154 絶望の始まり
ゼムアの生首、それに驚く暇もなく事態は悪い方へと進んでいく。
グレイルの側に再び空間の歪みが現れて見知った顔――味方であるはずの天使エルザが現れた。
だがあの美しかった姿は見る影もない。青みがかった白金の髪は爆風にでもあおられたのか乱れ、着ている軽鎧もボロボロ。手足には重度のやけどを負っており、立っているのが不思議なほどの重傷だった。
そんなエルザが足を引きずるようにしてグレイルの下へ進み、大切そうに胸元に抱えていた何かを差し出した。
「お待たせして申し訳ありません。こちらが精霊の里で守られていた封印の宝玉です」
グレイルはエルザから最後の封印の宝玉を受け取ると、褒め称えるように、ねぎらうように、曇りなき笑顔で応じた。
「ご苦労さまです。これですべてのピースがそろった」
役目を終えて気が抜けたのだろうか、エルザはふらりとグレイルの方に向かって倒れる。
グレイルはエルザを優しく抱き止めると、蕩けるほど甘く、凪いだ海のように優しい声で囁いた。
「あなたは十分頑張った。ゆっくりとお休みなさい」
その直後に鮮血が飛び散り、純白の床を赤く汚した。
「なん、で……」
「エルザ様」
アリスとセレンの驚きと悲しみが混ざったような声が耳に届く。
最初、何が起きたのか理解できなかった。正確には目の前の光景を理解したくなかったというべきか。
――グレイルがエルザの胸元を手刀で貫いた。
「これで……お姉さまを……う事が…………」
こぼれ出るような弱った声で何かを言い残して、エルザが息絶えた。
その直後、エルザの死と連動するように、グレイルの灰色の翼に変化があった。体に近い根元の部分から羽先に向かって、限りなく黒に近い色へと染まっていく。
「ふふっ、ギリギリのところでしたね。危うく私が”深淵”に飲まれるところでした」
「代わりにやってもよかったのだぞ」
「残念ながらそれではダメなんですよ。これは遙か昔に、ええそれこそ記憶のかなたに忘れ去りそうなぐらい昔に彼女と交わした約束なんです。最後は私の手で殺してくれと」
「なんとも義理堅い男よな」
「単純に約束を破れない性分ってだけですよ。まあそのせいで自分の手を汚すような方法があまりとれなかったので、多少遠回りもしましたが」
グレイルと老剣士が何か話しているけど、その内容はほとんど頭に入ってこない。
エルザはフィオナを裏切って、封印の宝玉を命がけで奪取してグレイルの下へ駆けつけた。つまり二人は仲間だったはずなんだ。それなのになぜ? どうして? そんな疑問が浮かんでは消えていく。
俺とエルザは特別親しかったわけじゃない。言葉を交わしたのも数回ほどだ。だから俺がエルザの死に涙を流すことも、悲しむこともなかった。
だけどどこかやりきったような、幸福そうな死に顔を見ると不思議と胸が痛んだ。
「これよりステラ様復活の儀式を始めます。あなたにはそこにいる者たちの相手を頼めますか」
「よかろう。多少は骨のありそうな面構えをしておる」
「では余も少しばかり手伝おうか」
アスラ皇帝が玉座から立ち上がり、剣を手にした。ゆっくりとした足取りでグレイルと老剣士の方へと近づいていく。
「いいのですか? 今日はステラ様の姿を見るだけで戦わないと言っていた気がするのですが」
「気が変わった。先ほどの戦いぶりを見て余も少し遊びたくなったのだよ」
「そうですか。それではあなたの気が変わらないうちにさっさと始めますかね」
グレイルは抱えていたエルザの体と三つの封印の宝玉を魔法で浮かせると、天井に向かって飛ばした。
すると天井だと思っていたところが幻の様に消えて無くなり、代わりに巨大な魔法陣が現れた。その中心部分には封印された俺の、魔王シヴァの肉体が浮かんでいる。
エルザの体は魔王シヴァの肉体のすぐ側に、三つの封印の宝玉は魔法陣の上で等間隔に配置された。
俺たちの意識が頭上に向かう中、グレイルが詠唱を紡ぎ始める。
「責任は私がとる。アスラ皇帝もろとも敵を討ち倒せ!」
そう叫び、副ギルド長がグレイルに向かって突進した。まずは儀式を執り行う者をどうにかしようという考えだろう。
グレイルを守るように老剣士が一歩前に出た。音もなく鞘から剣を抜き、流れるような所作で上段から振り下ろす。気負うことなく放たれた斬撃は演舞のように軽やかで、そこには重みを感じられない。
「せいあっ!」
それに対して副ギルド長が砲撃に匹敵する威力を込めた右ストレートを放つ。真っ向からの打ち合い。突進の勢いも相まって勝負は副ギルド長が優勢に思えた。
しかし老剣士の剣はエンシェントドラゴンの鱗で作られたガントレットごと副ギルド長の拳を両断した。そのまま前腕、肘へと剣が入り込む。
副ギルド長は右腕を捨て、無理やり体を捻るようにしてさらに前へと踏み込んだ。剣の間合いの内側へと潜り込み、残る左腕で老剣士の丹田を打ち抜く。
老剣士が勢いよく壁際まで吹き飛んだ。だが老剣士は壁に衝突する直前でくるりと身を翻して壁面に着地し、軽やかに床へと降りた。その所作からは一切ダメージを感じられない。
攻撃を受ける直前に自ら後方へと飛ぶことで衝撃を無効化したのだろうが、そのお手本のような受け流しを達人同士の戦いで実践することがどれだけ難しいか、この場にいる全員が理解している。
「捨て身で挑んでも届かないとは」
副ギルド長は無傷の老剣士を見て憎らしげに吐き捨てた。
さすがに腕を切られた状態で戦闘を続けるのは無理があると判断したのか、副ギルド長は二枚おろしにされた右腕を拾って俺たちの下へ戻ってきた。
「セレン!」
「分かってるわよ!」
ここにいるメンバーで切断された腕を繋げられるのはセレンだけだ。治療はセレンに任せるほかない。
もはやアスラ皇帝と戦う覚悟がどうとかと迷っていられる段階はとうに過ぎていた。戦わなければこちらがやられる。その現実が俺を動かした。
副ギルド長と入れ替わるように一歩前へと踏み出す。
その瞬間、背筋が凍りつくほどの寒気に襲われた。その出所は剣を上段に構えた老剣士。構えはさっきとほぼ同じ。しかし尋常ではない気配が先ほどとは全く次元の異なる一撃だと伝えてくる。
「もったいぶるのは性に合わん。我の最強にて実力を見極めさせてもらおう」
――体が左右に切り裂かれ、血の海に沈んだ。
それはあまりにもリアルな死の幻覚。視界が赤に染まり、音が消え、呼吸が止まる。硬直した体は迫り来る死を前にしてあまりにも無防備だった。
「ああああぁぁっ!」
咆吼をあげて死の幻覚を振り払う。瞬時に魔人化を済ませて抜剣した。”深淵”を剣に纏わせて”アビス・ストライク”の構えをとる。
刹那の間に間合いを詰めてきた老剣士の前へと飛び出し、こちらが出せる最強の技で迎え撃つ。
金属同士が削り合うかのような耳障りな音を立てて剣が衝突する。その衝撃で床が放射状にひび割れ、壁にも亀裂が入った。
技の威力が互角だったのか、完全に相殺する形で決着がついた。
互いに距離をとって剣先を向け合う。多少離れたとはいえ、一瞬の間に距離を詰められるのはすでにわかっている。気を抜くことなどできはしない。
「まさか我の”天地求道剣”を真っ正面から受け止める者が現れるとは思わなかったぞ」
「それはこっちのセリフだ。”深淵”を使った技を剣技で防がれるとはな」
”深淵”の溜めが十分じゃなかったとはいえ完全に予想外の結果だった。とはいえグラードと戦ったときのように最大まで溜められるような状況はそうそうない。わざわざこちらの準備が整うのを待ってくれるのなんて、あの戦闘狂ぐらいだろう。
「いま”天地求道剣”って言ったよな。つまりお前も剣神流を継いでるってことか?」
悠長に質問なんかしている場合じゃないのは承知だが、はっきり言って隙が見当たらない。少しでも他のことに意識を割かせることでわずかにでも隙が生まれればと尋ねてみたが、あっさりと否定された。
「いいや、我は継いでなどおらんよ」
技の名前以外にも剣の扱いや身のこなしからもしやと思っていたのだけれど、どうやら違うらしい。
しかしそうなるとこいつは一体誰から剣を教わったというんだ? まさかたまたま技の名前が被った、などということはないだろう。
そんな俺の疑問に予想外の答えが返ってくる。
「なぜなら我こそが始まり。剣神流の祖なのだから」
「お前が剣神流の祖だと?」
「左様」
老剣士は鷹揚に頷いた。
剣神流の開祖についての情報は俺たちの代にまで伝わっていない。けれどいつ頃からある流派なのかは大体分かっている。たしか五百年以上は続いているはずだ。
つまりこいつはそんな昔から生きていると言っているのだ。普通に考えればありえない。
「そなたの考えていることは手に取るようにわかる。人はそんなに長く生きられぬと、そう考えているのだろう」
図星をつかれて剣先を揺らしそうになった。相手の隙を作るためにした問いなのに、自分が隙を作りそうになるとは。
老剣士は続けて語る。
「だが不可能ではない。天使が、悪魔がそうであるように人であることを捨てさえすれば悠久の時を生きられる」
「それなら人を捨てたお前はなんだというんだ」
「我が名はミツルギ。天地を駆け抜けて追い求めた求道の果て、剣の極みを目指すただの愚か者よ」
自らを嘲るように口の端を歪めて老剣士――ミツルギは言った。
大きな声を出されたわけでも、威圧されたわけでもない。それなのに俺の足はわずかに後ろへと下がっていた。
「お前は剣を極めるためだけに人を捨てたというのか?」
俺の問いに、ミツルギは当然だろうといった顔つきで頷く。
「左様。この肉体はアスラ皇帝と同じようにグレイル殿の改造を受けている。とはいえグレイル殿の研究もまだあまり進んでいない頃で、完成度はいまいち。肉体の強度はさほど上がってはおらぬが、しかしそれでも寿命は延びた」
なんでもない事のように言っているが、つまりアスラ皇帝と同じ様に常人が発狂して廃人になるような改造を受けたということだ。しかも研究があまり進んでいない時期ということは、それだけ失敗する可能性が高かったはず。そんな実験に自分の命を賭けるなんてどうかしてる。
剣を極めたいという純粋な願いとは裏腹に、やっていることはあまりにも狂気的で人として歪んでいる。唖然として言葉もでない。
「さて、言葉での語らいはこのくらいにして次はこちらで話そうか」
そう断りを入れるミツルギの視線がわずかに俺の左へとそれた。
「アニキっ!」
その声が耳に届くのと俺が右前方へ踏み込んだのはほぼ同時だった。
一人では隙を見つけることができなかったけれど、二人ならあるいは。
しかしそれが甘い考えであることはすぐに理解させられた。俺とライナーの二人がかりでミツルギに迫っても鉄壁の守りを崩すことができないでいる。
一応相手の攻め手を封じることはできているが、それだけでは意味がない。
「”黒金”の使い手。つまりそなたが当代の剣聖か」
「だったらなんだって言うんスか!?」
厳密にはライナーはまだ剣聖を名乗っていない。だがそれを訂正することなく苛立たしげに応じた。
「我の相手をするにはまだ早い。覚醒もまだであろう。いましばらく修行を積んでから出直せ」
安い挑発とも受け取れるが、おそらくは本心からでた言葉なのだろう。ミツルギの表情からは失望や落胆といった感情が読み取れる。
だがしかし、結果としてそれは挑発として機能した。
「――っ!」
ライナーの直線的な攻撃は当然のようにミツルギに防がれ、返しの技で剣が大きく弾かれる。
「精神も未熟だったか」
無防備になったライナーの胴体めがけてミツルギが剣を振るう。
これが一対一の戦いであれば決着はついていた。だけどいまは二対一。
「させるかっ!」
俺はミツルギの背後から攻撃を仕掛けた。
ミツルギはライナーへの攻撃を諦めて回避を選んだ。さらに俺たちから距離をとる。
「悪いアニキ、助かった」
「気にするなと言いたいが、次も助けられるとは限らないからな」
「わかってる」
俺とライナーの二人がかりでどうにか拮抗状態を保ててはいるが、厳しいと言わざるをえない。
かといってもう一人増えればどうにかなるかというと微妙なところだろう。
俺とライナーの連携は、さっき見た師匠とギルバード団長のそれに引けをとるものじゃないと思っている。それは互いのことを幼い頃から知っていて、一緒に訓練を積んできたからこその結果だ。ゆえに当然他の人と同じレベルで連携がとれるわけじゃない。
俺とライナーがこのままミツルギを抑えている間に、他のみんなでグレイルとアスラ皇帝をどうにかしてもらうしかない。
私たちが死の幻覚に捕らわれて身動きをとれなくなった瞬間、シヴァが雄たけびを上げて飛び出した。
その直後、激しい音を奏でて二つの剣がぶつかり合う。
衝撃が床を、壁を震わせた。私はその影響を受けて体勢を崩しそうになる。
転ばないようにととっさに体を動かした。
そこでようやく気づく、死の幻覚がとっくに消えていたことに。たぶんシヴァが相手の剣士の技を止めたから。
もしもあの瞬間、シヴァが動いていなければ全滅していた。そう確信するほどに相手が放つ剣気は苛烈だった。
呼吸は荒く、本当に自分は生きているのかと胸に手を当てて確かめる。ドクン、ドクンと普段より大きく、速く心臓が脈打っていた。
大丈夫、私はまだ生きていると自分に言い聞かせて前を向いた。
「それでは余も戯れるとするか」
少し遊ぶだけ。そういうかのように軽い足取りでアスラ皇帝が私たちの前に立ちふさがる。
アルバさんが剣士に返り討ちにあったこともあって、私は慎重に相手の出方を覗う。
そうしていると団長と師匠の二人が先兵として切り込んだ。
二人の初撃をアスラ皇帝は不可視の結界で受け止めた。並の結界なら耐えられず粉砕されるところだけれど、ビクともしていない。
私はその結果を半ば予想していた。最初、団長が玉座に座ったままのアスラ皇帝を攻撃した時、アスラ皇帝は身動きせず無防備なままだった。グレイルが助けてくれると信頼していた可能性は低い。そうであれば自らの実力に絶対の自信があったということだ。例えばどんな攻撃も通さない最強の盾を持っているとか。
「良い腕だ。しかし”深淵”も”天照”も持たぬそなたらでは勝ち目はないぞ」
アスラ皇帝は二人の実力を称賛した上で、それでも自分が負けるわけがないと断言した。
不遜な態度をとる敵を前にして、団長が苛立たしげに舌打ちをする。
「チッ、こいつは俺とガイで抑える。お前たちはシヴァの援護とグレイルに向かえ!」
団長の叱責のような指示を受けてようやく私は自分のすべきことを思い出す。
本当なら私がシヴァの援護に行きたい。だけどこの中でシヴァと一番うまく連携をとれるのはライナーだ。いまは私情よりも効率を優先しないとダメ。
「ライナーはシヴァの援護に行って。グレイルは私が!」
要点だけを伝えるとライナーは頷いてすぐにシヴァのところへ駆けていった。
アスラ皇帝を団長と師匠が、凄腕の剣士をシヴァとライナーが抑えている間に私がグレイルを止める。
そう意気込んだところで、グレイルの精霊分身が動きを見せた。どこかと空間を繋げて、一抱えほどある大きさの黒光りする水晶を取り出した。
「なにあれ?」
「たぶん召喚石、魔物が封じられてるの」
アルバさんの腕を治療しているセレンが疑わしげに水晶を見ていた。私が口早に答えている間にも水晶からおびただしい数の魔物が飛び出してくる。
黒鳥や雷蛇を筆頭にさまざまな種類の魔物が百体以上、敵味方問わず手当たり次第に襲いかかっている。
ベル、レイザーさん、ライオットさんの三人は突然現れた魔物の対処に追われていた。こうなると三人の援護は見込めない。
私は一人で魔物の群れに飛び込んだ。魔物を倒すことよりも、先へ進むことを優先する。致命傷となる攻撃以外はすべて無視して、一直線にグレイルの本体を目指した。
だけど当然のように精霊分身が邪魔をしてくる。正面から鋭い風の刃が飛んできたので姿勢を低くして躱し、疾走の勢いのまま胴を薙ぐように剣を振るった。
「――えっ?」
斬った感触も防がれた感触もなく、剣が空を切る。
顔だけを後ろに向けて確認すると、なにが起きたのかすぐにわかった。精霊分身は自分で肉体を上下に分断したのだ。
このままグレイルの本体に向かえば、精霊分身の追撃を無防備な背中で受けることになる。だからといって精霊分身への対応に回ればグレイルが行ってる儀式を邪魔することができなくなる。
迷っていたのは一瞬。その間に右腕の治療を済ませたアルバさんがグレイルの精霊分身を力任せに殴り飛ばしていた。
「行け!」
私は返事をする手間も惜しんで、グレイルの本体に向かって飛び出した。
時折邪魔をしてくる魔物の対処をしながら、俺はミツルギとの死闘を続けていた。
どうやら魔物は敵味方の区別が付かないようでミツルギにも襲いかかっている。ただし残念ながら魔物は一瞬で切り刻まれるため隙らしい隙は生まれない。
それでもみんなの動向を視界の端で覗う程度の余裕はできた。
アスラ皇帝は師匠とギルバード団長が、グレイルの精霊分身は副ギルド長が相手をしていた。いつの間にか現れていた魔物はセレン、ベル、レイザー、ライオットが対応している。
その間に一人自由になったアリスがグレイル目がけて飛び出した。
深紅に輝く剣が彗星のごとく尾を描き、グレイルに衝突する。
衝突の余波で近くを飛んでいた魔物たちが吹き飛ぶが、それでも結界に守られたグレイルは俺たちのことなど眼中にないとばかりに詠唱を続けていた。
「どうして!?」
アリスは結界を壊せずに焦っていた。
そこへアスラ皇帝がしたり顔で告げる。
「当然だ。余の”天照”で強化した結界、生半可な力では破れんぞ」
「――っ、それでも!」
アリスの胸元に刻まれた勇者の紋章が服の上からでも視認できるほど輝いた。爆発的な勢いでアリスの魔力が膨れ上がり、勇者の剣が晴れ渡る空のような蒼へと変わる。
”白の隕鉄”で作られた剣は使用者の魂の色を反映する。だというのにこれはなんだ? そのあり得ないはずの現象に思考が止まった。
その間も俺の瞳はアリスを追っていた。蒼の剣が結界を切り裂き、グレイルの首元へと迫る。
あと一瞬あればグレイルの首を切り落としていただろう。
しかしそれよりも先にグレイルの詠唱が止んでいた。それは儀式の完成を意味している。
グレイルが勝利を確信したかのように笑みを浮かべ、次の瞬間には魔法陣を中心として暴力的な魔力の奔流が吹き荒れた。玉座の間で戦っていた全員がその影響を受けて、すぐ側に居たアリスはもとより他の面々も壁際まで大きく吹き飛ばされていた。
俺とライナー、それにミツルギも例外ではない。強制的に戦いを中断される形となった。
魔力の奔流が止むと、すべての痛みや苦しみを包みこむような、優しくて温かな魔力が玉座の間を満たしていた。
魔方陣の方を仰ぎ見ると魔王シヴァの肉体とエルザの体、封印の宝玉は消え去り、代わりに光の球が浮かんでいた。
その光がゆっくりと静まると、中にいる人物がはっきりと見えるようになる。
女神――最初にそれを目にしたとき、自然とそう感じていた。
不思議と引き込まれる、美しくも可愛らしい顔つきの女性が、生まれたままの姿で魔法陣の位置からゆっくりと降りてきた。
絹のようにさらさらとした黄金の髪がふわりと広がる。染み一つない透き通るような白い肌と豊満な肢体は、純白の六対十二枚の翼で覆い隠されていた。
神々しくて直視するのもはばかれるような神聖な存在が俺たちの前に舞い降りた。
これが千年前にフィオナたちが死力を尽くして封印した魔王ステラ? あまりにも想像していたものとかけ離れていた。
誰もが言葉を失い、玉座の間に静寂が訪れる。
グレイルは恭しく片膝をついた体勢で頭を垂れている。まるで主からの命令を待つ従者のようだ。
時間が止まったかのように錯覚する中、ステラの閉ざされた瞳から涙がこぼれ落ちた。
それと同時に変化が起きる。
羽化するように、ステラの内側から抑圧されていた”深淵”があふれ出た。
ステラの頭上に浮かんでいた金色の輪が砕け散り、長い髪が根元から白金へと変わる。純白の翼も漆黒へと色を変えた。
六対の翼が大きく広げられると、魔力で創造された衣服が姿を現した。それはどこか扇情的でありながら、先ほどまで感じていた神聖さをも内包している。
玉座の間を満たしていた優しく、温かな魔力は生まれ変わったステラと同調するかのように一新された。嵐の中にいるかのような激しさと、深海に落とされたかのような凍える冷たさに息苦しさを覚える。
固く閉ざされていたまぶたが開く。真っ赤な鮮血の瞳。それは命の色であり、同時に死を予感させる色だった。
あまりにも濃い死の香りに、意識が恐怖という名の色で染め上げられる。
ただそこにいるだけで命を終わらせるような存在――魔王ステラが復活した。