195 火中の栗
師走が近づくと、信長兄上は少兵で村々を視察するようになった。今年は天候に恵まれなかったけど、それでもそこそこの収穫があったから、新年の餅にも欠く村は少ないそうだ。
もちろん中には不作で大変な村もあったけど、「餅くらいは食わせてやれ」っていう信長兄上の鶴の一言で、少量ながらも餅が施された。
でも、これでなんとか平穏に年が越せそうだな、と思っていたら……超弩級の厄介事が熊と共にやってきた。
「勝家殿! ご無沙汰しております。市姉さまはお元気ですか?」
「信喜様もお元気そうで何よりでございまする。おかげさまで、市も元気にしておりまする」
ほほー。市、だってー。
まあ結婚したんだから呼び捨てで当然なんだけどさ。それにしても、市、って言う前に少し顔が赤くなってるぞ。まだまだ慣れてないのかもしれんけど、熊らしくていいね。
「寒さが厳しくなってまいりましたからね。暖かくして滋養のある物を食さないといけません。何か必要な物がありましたら、遠慮なく言ってくださいね」
「かたじけない」
頭を下げる熊に、俺はつい、口元がにやけるのを抑えられなかった。
だってさー。
「それにしてもめでたいことです。市姉さまがお子を身籠ったとか。勝家殿も父親になられるのですね。おめでとうございます」
「ありがとうござりまするっ」
更に深く頭を下げる熊に、感慨深くなる。
史実では、熊と市姉さまの間に子供は生まれなかった。それほど長く一緒にいられなかったから、っていうのもあるけどさ。確か結婚して一年ほどで、柴田勝家は豊臣秀吉によって殺されちゃうんだ。
だから俺は心の中で神仏に祈ってる。
歴史が変わってこうして生まれてくる子供が、どうか幸せになりますように、って。
そして生まれてくるはずだった子供が、どうか違う両親の元で幸せになりますように、って。
それが、この時代に転生して、歴史を変える決心をした俺のエゴだっていうのは分かってるけど。
でも、祈らずにはいられないんだ。
どうか、幸せに、って。
それにしても熊の子供か……。
前に会った熊の甥っ子は、見事なまでに熊二号だったんだよな。市姉さまの子供も熊そっくりだったらどうしよう。
いや、市姉さまの子供だから可愛がるけどさ。それでもやっぱり、出来る事なら市姉さまに似て欲しいと思う。うむ。
「それで、火急の用との事ですが、どうなさいましたか?」
「それが……」
言いよどむ熊の後ろには、一人の若武者が平伏している。信長兄上お気に入りの前田利家だ。いつも信長兄上にべったりなのに、どうしたんだろう。
「ここにおります前田利家が、殿から出仕停止の命を下されもうした」
「はあ!?」
出仕停止って、つまりはクビってことだ。信長兄上はお気に入りの家臣には甘いっていうのに、一体何をやらかしたんだ!?
「なぜ、そんな事に?」
「……殿の同朋衆である愛智拾阿弥を、御前にて斬り殺しましたゆえにございます」
同朋衆っていうのは僧形で、芸を披露したり茶を立てたり雑用をこなす者を言う。
その中でも拾阿弥っていうのは信長兄上の一番のお気に入りで、よく細々とした用事なんかを任されてたはずだ。
なんだって利家はそいつを殺したんだ?
「……詳しく説明をお聞きしましょう」
俺が利家に向かって話しかけると、涙をこらえた少し釣り目の利家が顔を上げた。
「元はといえば、拾阿弥の奴が悪いのだ!」
「こらっ、利家! お前は信喜様に何という口をきくのだ! 信喜様、申し訳ございませぬ。このような無礼な者にお目通りさせるべきではございませなんだ。さ、利家。帰るぞ」
利家の口調にまなじりを吊り上げた熊は、その腕を取って立ち上がらせようとした。
でも利家は熊の怪力にあらがって踏ん張っている。おお、結構根性あるな。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。柴田の兄貴。ここを追い出されたら、俺は行くところが――」
「自業自得であろう。これ以上、信喜様をわずらわせるでない」
「でも――」
「まあまあ、勝家殿。そのように怒らなくても、私は気にしていませんよ。それで、なぜそのような事になったのですか?」
利家を立たせて帰ろうとする熊を制すると、俺は利家から事情を聞くことにした。
前田利家は荒子城主前田利春の四男で、十四歳の時から十年間、信長兄上に仕えている。津島や那古野では信長兄上と一緒に暴れていて、ちょっとヤンキーが入ってるような男だ。
しかもロリコン。
いやだってさ、利家が結婚したのって二年前だけど、こいつ二十二歳なのにお嫁さんのおまつはまだ十二歳だったんだぞ!?
普通に事案だよな!
しかも今年、子供まで生まれてる。ありえないだろ……
でも嫁を愛してるのは確からしい。
元々、拾阿弥とのトラブルは、利家が結婚式の時にまつにもらって大切にしていた笄っていう刀の鞘につける飾りを、拾阿弥に盗まれたのが始まりらしい。
「女にもらった飾りなどつけて、何と女々しい男だ。それでも武士か」
なんて馬鹿にされたのもあって、利家の怒りは相当なものだった。そこで信長兄上に成敗する許可をもらいに行ったんだけど、当然ながら信長兄上がお気に入りの拾阿弥を殺すのを許可するはずもない。
説得されて一旦は引いた利家だったけど、佐々成政のところへ逃げこんだ拾阿弥は更に利家を煽った。
「大体、そんなに大事な物だったなら、盗まれる隙を作る方が悪いのだ。利家殿は嫁にうつつを抜かして呆けたのではないか。それに武士が斬ると口にしたのに斬らぬとは、いくら殿のお口添えがあったにせよ、なんとも意気地のないことだ。それならば最初から斬るなどと言わなければいいものを」
さすがに敬愛する信長兄上の目の前でそこまで言われて我慢ができるはずもない。それならば斬ってやろう、と、斬っちゃったってわけだ。
でもそうなると、斬ってはならぬと言っていた信長兄上の面子は丸つぶれだ。しかも殺されたのは可愛がっていた拾阿弥だからな。瞬間湯沸かし器が速攻で沸騰したのと同じような勢いで、利家に死罪を申し渡したんだそうだ。
それを、たまたま通りかかった熊が、信長兄上をなだめてなだめて、更になだめて、出仕停止で許してもらったらしい。
でも織田家をクビになった利家には他に行くところがない。実家に帰っても、元々四男だから部屋住として肩身の狭い思いをしなくちゃならんしな。
それに愛妻のまつと、生まれたばかりの子供のことも考えないといけない。
どうしよう、と熊に泣きついて、熊がここまで連れてきたみたいだ。俺だったら信長兄上の勘気を治められるんじゃないかって。
え、そんなの無理だよ。
あの信長兄上の本気モードの怒りなんて、俺に何かできるわけないじゃないか。
火山の中を素足で歩けって言われてるようなもんだ。
「信喜様、なにとぞ、なにとぞ殿へのお口添えをお願い申し上げますっ」
必死な声でそう叫んで平伏する利家の頭のつむじを見る。
横で熊も同じように頭を下げている。
とは言っても、気持ちは分かるんだよな。俺だって美和ちゃんからもらった物を盗まれたりしたら、斬る……まではいかなくても腕の二本くらいはもらわないと気が済まない。
だから本当なら、最初に信長兄上が拾阿弥を罰していれば良かったんだよ。
ってことは、これは信長兄上の不始末ってことか?
むむむ。それなら、兄の不始末を弟が尻ぬぐいするのは当然か……?
でも、火中の栗なんて、拾いたくないなぁ……




