229 乾坤一擲
ぼたもち様から桶狭間の地図を頂きました!
どうもありがとうございます。感激です。
これで大高城の周りの砦の様子も分かりますね!
しばらく休んでから評定の間に戻ったけど、信長兄上は退席したままだった。
そして軍議も紛糾したままだ。
確かに、この状況じゃどうしようもないもんなぁ。
結局、信長兄上はその後も戻ることなく、永禄三年の五月十七日は終わった。
明けて五月十八日。
あんまり眠れないまま、俺は清須にある自分の部屋で目を覚ました。身支度をして評定の間に行くと、既に家臣たちが大勢集まっていた。
いよいよ今川が攻めて来るのかという緊張感と喧騒の中、やっと信長兄上が姿を現す。家臣たちが平伏をする中、いつもと変わらぬ様子で上座に座った信長兄上は、いきなり戦とは関係のない事を聞き始めた。
どこそこの田植えはもう終わったのかとか、二・三日前に降った大雨の被害はどうだったとか、たわいの無いことばかりだ。
戸惑いながらも質問に答えていた家臣たちだけど、さすがに雑談しか話さない信長兄上を咎める声が上がる。
「殿! そのようなことよりも、今は戦の事をお考えになるべきではござらぬか」
「……ほう。良い策を考えたとでもいうのなら、聞いてやるぞ?」
「いえ。それは……」
「だったら黙っておれ」
ピシャリとはねつけられて、家臣たちは一斉に押し黙る。でもその顔はみんな不満そうで、能天気にうんうんと頷いてるのは熊だけだ。
そうしている間にも伝令が次々にやってくる。
「申し上げます! 今川義元本隊、沓掛城に到着した模様にございます!」
「近隣の寺社より、祝い酒が沓掛城に運ばれております」
おそらく義元は、近隣の寺社に所領を保証する安堵状と呼ばれる書状をあらかじめ渡しているんだろう。敵対せずに領地を通過させれば、その土地の支配はそのまま任せるぞ、って約束しておくわけだな。
織田と今川の間で戦が起こるのは必至。
だとすれば、尾張の領内にある寺社が勝ち目のあるほうにすり寄るのは仕方のないことだろう。それに下手に織田に義理立てすると、今川の兵に兵糧を略奪されて寺社を壊される恐れもあるしな。
織田としては、面白くないけど、今はどうしようもない。
伝令たちが次々とやってきても、信長兄上はただ雑談をするだけだった。
しかし……。これ、実際にその場にいるとかなりキツイな。
俺は信長兄上がこの後出陣するのが分かってるから平常心でいられるけど、知らなかったら「これからどうするんだろう」とか「尾張はどうなるんだろう」って心配でたまらないと思う。
評定の間にいる家臣たちも、段々顔つきが険しくなってきている気がする。
「丸根砦の佐久間盛重殿より書状にござります!」
「正光寺砦の佐々政次殿より伝令でございます!」
「中嶋砦の梶川高秀殿より伝令でござります!」
さらに続々と戦況を伝える伝令がやってくる。
それでも、信長兄上はこれからの作戦を示そうとはしなかった。
「申し上げまする! 鷲津砦の織田秀敏殿からのご報告にございます。今川方、本日中に大高城へ兵糧を運び入れ、満潮時でお味方が救援に向かえぬ時を狙って大高城の周りの砦を落とすこと確実との事でござります」
それは夕方、大叔父である織田秀敏からの報告があっても変わらなかった。
「殿! いつまでもこうして何もせずに手をこまねいていれば、今川は大高城の周りの砦を全て落としてしまいますぞ! ただでさえ向山砦の水野信元が寝返ったのです。急ぎ救援に参らねば、砦は全滅でありましょう! 殿! ご決断を!」
評定の間には、家老である林秀貞、それに熊の姉が嫁いだ御器所城主の佐久間盛次殿、庶兄の信広兄さんの姿はないけど、四男の信時兄さんがいる。
他にも信長兄上の乳兄弟の池田のツッチー……じゃない、池田恒興に、近習の丹羽長秀殿、それから熊のライバルの下方貞清殿と、錚々たるメンバーばかりだ。
その全員の視線を集めた信長兄上は、いつもと変わらぬ様子で扇子を広げた。
最近気にいっている、表は邪悪を避けると言われている金箔を貼って朱色の日輪を描き、裏は逆の仕立てで朱地に金箔の日輪を描いているものだ。
扇の骨の部分には【おもだか】っていう草が彫られている。これは別名を【勝ち草】って言うから、武士には好まれる柄だな。
凄く派手な扇子だけど、信長兄上が持つと、その派手さがしっくりと馴染んでいる。
「鷲津砦といえば、砦の中に実のなる木が生えておるが、勝家、そなた知っておるか?」
名指しされた熊は、しばらく考えてから答えた。
「栃の実でござりましょうか」
「うむ。あれは炒るとうまい」
栃の実は、ちょっと渋抜きが大変だけど、栗に似た味でおいしく食べられる。現代でも、とち餅とか有名だよな。
いざという時の食料として役に立つから、お城とか砦に植えることの多い木だ。
でも……。多分、いつものことながら、信長兄上が言ってるのは栃の実のことじゃなくて、それが比喩する何か、だろうな。
おそらく熊はそれを理解して返事をした。他に分かっているのは…。ああ、林秀貞や下方貞清殿は分かったみたいだな。考えこむような顔になってる。
栃の実が表す何か。
何があったかな……。
うーん。こういう時に頼りになる明智のみっちゃんは、先に熱田神社の方に向かってもらっちゃってるからなぁ。
さすがにここで熊に聞くわけにもいかないし。
俺が考えている間にも、信長兄上はのんびりと雑談を続けている。
やがて家臣たちの顔に諦めのような表情が浮かぶようになると、信長兄上は「夜も更けたゆえ、散開じゃ」と告げて立ち上がった。
そして信長兄上が部屋から退出すると、評定の間に集まった者たちは口々に信長兄上を非難し始める。
「運の尽きる時には知恵の鏡も曇ると言うが、まさにそれじゃ」
「しっ。まだ信喜様が残っておられるではないか」
「構うものか。もう織田も終いよ」
やがて、評定の間に残っているのは、俺と熊だけになった。熊は心配そうに俺を見ていた。
「……信長兄上が理解され辛い性格をなさっているのは分かっておりますから、大丈夫ですよ」
体が大きくて本当に熊みたいな男だけど、心優しい性格だからな。俺が家臣たちの心無い言葉に傷ついてないか、気にしてるんだろう。
「ところで勝家殿は、信長兄上が何を言いたかったのか分かりましたか?」
俺に向き直った熊は、首を大きく縦に振った。
おお、さすが熊。ちゃんと信長兄上の言いたい事を察知したか。まさか野生の本能……じゃないよな?
「 山川の末に流るる橡殻も、身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ ――この歌をご存知でありましょうか?」
上の句に聞き覚えはないけど、下の句は聞いたことがあるな。
確か……自分の命を犠牲にする覚悟があってこそ、初めて窮地を脱して物事を成就することができるって意味じゃなかったか?
俺がそう言うと、熊は深く頷いた。
「元は七百年ほど前、この尾張国分寺で出家なさった空也上人の歌でござります。山あいの川を流れてきた栃の実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができたのだ、という意味でござりますが、【浮かむ瀬】というのは【仏の悟りを得る機縁】ですからな。これを窮地から脱して安泰を得ると解釈し、身を捨ててこそ道は開ける、という意味になりまする」
さすが博識の熊。
見かけは熊なのに故事に詳しい。
っていうことは、つまり、さっきの信長兄上は、命を惜しまずに戦えば道は開けるって言いたかったって事だよな?
乾坤一擲――なるほど、命をかけての大勝負か!




