131 主従の絆 ~目覚めのとき~
どうしてサーベラスの声が聞こえたのかはわからない。魔石に魂が宿るなんて、そんなこといままで一度も考えたことがなかった。
もしかしたら精霊の里でオーロラが魔石に精霊を宿したようなことを、あいつは自力で成し遂げたのかもしれない。だけどまあ理由なんてどうでもいい。
指先で触れていた魔石をたぐり寄せて強く握り締めた。
すると、極限にまで引き延ばされた意識の狭間で、サーベラスの記憶が一気に流れ込んでくる。
それは俺とサーベラスが初めて出会い、戦い、あの契約を交わした日のできごと。
まだ魔王と呼ばれる前。覚醒もしていなかった頃の俺は、不意に出会ったヘルハウンドの群れとそのまま戦うことになった。
戦いの結末は俺の勝ち。だけど一体だけしぶとく生き残ったやつがいた。
――お前強いな。気に入った。俺の従者にならないか?
俺の足元で頭を垂れ、誘いに応じたヘルハウンドに力を分け与えてサーベラスと名付けた。
そいつは人型に変身すると、なぜか力を貰ったお返しはどうすればいいのかと聞いてきた。
――お返し? いらねーよそんなもん。言っただろ、気に入ったって。
それでもしつこく食い下がってくるから、あのときの俺はあまり深く考えずにサーベラスの提案を受け入れた。
――わかった。それじゃあもしお前が死ぬようなことがあったら、そのときはお前の魂は俺のものだ。他の誰にもやらない。喰らって、取り込んで、俺の糧にする。
『あの日交わした悪魔の契約。本来であれば忌まわしき呪いだったのかもしれません。ですが私にとってはシヴァ様と交わした主従の絆であり、誓いです』
何かを得た直後にそれを失うなんてこと、普通は考えたりしないだろう。だからあのときの俺はサーベラスがいなくなるなんてことは考えていなかったし、いままでも契約が果たされることはないと信じて疑わなかった。
それがいま、俺の意志に反して果たされようとしている。
『どうかこの魂をお役立てください』
サーベラスの魂が俺の中へと移り終わり、握っていた魔石が粉々に砕け散った。
心臓とは異なる何かがドクンと大きく脈打つ感覚。魂の鼓動ともいうべき衝撃が全身を駆け巡り――目覚めのときが訪れた。
枯渇していた魔力が体の奥底から際限なく溢れてくる。限界まで膨れ上がった水袋が内側からはじけるように、体の中で暴れまわっていた魔力が外へと勢いよく噴き出す。
虹色に可視化するほど濃密な魔力は物理的な衝撃をもって周囲のことごとくを吹き飛ばした。
さなぎから蝶へと羽化するように、強力な魂を受け入れられる器へと肉体が作り変えられる。
吹き荒れる魔力を完全に制御下に置き、虹色の嵐を止めて地面へと降り立った。
「……覚醒したのか?」
前方から声がかかり、そちらへと視線を向ける。
どうやら覚醒時の余波でグラードを遠くに吹き飛ばしていたようだ。
そのグラードだが、胸元にあいた大きな穴を瞬時に再生させると、牙を剥きだしにして笑みを深めた。
「髪と瞳の色だけじゃない。全身の肌も褐色に染まっていて、まるで魔王だった頃のお前を見ているようだ」
グラードに言われて自分の体が褐色に変わっていることに気づく。さっき命がけで攻撃したときには右手だけ色が変わっていたけど、いまは全身がそうなっていた。
覚醒したことで魔王としての力に耐えられる肉体に変わって、それが見た目に現れたってところか。
それに体中にできていた傷も癒えているし、体力も十分に回復している。これならグラードとの戦いを続けられそうだ。
「俺が覚醒したらお前にとっては負ける可能性が上がるだけだろうに、どうしてそんなに嬉しそうなんだ? まるで俺が覚醒するのを待っていたみたいじゃないか」
「待っていたみたい……じゃない。待っていたんだ、この瞬間を!」
三つ首の巨体が一瞬視界から消え、目の前で凶悪な爪を振り下ろしている。
だがさっきまでの戦いで感じていた張り詰めた緊張はなく、不思議と落ち着いていた。
迫りくる死の刃を冷静に見切り、手を伸ばして受け止める。
グラードの一撃は鋭く、重い。だが俺を切り裂くことも、潰すこともできなかった。その代わりに衝撃に耐えられなかった足元の地面がひび割れてわずかに沈み込む。
連続で振るわれる攻撃のことごとくをその場から動かずに防ぎ続けた。
攻撃が当たらないことに業を煮やしたのか、グラードは俺から距離をとるように後方へと下がると、真紅の火炎弾を三つの口から連続で吐き出し続けた。
まるで火の雨が横殴りで飛んできているみたいだな。
俺は”流星剣”の体さばきを繰り返し、雷光のごとき速度と軌跡でもって火の雨を抜けて一瞬の内にグラードへと肉薄した。
覚醒したことで以前とは比べ物にならない精度で肉体の強化、制御ができるようになった。思い描いていた理想の動きがすべてそのまま現実となる。
目を見開いて驚いているグラードの顔面を魔力を込めた拳で思いっきり強打すると、それだけで首から上が爆散した。かみついてくる左右の顔も同じように殴り、蹴って破壊する。
このまま胴体もと思ったところでグラードの方に変化があった。
三つの首を失った魔犬は一瞬で黒い粘液状に姿を変えて全方位に飛び散った。
「これは?」
俺の方に飛んできたものは結界で防いだが、周囲には極小の黒い粒が大量に浮かんでいる。
その極小の黒い粒の一つ一つから白い閃光が溢れ出て、爆発が連鎖した。
かなりの大爆発が起きたけど、それでも俺の結界を突破できるほどじゃない。それはグラードも分かっているはずだ。
「自爆……ではないよな。そうなると」
煙が視界を埋め尽くし、その奥で強力な魔法が構築されていくのを感じる。
つまりこれは目くらましと時間稼ぎ。
風を起こして煙を払うと、天使と見間違うほど美しい存在が遠くの空に浮かんでいた。
この距離だと聞き取ることはできないが、なにかの詠唱をしているらしい。俺にはノンキに唱えてんじゃねーぞと叫んでいたというのに。まあそんなことを気にする余裕もないほど本気だということだろうけど。
俺はいま光の格子で組み上がった球体状の牢獄に囚われている。きっとこれも魔法の一部なんだろうな。
格子の目は細かく、隙間から抜け出ることはできそうもない。転移封じの結界はまだ健在だから抜け出すにはこの格子を破壊しないといけない。
触れた瞬間にダメージを喰らう気もするが、それは覚悟していれば耐えられるはずだ。いまの俺ならそのダメージで動けなくなったり、ましてや即死することはないだろう。
光の格子の棒を二本、左右の手でそれぞれ掴んだ。予想に反して手から腕にかけて痛みはなく、多少しびれる程度。
余裕の笑みを浮かべながら腕を左右に広げ、光の格子を力任せに破り、できた穴から堂々と歩み出た。
ほんの少しグラードが動揺したようにも見えたけれど、距離が遠いため正確なところはわからない。
突然、上空が眩しく輝きだした。
見上げるとそこには巨大な光の剣が出現していた。断罪の聖剣と呼ぶのが相応しいだろう威光を放っている。その刃が俺に向けられ、いまにも落ちてきそうだ。
なるほど。光の格子に閉じ込めて、身動きがとれない相手をこれで切り裂く魔法だったのか。
グラードが詠唱を終えると同時、牢獄を抜け出た俺に向かって上空の聖剣が射出された。
元々避けられないようにと光の格子で牢獄を作っていただろう、威力重視の聖剣。これを躱すことはそう難しくはない。
だが俺はあえて避けず、右手を空にかざして受け止めた。光の格子を破ったときとは比べものにならない激痛が右手を中心に全身へと駆け巡る。だが耐えられないほどじゃない。
俺は涼しい顔をしたまま右手に魔力を集めて”アビス・ブレイク”を撃ち放った。極細の黒い閃光が聖剣の真芯を貫くと、内側から爆発して跡形もなく消え去った。
「はっ……、ははっ、はーっはっはっは! いまのを真っ正面から受け止めるか。本物の化け物だなてめぇはよぉ!」
気が狂ったのか、それとも最初から狂っていたのか。グラードは狂乱の声をあげて俺に向かってくる。
いつのまにか天使から普段の獣の顔に竜の上半身、人の鎧を穿いた下半身に戻っていた。
空中から打ち込んできた大振りの殴打を手の平で受け止め、至近距離でにらみ合う。
「化け物はお互い様だろ」
「はっ、ちげぇねぇ」
肉弾戦を挑んできたグラードを相手に、俺も魔法を封じて応じる。
攻防が十を終えたところでグラードから笑い声が消え、百を終えたところで笑みが消え、千を超えたあたりで勝負がついた。
今度は俺がグラードを見下ろしている。
地面に膝と両手をついているグラードはいまにも倒れそうなほど弱って見えた。
「はぁー、はぁー……ここまで差が出るとはな」
ここから逆転する手段は無いだろうに、グラードはいまだにギラついた闘志を瞳に宿して笑っている。
「これで終わりだと思ったか? まだだ。まだ終わりじゃねーぞ」
瀕死の状態で強がってみせるグラードが、どうしてか覚醒前の自分と重なって見えた。
このままグラードにトドメを刺すのはたやすいだろう。
だけど……それで本当にいいのか?
あいつが、サーベラスが理想とした魔王シヴァはそんなつまらない戦いをするような男なのだろうか?
――答えは否だ。
本当ならこんな選択間違ってる。戦いの中でそんな余裕ぶった素振りを見せたり、勝てる状況をわざわざ捨てるなんてあり得ない。
だけどこの戦い、この一戦だけはそんな間違いこそが正しいんだと自分に言い聞かせる。
雄々しく、凜々しく、そして不敵な笑みを浮かべてグラードに声をかける。
「次の一撃にお前のすべてを込めろ。それを真っ正面からたたき潰してやる」
「なんだおい……もしかして待ってくれんのか?」
どうやらこちらの意図に気づいたらしい。
転移封じの結界を解除したグラードはゆっくり立ち上がると、逃げるのではなく俺に挑むような目を向けてきた。
「ああそうだ。お前の準備が整うまで待ってやる」
これは俺がサーベラスを取り戻す前に交わしたやりとりの再現。ただし立場はまるで逆だ。挑戦者は俺からグラードに、そしてそれを受けるのはグラードから俺に入れ替わっている。
だからグラードが俺と同じ選択をしたのは偶然ではなく必然だったのかもしれない。
「ふっ、ふはっ、あーはっはっ! 本当にお前ってやつは。いいぜ、俺のありったけをてめぇにくれてやる! ああそうだ。これが、これこそが俺の追い求めた魔王シヴァのあるべき姿だ!」
膨大な漆黒の魔力がグラードの右手に集まっていく。命を代償として、限界を超えて際限なく。
たとえこの戦いがグラードの勝利に終わったとしても次はない。それこそ俺がしたように二重覚醒でも起きない限りは。
おそらくグラードはそれを承知の上でいまも命を燃やしている。俺に勝つ、ただそれだけのために。
グラードは腰を落として左手を前へと突き出し、右腕を大きく後ろへと引き絞った。
「それでいいのか?」
「いいに決まってんだろ。これは俺がいままで見てきた中で間違いなく最強の一撃だ。この場面でこれ以外を選ぶなんてありえねぇよ」
「……そうか」
突然贈られた称賛に、不覚にも口元が緩みそうになった。
こいつが剣神流の神髄を理解しているとは思えないが、数多くの戦闘経験からそれに近しい技術を得ていてもおかしくはないし、”深淵”も扱える。それなら同じ技が使えるという前提で考えるべきだろう。
ならばこちらも同じ最強で迎え撃つだけだ。ゆっくりと腰を落とし、左手を前に突き出し、漆黒の魔力を纏わせた右の拳を弓につがえる矢のように引き絞った。
どちらから仕掛けるかといった駆け引きは必要ない。グラードの準備が整うその瞬間を待つだけだ。
「――いくぜ!」
聞き取ることの難しい獣じみた咆哮を上げてグラードが動いた。
死を具現化したかのような黒い極点が目前に迫ってくる。仮にこれが直撃したらいまの俺でも死ぬだろう。
だが退く、逃げるといった選択肢は存在しない。できることはただ前へと進むだけ。
俺は自ら死の淵へと飛び込んだ。
グラードと視線が重なる。互いに見ているのは相手だけ。
拳を振り抜いたのは同時、そして――黒い衝撃がぶつかり合う。
激突は一瞬、それこそ刹那の時間で終わった。
俺は腕を振り抜いた体勢から、背中を真っ直ぐ伸ばして体ごと後ろに振り返った。
グラードと衝突した地点まで少し距離があったけれど、そこまでゆっくりと歩いて戻る。
途中で進路を少しだけ左へと修正して、ギリギリ人の形をしたモノが落ちているところへと足を運んだ。
グラードは右上半身を失い、頭と体がわずかに繋がっているような状態で仰向けに倒れている。
「まだ生きてるのか?」
「まだ……な。だけど再生する魔力もねーからあと少しで死ぬさ」
「そうか」
本当にさっきの一撃ですべての魔力を使い切ったのだろう。グラードが自分で言っていたように、しばらく待っていても再生は始まらなかった。すでに体の端の方から灰になって崩れ始めている。
こいつが死ぬまで待つような義理はない。とどめを刺すため、グラードの頭部に手を向けて魔力を集める。
「ちょっと待て。お前に伝えないといけないことがある」
「伝えないといけないこと……?」
「ああそうだ。封印されたお前の、魔王の体のことだ」
俺がそれを探しているなんて一度も言っていないのにも関わらず、魔王の体という言葉がグラードの口から出てきた。
さすがにこれを無視することはできない。
集めていた魔力を霧散させて腕を下げ、視線で続きを促す。
「遥か上空に浮かぶ島があるんだが、グレイルがそこに持っていった」
こいつの性格からしてこの状況でわざわざ嘘をつくことはしないだろう。どこにあるのか不明だったけど、まさかこんなところで判明するとは思いもしなかった。
「空に浮かぶ島か……どうしてそれをいま俺に伝えたんだ?」
「俺に勝ったら教えてやるって約束だったからな」
「お前とそんな約束を交わした覚えは――」
一つの仮説が頭の中に浮かび上がり、思わず言葉を飲み込んだ。
「……もしかしてサーベラスか?」
グラードは意味深な笑みを浮かべるだけで肯定も否定もしなかった。だけどそれ以外にはありえない。
あいつがどうしてグラードと戦ったのか理由がわからなかったけど、そういうことだったのか。
「じゃあな。負けたことは素直に悔しいが、全力で戦えて俺は満足だったぜ」
一方的にそう言い残して、俺が手を下すまでもなくグラードは灰となって消え去った。
念のためグラードの魔力反応が残っていないか周囲を調べて、完全に消滅したのを確認したところで魔人化を解除した。
手のひらや腕、上半身をざっと確認するとちゃんと元の姿に戻っていた。自分じゃ見えないけど髪と瞳の色も戻っているはずだ。
流れ出た血や土埃なんかで全体的に体が汚れているけど、それは中立都市に戻ってから洗えばいいだろう。
周囲に目を向けると戦いの影響で一つの町がこの世から消え去っていた。見渡す限り荒れた大地が続いていて、遠くの方だけが雪で白く染まっていた。
あちこちに残っている火種から煙が生まれて空へと昇っていき、蒼穹にくすんだ染みを作っている。
誰もいない荒野でただ一人、空を見上げて小さく勝利を宣言した。
「……サーベラス、勝ったぞ。俺とお前で」
ここにはいないサーベラスへと届くように、強い想いを込めて。