227 八方塞がり
「火急にございます! お通しくだされ!」
その時、入口から息せき切ってやってくる伝令がいた。大きく肩で息をしながら、その手には文と、それからなぜか竹の筒を持っている。
「いかがした!」
林秀貞が声を荒げると、伝令は大きく息を吸って、それから叫んだ。
「向山砦を守っておりました水野信元殿、今川方に寝返りました!」
「なんだと!?」
刈谷城主、水野信元――あの徳川家康の伯父だと言った方が分かりやすいだろう。
父である水野忠政が今川方だったのに対し、家督を継いだ信元は当時勢力拡大中の父上へと鞍替えした。でもそれが原因で信元の異母妹である於大は、今川方である松平広忠に離縁されてしまう。
その二人の間に生まれた子供が、徳川家康だ。今の名前は松平元康だな。
そして水野信元は知多半島の有力な豪族で、松平広忠と離縁した於大を同じく知多半島の坂部城を治める久松俊勝と再婚させた。
ということは、水野信元が裏切ったとなると、知多半島の豪族の多くも今川方へ寝返る可能性が高い。
史実ではどうだったのかな。そんなに詳しい歴史の知識なんてないぞ。
信長兄上は――どうする?
「この機を活かすか」
水野信元の書状を読んだ信長兄上は、一緒に届けられた竹の筒を手に取った。どうやら中に何か入っているらしく、それを見た信長兄上がかすかに目を見張った。
「信元め、やりおるな。秀貞、策とはな、このように弄するものよ。読んでみよ」
信長兄上が放り投げた書状を、林秀貞が急いで拾う。そしてその中身を読んだ。
「妹である於大の子、元康が不憫ゆえ、こたびの戦は今川に与する、だと?――ふざけるな!」
そして激高して手紙を床に叩きつける。その勢いのまま、林秀貞は信長兄上ににじり寄った。
「殿! こうまで虚仮にされては織田が侮られますぞ! 急ぎ手を打たねばなりません!」
「どうやってだ?」
「――はい?」
「どうやって手を打つというのだ?」
「そ、それは、その……」
「信元が寝返る前から策がないと言っておるのだから、どうにもできまい。それとも何か良い手でも思いついたか?」
信長兄上に聞かれた林秀貞は、言葉に詰まって視線を逸らす。
確かに林秀貞が焦る気持ちも分からんでもない。
伝令が来るたびに、今川の圧倒的な兵力を思い知らされるからな。そこにきての水野信元の寝返りだ。不利な状況がさらに不利になってしまっている。
この清須城で籠城したとしても持ちこたえられるのか……。
そう思うのは当然だろう。
家臣たちから向けられるのも、このうつけが、という視線になっている。
「……時間の無駄だな」
信長兄上は立ち上がると、そのまま部屋から出ようとする。それを林秀貞が止めるけど、信長兄上は肩越しに視線を投げかけるだけだ。
「お、お待ちください殿! 軍議をなさるのではないのですか!?」
「……誰も策を思いつかぬのに軍議をしても仕方あるまい。信元のように愉快な策でも奏上すれば別ではあるが」
「愉快……と、おっしゃるか?」
「これが愉快以外の何だというのだ。よりにもよってこの時期に寝返るなどと……。機を見るに敏な奴よ」
はっはっは、愉快愉快、と言いながら部屋を出て行く信長兄上を、皆が呆気に取られた顔で見送る。
一番先に我に返ったのは、林秀貞だ。顔を真っ赤にして手を固く握っている。
「一体、殿はどういうおつもりか! 尾張存亡の危機だというのに、寝返りを愉快などと笑っている場合ではなかろう!」
「やはり大うつけなどに尾張は任せられん。ここは信行様に還俗していただいて――」
「しっ。滅多なことを言うでない。ここにはまだ信喜様がいらっしゃるぞ」
「さすがに殿贔屓の信喜様といえど、さすがにこのような事になれば見限るのではないか?」
「だが信喜様は神仏のご加護を受けしお方。儂らには分からぬ物を見ていらっしゃるのかもしれんぞ」
最後の方の会話は小声だったけど、ちゃんと聞こえてるからな。
俺は軽く咳ばらいをすると、一同の視線を集めた。
「皆の者、不安になる気持ちも分かりますが、ここは堪えていただけませんか? 信長兄上のお考えがまとまるまで、皆でゆっくりと待とうではありませんか」
「しかし、ゆっくりしている暇などありませんぞ! 今こうしている間にも、今川は進軍してきているのですから」
いや、うん。確かに君の言う通りなんだけどさ、だけど今の信長兄上って、多分凄い勢いで色んな計算をしてるんだと思うんだよなぁ。
それこそスーパーコンピューター並に。……っていうのは、ちょっと大げさかもしれんけど。
「私たちも、何か良い策がないか、考えてみようではありませんか」
にこりと微笑んで見回すと、憤っていた者たちも少しは頭が冷えたのか黙りこんだ。
でも、策かぁ……。普通に考えて八方ふさがりだよなぁ。
向山砦の水野信元が寝返ったとなると、大高城の包囲の一角が崩れることになる。じわじわと兵糧攻めにしていた今までの成果が無になるだけでなく、大高城を守る兵たちの士気を高めることにもなるだろう。
大軍を率いてやってくる今川義元、鳴海城の岡部元信、そして大高城の鵜殿長照。この三人が相手じゃ勝てる気がしない。
いや史実では勝ってるんだけど、もしかしてここが俺の知ってる世界じゃなかったりしたら、信長兄上が負ける未来もあるわけで――
ぐるぐるする考えをまとめるようにさっきまで信長兄上が座っていた場所をふと見ると、そこには文と一緒に届けられた竹筒が転がっていた。
手を伸ばして竹筒を取ると、カラリと音がした。
中に何か入っている……?
よく見ると、竹筒の中には竹とんぼのようなものが入っていた。
なんで竹とんぼがあるんだ? それにこの香り……。
竹とは違う、甘酸っぱい香りがした。




