫌味なやつだが悪い人間ではない。アリソンの住民はみなそう思っていた。彼が妻を叩いたところを見たことはないし、公共の場において飲酒しているところも見たことはなかった。悪人ではない。そのはずだった。悪人ではない……
「第一の工程では農場から買い取られた豚が工場の裏手に誘導される。この時点ではまだ豚は自分たちが殺されることを知らない。第二の工程。豚は二列縦隊で工場の裏口へかけられた専用の通路をのぼる。通路は幅三メートル、長さ十一メートルの錆びた鉄板二枚から成り、出発点から終着点の屠殺場まで高さにして一メートルと三十センチの傾斜がついていた。これは人間からしてみると、まさに死刑台への階段にあたるわけだが、生まれてこの方満足に餌をもらい、大事に育ててもらった豚にはただの傾斜としか分からない。そもそも豚には死の概念など存在せず、あるのは生と餌と持ち主によって管理された性交渉のみにすぎなかった。第三の工程から豚たちはようやく危険というものが何なのかを知る。豚たちは裏口をくぐるやいなや、すかさず後ろの右足首に骨が砕けるほどの強さでペンチが挟まれる。このまったくの不意打ちに鳴き声をあげるひまもなく、第四の工程が襲いかかる。二人の男がペンチに結ばれたロープをぐいっと引き、豚を逆さに吊るし上げる。ペンチには滑車もついているから、工場の天井に設置された鉄製のレールにひっかけられるようになっている。これで豚は逆さ吊りにされたまま、隣の部屋へスムーズに移動させることができるのである。第五の工程で豚の喉にナイフがいれられる。その日の朝念入りに研がれたナイフが豚の頚動脈を断つと、心臓から送り出されて酸素を十分に含んだ鮮血が勢いよく噴き出してくる。心臓とは一個のポンプなのだと実感する瞬間である。豚は逆さ吊りにしてあるので血が壁を汚す気遣いはない。全ては床に落ち、排水溝のなかへと落ち込んでいくのである。鮮血が噴き出しつくすと今度はどすぐろい静脈血が鼻からたれ始め、その血も抜け尽すと豚の体は白くなる。第六の工程が開始される。フックから外された豚は滑り台に乗って、熱湯槽のなかに滑り落ちる。あつく煮えたぎった湯のなか、豚は堅木の棒で突かれながら隣の部屋につながる排水口へ追い込まれる。豚をお湯から引き上げると、毛を取り除くという第七の工程が待っている。部屋には巨大な水樽があり、手もかじかむほどの冷水がゴム管のホースを通じて流れ出ている。豚の皮は人間で言うところのケロイド寸前になっており、これに冷水を浴びせれば、毛は手で簡単にむしりとることができる。つるつるになった豚は再びフックに吊るされ、次の部屋と工程へ送られる。人によっては第八の工程が最も辛いとされている。確かに事務職をのぞく労働者のなかではこの第八工程に従事するものが最も高い給料を支払われているのだ。ゴムの胴長を履いて、豚の腹をヘソから喉元まで切り裂き、赤、黄、紫、群青、深緑色に変色した不快な臭いのする内臓を全て取り除き、体腔を囲む白い骨がはっきりと浮き出るまで水でこすり続ける。第八工程の担当には変わり者が多かった。第九は工程というよりはただの放置である。水気を切るだけだ。第十の工程からは豚がバラバラにされ始める。帽子や外套がかけてある壁を背に豚の四肢をつかみ、バイキングが身代金を払ってもらえなかったあわれな捕虜の首を落とすように無慈悲に斧を揮い、叩きつけ、豚をバラバラの肉塊にしていく。このあたりの工程は職人の自由裁量が許されているので、豚を首から切り落とすか足から切っていくかは包丁をふるう本人次第なのだ。これには工場の支配人ですらも介入はできない。ただし、豚の可食部に骨のかけらが混入し商品価値が下がるようなことが起これば別である。事実、職人のわがままな切り方で豚のロース肉にオレンジの種大の骨片が混ざり、そのまま出荷されてシカゴのレストランから苦情が来たときは二人の豚きり職人が解雇されたのだ。大包丁、小刀、のこぎりが豚を分解しつくすと、これはもう肉屋に並ぶ御馴染みの豚肉となる。豚肉工場ではこれが毎日繰り返される。毎日毎日繰り返すんだよ」
事件の日の早朝、フィリップ・ヘリングボーンが家のポーチでパイプを吹かしながら、妻のアナベラ相手に豚の処分を十の工程に分けて、説明していたのをリチャード・メズロウ医師が目撃している(メズロウ医師は救助のために現場に駆けつけた際、二度目の爆発で命を落とした)。メズロウ医師はそのことを妻のベアトリスに話した。十の工程という言葉で思い出したことがあったからだ。二年前、統合学校をつくる際の増税を決めたとき、フィリップ・ヘリングボーンが猛反対し、増税が決定したら、農場を抵当に入れなければいけない、きみたちはわたしを十の工程で屠ろうとしている!と言ったことが頭に残っていたのだが、何のことはない。十の工程というのは、豚の屠殺と精肉のことだったのだ。ついでに言えば、ヘリングボーンの農場は抵当に入らなかった。
アナベラ・ヘリングボーンの司法解剖を行った医師によれば、アナベラは事件の前日に既に撲殺されていた。つまり、メズロウ医師が夫妻を見かけたとき、アナベラは既に死んでいたのだ。
ガソリン容器に自動車用の点火プラグが挿してあってその線が缶詰型蓄電池につながっている。スイッチは目覚まし時計の長針が三を指したところでバッテリーと点火プラグを結びつけるように作ってあった。
……起爆装置の製造は少しも難しいところはない。工学の入門書を読めばよく、フィリップ・ヘリングボーンにとっては苦でもなんでもない。むしろ書斎のなかで新しい知識が増えることは大歓迎だった。ひけらかすネタがまた一つ増えるのだから。
さて、材料などはアリソンの町の表通りをぶらつけばそろえられる。まずスミスの雑貨屋で多目的ビンを買う。本来はドイツ人がザワークラフトをつけておくのに使うやや長め広口の瓶だ。これにガソリンを入れる。そして辻向かいの機械屋で缶詰型のバッテリーと銅線を一巻き。自動車修理工場から点火プラグを調達できたら、あとはダイナマイトを三百五十キロ、自分の土地の切り株を吹き飛ばすとでも言って、スポーツ用品店で買い集めればいい。ただ、一か所で三百五十キロ買うと目立つので、一年かけて買い集める。
そして、学校には電気系統の点検を無料で申し出て、好意のふりをして、爆弾を少しずつ仕掛ければいい。また、一年かけて……。
一九二三年九月十八日、町立アリソン統合学校の第四学年の教室で冷や汗をかきながら黒板の前にチョークを手にしているブロンドの少年がいた。彼、ロイド・シュルツは四と二十八の最小公倍数を思い出そうとして顔を真っ赤にし、これまでの十一年間の全人生をひっくり返している。だが分からない。昨日、宿題さぼって父ちゃんと牧場に出ていたせいだ。午前十時。宿題をしてこなかった子どもたちは言い訳を考えるために知恵を絞る時間だった。それは犬笛のようなもので大人たちには聞こえないが、学校中で子どもたちが知恵を絞る音がキュウキュウ鳴っていたのだ。例えば、第一学年の教室ではキャサリン・フィッツアルバートがなぜ神はアルファベットに小文字なんてめんどくさいものを作ったのだろうと首をかしげ、第五学年のジョン・ジョセフ・フィッツアルバートと第三学年アダム・ジョセフ・フィッツアルバートは理科の宿題を忘れ、知恵を絞り損ねたバツとして、黒板の前でさらし者にされていた。フィッツアルバート姉弟の長姉エミリーは第六学年の教室でヴィックスバーグの戦いにおけるグラント将軍の活躍を暗唱しているところだった。
第四学年のロイド・シュルツに戻ると、とにかく彼は何か数字を書かねば格好がつかないと思っていた。そして、熟考の末、数字『11』を書くことにした。来週にはその分だけさされたケーキのろうそくを吹き消すことになっている。チョークが黒板に十の位の一を示す白線をひくと、チョークから粉がさらさらと舞い落ちていく。ロイド・シュルツが手をすべらせてチョークを床に落とした瞬間、起爆装置が働き、地下に仕掛けられた三百キログラムの爆薬が爆発した。何の前触れもなく衝撃波がやってきた。熱い空気に押し上げられ、チョークが真上に飛び上がった。熱い空気の噴出は床板を数百の木製の刃に変え、子どもたちを切り裂く。飛び上がった教壇がベアトリス・ヴァンダーハイム教諭の顎を砕き、子どもたちは天井に叩きつけられる。そして、化学物質の燃焼によって生まれた空気の塊と灼熱の炎が巻き上がり、全てが灰と化す――手持ち黒板、机、椅子、初等化学読本、筆記体早覚え表、黒服にバックルつきの帽子をかぶったピルグリム・ファーザーズの人形、子どもたちが写生遠足会の際に製作した簡単な絵数十枚、チョークがめりこんだロイド・シュルツの右手、四つの教室に分かれて勉強していたフィッツアルバート家の子どもたち、エッシェンハウザー兄弟やヒューバート・ホワイト・ジュニア、マーガレット・ヘイシーら五十人あまりの子どもたち――その全てとともに町で唯一の学年別統合学校はふくれ、へし折れ、千切れて、舞い上がり、破裂した。晴れでも雨でも曇りでもないアリソンの空から焦げた子どもたちの破片が降ってきた。
学校が吹き飛ぶと、二百メートル離れた地点にあるフィッツアルバートの地所でも農場の窓ガラスが爆風で吹き飛び、フォークと卵と割れたガラスが壁にぶちあたり、死んだ妻の陶器の子豚コレクションが床に落ち派手な音を立てて割れた。軽い脳震盪を起こしながらも五〇歳のフランシス・フィッツアルバートは身を起こして何があったのか確かめようとした。学校から上がる火柱を見るや、彼は家を飛び出し、アリソンの町の中心部へと全速力で走った。心臓が破裂しそうなほどの疾走をしながら、フランシス・フィッツアルバートは自分が子どもたちと最後にどんな言葉をかわしたか思い出そうとしていた。エミリーとキャサリン、AJがなんと言ったのかどうしても思い出せなかった。JJはこう言っていた。「学校なんかなくなっちゃえばいいのに」。町が近くなるにつれて、醜く裂けた校舎の成れの果てが見えてきた。だが、フランシス・フィッツアルバートの気分は走り出したときよりも優れていた。子どもたちの安否について、根拠のない楽観が生まれ始めていた。子どもたちは学校に着かなかったかもしれない。JJとAJはまた学校をさぼって釣りにでかけ、爆破があったときは学校から四五〇ヤードも離れたホーリー・ローリーのため池にいて無事だったのかもしれない。エミリーとキャサリンも無事かもしれない。二人はJJとAJよりもずっと真面目で学校好きだからさぼるなんてことはありえない。だが、JJとAJがキャサリンの通学鞄をとってからかいながら、ホーリー・ローリーのため池へ逃げていけば、勝気なエミリーは泣いている妹のために馬鹿な弟二人から意地でも鞄を取り返そうと、二人を追いかけて、ため池に行くだろう。泣き虫で甘えん坊のキャサリンはお姉ちゃんと離れるのが怖いから、おいてかないでと泣きながら、トテトテ姉たちの後を追う。こうしてみんな爆発のあったときには学校におらず、みんな助かっている。瓦礫の前で呆然と立ちすくんでいる自分にかけよってきて、しっかりもののエミリーがいうのだ。「ごめんなさい、お父さん。学校をさぼっちゃった。でも、でも……怖かったよぉっ」エミリーが泣き出す。JJも泣き出す。AJも泣き出す。キャサリンも泣き出す。そして、フランシス・フィッツアルバートも泣き出す。「いいんだ、いいんだ。もう大丈夫だ。父さんがついてる」とみんなを抱きかかえ、家族が無事であったことを神に感謝する。主よ、ありがとうございます。あなたはわたしの命よりも大切なものたちを守ってくれた。
そうであってほしい。
そうであるはずだ。
そうでなければいけない。
そうでなければ……
同じように祈りながら走っている親は大勢いた。近隣の住民はみな子どもをあの学校に通わせている。ホワイト、マクディーア、デウィット、スティーブンソン、コーツ、エッシェンハウザー……
リチャード・メズロウ医師は立ち止まり、吐いた。爆発音を聞いて診療所から飛び出してきたのだが、食道を逆流してくるオートミールの味に覚悟が足りなかったことを自覚した。町に入ってすぐの角でもう十分だった。学校へ通じるトールマン小路に校舎と子どもたちの残骸が転がっていた。黒煙は熱い空気の塊に巻き上げられていたから、トールマン小路は異常なくらい視界が良かった。学校は全壊はしていなかった。西側は残っていて、東側は完全に倒壊していた。何人かの住民はすでに瓦礫の山に飛び掛り、わが子を掘り返そうして半狂乱になっていた。鉄パイプを食らったドイツ兵に似た不快な高音が聞こえてきたが、それは金物屋の前に横たえられたアン・オークリー教諭の呼吸音だとわかった。オークリー女史の胸にはパンケーキくらいの大きさの穴があき、むき出しになった肺を破るかたちで肋骨が異常な方向へ伸びていた。
メズロウ医師はもう一度吐いた。頭を下げた拍子に中折れ帽を落としてしまった。拾って頭に乗せなおしたとき、帽子は革紐が切れた泥だらけのヘルメットに変わり、ミシガン州の片田舎はフランスのアルデンヌの森に姿を変えていた。下生えのない松林に急造の塹壕が掘られ、敵味方両軍の砲弾が落ちてきた。榴散弾が枝を切り落とし、榴弾が地面をひっくりかえし、飛行機からばら撒かれた鉄パイプ式のダーツがドイツ人、アメリカ人、黒人の区別なく襲いかかった。この日、メズロウ軍医少尉は生まれて初めてマキシム機関銃を撃ちかけられた。森の丘にドイツ軍は地下陣地を築いていて、そこから猛烈な射撃を浴びせてきたのだ。切り株だらけの射撃場を駆け抜け、ドイツ軍の地下陣地へ到達するまでのあいだ、少なくとも十七人が撃ち倒されたが、少尉は誰も手当てしなかった。手当てしてもどうせ助からないと心のなかで言い訳したが、実際は負傷者の手当てで立ち止まったところを狙い撃ちにされるのが怖かったからだ。幸い、味方はドイツ軍の銃眼に手榴弾を放り込むのに忙しくて、自分の卑劣な行為に目もくれない。少なくとも誰も見ていないあいだ、撃たれないようにジグザグに走っていこう。そして生き延びよう。アメリカに生きて帰れたら、そのときは医者のいない片田舎に診療所をつくって、その人たちのために残りの人生を尽くそう。だからいまは卑怯者でいさせてくれ。
「……ドクトル?」
破壊された機関銃陣地に転がり込むと途端にドイツ語で呼びかけられた。生まれて始めてドイツ兵を見た。首からガスマスクの缶をぶらさげた士官でまだ髭も生えていない少年のような顔をしていた。メズロウは陸軍のドイツ語マニュアルを開き、『相手を降伏させる場合』の項を開いた。
「えー、降伏せよ。武器を捨てて三歩下がれ」
「助けてください。ドクトル」
メズロウはあたりを見回した。少なくともドイツ軍の軍医は見当たらなかった(衛生兵の死体はあった)。どうやらドクトルとは自分のことらしい。味方はいなかった。みな敵の連絡壕に殺到し手榴弾の破裂音が反響して聞こえてくる。
「お願いです……助けて……痛い……」
ドイツ兵の胸には鉄パイプ式のダーツが二本突きたてられていた。下半身もざっと見た。青い静脈を絡ませた骨が腿からねじれて飛び出していて、ピクピク動いている。
彼は英語で答えた。「僕にはどうすることもできないよ、モルヒネを入れた鞄はきみたちに撃ちぬかれたんだから」
「痛い……痛い……」
「だってしょうがないだろう。モルヒネを入れた鞄がダメになったんだ。モルヒネは全部地べたにばらまかれちまったんだよ。くそっ、こんなことになるなら、僕らに機関銃なんか食らわさなければよかったんだ。そうすれば、こっちも自分の負傷者を安心してみてやれるし、きみだって鉄のダーツだの手投げ弾だので殺されずにすむんだ。全部、そっちのせいだぜ」
「痛い……痛い……」
「見てるこっちがつらい。僕はもう行くよ」
「痛い……痛い……」
「頼むよ、僕にどうしろっていうんだ。僕は医学部を出たばかりの半人前で外科手術なんてしたこともないんだ」
ドイツ兵は意味ありげに目配せした。壊れかけた板張りの扉に釘が打ってあって、そこに革製のベルトが吊るしてある。ホルスターにはルガー自動拳銃がおさまっていた。ドイツ兵は人差し指で自分の頭を撃つ真似をした。
メズロウは驚いて首をふった。「そんなことできないよ」
ドイツ兵は苦痛と絶望で顔を歪めて毒ついた。「じゃあ、なにができるってんだ! このクソアメリカ野郎! 味方も敵も手当てできないくせに、なんでお前はここにいる!」
「子どもたちを救うためだ」
その通りだ。まだ、何人かは生きているはずだ。
爪から血が噴き出すまで掻き出せば、絶望のなかからひとかけらの希望を見つけ出せるはずだ。
メズロウはもう一度走り出した。
校長のワトキンス・フィッシャーは命拾いした。袖が破れて、眼鏡をなくし、額を切っていたが、それ以外は無事だった。彼は屋根の下敷きになった子どもたちを助け出そうと必死に働いた。爆発から五分とたたないうちに学校の周辺には百人以上の父兄や住民が集まって、レンガ片のなかから子どもたちを救い出そうとしていた。子どもたちはどす黒い肉の塊に成り果てていた。血だらけの手足がちぎれた子どもに灰色の煙がこびりついた結果、そんな姿に成り果てたのだ。
「ああ、神さま」ワトキンス・フィッシャーはうめいた。
フィリップ・ヘリングボーンは町の住民が子どもたちを助けようと死に物狂いで瓦礫をのけているなかに自動車で乗り入れた。膝のうえにはすでに装填済みの十番径のショットガンがあった。ヘリングボーンはワトキンス・フィッシャーを見つけると車でゆっくり近づき、フィッシャーの名前を呼んだ。目撃者の証言によると、ヘリングボーンはいきなりショットガンを窓からのぞかせた。歯を見せて笑いながら二つの撃鉄をカチリカチリとひきあげると、繊細そうにふるえる真鍮製の引き金に指をかけた。撃たれると思ったフィッシャー校長は咄嗟に顔を手で覆った。飛んでくる弾から手を犠牲にして頭を守ろうとしたようだ。
ヘリングボーンはそれで満足した。
笑いながら、肘を曲げ、ショットガンを暴発させないようにあめ色の銃床から順に車のなかへゆっくり引っ込めると、後部座席に置いておいた五十キロのダイナマイトに向けて発砲した。
事件後、警察がヘリングボーンの農場へ急行すると、ドアにチョークでこう書きつけてあった。
〈犯罪者はつくられるのであって、生まれながらにあらず〉
この話は実話をもとにしています。