218 閑話・海道一の弓取り その3 密約
――永禄三年 五月十日――
いよいよ本日より、井伊殿と共に先鋒として尾張へと出陣する事とあいなった。
兵の数は合わせて五千。
弱腰の尾張兵の相手であれば、我らだけでも十分に勝利できうる数かもしれぬ。
「父上。後の事はお任せ致します」
昨年、儂に当主の座を譲ってからというもの、あの勇猛ぶりはどこに行ったのだろうと思うほど穏やかになった父に、戦の間の事を頼む。
最近では生来の病で亡くなった兄の信薫の遺児である宗親と、儂の長子である宗恒の成長を見守るのが生き甲斐であるらしい。
父ほどの猛将であっても、孫の成長は嬉しいものなのだそうだ。
「委細任された。安心するが良い」
別れの言葉は特にはいらぬ。これから戦場に向かうのだ。言葉を交わさずとも、父には良く分かっていることだろう。
この織田攻めが終われば、御屋形様の夢にまた一歩近づく。
ごく一部の寵臣しか知らぬことだが、御屋形様の夢は単なる上洛などではない。もっと大きく壮大な夢だ。
関東武士の悲願――それは、鎌倉幕府の再興だ。
そもそも幕府は源頼朝公が鎌倉に開いたのが始まりだ。そこから時代が流れ足利幕府へと移り、公方様の御座所は京へと移ってしまった。しかも本来、領地を治めるべき守護は京に留まり、政権抗争に明け暮れておる。
代わりに領地を治める守護代が台頭し、守護が追放され。
結果、今のこの、戦乱の世が続いているのだ。
なんと嘆かわしいことであろうか。
これを正す為には、本来の道に立ち戻らなくてはならない。
すなわち、武士の本拠地である関東に幕府を置くという事だ。
帝は京に。公方様は鎌倉に。
それこそが、正しい姿であるはずだ。
いや、関東という括りで考えるならば、小京都と呼ばれるこの駿府にこそ幕府があってもおかしくはない。
御屋形様の様に、雅でありながら勇ましい都。
そう。この駿府が日の本の中心となるのだ。なんと素晴らしいことであろうか。
亡き雪斎殿の尽力により結ばれた三国同盟。
しかしその裏では、御屋形様が絵に描いた鎌倉幕府の再興という密約で結ばれている。
武士の政は関東武士の手に。
これこそ、今川・北条・武田の三国の、真の目的である。
古河公方であらせられる足利義氏様を将軍に戴いて、北条が執権を、武田が執権に継ぐお役目の連署を、そして今川が将軍のいなくなった京を守る京都管領に就くのだ。
元は足利幕府の政所執事である伊勢氏の一族が関東にて北条を名乗り、その北条が執権になる。鎌倉幕府を復権させるというならば、「北条」の名跡はこれ以上ない箔付けとなろう。
今の関東管領職に就いておるのは上杉憲政殿だが、北条に敗れて落ち延びており、更には後継もないという。ならば関東管領の地位はそのまま空位とさせておけば良い。それで管領の職は京都管領ただ一つのみになる。
無論、すんなりと今川が京都管領に就けるわけではない。まずはこの戦乱の世を作り出している悪党である三好長慶を排除し。幕僚である六角、細川らを倒し。
そして今川の力で畿内を統一するのだ。
だがそれを為す前に、まずは尾張を配下に収めなくてはならない。そして御屋形様の武威を、広く世の中に知らしめなければならぬ。
御屋形様が自ら尾張征伐に向かうのは、その勇姿をあまねく、駿河、三河、そして尾張の者どもに見せるためである。
「尾張の者どもがこの軍勢を見たら、あまりの勇壮さに度肝を抜かれるであろうな」
共に出陣する井伊殿が、後ろに続く五千の兵を見て感嘆の声を上げる。
それぞれが見事な鎧兜に身を包み、これから戦に行くとは思えぬ壮麗な姿だ。
さすが今川の兵であるな。まるで馬揃えにでも向かうような勇姿に、尾張の者どもはその威光に恐れをなして、戦わずとも平伏してしまうやもしれぬ。
「御屋形様も沓掛城まで輿に乗って行かれるそうじゃ」
「おお。それはさぞかし見事な武者行列になろう。後の世で、絵巻物に描かれるかもしれぬな」
「ははは。違いない」
井伊殿の言葉に同意し、御屋形様に絵師も連れていくように進言すれば良かったと思いいたる。
戦いの場に行きたがる絵師はなかなかおらぬが、これだけの大軍勢だ。御屋形様の近くにいれば命の危険もなく実際の合戦を描けるとなれば、行きたいという絵師もおったことであろう。
「絵師がおらぬゆえ、松井殿と儂で御屋形様の勇姿をよく覚えておかねばならぬな」
「まったくだ」
我ら先陣はまず藤枝まで行き、そこで松平元康殿の軍が加わる。元康殿と入れ替わりに儂は藤枝で御屋形様を待ち、井伊殿と元康殿は沓掛まで先に進む。
そして沓掛にて全軍が合流する手はずになっておる。
その後は、大軍をもって、一路熱田へと向かうのだ。
織田も、まさか御屋形様直々に、しかもこれほどの大軍で攻めてくるとは夢にも思っておらぬだろう。
慌てふためき逃げ惑うさまが、今から目に浮かぶようじゃ。
「では参ろうか」
「おう」
もう一度今川館の方を振り返ると、門の側に御屋形様が立っているのが見えた。
「おお。御屋形様が」
「なんと、わざわざ見送ってくださるというのか」
横に立つ井伊殿に伝えると、井伊殿もまた感動したように声を震わせる。
「ありがたいことじゃ」
「まことに」
手を振る御屋形様に、行って参ります、と頭を下げる。
「これより織田征伐へと向かう。者ども、出陣じゃ!」
「おう!」
そして最後にと、再び振り返る。
御屋形様の後ろに、そっと見守るように墨衣がひるがえる幻を……見たような気がした。
北条には北条の、武田には武田の、それぞれの思惑があっての「密約」となります。
ここで語られているのは、あくまでも松井宗信の知る「密約」であるということになりますので、ご了承ください。




