199 太原雪斎
「修羅とはまた、仏の道を行く方にはふさわしくない言葉ですね」
「そうでもございませんよ。阿修羅や鬼子母神などは悪鬼から善神となっておりますから」
そう言われれば、確かに阿修羅は戦闘が好きな鬼神が改心して仏法の守護神になって、鬼子母神も人を食い殺す神が改心して安産とか子宝の神様になってるな。
「雪斎殿がどのような生を送っていたのかは分かりませぬが、身分高き者も身分低き者も、等しく苦難の日々を送った時代ですからな。雪斎殿も並大抵ではない苦労をなさったのでしょう」
そういえば月谷和尚様も、小さい頃は大変だったって話してくれたことがあったな。
和尚様自身は物心つく前からお寺に預けられてたから衣食住に困る事はなかったけど、東国では天変地異――大地震が起きて、それによる津波の被害で関東一円の人がたくさん亡くなったそうだ。
そして京では室町幕府管領細川政元が暗殺されたことを発端とする、管領細川氏の家督継承をめぐる争いが広がって、永正の錯乱が起こった。
それがようやく落ち着くと、今度は浄土真宗本願寺宗門における教団改革を巡る内紛と、これに触発されて発生した対外戦争が起こる。享禄の錯乱とそれに続く天文の錯乱だな。
そしてその争いがまだ収まらないうちに、今度は法華宗と延暦寺の宗教戦争である天文法華の乱が起こる。
その結果。
応仁の乱より続く争いの連続で、都は壊滅的なまでに荒廃して、四辻に死体の山が積み上がって野犬が徘徊した。まさに地獄のような様相だったらしい。
そんな時代に育ったら――うん。すさむな。月谷和尚様の様に悟りを開いてなければ、目の中に修羅の一人や二人は隠れ住んじゃうのも無理はない。
「その瞳の奥には常に消えぬ憤怒がありましたが、仏に仕える者としての慈愛も持ち合わせておられた。おそらくではございますが、その矛盾した内面が、人を忌避させ、逆に惹きつけ……なんとも言えず、とらえどころのないなお方でしたな」
「月谷和尚様は、雪斎殿をお好きでいらしたのですか?」
「さて。今となってはどうだったのでありましょうか。拙僧では、近寄ったが最後、その憤怒の炎に燃やしつくされそうでしたからなぁ。とても近づけませなんだ」
遠き日の憧憬をその声に乗せてそう言うと、月谷和尚様は小さく笑った。
「だからこそ、雪斎殿が義元公のお側にいるのを伝え聞いて安心しておりました。憤怒に身を焼かれ修羅のまま果てることなく、人のまま逝ったのであれば、雪斎殿も安らかに成仏なさっていることでしょう」
「なるほど」
「そしてそれほどの男であった雪斎殿から一心に忠義を受けていた義元公が只人であるはずもございますまい。――以前、信喜様に今川仮名目録をお教えしたと思いますが、覚えておいでですかな?」
「義元公の父である今川氏親殿が定めた分国法ですね」
分国法っていうのは、その領地内でのみ適用される法律だ。アメリカ合衆国で、州ごとに法律が異なるのと同じだと思えばいいかな。
そして今川仮名目録には三十三条の決まりがあるんだけど、簡単に言うと、土地の揉め事を解決する為の決まりとか、喧嘩した時の仲裁の方法とか、宗教の論争は禁止とか、そういう身近な法律を制定してるんだな。
「さよう、さよう。そして義元公が六年ほど前に追加二十一条を制定されたのも覚えておいでかな?」
「はい。家臣同士の領地の境界の求め方や、相続の仕方などを定めているのですよね」
「おや。一番大事なものが抜けておりますな」
「と、言いますと?」
「二十条ですな」
えーっと、二十条ってどんな内容だっけ?
首を傾げていると、月谷和尚様がヒントを出してくれた。
「不入之地之事、代々判形を載し……から始まる条文でございますよ」
ああ、あれか! 思い出した。
今川家の領地の中では、幕府が定めた特権地であっても例外は認めず、守護が徴税したり犯罪者を捕えたりできる、っていう法律だ。
つまり、もう室町幕府の威光はなくなってるから、それには従わずに独自路線で領地経営をしていくよ、って堂々と宣言したってことだな。
他にも、湊や街道で幕府が関税とか運搬税とか通行税を取り立ててた関所を廃止して、今川家で管理するって法律もあったはずだ。
「覚えていらっしゃるようですな。今川仮名目録追加二十一条のうち二十条とは、幕府の権威のもとではなく今川の支配下で生きるように定める。義元公は、その上でさらに、寄親と寄子の制度を強固にしております。これがどういう事か、お分かりになりますか?」
寄親寄子制っていうのは、寄親である主君が家臣を守る代わりに、寄子である家臣たちは軍役でその恩を返す、っていうものだ。
今川で言えば、義元が寄親で、家臣が寄子だな。
そしてその家臣にも仕える者がいるから、それぞれ寄親と寄子の関係になる。
その下にも寄子がいて、という感じで、一番下を足軽にしたピラミッド型の組織が出来上がるわけだ。
そうすると、義元が出陣するぞ、と号令をかけると、ピラミッドの下の方にいる人間まで動員できるって訳だ。
「義元公の鶴の一声で、大勢の兵が集まるということです」
「さよう、さよう。おそらく今の権勢で推測するならば、ざっと二万から三万の兵を集めることができましょう」
「もしそれが尾張に攻めてきたなら、尾張で迎え撃つ兵の数は――」
どんなに多く見積もっても七千ってとこだ。でもそのうち何割かは尾張の防衛として城に残しておかなくちゃいけないから、実際に戦に行ける兵はせいぜい五千か。
うわぁ。今川の集めた兵が全て尾張に攻めてくるわけじゃないにしても、かなりの人数差だな。
……それってちょっと……いや、かなり無理ゲーじゃないのか!?
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