234 閑話・千秋季忠 天下泰平の夢
信長様の弟君である喜六郎様は信行様と共に末森城で暮らしていらしたから、私との接点は無いに等しい。
しかしながら、なんたる奇縁か。喜六郎様の見染めた娘の身分が低すぎるゆえ、私がその娘の養い親に選ばれる事となったのだ。
熱田の大宮司家の威光が、娘と、さらには神仏の御使いかもしれぬということで、心無い者たちに担ぎ上げられてしまうかもしれぬ喜六郎様を守る盾になるであろうという、信長様のご配慮であった。
神仏の威光を具現化した喜六郎様とは、果たしてどのようなお方なのであろうか……。
遠目に見る限りは思慮深く慈悲深く、その容貌の美しさも相まって、確かにこの御方であれば神仏が加護を与えることであろうと思わせる方だ。
だが……実際の喜六郎様は……なんというか、非常に……その、大らかというか、あまり気になさらないというか。
遠くから見ていた時の印象とはまるで違うお人柄であった。
よく、胡蝶の夢で見たのだという食事を作っては信長様に振る舞っていた。
おいしそうに食べる信長様の姿を見て喜ぶ姿は、いたいけな子供のようだ。
だが、無邪気に笑う喜六郎様が、時折ひどく老成した眼差しをすることがある。そんなときは決まって、胡蝶の夢で見た世界の話をしている時か、この日の本の民の行く末を考えている時であった。
「私は太平の世を目指したいのです。この国に住む全ての民が心安らかに暮らせるような」
「喜六郎様ご自身が、でしょうか?」
動揺を心の内に秘めながらそう問いかける。
喜六郎様は少しも気がついておいでではないが、神仏の加護を受けるお方として、喜六郎様の織田家での評判はここのところ一層に高まるばかりだ。
もしも喜六郎様が信長様に敵対したら――
そうしたら、私はどちらにお味方すれば良いのだろう。
そう悩む事すら、信長様への背信のような気がして後ろめたかった。
だがそんな私の悩みなど吹き飛ばすかのように、喜六郎様は全幅の信頼を信長様に寄せている。
「私には信長兄上のような、上に立つ者の器などありませんからね。しっかりとお支えして、信長兄上にがんばって頂きたいのです」
屈託のない笑みに、邪気を抜かれる。
なぜか、このお方には野心というものが欠片もない。
子が親を殺し、弟が兄を殺し家督を奪うことも珍しくないこの世の中で、それは本当に稀有な資質といえよう。
私は肩の力を抜いて、心からの笑みを浮かべた。
「殿も、喜六郎様を支えにしておいででござりましょう」
「う~ん。まだまだ頼りないと思われているのではないでしょうか? この間も――」
自らの失敗をおもしろおかしく語る喜六郎様に、このような時間が長く続けば良いと……。
そう、願った。
だが穏やかな時は長くは続かなかった。長年織田と敵対している今川が、尾張に侵攻してくるという知らせが届いたのだ。
すぐに軍議が開かれるかと思ったが、信長様は大高城を囲む砦を守る、わずか五人だけを密かに城に集めた。
「そなたらも耳にしているだろうが、今川が性懲りもなくまた尾張に侵攻してくるようだ。大高城を囲む砦の守りを、一層固くしてもらいたい」
大高城は今川方に奪われて現在は朝比奈輝勝が治めているが、周りに織田方の砦を建てて兵糧を断つことには成功している。
かなり長い間持ちこたえたがそろそろ限界であろうと思っていたが、さすがに今川もこのまま見捨てることはできなかったのであろう。
だが救援が来るであろうということは予測されていたので、戦に向けた準備は着々と進められていた。
大高城を包囲するように、信長様の大叔父上にあたる織田秀敏様が守る鷲津砦、織田の譜代の家臣である佐久間盛重殿が守る丸根砦、戦友である佐々政次が守る正光寺砦、先代の頃より織田に臣従した水野信元殿が守る向山砦がある。
そして最後の氷上砦に、私、千秋季忠がいる。
このように重要な砦を任されたことが誇らしい。
「なぁに、今川の兵が何度やってきても、蹴散らしてくれるわ!」
今の織田には信長様がいて、元服して信喜様と名乗るようになった喜六郎様がいらっしゃる。
今川の兵など、恐るるにたらず。
「だが無理はするな。奥方に、子ができたのであろう?」
共に帰路についた政次に釘を刺される。
「何を言う。子ができたからこそ、なおさらに槍働きに励むのだ。我が子の未来に憂いを残してはならぬからな」
「……確かに」
政次には成吉という名の嫡男がいる。代々の嫡男が受け継いできた名を持つ成吉は、幼いながらも利発だと聞いている。政次によく似ているのであれば、将来の槍働きにも優れた才能を顕すだろう。羨ましい事だ。
いずれ生まれて来るであろう我が子も、男子であれば良いとは思うが、無事に生まれてきてくれればどちらでも良い。
側室を持てとうるさかった家臣たちも、これで少しは大人しくなる事であろう。
再び清須城に招集されたのは、永禄三年、五月十五日の事だった。
今川義元、出陣。
その一報が、我らの命運を決めた。




