132 涙はいらない
「なんで助けに行かないのよ!?」
ギルド長の執務室にソフィアの大きな声が響き渡る。
「何度も言わせるな。たった一人の個人的な行動に対していちいちギルドが動いていたらキリがない」
「じゃあお兄ちゃんはお兄さんを見捨てるっていうの!?」
「見捨てるんじゃない。あいつが自力で生きて帰ってくるのを信じろと言ってるんだ」
セレンとベル、ライナーはソフィアのやや後方に立って、二人のやりとりを厳しい顔つきで眺めていた。
ノアがこめかみを手で押さえ、言っても聞かない妹への対応をどうするか悩んでいると、執務室の扉が開いた。
扉の開く音に反応して振り返ったソフィアが、入室してきたメイド姿のアリスへ声をかける。
「アリスさんそっちはどうだった……って、聞くまでもなさそうだね」
アリスの浮かない顔を見て、ソフィアは早々に天使たちの協力が得られなかったことを悟った。
「うん、ダメだった。エルザとティナが不在だったってのもあるんだけど、ここ数日の間に天使の基地が壊滅状態になったみたいで、それの対応で忙しいってまともに取り合ってくれなかったの」
「そんなぁ……」
アリスの報告を聞いてソフィアが肩を落とした。
それを横目にノアがアリスへ確認をする。
「天使たちのところにも行ってたのか」
「はい。天使に協力してもらわないとシヴァを追えないと思って」
「タイミングが悪かったな」
「ギルド長は天使の基地が襲われたことを知っていたんですか?」
ノアはなんと答えるべきかわずかに悩んでから頷き、正直に伝えることを選んだ。
「まあな。天使たちが”歪獣”に襲われたという情報は共有してもらっていたんだが、まさかここでシルヴァリオが単独で動くとは思ってもいなかった」
ノアは一段声を低くしてさらに続ける。
「エルザ様を含めて多くの天使が返り討ちにあった。死者も出ている」
「エルザ様が返り討ちに……?」
「そうだ。”歪獣”の強さが異常だというのは前からわかっていたことだが、正直エルザ様が負けたのはこちらとしても想定外だ。すでに聖女たち聖教会の協力を得て治癒を終えているらしいが、体制を立て直すには時間がかかるだろうな」
ティナとケネスが互角の戦いを繰り広げている場面を見ていたアリスたちに動揺が走る。ティナの先輩にあたるエルザが、ケネスと同格であるはずのグラードに負けたことが信じられないのだ。
「まあだからこそ討伐のために計画を練って準備をしてきていた訳なんだが……ここでシルヴァリオを失った場合の計画への影響と、助けに向かって”歪獣”と戦うリスクを天秤にかけると、ギルドの長としてはシルヴァリオを助けに行くという選択はできない。わかってくれ」
ノアは個人ではなく、あくまでギルド長という立場から淡々と意見を告げた。
その冷たいともとれる物言いにソフィアは眉をひそめる。
「ギルドとは関係なく私たちが勝手に行くならいいよね?」
「いいわけあるか。お前がなにを考えてるのかは想像がつく。どっちもギルドの所有物だぞ。許可できない」
「船は私のでもあるじゃない!」
「船だけあっても居場所がわからなければ意味がないだろ」
「そうだけど、そうなんだけど、それじゃあお兄さんを探しにいけないじゃん、うぅ~……」
唸り声をあげていたソフィアも次第に諦めたように口を閉ざした。
シヴァがいなくなってから時間だけが過ぎ、事態が全く好転しない。そのことでアリスたちに暗い影が落ちる。
そんな時、コンコンと執務室の扉を叩く音が鳴った。
みんなの注目が入り口へと集まる中、聖教会の騎士服に着替えて身なりを整えたシヴァが部屋の中へと入ってくる。
「ソフィアの声、部屋の外まで聞こえてたぞ」
「ほぇ……?」
シヴァが苦笑気味に言うと、ソフィアは急にシヴァが現れたことに理解が追いついていないのか、呆けた声を上げた。
「急にいなくなって悪かった。全部終わったからもう探す必要はないよ」
扉の近くにいたアリスが真っ先にシヴァに歩み寄って声をかける。
「終わったってどういうこと? ソフィアちゃんからグラードをその……倒しに行くって聞いたんだけど」
「うん、その件でギルドに報告しないといけないって思ってここに来たんだ。戻ってきたら家に誰もいなかったから、みんなどこに行ったのかと思っていたけど、丁度良かったかな」
シヴァは部屋の中を見回して主要な人物が揃っていることを確認してから、ノアへと視線を移した。
対するノアはシヴァの体を上から下へと一通り眺めて安堵の息を吐く。
「お前が生きて戻ってきてくれてまずは一安心だ。前みたいに大きな怪我もないようだしな。それで”歪獣”と戦ったということだが、その結果はどうなったんだ」
「あいつを……グラードを討伐した」
ノアは一瞬目を見開き、すぐに椅子に座ったまま前のめりの体勢になって尋ねる。
「まて、それはお前一人で倒したということか!?」
この問いにシヴァはためらいがちに頷いて答える。
「死体は残らなかったから倒したって証明はできないけど」
一人でグラードを倒したことを淡々と報告するシヴァを、アリスたちは呆然とした顔で見ていた。
そんな中でノアだけは平静を取り繕ってシヴァとの会話を続ける。
「それは問題ない。こちらで討伐したことの確認調査をさせてもらう。ちなみにどこで戦ったんだ」
「北の……あれはなんて町だったんだろう? 口頭だと上手く説明できないから、明日戦った場所まで連れて行くってのでいいですか。今日はちょっと疲れているので」
「それなら明日あらためて詳細を報告してくれ」
「わかりました」
シヴァが報告を終えると、息遣いが聞こえてきそうなほど執務室が静かになった。
アリスたちがシヴァになんと声をかけようかと悩む中、ソフィアが思わずといった感じで声を上げる。
「あれ、その格好……?」
シヴァが転移する直前まで一緒にいたソフィアが、ここでシヴァの格好の変化に気づいた。
「ああ、あの執事服は戦闘中にボロボロになって。プレゼントしてくれたのにダメにしちゃって悪い」
「それは全然かまわないんだけど……。ねぇ、もしかしてサーベラスって人を助けにいったの? 私は会ったことないからわからないんだけど、アリスさんたちがそうじゃないかって話してて」
サーベラスの名前が出た瞬間、シヴァは目を細めて唇を固く引き結んだ。
「……あいつなら死んだよ」
シヴァを抜かしてこの中で一番サーベラスとの付き合いが長かったライナーが真っ先に反応する。
「死んだって、そんな……」
「あいつ、グラードと一人で戦ったみたいでさ。それで、俺が向かったときにはもう……」
みんなと視線を合わせないようにシヴァはうつむき気味に体を反転させる。
「俺、先に宿に戻るよ。悪いんだけどしばらく一人にしてほしい」
そう言って部屋を出たシヴァの背中を、誰も追いかけることができなかった。
アリスたちはヴァイオレット家に戻ると、当初の予定通り料理を作り始めた。
最初はそんなことしてる場合じゃないとアリスとライナーが反発していたが、セレンが二人を説得した。
こういうときはあえて普段と変わらないことをすることで精神を落ち着ける必要があると。そこでまずは気分転換に料理を勧めたのだ。
セレンから見てアリスとライナーは見るからに気分が落ち込んでいた。前者はシヴァへの対応をどうすればいいのか悩んでいて、後者はサーベラスを亡くした喪失感から。サーベラスと関わりのないソフィアはそんな二人をどう励ませばいいのかと部屋の中をウロウロとしていた。
そんな状況を見かねたセレンが率先して料理を作り始めた。ベルは意図を察してセレンの隣に並び、一緒に手を動かす。
普段料理をしないライナーも渋々といった感じでイモの皮むきを手伝い、アリス、ソフィアも参加してみんなで黙々と手を動かした。
それから時間は流れ、あとは料理をテーブルに並べるだけという頃。
「それどうしたの? もしかしてお兄さんの?」
アリスの手元には丸パンに具材を挟んだサンドイッチが入った籠と、木製の水筒が用意されていた。
「うん。たぶんなにも食べてないだろうし、シヴァのところに行ってくるよ」
「いまは一人にしてあげた方がいいんじゃないかな。なんなら今日はアリスさん、うちに泊まればいいし」
「ありがとう。でもやっぱり心配なの。それにね……きっとシヴァは強いから、本当に辛いときでも一人で背負い込んじゃうと思うんだ。だから少しでも私がそれを一緒に背負えたらなって……あ、でも本当に一人にしてほしそうだったら、その時はお願いね」
「そっか、わかったよ。でもそうならないように祈ってる。頑張って」
二人の会話を近くで聞いていたセレンも優しくアリスに話しかける。
「こっちのことは気にしないで良いわよ。死者を悼む方法は地域や人によって様々なの。静かに祈りを捧げて送り出したり、あえて思い出を楽しく語り合ったり。冒険者だと後者のやり方が多いって聞いたから、あたしたちは美味しい料理を食べながらサーベラスとの思い出話でもしてるわ。だから静かに送り出すのはあなたたち二人に任せる」
「……ありがと」
ソフィアとセレンに背中を後押ししてもらったアリスは、すぐに籠と水筒を持ってヴァイオレット家を出た。
アリスを見送った後も食事の準備を進め、リビングの大きなテーブルに料理を並べ終えたセレンたちは、思い思いの場所に座って料理に手を付け始める。
「ねえ、サーベラスってどんな人だったの?」
セレンの話をアリスと一緒に聞いていたソフィアが、さっそくサーベラスのことを話題にあげた。
「そうねぇ」
「それならオイラが話すよ。この中だとオイラが一番サーベラスとの付き合いが長いし」
サーベラスの死を聞いてから落ち込んでいたライナーの気持ちが、ここでほんの少しだけ前向きなものに変化する。
「アニキが十歳ぐらいのときに近所に住み着いていた魔犬を使い魔にしたのがサーベラスで、それから八年ぐらいの付き合いになるんスけど――」
宿に戻ってきたアリスは部屋の扉に手をかけたところで、開けるかどうかわずかに逡巡して立ち止まった。
やっぱり一人にしてあげた方がいいのかな。
そう思い悩むアリスだったが、セレンたちに背中を押してもらったことを思い出し、意を決して静かに扉を押し開いた。
部屋の中に入ると、窓辺から差し込む夕日が室内を優しく照らしている。二つあるベットのうち、窓に近い方に腰をかけてぼうっと外を眺めている背中があった。
わずかに見える横顔は逆光のせいではっきりとした表情がうかがえない。そしてどこか言葉をかけることを躊躇わせる雰囲気が漂っていた。
その光景を目の当たりにして、アリスは痛む胸に手を当ててぎゅっと抑えた。
どこか遠慮気味に扉が開き、そしてゆっくりと閉じる音がした。
いつもの俺ならすぐに振り向いて笑顔のひとつでも見せただろう。だけどいまはそんな簡単なことができなかった。
ベットの端に腰掛けて、オレンジ色に染まる夕空が夜へと移ろいゆく様をただただ眺めていた。
様子を伺うように一歩一歩静かに近づいてくる足音が耳に届いた。俺の視界に入らないギリギリのところで音が止まる。
そこでようやく俺は視線を移して来訪者を視界に収める。
「ごめんね。一人になりたいって言ってたのに、やっぱり気になっちゃって」
籠と水筒を片手に持ったメイド姿のアリスが、俺を気遣うようにぎこちない笑みを浮かべていた。
「いや、こっちこそ宿から追い出すようなこと言ってごめん」
「ううん、それは大丈夫だよ。それにソフィアちゃんが、なんなら今日はうちに泊まればって言ってくれてたし」
ソフィアたちにも気を遣わせちゃってるのか。
申し訳ないなと思う反面、ありがたいとも思う。自分のことを気遣ってくれる仲間がいるんだという当たり前の事実に、胸の中がじんわりとあったかくなった。
「……ソフィアたちはどうしてる?」
「みんなは今頃ソフィアちゃんの家でサーベラスの思い出を話してると思う。セレンがね、思い出を語りながら死者を送り出す方が冒険者らしいんじゃないかって」
「そっか。たしかにその方がサーベラスも喜ぶかもしれないな」
俺は一人で気持ちの整理をつけようとしていたけど、もしかしたらセレンの言うように誰かと思い出を語ったり、弱音の一つでも吐いたほうがいいんだろうか?
だけど思い出話をできるような気分でもないし、弱いところなんか見せたくないとも思ってしまう。
それでもアリスが来てくれたことを嬉しいと感じるのは、本当は一人で居たくなかったからなんだろうか?
自分の気持ちさえわからなくなって、素っ気ない返事をしたまま言葉が続かない。
「ねえ、もしご飯まだだったら一緒に食べない? 向こうで作ってきたのをいくつか持ってきたんだ」
そう言ってアリスは持ってきた荷物を胸の前まで持ち上げた。
「……まだそういう気分じゃなくて」
「そっか。じゃあここに置いておくから、もしお腹すいたら食べてね」
「ありがとう」
アリスは部屋の中央にあるテーブルに荷物を置いて手ぶらになると、俺の近くまでやってきて呟く。
「隣いいかな?」
腰の位置を横にずらして座れる場所を作ると、アリスはスカートを手で抑えながら遠慮気味に俺の右側へと腰を下ろした。太ももの上に置いた両手はスカートを小さく握って放してとどこか落ち着きがない。
時折腕や脚が触れることはあっても、なかなか会話が始まらない。俺も、たぶんアリスも話のきっかけがみつからなくて。
それからしばらくの間、気まずい沈黙が続いた。
自分の行動を振り返ってみると、みんなに迷惑をかけて、まだそれについて謝っていなかったことに気がつく。
「ごめん」
「ごめんってなにが?」
「勝手に一人で行動して。心配かけて」
隣のアリスが見れなくて、太ももに肘を乗せる形でうつむいた。
「うん、すっごく心配したんだよ。もう二度と会えないんじゃないかって思って」
「……ごめん」
「もういいよ。こうしてちゃんと帰ってきてくれたから」
アリスの声は優しくて、怒るというよりも甘く叱る感じで許してくれた。あとでみんなにも謝らないとな。
一度とっかかりが掴めると、次から次へと言葉が溢れてくる。
「本当はさ、俺一人の力でグラードを倒したわけじゃないんだ」
「どういうこと?」
「あいつが……サーベラスが死んで、でも魂だけはまだ残ってて……その魂が俺の中に入ってきたんだ」
「サーベラスの魂がシヴァの中に?」
「そう。悪魔の契約、ずっと昔に交わした約束があったんだ。もしサーベラスが死んだら俺が魂を取り込んでやるって、そういうやつ。だけどそんなこと起こるなんて思ってなかった。ずっと、ずっと一緒にいるってなんの根拠もなく信じてた。もしかしたら俺は覚醒できないんじゃないかって思ってたけど、だけどあいつが俺の中に入ってきたときに覚醒して、たぶん魔王だった頃よりも強くなって……きっと俺一人じゃ倒せなかった」
ぜんぜん整理のできていない話を、アリスは途中で止めたりせずに相づちを打ちながら聞いてくれる。
「戦いに身をおいているんだからいつ死んでもおかしくないって、理解してたはずなんだけどな……」
話をしているうちに唇がこわばってうまく口が動かせなくなる。声も少しずつ震えていった。
「人間なら、大切な誰かを亡くしたときって悲しくて涙が出るものなんだろ? それならどうして……俺は泣いてないんだろうな。いつも一緒にいた。一緒にいるのが当たり前だったんだ。心の奥に穴が空いたような、そんな感覚があるのに……」
俺が元魔王だから? 純粋な人じゃないから? それとも――
「俺にとってあいつは大切じゃなかったってことなのかな」
「ううん、そんなことない」
優しく否定する声に引かれて、うつむいていた顔を上げた。
アリスは立ち上がって俺の前に立つと、顔の高さを合わせるように前屈みになった。
「私はね、涙の数と悲しみの大きさは必ずしも一致するわけじゃないと思うんだ」
そっと差し出された両手が俺の左右の頬に触れて包みこまれる。真っ直ぐに見つめてくる琥珀色の瞳は潤んでいて、普段よりもいっそう綺麗に映った。
「だってこんなにも心を痛めてる。こんなにも失ったことを悔やんでる」
アリスの右手が頬から首を伝って鎖骨へ。そして胸元を通り過ぎ心臓の上で止まった。
「こんなにも――想ってる。それって大好きで大切だったってことじゃないかな」
見ている人を安心させる、そんな優しい眼差しからこぼれた雫が頬を伝って胸元に小さな染みを作った。
そんなアリスの顔を見ていると、胸の奥からこみ上げてくるものを我慢できなくなりそうで視線を外してうつむいた。だけど喉の奥や鼻先に感じる熱と痛みだけは抑えることができなくて。
頭の後ろに手を回されて、そっと抱き寄せられた。
服越しに柔らかな温もりと甘い香りを感じて、こわばっていた体からふっと力が抜けていく。まぶたを閉じてそのままアリスに寄りかかる。
「俺さ、あいつにちゃんとありがとうって、いままで支えてくれてすごい助かってたって、最後に伝えることもできなくて……俺はあいつにとっていい主だったのかな……」
「大丈夫、サーベラスは絶対にシヴァのことを最高の主だって、そう思ってたよ。それにきっといまからでも間に合うと思うな。だってサーベラスはシヴァの中にこれからもずっと居るんだから」
耳元に感じる柔らかなささやき声が、心を優しく愛撫するように後悔をまるごと洗い流してくれたような気がした。
「そうかな……」
「うん、きっとね」
アリスに言われるまま心の内側に意識を向けると、サーベラスの幻影がすました笑みを作ったような気がした。
『私が死んだからといって泣きそうになるなど、シヴァ様らしくありませんね』
そんな幻聴さえ聞こえてくるようで。
本当にお前ってやつは……
でもそうだな、涙はいらない。だってそうだろ? お前の前で泣いたことなんかないんだから。きっとお前が理想とする俺はいつだって前を向いて笑ってる。
アリスからゆっくりと体を離す。まだ心配そうな顔をしているアリスを安心させるように、少し不器用だったかもしれないけど、精一杯笑ってみせた。
なあサーベラス、最後にこれだけは言わせてくれ。
ありがとう、それと――さよなら。
戦場でいくつもの死を見てきた。それに伴う悲しみも知っている気になっていた。
だけどこの日、俺は初めて本当の意味で大切な人を失う痛みを知ったんだ。
第5章 完