君と梅雨
数日続く雨に、街には薄暗い霧が立ち込めていた。さながら倫敦のようだ。街を行く人々の雰囲気もどこか薄暗い。僕は明かりの点いていない部屋の窓から外を眺めていた。長雨は昔の記憶を蘇らせる。君と過ごしたあの日々が遠く昔のことのようだ。ふと目の前を横切った赤い唐笠に君の姿を重ね、自然と視線が吸い込まれた。こんなところに君がいるはずもないのだ。この世界から消えてしまっているのだから。もう10年も経っているのに、僕はまだ君のことが忘れられないらしい。乾いた笑い声が雨音にかき消された。
「ご主人様、また明かりもつけずに。お手紙が届いております」
「すまないな」
ランプに火を入れながらこちらに微笑みかける彼女は、君の忘れ形見だろうか、それとも君の呪縛だろうか。託されたときは幼い少女だったというのに、もうこんなに大きくなって、君に似て美しい女性になった。そろそろいい歳にもなって僕に縛り付けているのももったいないくらいだ。
「それとご主人様。今日はお願いがあって参りました。よろしいでしょうか」
急にかしこまった彼女の顔は、本当に君にそっくりだ。まるであの日の君だ。君が消えてしまう直前の。窓から流れ込んでくる雨音が一層大きくなった。
「今日はお願いがあって参りました」
その日も大雨の日だった。僕の屋敷をびしょ濡れになりながら訪ねてきた君は、唐突にそう切り出した。花魁に似合わない口調は、君が良い所の出であることを表していて、僕はそれを知っていた。それを周りに隠していることも。自惚れではないと思いたいが、僕は君の特別であると自負していた。
「まずはその濡れた服を着替えたほうがいい。話はそれからだ」
屋敷に住みこみで働いていた使用人に彼女の着替えを頼み、応接室で待った。やることもなく窓の外を見ても相も変わらず延々と雨が降っていた。
「遅くなりました」
花街の彼女とは、同一人物だとは思えないような姿で君は現れた。借りた真っ白なワンピースに、少し恥ずかしそうに入ってくる君を見て、胸が高まった。それでもほとんど人に頼ることがなく、花街では強い女性として通っている彼女の頼み事。浮ついた精神で聴くのは失礼にあたる、気を引き締めるために生ぬるいお茶を喉に流し込んだ。
「それで、お願いって何だい?」
応接室に備え付けられたソファーに向かい合って座ってそう切り出した。彼女は口を噤んだまま、何かを言おうとしているが言葉にならないようだ。雨音だけがこの部屋を支配していた。僕から何かを聞いた方がいいのだろうか。僕は彼女のお願いを知っている、しかしそれを僕から切り出してもよいのだろうか。彼女はポケットの中から小さなロケットを取り出した。それを開いて僕の前に置く。僕に見ろと言っているようだ。花街での彼女ではなく、今のありのままの彼女と、幼い子どもが笑顔で写った写真。僕は知っている。あの街の掟を。
「この子は私の娘です。私は間違ってしまったのです。この人の子が欲しいと、この人ならば、と思ってしまった人が現れてしまったのです。それは私たちにとっての禁忌。私はその人に黙ったままこの子を産んでしまいました。今までもう5年でしょうか、隠してきたのですがついに店主に見つかってしまいました。私はもうあの街にはいられない。ずっと遠くへ行こうと思います。しかしこの子まで連れていくわけにはいかないのです。お願いします。この子を預かってください」
言い終わった彼女は、張り詰めていた糸が切れた様にソファーに体を預けた。彼女に薄めの緑茶を差し出し、僕は少し離れた事務机に座った。
「君はいつかその子を迎えに来るのかい?」
「どうでしょうか、きっと無理でしょうね」
「駄目だ、必ず迎えに来てほしい。それなら本当の意味で預かろう」
「なら、それでお願いします。明日、あの子をここに連れてきます。そのまま私は旅立ちます」
すっと立ち上がって彼女は玄関へと向かう。用件だけ伝えて帰るつもりだろうか。明日、旅立つのなら、その準備もしなくてはならない、娘の荷物もまとめる必要もあるだろう。廊下の柱時計を見ると20時を過ぎたころ。真っ暗とまではいかないまでも雨が降っていることもあり、独りで帰すのは気がかりだった。
「送っていこうか。この雨だ」
「いえ、大丈夫です」
「なら傘を貸すから差してくれ。僕が……気が気じゃない」
予備で置いていた真っ赤な唐笠を無理やり手渡し、外へと押し出した。
「ならば、お借りしますね」
そういって頭を下げ、君は街の中に消えていった。まるでもう君に会うことができないような不安に襲われたが、少なくとも明日、もう一度会えるのだ。その日、僕はなかなか寝付けず、寝ても君がいなくなる悪夢にうなされた。
次の日、いつもよりもだいぶ遅い時間に起きると、使用人たちが玄関に集まっていた。何事だろうかと近づくと、円の中心に5歳くらいの女の子が蹲っていた。その子は僕の顔を見ると両手に握りしめていた手紙と、見覚えのあるロケットを僕に渡してきた。つい昨日、君が見せてくれたロケット。それはこの子どもが彼女の娘である証明だった。昨日の不安が再び襲ってきた。どこか遠くへ……あの時、その言葉に何か違和感を感じたのだ。
「まさかっ……」
目の前にいる子どもから手紙をひったくり焦って開いた。そこには君の美しい文字がつづられている。「私は嘘をつきました。もうあの子に会うことはできません。あなたにももう会うことは無いでしょう。その子のこと、どうかよろしくお願いします」
たった一枚の手紙。それを読み終わる前には無意識に街へと飛び出していた。後ろから使用人たちが呼び止めているのが聞こえたが、迷わず無視した。君が行きそうなところは片っ端から周る。しかしどこにも君の姿はなかった。一日中街中を彷徨い、いつしか陽も暮れ始めていた。もうこの街にはいないのだろうか。諦めて屋敷に向かう道を歩いていると、ふと雨でもないのに真っ赤な唐笠を指している女性を見つけた。顔は見えなかったが間違いなく君だと思って駆け寄ろうとした。
「待ってくれ、行くなっ!」
ふらふらとおぼつかない足取りで女性は猛スピードで走っていた速馬車の正面に進んでいった。周囲から悲鳴が聞こえ、大きな衝突音とともに唐笠は宙を舞った。血まみれのその傘は僕の目の前に落ち、我が家の家紋が血で染まっていた。それは昨日君に貸したはずのものだったはずで、その傘を持っているのは……。思考がそこで止まり、目の前が真っ暗になった。立っているのもきつくなり座り崩れた。僕は這うようにして君のもとへと近づいていった。そこにいたのは昨日のままの姿の君だった。まだ息をしているが、素人目に見ても助かるようには見えない。彼女を抱き寄せると、うっすらと目を開けた。
「もう会わないと決意したんですよ……破っちゃいました」
「それが君の本当の話し方かい?」
動くのもやっとの状態で、小さく縦に頷く。本当に腕の中でいのちの灯が消えゆく感覚がした。
「あの子のこと、よろしくお願いします。本当は……」
その言葉の続きを君が言うことはなかった。動かなくなった身体はずっしりと重くなった。
「君が温かいから僕は君を抱くのだ。君が僕に腕を回してくれるから僕は君を抱きしめることができるのだ。冷たい人形のような君に、僕はどうすることもできない。君にとって僕はひとりの客だったかもしれないが、僕にとって君が最愛の人だったのだ」
その言葉は、きっと君には聞こえていなかっただろう。それでも、そっと閉じた瞳から流れた涙に、少しでも思いが届いているのだと思った。
「私の父親について、教えてもらいたいのです。ここまで育てていただいたご主人様には感謝しております。しかし、本当の父親という人間にも会ってみたいのです」
「そうか、お前もいい歳になったし、教えてやりたいのはやまやまだが、実は僕も知らないんだ。すまない」
「そうですか。出過ぎたお願いをしてしまいました」
そう言って彼女は部屋を出ていった。彼女が持ってきた10年越しに届いた一通の手紙。そこには君の名前があった。中を開いて、僕は息がとまる。
「僕が欲しいものは届いてたはずだったのか……僕たちの……」 fin.