217 閑話・海道一の弓取り その2 白狐
しばらく井伊殿と話していたが、にわかに奥が騒がしくなっているのに気がついた。何事だろうと井伊殿と目を合わせ、声のする方へと二人で向かう。
「何事じゃ!」
騒いでいるのは御屋形様の小姓として側に仕える久野氏忠殿と、今川館より南西にある持舟城の城主である一宮宗是殿であった。
久野氏忠殿は御屋形様の甥に当たる方で、しばらく御屋形様の元で奉公した後は、先だって今川の当主となられた氏真様の近習となられる予定だ。
「戦支度もせずに、何を騒いでおるのじゃ」
どうやら一宮殿が久野殿に御屋形様への取次ぎを頼んでいたのだが、出陣の支度もあるのにつまらぬ用事で取次ぎなどできないと突っぱねられていたようだ。
「取りあえず、一宮殿の話を聞いてみてはいかがでござろう」
二人の言い分を聞いた儂は、仲裁することにした。まだ若い久野殿にとっては大したことではないと思われる事でも、御屋形様に取り次いだ方が良い案件もある。
それに久野殿は御屋形様の甥ということで、どうも目下の者を軽んじる癖があるから、ここはしっかりと話を聞いておくべきであろう。
最近の氏真様は才気煥発で武芸に秀でた三浦義鎮殿を重用することが多く、家臣の中でも不満を持つ者が増えてきた。それゆえ、お身内の久野殿をこそ頼りになさるようにして欲しいのだが、肝心の久野殿がこれでは、頼りにしようにも頼れまい。
こうして儂の提案に不服そうな顔を隠そうとしないのでは、なんとも不甲斐ないことだ。
まだまだ青いな。
「実は駿河惣社大明神の社壇にて、白狐が息絶えておりました」
「なんと。それは真であろうか?」
「はっ。神官より知らせを受け、急ぎ今川館に参った次第でございます」
白い狐は瑞祥をもつ獣として人々に福をもたらす。それが神を祀る場所で息絶えておったとは……これは果たして、吉凶いずれを顕しておるものであろうか。
しかし例え凶兆であったとして、既に一年も前から戦の準備を進めいよいよ尾張に侵攻するというこの時に、今さら出陣を止めるわけにもいかぬ。
であるならば、いずこかの名僧に祈祷して頂いて災いを退けるしかあるまいが、霊験あらたかなお方となると、どなたに頼めば良いものか……
「皆の者、どうしたというのじゃ」
考えこむ我らに柔らかな声がかかる。
急ぎ平伏すると、「良い良い、楽にいたせ」との有難い言葉を頂く。
穏やかで包みこむような声の持ち主は、我らが御屋形様――今川義元公にあらせられる。公家の雅と武家の功を兼ね備える御屋形様は、常に微笑みを浮かべる物腰の穏やかなお方だ。
あまり戦場にお出ましになることがないせいで知る者は少ないが、実は剣術にも秀でておられる。腰に佩く宗三左文字は御屋形様自ら譲り受けた名刀で、それを持つにふさわしい技量の持ち主なのだ。
「して、いかがした。騒がしい声が奥にも聞こえておったぞ」
「はっ。恐れながら、御屋形様に申し上げたき儀がございます」
「許す。話してみよ」
御屋形様は愛用の扇を口元に当てて鷹揚に頷いた。
やはり御屋形様は些細な事柄でも大事に至る事があると分かっていらっしゃる。この辺りが、未だ若い久野殿には差配できぬところなのであろう。まだしばらく、御屋形様の元で修業して頂いて経験を積まねば、氏真様の側近など務まりはすまい。
「昨日、駿河惣社大明神の社壇にて白狐が息絶えておったとの報告を受けましたゆえ、急ぎお知らせに参った次第でございます」
「駿河惣社の見立てはどうじゃ」
「吉兆であると伺っております」
一宮殿の言葉に、安堵する。
既に占卜は行っておったのか。吉兆であるとの結果が出たのであれば、安心じゃ。
占うまでもないことではあるが、こたびの戦は勝ち戦になろう。
「ほう。吉兆とな」
「はい。白狐はご神体に向かって拝むような姿で息絶えておったようでございます。故に、わが軍の勝利を祈願し、神力を使い果たしたのではないかと」
「白狐がのぅ……」
何やら考えこむ御屋形様に「どうかなさいましたか」と声をかける。
「いや。以前戯れにな、雪斎が儂の危機には白狐の姿で馳せ参じましょうと言っておったことがあってな。ふと思い出したのじゃ」
「雪斎殿が、白狐でござりますか」
御屋形様の軍師として名高い雪斎殿は、常に僧衣であったことから墨衣の宰相と呼ばれておった方。黒狐ならばともかく、なぜ白い狐なのであろうか。
「黒では縁起が悪かろうと言っておったな。儂は、いつも墨衣を纏っておるくせに何を言っておるのだと思ったものだ。白くては分からぬから、そのままの姿で馳せ参じよと命じたが……」
昔話に、御屋形様の目が懐かしそうに細められる。
もう五年。――されど、まだ五年。
常に御屋形様に寄り添っていた雪斎殿が亡くなってそれほどの月日が過ぎてはいたが、未だかの方の影は濃い。
「もしや、本当に白狐となって今川の勝利を願ってくれたのかもしれぬな」
「さようでございますな。きっと御屋形様のおっしゃる通りにございます」
深く同意すると、井伊殿たちも一斉に頷く。
「その方らもそう思うか。では、白狐は手厚く祀らねばなるまい。そうじゃな……今川館より丑寅の方角に『大安寺』という寺を建て、そこで白狐を祀るとしよう」
なるほど。鬼門の方角に吉兆である白狐を祀り、魔除けとなさる心づもりでいらっしゃるということか。
さすが御屋形様じゃ。この戦の勝利を願った白狐を、今川館の守り神にするのだな。
御嫡男の氏真様も少し京好みが過ぎるきらいはあるが、当主の座を譲られてからは立派にお役目を果たしておられることではあるし、いよいよもって今川の行く末は安泰であろう。
『三河後風土記正説大全』によると、4月26日白狐が駿河惣社大明神の社壇にて死す。と書かれているようです。
そして 静岡市葵区南沼上3-18-7にある
大安寺さん(臨済宗妙心寺派)には、実際に白狐のミイラがお祀りしてあります。
ご利益は商売繁盛と失せもの探しだそうで、特に失せもの探しには定評があるのだとか。
白狐のミイラが大安寺さんに来た由来ははっきりしていないそうですが、白狐、というキーワードが符合しているので、大安寺さんに許可を頂いて名前を使わせてもらいました。
この場をお借りして、大安寺さんに御礼申し上げます。
ありがとうございます。
皆様もお近くにいらしたら、ぜひお参りしてくださいね!




