63 天下布武
呼び名を諱に統一しました。
それに伴い、作品の改稿をしました。
改稿作業があったので、今回のお話は短いです。
1ページ目に登場人物紹介、2ページ目に参考資料を入れました。
翌日。
負け戦に鬱々とした気持ちが伝染したわけでもないのに、朝からどんよりとした雲が空を覆っていた。
日差しがないせいか、春だというのに少し肌寒く感じる。
清須城に行った俺は、すぐさま人払いされた部屋に通された。部屋の外には心配そうな丹羽長秀殿と、信長兄上の乳兄弟で信頼の篤い池田恒興殿が控えている。二人にそっと頭を下げて、俺は部屋の中へと入った。
庭側の障子を全開にした部屋で、信長兄上は珍しく床に寝そべっていた。その横には滅多に飲まない酒の入った甕と、空になった盃が置いてある。
俺が入って来たことなど、とっくに気がついてるだろうに、信長兄上は横になったまま微動だにしない。
兄弟ではあっても、他人がいる時はこれほどまでに気を抜いた姿など見せなかった信長兄上のその後ろ姿が、驚くほど無防備に見えた。
けれど、同時に全てを拒絶しているような気もして、声がかけられない。
俺は少し考えて、信長兄上の横に同じように寝転がった。
かさり、と、微かに身じろぎをするような音が、頭の上のほうから聞こえる。
それでも俺は声をかけることなく、信長兄上と同じように寝ころびながら景色を眺めた。
手入れの行き届いた庭では、新芽が芽吹き、ツツジのつぼみがふくらみ始めていた。もう少し暖かくなれば花が咲くだろうけど、今はまだ庭に彩りを加えられず、緑一色の庭になっている。
でもこうして上からじゃなく横になってじっくり見ると、同じ緑でも色合いが違うのが分かる。新芽の黄緑が、これから訪れる花の季節を予感させていた。
信長兄上も、見慣れた庭の、いつもとは違う風景に心を揺らしているんだろうか。
「ねえ、信長兄上。こうして寝転がって外を見ると、いつもと違う庭のように見えませんか? 不思議ですよね。見る角度を変えただけで、今まで気づかなかったものを見つけられます。ほら、こうして見ると、草木に新芽が出ているのがよく分かりますよ」
その問いに対する返事はない。
俺もまた、無理に言葉を求めるつもりはなかったから、再び沈黙が訪れる。
「喜六。なぜ人は死ぬのだろうな」
やがて、兄上がポツリと呟いた。
まだ初陣を迎えていない俺が、信長兄上や熊のように戦場で人の死を身近に感じた経験はない。それに父上が亡くなった時も流行り病ということで遠ざけられ、死の瞬間には立ち会っていなかった。
そんな俺に、人の死を語ることなんて許されるんだろうか。
だけど……ここで俺の心のうちをさらけ出さなければ、信長兄上の心は、俺から遠く離れてしまうような、そんな予感がした。
だから俺は、少し考えてから答える。
「花であれば、盛りを過ぎて散っても、翌年にまた綺麗な花を咲かせることができます。でも、人の一生はただ一度きり。……ですから、一人では成せぬことを、次代に託すためではないでしょうか」
「なぜ一人では成せぬ」
「長く生きると、しがらみができますから。最初の頃の純粋な思いが、時と共に濁ってしまうのだと思います」
そう言うと、信長兄上は起き上がって立て膝を立てた。そして横に置いてあった甕から酒を注ぎ、盃を傾ける。
俺も起き上がりながら信長兄上を見ると、顔をしかめているところだった。
「こんな不味いものを、皆はよく飲むな」
そしてそのまま残りを一気にあおり、空になった盃を投げ捨てる。柱に当たった盃は、カランと乾いた音を立てて床に落ちた。
「だが……酔いたくなる時もあるということか」
そう呟く信長兄上の声は、今まで聞いたことがないほど、か細い。
父上が逝き、傅役の平手政秀殿が逝き、そして今また岳父の斉藤道三殿が逝った。どの人も皆、信長兄上のよき理解者だった。その喪失感は言葉に言い尽くせないほどのものがあるのだろう。
俺は立ち上がって、うつむく兄上をそっと抱きしめた。大人と子供だからか、座っている兄上の顔は同じ高さにあった。それを見ないように、袖でそっと兄上の顔を覆う。
「兄上。私の夢を覚えていますか?」
「あの、たわけた夢か」
「その夢は、絶対に叶えます」
百歳まで生きて、畳の上で大往生する。――この戦乱の世の中で、これ以上贅沢な夢があるだろうか。
「百歳まで生きる、か」
「私と信長兄上の年は、十一も離れていますからね。私より先に百歳まで生きて大往生した兄上をちゃんと看取ってあげますので、どうか安心してください」
なるべく明るい声でそう言うと、信長兄上が苦笑する気配がした。
「たわけたことを……」
「だって戦のない世の中を兄上が作ってくださるのでしょう?」
「――なぜ、そこまで俺に期待する? お前は俺に、それほどの器量があると思うのか?」
「というよりも、信長兄上の器が大きすぎて、凡人には理解できないのだと思いますよ」
「なにを、戯言を――」
「戯言などではありません。だって父上も道三殿も、あれほど信長兄上に期待していたではないですか」
尾張の虎と呼ばれ、瞬く間に尾張で台頭した父の織田信秀。梟雄と呼ばれ、下剋上を果たし美濃の国を支配した斎藤道三。
どちらもこの時代を代表する名高い武将だ。
その二人が、信長兄上に大器となる未来を見い出した。おそらく、二人のうちのどちらが欠けても、信長兄上が織田弾正忠家の家督を継ぐことはできなかっただろう。
だから信長兄上。
兄上は、二人の思いを糧にして、天下統一への道を突き進んで欲しい。
「それに兄上は天下布武の夢を父上たちから託されたのでしょう? でしたら、戦乱のない世も、実現できない夢ではないはずです」
「天下布武だと?」
突然、信長兄上の言葉に力強さが戻った。
あ、あれ? 天下布武ってまだ知らないキーワードなのか?
いやだって、織田信長といえば天下布武だよな。だからこの言葉を使ったんだけど、天下泰平の世の中を望むっていう意味じゃないのか!?
「それは武をもって天下を治めるということか? いや、戦を嫌う喜六がそのようなことを言うはずはない。だとするならば……」
俺は信長兄上の頭を抱えたまま、内心では冷や汗をダラダラ流していた。
兄上の頭じゃなくて、自分の頭を抱えたくなる気分だよ。
「春秋左氏伝かっ」
えーっと。
ナニソレ?
「なるほど、そうか。七徳を備えた者でなければ天下を治められぬ、か。七徳とはすなわち、暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和し、財を豊かにすること。確かに、そのような世であれば、戦はなくなるのであろう」
……天下布武ってそういう意味だったのか。知らなかったよ。てっきり、武力を行使して争いを治めて平和をもたらす、って意味かと思ってた。
でもいずれは信長兄上が言い出す言葉なんだから、今言っても同じことだと思う。だって、たった今、兄上が天下布武の言葉の意味を自己解釈したわけだし……。
俺……なにもしてないよな?
れ、歴史を変えたなんてそんなの、気のせいだよな? もし……もしも、何かが変わったとしても、きっと大したことないさ。うん。
「天下布武を成す、か。……なるほど。確かに一代では叶えられまい。……面白い。俺がその夢、叶えてみせよう」
信長兄上の声に、完全に覇気が戻る。
俺の袖を振り払った兄上は、すっかりいつもの信長兄上だった。自信家で、ぶっきらぼうで、言葉が足りなくて――でも、身内にはどこまでも優しい、自慢の兄だ。
「俺は尾張を統一して美濃を食うぞ。そしてその後は、そなたの言う天下布武を日の本に知らしめる。俺に手を貸せ、喜六郎!」
「はい、兄上!」
言われるまでもない。きっと俺は信長兄上を手伝うために、この時代に生まれてきたんだ。
天下布武。
戦乱の世を終わらせ、日ノ本に平和をもたらすその夢を、俺も信長兄上と一緒に実現してみせようか!
そんな俺の決心を寿ぐように、不意に厚い雲の合間から一条の光が差しこんだ。
そして、信長兄上と俺の顔を明るく照らす。
奇跡のような一瞬に、天命というものが本当にあるならば、今まさにこの時、信長兄上の元に天下統一の使命が下されたのだと思った。
群雄割拠の戦国時代を終わらせ、日本統一の礎を築いた英雄、織田信長。
俺もまた、織田信長の弟として兄上を支え、この戦国時代を生き抜いていこうと、そう決心した。




