5 二人の約束、最初の決意
院長の部屋に入ると、微かなカビ臭さと僅かなバニラの甘い香りがする。これは所狭しと並べられた古本から香る紙とインクのにおいだ。
俺は以前『アルフレド伝説』を読んだときの記憶を思い出しながら、部屋の奥の方に足を進める。
本棚の前で立ち止まり、指先を横に動かしながら順番に本のタイトルを確認していく。
「たしかこのあたりだったはずなんだけど……あった」
本を取り出して、俺のすぐ隣で待っていたアリスに手渡した。
「ありがと」
アリスは一言礼を言うと、受け取った本を両手で抱きしめるようにして持った。
それから俺の方をチラリと見たり、何かを言おうと口を開いたかと思えば何も言わずに俯いたり、そんなことを何度か繰り返している。
「どうしたの?」
不思議に思って聞いてみると、アリスはためらい気味に呟いた。
「ねぇ、シヴァって……小さい頃から強かったの?」
まるで脈絡の無い質問に、すぐには答えられなかった。質問をしたアリスは真剣な面持ちで俺が答えるのを待っているし、どう答えたものか。
「別に今の自分が強いとは思っていないけど。六歳ぐらいの頃から少しずつ走り込みをしたり、小さな木剣を振ったり。七歳になる頃に師匠がここにやって来て、無理にお願いして剣術を教わり始めた。それからは毎日同じような修行の繰り返し。修行の内容に慣れたら量を増やしたり、難しさを上げたり、そんな事をしてただけだよ」
俺の答えに納得がいかないのか、アリスは顔を左右に一振りして一気に言葉を吐き出す。
「シヴァは強いよ。私は勇者の加護を持っていて、普通の子よりもずっと体が丈夫で、速く動けて、力も強くて。それなのに、勇者の加護を持ってないシヴァに、私は勝てなかった……。同じ年頃の子だけじゃない、王都の騎士の人たちだって魔法を使わなかったらあんなに私の攻撃を防ぎ続けられる人はいなかったもん」
昼前の手合わせのときに溜め込んだ気持ちを、ここで爆発させたかのような勢いに飲まれて俺は言葉を失う。
「私も小さい頃からずっと修行をしてたよ。それなのにシヴァに勝てないのは私の頑張りが足りないのかな。それともシヴァが勇者の加護なんか吹っ飛ばしちゃうぐらいずっと強くてすごいのかな」
胸に抱いた本を、さらに強く抱きしめて俯く姿はどうしようもなく守りたいと思うほど弱々しかった。魔王だった俺が勇者を守りたいだなんてどうかしている。妹であるレインを守りたいと思う気持ちとは少し異なるものが、心の奥に小さな根を張る。
「明日から一緒に修行してみるか?」
どちらにしろガイのもとで剣の修行を一緒にするんだから言わなくても良かったんだけど、気が付けば俺はそんなことを口にしていた。
それにどうせなら剣術以外の修行も一緒にやってみるってのはどうだろう。不思議とアリスと一緒に修行をする姿を思い浮かべると楽しくなりそうだなと根拠も無く思える。
「いいの?」
「あぁ、つらいかもしれないけど大丈夫か?」
「大丈夫、私頑張るよ!」
アリスは俯いていた顔を持ち上げて、太陽のように眩しい笑顔を浮かべた。
頭をかき、つい顔をそむけてしまったのは断じて照れたからじゃない。そう自分に言い訳をした。
目的の本を見つけた俺たちは院長の部屋を出た。階段を下りて二階へ。階段に近い俺の部屋の前でアリスと別れた。
俺は部屋へと入ると仰向けに倒れこむようにベッドへとダイブした。ベットの上で目を閉じ、両手を頭の後ろに回して枕代わりにする。
考えるのはアリスのこと。同い年の女の子。勇者の加護を持つ者。そして一緒に修行をする約束をした。まさか勇者とそんな関係になるなんて。悪魔生、いや今は人だから人生か。人生何があるかわからないものだ。
先ほどアリスに聞かせた小さい頃の話に嘘は無い。だけど少しだけ言葉が足りない。
俺は人間として転生した直後の記憶は無かった。大体六歳ぐらいから意識が戻り、俺はすぐにアクア姉の目を盗んで修行を始めた。おそらく普通の人間の六歳児では、いやもしかしたら大人でも耐えられないぐらいには体を酷使した。
それにアリスの剣を防ぎ続けられたのは俺だけの努力じゃない。どちらかと言えばガイの正気とは思えない剣術指導による賜物だ。きっとアクア姉が俺の修行をしている姿を見たら卒倒していたんじゃないだろうか。
走りこみや剣術だけじゃなくて魔法の修行もしていた。これも最初の頃はひどくもどかしい思いをしたものだ。
かつての修行を思い出しながら過去へと記憶を遡る。そうするとどうしても人間に転生することになったあの日のことまで思い出す羽目になる。どうしてあの天使はわざわざ悪魔たちと協力してまで俺を封印したのか?
天使と悪魔は昔から小競り合いが続いていたから単純に悪魔族へ戦争を仕掛けてくるならわかる。だが、悪魔族全体ではなく魔王と呼ばれていた俺だけを狙った感じがした。それに悪魔族への戦争だった場合、高位の悪魔たちが天使に協力するだろうか? それは流石に無いだろう。封印される前に話した感じだともっと暴れたいから俺が邪魔で、俺を倒すためなら協力してもいい。そんな言い方だったように思う。
そうなると俺を封印した後は天使と悪魔の協力関係は無くなった?
俺が封印されてからは以前よりも悪魔が暴れまわるようになり、色々と被害が出ているという話を聞く。一方で天使が悪魔と戦い、人々を守ったという話も聞く。二つの話から天使と悪魔が今も協力関係にあるとは思えない。
全面戦争をした場合に、天使勢力だけでは倒せないと判断した俺のことを悪魔勢力も巻き込んで倒す。その後は以前と同じように小競り合いで少しずつ悪魔族の戦力を削る……という天使側の戦略だったのか?
それに悪魔が何の利益も無く天使に協力するとは思えない。どうやってあの天使は悪魔との協力をこぎつけたのか。
「まぁ、あの天使を見つけて聞き出せばわかるか」
疑問に思うことは色々とある。だが、その疑問は結局本人に聞かないと本当のところはわからない。
そして俺にとっては封印された理由を聞き出すよりも、もっと重要なことがある。それは――
「あの馬鹿どもを倒す」
静かに、しかし確固たる意思を込めて自分に言い聞かせる。それは人に転生して、意識が戻ったときに最初に決めたこと。あの天使に協力していた高位悪魔七体。あいつらは俺の手で必ず倒す。たとえそれが人の身ではどれほど困難だとしても。
閉じていた瞳を開き、足を持ち上げ、下ろす反動で上体を起こした。ベットから降りて向かう先は孤児院の裏手にある山奥。少しでも早く強くなるために、これから魔法の修行だ。
明日からはきっとアリスも一緒に。