162 英雄計画
「俺が……英雄に?」
突然の提案に戸惑いながら、どうしてそれで強くなれるのかと懐疑的なまなざしをセレンに向ける。
ギルド長もセレンの発言の意図を読み取ろうと、こめかみを指でトントンとたたくようにして考えていた。
そんな中、ケネスが面白がるように「なるほど」と小さく呟いた。
「悩む必要はない。いや、それしか道はないというべきか」
「それしかないってどういうことだよ?」
「聖女の生まれ変わりは英雄になれと言ったが、狙いは天照を得ることだ」
「――っ、そういうことか」
天照という単語が出てようやく理解した。むしろどうしてその発想に行き着かなかったのかと自分に呆れる。
いや、だけどそれも仕方のないことだろう。そもそも英雄なんてものは、なろうと思ってなれるものじゃないのだから。
「すまないが説明してもらえないか」
「これはゼムアやフィオナから聞いた話なんだが――」
そう前置きをしてから、一人だけ蚊帳の外にいるギルド長に英雄と天照の関係性について伝える。
「……なるほど、つまり英雄として活躍することで多くの人々から畏敬の念を集め、それが一定の量を超えたら天照の力として扱えるということか」
ギルド長は聞いた内容をすぐに理解して簡潔にそうまとめた。
お互いの認識が合ったところで、セレンが話を次の段階へと進める。
「これまでシヴァは知る人ぞ知る実力者という感じでした。だから一般の人たちはほとんどシヴァのことを知らない」
「一時期、ギルドの高ランク者として冒険者の中でうわさになったこともあるが、それでもシルヴァリオがどんなことをしていたかまで知っている者は皆無に近いな」
「ですがそれでは天照を得るための条件が満たせない」
多くの人々から畏敬の念を集めるためには無名のままじゃダメだというのはわかる。
「だから英雄になれって? なんかそれって順番が逆じゃないか? たたえられるような偉業を果たしたからこそ英雄として名を残すんだろ、普通は」
「そうね。でもよく考えてみて。あなたはこれから魔王ステラという巨悪を討伐するのだから、先に英雄を名乗ったところでなにも問題ないと思うの」
「まあ、そう言われると問題ないような気もしてきたけど……」
「なにを迷っている。おまえが英雄になることで相手の戦力を削ることにもつながるんだぞ」
なかなか踏ん切りのつかない俺を見て業を煮やしたのか、そう言ってケネスが俺の背中を押してきた。
「戦力を削るって……ああ、そういうことか。アスラ皇帝が得るはずだった天照の一部を、俺が奪い取る形になるんだな」
「そうだ。それにこのままいけばアスラは天照の先、神理へと至るだろう。それを阻止できるのであればやらないという選択はありえない」
「ちょっと待ってくれ。神理ってのはなんだ?」
「簡単に説明するなら、奇跡を起こせるほどに天照、あるいは深淵が極まった。そんな感じだ」
「奇跡ねぇ……」
セレンはうさんくさそうにケネスを見てる。
さすがに俺も奇跡なんて言葉を使われては首をかしげざるを得ない。
「どうしておまえたちがそんな不思議そうな顔をするんだ」
「いやだってなぁ」
「奇跡っていわれても、はいそうですかとすぐには信じられないわよ」
「日常的に奇跡に触れていたというのにか。あるいはおまえたち自身が奇跡の証明だぞ」
「日常的に?」
「あたしたち自身が?」
俺もセレンもケネスがなにを言っているの理解できず、互いに顔を見合わせた。
「天使ステラの神理は”ステラの洗礼”という形となって現れた。自らの力を多くの人々が使えるようになる奇跡だ」
「つまり治癒魔法そのものが奇跡の産物ということか?」
「そうだ。治癒魔法と呼ばれているみたいだが、あれは厳密には魔法ではない。だからこそ”ステラの洗礼”で適正が無かった者は、どれだけ魔法の素質や技術が高かろうと再現できないんだよ」
俺がこれまで治癒魔法を再現できなかったのはそういう理由だったのかと、ケネスの説明を受けてようやく納得ができた。
「魔王ステラが復活して治癒魔法が使えなくなったのって」
「おそらくだが魔王ステラに封じられているのだろう」
「あたしたち自身が奇跡の証明っていうのは?」
「シルヴァリオ、アルフレイヤ、セリスという千年前に生きた者たちがこうして同じ時代に生まれ変わった。これを偶然で片付けるのは無理がある。シルヴァリオか、あるいはアルフレイヤが死ぬ直前にみんなにもう一度会いたい、なんて奇跡を願ったんじゃないか」
俺はその推測を荒唐無稽な話だと笑い飛ばすことができなかった。セレンも口を閉ざしてなにか考え込むように顔を伏せた。
どこか重苦しい空気が漂い始めたところで、ギルド長がそれを払拭するように流れを断ち切った。
「千年前の真実がどうだったかなど、いまでは確かめようもない。そんなことよりもこれからなにが起きるか、そっちのほうが重要だ」
「……そうだな。話を戻すと、俺が英雄になることでアスラ皇帝が神理に至るのを邪魔できるかもしれないってことだよな」
「その認識で問題ない」
ケネスはそう言って頷いてみせるが、俺はどうしても気になることができたので確認することにした。
「アスラ皇帝が世界を手中に収めた暁には魔王ステラを打倒すると言っていたのは、神理についてある程度知っていて、魔王ステラを倒す奇跡を願うつもりでいるからだと思う。そうなるとケネスは俺たちに協力する必要はなかったんじゃないか? あいつが魔王ステラを倒す神理を得る可能だってあるだろ」
俺たちとしてはケネスがこちら側についてくれる方が助かる。だけどケネス本来の目的は魔王ステラが有する膨大な深淵をこの世から消し去ることだ。アスラ皇帝が魔王ステラを倒せるような神理を得るのなら、ケネスの立場としては向こう側についた方がよかったんじゃないかと思える。
「余計な気遣いは不要だ。それにアスラはステラを倒す神滅の理を得る気でいるが、そううまくことが運ぶとは思えない」
「それはなんでだ?」
「大前提として神理に至ったとしてもどういう奇跡を起こせるようになるのか、その法則性が不明だ。仮に神理が無意識のうちに願っていることを叶えるとするなら、アスラが得る奇跡は戦いとは関係のない豊穣の類いになるだろう。あいつは根っからの王だ。国をより良いものにしていこうとあがいている。だからこそ多くの実りを得て民が幸福に、国を豊かに、自然とより良い方向へ導くような力になると予想している。これでは俺の願いは叶わない」
アスラ皇帝の狙い通りに神滅の理を得れば問題ないけど、そうならない可能性も十分考えられるってことか。だからこそケネスは自らの望みを叶えるためにアスラ皇帝につくよりも、自ら動いた方がいいと判断した。
「なるほど。とりあえずアスラ皇帝が得るかもしれない神理についてはこれ以上考えても時間の無駄だな」
俺がそう結論づけると、今度はセレンがケネスに質問を投げかけた。
「天照や深淵が極まると神理に至るというなら魔王ステラもそこに至っていると考えた方が自然よね。ケネス、あなたは魔王ステラの神理がどんなものか知っているんじゃないの?」
「あいつの願いそのものは知らない。だがその力がどんな結果をもたらすかは覚えている」
そこで言葉を区切り、ケネスは記憶の中にある光景を思い出すように一度まぶたを閉じた。
「一言でいえば、ステラの願いが叶う世界を創り出す力だ」
「世界を創る?」
「そうだ。まあステラから一定距離に影響をあたえるといった方が正確かもしれないが、どちらにしろ凶悪なことに変わりない」
「具体的にはどんなことができるんだ?」
「相手の感情を無視して魅了したり、問答無用で命を刈り取ったり、この世に存在しない生物や物質を生み出したり、なんでもだ」
願いが叶う世界を創り出す。その言葉だけなら子どもの願望がそのまま現実になるような、どちらかというとかわいげのある印象だった。けれどケネスがあげた例を聞いてあっさりと印象が覆る。
「そんな力をもつ相手に、どうやって戦えばいいのよ」
セレンは力なく呟き、どこか悲観的な顔で肩を落とす。
「対抗できるのは天照か深淵持ち、あるいは煉獄を使える俺だけだ。それ以外の者では話にならない。やつが死ねと願っただけで屍に変わるんだ。どれだけ数がいても意味などない」
「じゃあ空島で戦ったあいつは、封印が解けたばかりで全力じゃなかったってことか」
表情にこそ出さなかったけれど、相手の強大さ、凶悪さに圧倒された。俺は深淵を宿しているからステラと戦う前提条件は満たしているが、逆にいえばそれだけでしかない。
「まさか心が折れたか?」
ケネスが挑発するかのように口の端をつり上げてそう言った。
魔王ステラを倒すと豪語した手前、あまり弱気なところは見せたくない。けれど冷静に考えれば考えるほど勝ち目なんてないのではと思えてくる。
「シヴァ、あなたの正直な気持ちを聞かせて。もしあなたが英雄になんてなれないというのなら、それも仕方のないことだと思う。世界を背負うなんて普通の人には無理だもの」
セレンは逃げ道を残してくれているかのように言っているが、その表情が、瞳が物語っている。俺ならば英雄になれると、魔王ステラを倒せると。そう信じて疑っていないのだろう。
一度は魔王ステラに敗れた身でその期待に応えられるのだろうかという不安はある。だけど、それでも俺はすでに自分が進む道を選んでいるんだ。魔王ステラを倒すと、さっき宣言したばかりだ。
だというのにこんなところで立ち止まるわけにはいかない。茨の道だとしても前に進むんだ。
「正直俺が英雄になるなんていわれても、いまいち想像できない。世界を背負う覚悟だってできちゃいない。だけどそれがいまよりも強くなるために、魔王ステラを倒すために、なによりアリスを救うために必要だというのなら」
新たな一歩を踏み出す決意を胸に、拳を握り締めて前を向く。
「なるよ、俺は英雄に」
誰かに無理やり選ばされた道じゃない。自らの意志で英雄になると、そう決めたんだ。
「いいだろう。ギルドは全面的に協力する」
ギルド長はさっきまで堅い表情をしていたというのに、まるで童心に返ったかのように楽し気な声でそう言った。
それに乗っかるようにセレンも声を上げた。
「当然、聖教会も総力を上げてあなたを後押しするわ」
「本格的に英雄として祭り上げる前段階として、シルヴァリオがこれまでに上げた戦果を各地でうわさとして流せば、それだけで知名度が上がるだろう。それからタイミングを見計らって魔王ステラ、ヴィルダージュに立ち向かう旗頭としてシルヴァリオが立ち上がるという流れでどうだ?」
「いいですね」
「セレン、君はこのあとここに残ってくれ。ギルドと聖教会の各支部へ出す指示について打ち合わせをしたい」
「わかりました」
俺がなにか口を挟む前に、二人でどんどん話を進めていく。じつは前から話し合っていたんじゃないかと疑うぐらいスムーズだ。
「ここに残ってもあまり役に立ちそうにないな。あとは二人に任せてノーブルのところに行くぞ」
俺があっけにとられていると、ケネスが立ち上がって次の行動を促してきた。
「……そうだな。俺はアリスたちが見つかるまでこっちに残って、転生魔法の開発に注力しようと思う。セレンはどうする?」
「あたしはギルド長との打ち合わせが終わったら聖教会に戻るわ。ここでの話をアンジェリカ様たちに報告する必要があるし、各地へ指示出しするならあっちでやった方が都合がいいもの」
「わかった。じゃあ打ち合わせが終わったらノーブルの家に来てくれ。転移魔法で送るよ」
「ありがとう。お願いするわ」
ギルド長と打ち合わせをするセレンをその場に残して、俺はケネスとレイザーを連れて部屋を出た。
ノーブルの家に向かう途中。街中を歩きながら、ずっと気になっていたことを聞いてみた。
「なあ、どうしてレイザーがケネスの監視をしてるんだ?」
「他に適任者がいなかっただけさ」
レイザーは投げやりにそう言って深いため息をついた。
「適任って具体的には?」
「ギルド内である程度立場があって、なおかつケネスが裏切ったときに自分の身を守れる程度に実力がある者ってところだ」
古参悪魔討伐計画に参加した、冒険者の中で上澄みのレイザーが選ばれるのも納得の理由だった。
「なるほどな。ちなみにおまえってどういう立場なんだ?」
「近々ギルド長の補佐役になるはずだったんだが、少し事情が変わった」
「それは聞いてもいい話なのか?」
レイザーが前髪をかきあげて上を向く。それからしばらく迷うように声を漏らした。
「あー……わるい。まだ正式に決まったわけじゃないから俺からは話せない。もし気になるならノアさんから直接聞いてくれ」
「わかった。まあ次会ったときに覚えてたら聞いてみる」
「そうしてくれ」
俺とレイザーが雑談をしている傍らで、ケネスは屋台で焼き鳥を買っていた。店員から渡された紙袋に、串が十本入っているのが見える。そこから一本引き抜いて、待ちきれないとばかりに一気に半分ほど頬張った。味が気に入ったのか満足げな顔で次々と平らげていく。
その様子をぼんやりと眺めていた俺はある事実に遅れて気づく。
「おまえ金持ってたんだな」
悪魔として恐れられていたケネスが、普通に屋台で買い食いしているというのが不思議でしかたない。
「なに当たり前のこと言ってんだ、おまえは。じゃなきゃ買えないだろ」
「それはそうなんだけどさ。その金ってどうしたんだ?」
「どうしたって……ああそういうことか。なにか勘違いしてるみたいだが、ちゃんと自分で稼いだ金だぞ」
「自分で稼いだ? おまえが?」
ちょっとなにを言っているのかわからない。冒険者とかから無理やり奪い取ったと言われた方がすんなり信じられるぐらいだ。
「暇つぶしがてら人の街で生活してるときにな。いろいろなところを転々としながら百年以上は働いただろうな。普通の人間が一生遊んで暮らせるぐらいの蓄えはある」
「「なん、だと……」」
ケネスの口調は淡々としたもので、それがかえって信ぴょう性を上げていた。大金をもっているという事実も驚きだが、ケネスが人に混じって働いていたなんて正直信じられない。
ケネスにとってはどうでもいい昔の事なのだろうが、俺たちにとっては衝撃だった。レイザーなんか驚き過ぎて口を開けたまま固まっている。
「なに足を止めてる。さっさと行くぞ」
ケネスに促されてようやく俺とレイザーの硬直がとけ、歩みを再開した。
それから程なくしてノーブルの家に到着すると、ソフィアのお父さんに出迎えられた。ギルド長から連絡が入っていたようで、突然訪れた俺たちを怪しむことなく家の中に招いてくれる。
ソフィアのお父さんとは軽くあいさつを交わすだけに留め、すぐに地下にあるノーブルの私室へと足を運んだ。
扉をノックしても、声をかけても反応がない。これは研究に集中していてこっちの声が聞こえていない可能性が高そうだ。
「鍵は……かかってないのか。ノーブル入るぞ!」
わずかに扉を開き、そう声をかけてから部屋の中へと入った。
薄暗い部屋の中は以前来たときよりもはるかに散らかっていた。魔法陣の研究のため読んだであろう本がそこら中に積まれていて、魔法陣が書き殴られた紙がいたるところに落ちている。ほかにも何に使うのかわからない道具がゴロゴロと転がっていた。
「もう少し片付けろよ……」
「やかましい。いまの状態がわしにとっては最高に使いやすいんじゃ」
部屋の中央にある机に座ってなにかを書いていたノーブルが、その手を止めて面倒そうに面を上げた。
「死んだかと思うとったが、存外に元気そうじゃのう」
「まあなんとかな。それよりノーブル、転生魔法の研究の方は進んでるか?」
「ふむ。進んでいる、と言いたいところだが状況は芳しくない。やはり一度煉獄とやらを見ないことにはどうにもならん」
「だったらちょうどいいタイミングだったってことか」
ノーブルは俺から視線を外して、隣のケネスを見て小さく頷いた。
「そうじゃのう。頼みに行く手間が省けたわ」
「煉獄に行くための条件ってなにかあるか?」
ケネスに尋ねると、部屋の中を見回してからボソリと呟いた。
「場所はどこからでも繋げるが、戻ってくるときにガラクタを踏みそうだ」
「ガラクタとは失礼な。だがそういうのであれば庭でやったほうが良いかの」
どうやらケネスも部屋の汚さが気になったらしい。
ノーブルは苦言を漏らしつつもそう提案し、誰からも反対意見はでなかったので、みんなで庭に出た。
「これぐらいの広さがあれば大丈夫だろう」
「じゃあさっそく黄泉とやらに連れて行ってくれるのか?」
「まあ待て。このまま連れて行ったらあっという間に物言わぬ骸に早変わりだ」
「そういえばなにか対策が必要って言ってたな。ちなみに対策しなかったらどうなるかって、軽く試せたりするのか?」
ケネスは眉に皺を寄せて、変人を見るようなまなざしで俺を見る。
「死にたいのか?」
「いや別にそういうつもりで聞いたわけじゃないんだけど。ただちょっとどんなものかと興味が湧いて」
「……まあ先にどうなるかを見せておいた方があっちで変な行動をしなくなるか」
仕方ないという感じでケネスは右手を前に伸ばして、手のひらを上に向けた。そこに七色に移り変わる神秘的な輝きが現れる。
煉獄に触れたら燃えるとか焼かれるという話を聞いていたから熱いのかと思っていたけれど、陽炎のように揺らめいている光の塊は、手を伸ばせば触れられる距離にいてもまったく熱くない。
「これが煉獄?」
「そうだ。とりあえず触ってみろ。炎と違ってやけどなんかはしないが、死にたくなるぐらい痛むぞ」
そう言われて一瞬ちゅうちょしそうになったけれど、男は度胸とばかりに、勢いよく腕を前に伸ばして煉獄に手を突っ込んだ。
その瞬間、熱くないのに焼かれるような、生きたまま体を分解されるような、魂からなにかを無理やり剥がされるような、これまで感じたことのない種類の激痛が手の先から全身に駆け巡った。
「――ぁっ!?」
反射的に手を引っ込め、煉獄から離れるように距離をとる。うずくまるような醜態を晒すことはなかったが、冷汗が止まらない。
煉獄に突っ込んだ手を目の前にもってきて確認しても全く無傷。それなのにいまだ痛みが止まない。
深呼吸を何度か繰り返したあとも全身を苛む痛みはくすぶったまま。もうしばらくの間はこの痛みと向き合う必要がありそうだ。
「煉獄に焼かれた感想は?」
「想像以上にヤバいな。正直深淵や天照なんかよりもずっと危険だろ」
一瞬でも触れれば痛みで戦闘どころじゃないし、まともにくらえばどうなるかは明白だ。
「よくこんな力をいままで隠してたな」
街を焼いた事件以外で、ケネスが煉獄を使ったという話は聞いたことがない。俺が魔王だった頃もケネスが煉獄を使った場面は一切見ていない。もちろん俺の知らないところで使っていた可能性は十分あるが、それならうわさぐらい耳に届いているはずだ。
「隠すも何もない。使う必要がないんだから当然だろう。あとおまえは勘違いしてるみたいだが、この力は戦闘じゃほとんど役に立たないぞ」
「どういうことだ?」
「そこら辺のザコ相手ならともかく、おまえや天使たちのように深淵や天照が多いやつは浄化しきる前に逃げられて終わりだ。なにより直接触れてもおまえが気を失うことはなかった。それが答えだ」
「たしかにそうかもしれないけど、いやでもなぁ……」
もし仮にケネスと戦っている最中に、初めて煉獄の威力を目の当たりにした場合、俺ならどうするか? 状況にもよるだろうが、無理にケネスとは戦い続けずにいったん距離を置いて体勢を立て直す気がする。
そのときにどう感じるかといえば、脅威ではあるが一撃必殺と呼べるほどの怖さはない。そんなところか。
とはいえ戦闘じゃほとんど役に立たないと言うのはさすがに過小評価が過ぎるだろう。もしこの力を使えるようになったら魔王ステラとの戦いで役に立つはずだ。
煉獄に触れた手に意識を集中する。深淵を浄化されたときの感覚からその力を逆算して――
「分析は黄泉から戻ってきてからにしろ」
「っと、わるい」
「それじゃあ結界を張る。間違っても壊すなよ」
言い終わると同時、球体状のなにかが俺とノーブル、レイザーの周りにそれぞれ展開された。パッと見た感じは普通の結界に似ているが、煉獄と同じように七色に輝いている。
「……本当にこれで煉獄を防げるのか?」
俺が煉獄に触れて痛みを我慢する姿を見ていたからだろう、レイザーが不安そうな表情を浮かべている。
転生魔法の改造をするために俺とノーブルは黄泉を見ておく必要があるけれど、レイザーがそれに付き合う必要はない。
「不安ならここに残ってていいぞ」
「大丈夫だ。いや、正直不安はあるけど、ケネスの監視は俺の役目だからな。ちゃんと付いて行くさ」
「ノーブルは大丈夫そうだな」
「不安よりも興味が勝るからのぉ。黄泉とはいったいどんなところなのか楽しみじゃ」
「実際はそんな大したものじゃないんだがな」
軽い調子で言いながら、ケネスが空へ手をかざす。すると空間に歪みが生じて大人が余裕をもって通れるぐらいの穴ができた。
その現象は転移魔法に似ていたが、この世界のどこか別の場所へ繋ぐという感じではなく、まったく異なる世界への門を開いているかのような印象を受けた。煉獄の門とでも呼ぶべき空間の歪みの奥は煉獄と同種の光で瞬いている。
「これがあの世に繋がってるのか」
「黄泉に入ったら勝手な行動はするんじゃないぞ。俺から離れたら戻ってこれなくなるからな」
念を押すように言うケネスへ、俺たちはしっかりと頷きを返した。
まず最初にケネスが煉獄の門へ飛び込み、その後を追うように俺とノーブル、レイザーが続いた。