216 閑話・海道一の弓取り その1 宿願
今回のお話からしばらく今川方の松井宗信の視点となります。
よろしくお願いします。
――永禄三年 四月二十七日――
「いよいよ尾張攻めですな」
評定の間での会議を終えた儂は、後ろからそう声をかけられて立ち止まった。聞き慣れた声に振り返ると、そこには厳めしい顔つきの井伊直盛殿がいる。
「これは井伊殿。共に先鋒の大役を任されましたゆえ、よろしくお頼み申しまする」
「こちらこそ、松井様のような歴戦の方と共に肩を並べて戦えまするのを、非常に心強く思うております。どうぞよろしくお願いいたしまする」
軽く頭を下げると、直盛殿もまた頭を下げる。その頭にはだいぶ白い物が目立ってきた。
そういえば、とここ数年の井伊家の騒動を思い出す。
直盛殿には一人娘しかおらぬゆえ、甥である直親殿を婿養子として迎えることになっていたのだが、直親殿は諫言によって父の直満殿を殺されたため、身の危険を感じて家臣と共に信濃の方へ身を隠していたらしい。
しかし直盛殿は、いずれ直親殿が許されて戻ってきた暁にはご息女と娶せて跡を継がせる心づもりでいたようで、本人には直親殿が生きている事は知らせないままではあったものの、娘が他の者と縁組しないようにとわざわざ出家させていた。
だというのに、当の本人が他の娘と縁組をしてしまったのだ。
しかも側室であればともかく、正室だ。
身分上、直盛殿のご息女を側室にするわけにもいかず。さりとて正室となった娘を側室として、新たにご息女を正室として迎えさせるわけにもいかず。
また、井伊家の後継を直親殿と決めている以上、ご息女に他の婿を探すわけにもいかず。
結局、ご息女は仏門に入れたまま、直親殿を養子として迎え入れることとなったらしい。
一連の騒動は、京好みの雀たちの噂話によって伝わり、この今川館でも知る者が多い。
いくらお屋形様が京好みであるとはいえ、武士なのだからこのような浮ついた所は見習わずとも良い物を。
それにしても、と思う。
直盛殿も、他に係累の男子がいれば、このように心労でめっきり老けこむことはなかっただろうに。
元々、井伊家は遠江守護職を巡って今川と対立していた斯波義達に仕えていた家だ。三年以上に渡って抗戦していたが、今川の総攻撃によって降伏し、服従する道を選ぶこととなった。
御屋形様は、そのように降伏して軍門に下った者を信用されぬ所がある。そこで、あえて先鋒として敵と当たらせ、今川の為に命をかけるかどうかをお試しになっていらっしゃる。
直盛殿はご存知なかろうが、今川が足利将軍家から分かたれた時より付き従っている譜代の家臣である当家が、同じように先鋒を務めているのには理由がある。もちろん武功を認められての事ではあるのだが、また一方で井伊家が裏切らぬかを見張るお役目も担っているからなのだ。
そうして井伊家の男子は次々と戦で命を落とし、今では直盛殿と直親殿くらいしか残ってはおらぬ。
直親殿の正室は井伊家の筆頭分家である奥山殿の娘であったが、いずれ今川に近しい側室を勧められるであろう。そして男子が生まれれば、直親殿も今川への忠誠を試される。
それは松平の例を見るに明らかだ。
今川を頼って降った松平広忠殿に子が生まれれば誅殺し、広忠殿の子の元康殿に子が生まれれば、元康殿を生き残れるのか分からぬ役目につける。
先ほど、評定の間で大高城へ兵糧を届けろと命じたように。
小回りの利かぬ小荷駄隊を率いて織田の砦に囲まれている大高城へ向かうなど、死ねと言われたも同じであろう。
そして残される元康殿の子は、今川の血を色濃く受け継ぐ。その子が育ち、また今川の姫を娶り。
いずれ三河は、松平という名を冠した今川の血族によって支配されるようになるのだ。
一代だけではなく、次代に。さらにその次代に渡って今川の支配を堅固にすべく張り巡らせた御屋形様の策略は、全くもって見事だと感嘆するしかない。
おそらく井伊家も、いずれ松平と同じ道を辿るのだろう。
「ついに那古野を奪い返せますな」
「さよう。あれは元は今川の城ですからな」
直盛殿の指摘に、儂は大きく頷く。
先ごろまで織田が本拠地としていた那古野城は、元々は御屋形様の父君であらせられる紹僖公が築城したもの。それをあの織田信秀の計略によって奪われてしまった。
ゆえに那古野城の奪還は当然の事だ。これまでは後顧の憂いがあったが、雪斎殿の尽力により今川・北条・武田の三国同盟が結ばれた今、西征を妨げるものはない。
信秀の頃はなかなか手ごわい相手ではあったが、うつけと噂の信長は尾張をまとめるのにも苦労していると聞く。
なればこそ、此度の今川の総力を挙げた出陣により、尾張などひとひねりにしてくれよう。
「もっとも御屋形様のおっしゃるように、熱田と津島を奪ってしまえば織田など簡単に清須へと封じこめられるでしょうが」
「然り、然り。いずれ、上洛への道筋もできますしな」
上洛は御屋形様の宿願である。
雪斎殿が亡くなってより五年の月日が流れた。
御屋形様がかつて雪斎殿と見た夢――上洛を果たす――それが遂に叶う時がきたのだ。
胸にこみあげるものを感じながら、心の中で今は亡き雪斎殿へと勝利を誓った。




