193 閑話・ ツツジの咲く館
甲斐の夏は暑い。
三方を険しい山に囲まれているせいだろう。風の通る道がなく、熱がこもるばかりだ。
それゆえ、ひとたび日照りが続けばたちまち土地は乾き、農民たちは水を求めて雨ごいをする。
だがその雨も長雨となれば、釜無川が氾濫を起こし大水を起こす。
甲斐の歴史は、日照りと洪水と、さらにその後に襲ってくる飢饉と疫病との闘いの日々であった。
今年は長く続く雨によって米の育ちが悪い。このまま長雨が続けば、農民たちは年貢を納めるどころか、不作による飢饉によって餓死する者が出てくるだろう。
また、甲斐の娘が売られていくのか……。
農民たちにとってすぐに金になる手段といえば、娘を売ることだ。売られた娘たちは、わずかばかりの金と引き換えに女郎となって春を売る。
仕方がない事とはいえ、何もできない我が身が歯がゆい。
せめて今川や北条のように、湊の一つでもあればまだ違っていただろうが、甲斐は山に囲まれた国ゆえそれもままならぬ。
それでもまだ、稀代の名君とも言って良い御屋形様の治世でなければ、甲斐の現状はもっとひどいものだったに違いない。
先代の、武田信虎様が甲斐を治めていた時のように。
廊下を進むと、ぱちり、ぱちりと、扇子を開け閉めする音が聞こえてくる。
これはいつも御屋形様が考え事をする時の癖だ。
「御屋形様」
「菅助か。いかがした」
わしは縁側から、物思いにふけりながらいつものように庭の芙蓉を眺めていた御屋形様に声をかけた。
卯月の頃には咲き誇っていた躑躅の枝も、今はすっかり花が落ち、瑞々しい緑の葉を繁らせている。
振り向いた御屋形様は、ただそこに立っているだけで、思慮深さと大胆さを合わせ持つような、得も言われぬ風格を感じる。
甲斐の守護大名であり、由緒正しい清和源氏の流れを汲む武田家の当主、武田晴信様――その名前は日の本一の武将として、いずれ津々浦々まであまねく知れ渡ることだろう。
「長尾の小僧めが、津島に祭り見物に行くとの情報を得ました。いかがなされますか?」
「津島……尾張か。あのような田舎に何の用であろうか」
御屋形様の鋭い目が、何かを考えるかのようにすがめられる。
「刺客を放ちますか?」
「……うまく入り込めるかの」
御屋形様に指摘されて熟考する。
尾張のような田舎であれば、いくら津島がにぎやかな湊といえども、働く者はほぼ顔見知りだろう。今から間者を紛れ込ませるにしても、その頃にはとうに長尾の小僧は津島を離れているに違いない。
「難しいやもしれませぬ」
「念の為、歩き巫女を放っておけ」
「はっ」
歩き巫女を間諜として使うというのは御屋形様の考えだ。望月盛時殿に嫁した千代女殿が甲賀の出というのを聞いた時、甲賀ではおなごにも忍びの術を教えると知って思いついたのだそうだ。
まだその数は少ないが、いずれは戦で親を失った子らを集めて手駒を増やしていくおつもりであるらしい。
そうして得た情報は必ずや甲斐のためになる。
敵の何たるかを知れば、恐るるに足らず。その敵を倒せるだけの力でもって当たれば良い。
そう断言する御屋形様の慧眼に、頭の下がる思いだ。
甲斐は、武田は、その御屋形様の指揮によって幾多の戦いを勝ち抜いてきた。
だがそれほど先を見通せる力を持つ御屋形様でも想定外の相手だと言い切るのが、あの長尾の小僧だ。
越後の守護代、長尾景虎。――内乱続きであった越後をまとめた手腕こそ認めはするが、御屋形様と対等に戦うには力不足だと思うのに、なぜか三度に渡って戦っても未だにはっきりとした決着がつかぬ。
あの者の噂を初めて聞いたのは……そう。七年ほど前のことになろうか。
「御屋形様。お呼びでしょうか」
李衛公問対巻之中を読んでいた御屋形様は、わしが入室するとその手にしていた書物を脇に置いて座り直した。
多忙を極める中、わずかな時間でもこうして兵法を勉強なさるとは、さすが御屋形様じゃ。
「菅助。最近、越後に毘沙門天の生まれ変わりだとほざいて暴れておるものがいると聞くが知っておるか?」
確かにその話は耳にした。だがそのような法螺話を御屋形様に聞かせるまでもないと捨て置いておったが……何か御屋形様のお心に触れるような物があったのだろうか。
「はい。何やら義を乱すものを討たねばこの世は闇に覆われてしまうと申しておるようでございますな。しかし、しょせんは士気を高める為の戯言でございましょう」
「ふ……。義とな」
わしの言葉を聞いた御屋形様は冷ややかな笑みをこぼした。
「のう、菅助。この戦乱の世を義で治められると思うか?」
義とはすなわち、道理をもって正道を行うこと。
だが……乱世のこの世に、そのような甘い考えしか持たないようであれば、すぐさま悪党どもの餌食となって果てるだろう。
であるからこそ。
「……智略、戦略。時には謀略も必要かと」
わしの言葉に、御屋形様は深く頷いた。
「理想だけでこの世を治めることなどできん。理想だけでは民は救えぬ」
「まことに、その通りでございます」
「義で国を治められるなどと、民を惑わせるにも程があろう」
実現しえぬ理想に踊らされて、民たちは死出の旅へと突き進む。それが越後の進む道であれば、行き着く先は地獄に他ならない。
「だが戦においては一騎当千の槍働きらしいの。……厄介な」
脇息にもたれて片頬をつく御屋形様は、開け放たれた襖のその向こう、遠く奥信濃を睨んでいた。
甲斐の国は貧しい。それゆえに民を食わそうと思えば領土を増やしていくしかない。だが南は今川と北条がいる。今の甲斐が挑んでも返り討ちに遭うのがせいぜいだ。もっとこちらが力をつけるか、あるいは向こうが弱ったところでその喉笛に食らいつくしか策がない。
では北ならばどうだろう。小国がひしめき合い、今にも熟れんばかりの果実に見える。
信濃の先の肥沃な土地である川中島、さらにその先の善光寺界隈。それを一手に握ることになれば、甲斐の国は強国となるだろう。
その向こうに、毘沙門天の化身などと戯言を申す男がいる。
「その者、名はなんと申す」
「長尾景虎、と」
「長尾景虎か」
御屋形様は、いつか戦う予感を感じてでもいるのか、確かめるようにその名を呟いた。
「義などなんの役にも立たぬことを、わしが証明してみせよう。長尾景虎は、必ずやこの晴信が打ち負かせてくれようぞ」
しかし、戦の天才とやらの呼び名だけは本当であったらしい。
三度攻めた我らを、長尾の小僧は三度防いだ。そして公方様の調停により、我らは互いにその矛を収めることになった。
だが――
御屋形様は、必ずやまたあの地へ向かうであろう。
甲斐の民のために。
そして雌雄を決する為に。
そう遠くない未来に、必ず――
山本勘助といえば、実在するかどうか分からない謎の人物というのが定説でしたが、最近では山本菅助という人が実在しているのが分かったそうなので、菅助の方の名前にしております。




