230 敦盛
このお話は書籍版のお話とリンクしている部分があります。
書籍版を買って頂いた方はより楽しめますし、そうでない方でもお楽しみ頂けます。
信長兄上に出陣の意思があることを確認した熊は、戦支度をするために末森城へと戻った。熊が顔を合わせるかどうか分からないけど、市姉さまに伝言を頼む。
「お健やかにお過ごしください、とお伝えください」
「確かに、伝え申す」
力強く頷く熊を見送って、俺はかがり火に照らされた廊下を歩く。
いつもは闇に包まれている時刻だけど、さすがに今日ばかりは清須中でかがり火を焚いていて明るい。
奥に進むにつれ、評定の間での喧騒が嘘のようにひっそりとしてくる。供として着いてきているタロとジロは足音を立てずに歩くから、ひたひたと、俺の立てる足音だけが廊下に響く。
さらに進むと、そこには信長兄上の小姓である岩室重休殿がいた。
前にもこんなことがあったな、と思い出す。その時に部屋の外に控えていたのは岩室殿ではなかったけれど……。
――そうだ。あれは斉藤道三が亡くなった時だ。
懐かしさと、ついに桶狭間の戦いを迎えるのだという緊張と、そして本当に勝てるのかどうかという一抹の不安を抱きながら、頭を下げて部屋の中へと入った。
火皿の上の灯りがチロチロと揺れている。
その中で、信長兄上はじっと開け放たれた障子の外を見つめていた。
灯りの届かない庭は、ただひたすらに暗い。
その暗闇を、ただじっと、見つめている。
あの時は、信長兄上と同じ風景を一緒に見た。
今も――同じものが見えているだろうか。
「信喜か」
信長兄上が振り返らずに俺の名を呼ぶ。
「はい」
俺はそのまま信長兄上の隣に座る。そして信長兄上の視線の先を追う。
そこにあるのは、やはり暗闇だ。
でも、いつか見た緑の木々がそこに息づいているのが分かる。
目には見えなくても、風に揺れる葉擦れの音が、その存在を教えてくれる。あの時に見た景色は、確かにそこに色づいていた。
「信喜」
力強い声が俺の名を呼ぶ。
「はい」
「俺は――勝つ」
「はいっ!」
俺の返事に、信長兄上はすっくと立ちあがった。
「重休っ」
「はっ」
「鼓を持てぃ!」
「ははっ」
部屋の外で控えていた岩室殿は、すぐさま部屋の中に入り、そこに置いてあった鼓を手にした。
ポーンと澄んだ音が響く。
「思へばこの世は常の住み家にあらず」
信長兄上が手にした扇をひらりと翻す。扇の金色が、ひらり、ひらりと揺れて舞う。
「草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる。南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり」
信長兄上が舞うのは幸若舞の敦盛だ。
幸若舞は足利一門である幸若丸が創ったとされる曲舞だ。能のような面はかぶらず、足踏みや手の振りを使った、どちらかというと素朴な振り付けになっている。
例えて言うなら、能はクラシックで幸若舞はポップスといったところだろうか。
曲舞の元とされる物語も、武士の華やかにしてかつ哀しい物語を主題にしたものが多い。
その中でも最も好まれるのが『敦盛』だ。
源平合戦の終盤における一ノ谷の戦いで、平清盛の甥である平敦盛が退却の際に愛用の笛を取りに戻り、船に乗り遅れてしまう。
敦盛はその船に乗ろうと馬を寄せるが、波が荒く乗り移ることができない。
そこに源氏の熊谷直実が通りがかり、見事な甲冑を身に着けた敦盛に、これは平家の名のある武将であろうと一騎討ちを挑む。
まだ十五歳で元服したばかりの敦盛と、既に百戦錬磨の武将として名高い直実。
勝負はあっけなく決まり、敦盛は直実に組み伏せられてしまう。
その時初めて敦盛の顔を見た直実は、その幼さに驚き、この一ノ谷合戦で討死したばかりの嫡男と同じ年の頃であることから、討つのをためらった。
直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と言うので、涙ながらにその首を獲った。
一ノ谷合戦は源氏の勝利に終わったが、直実は世の無常をはかなみ出家する。
――というのが、『敦盛』の物語だ。
「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり」
信長兄上が舞うと、扇の軌跡がきらりと光る。
現代でもこの一節は、信長兄上が好んだ唄だということで、あまりにも有名だ。
人間五十年ということで、人の一生は五十年で、夢幻のごとくあっという間である、と解釈されることもあるけど、これは間違いだ。
「一度生を得て、滅せぬもののあるべきか」
人間界の五十年は、下天の一昼夜に過ぎない。その短い時間の流れで、死なない人間などいない。この世界に生まれてきて滅びないものはないという無常を歌っているのだ。
敦盛を討たなければならなかった直実の無常を、我が身に置き換えて唄う。そしてその後は、いかにそれが無常であっても、それこそが神仏の定めた道なのだ、と続く。
それこそが信長兄上の好む、『敦盛』だ。
「これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ」
これは、どれほど強い敵でも倒せぬことはない、という信長兄上の決意の表れなんだな。
ポーンと高い音が鳴り響き、音の余韻と共に、信長兄上はくるりと回る。そして手にした扇が閉じるのと同時に、目を閉じた。
細く響いた音が止むと、信長兄上はカっと目を見開いた。
「機は熟した」
やっぱり、信長兄上はこの時をじっと待っていたんだな。
「今こそ義元を迎え撃つぞ! 湯漬けを持てい!」
「はっ!」
バタバタと岩室殿が湯漬けを用意しに行く。それを見送った信長兄上は、ひたと視線を俺に向けた。
「信喜……行くぞ!」
「はい!」
永禄三年五月十九日。
ついに、桶狭間における、今川義元との決戦が始まる。




