177 婚礼
そんな信長兄上とのやり取りを思い出していると、部屋の外がざわめいて来た。どうやら美和ちゃんが龍泉寺城に到着したらしい。
緊張したまま待っていると、襖の向こうから熊が入室を求める声が聞こえた。入室を促すと、正装である狩衣姿で平伏した熊と半兵衛がそこにいた。
入口の両端には、タロとジロが仁王像のように立って護衛している姿がチラっと見えた。その頼もしい姿に、少し気が緩む。
「熱田神社大宮司及び羽豆崎城城主であられる千秋加賀守季忠殿のご息女、千秋美和殿、無事に龍泉寺城に到着つかまつりましてござります」
「お役目大義でございます。つきましては当方でささやかな食事の用意をしておりますので、そちらにてしばし休息なされませ」
「お気遣いありがとうござりまする。ありがたく存じまする」
熊と半兵衛は平伏したまま、一度も顔を上げる事なく、侍女によって襖が閉められる。
そしてまた、蝋燭の灯りの揺らめく部屋で一人待った。
しばらくすると、シュッ、シュッ、と着物が床をこするような音が聞こえてくる。
いよいよ、花嫁御寮のお出ましだ。
俺は心臓が口から飛び出るんじゃないかと思うくらい緊張していた。耳元も、なんだかキーンという音が聞こえてきて、痛いくらいだ。
「千秋加賀守季忠様がご息女、千秋美和様、ご到着でございます」
先導した侍女の声と共に、白綾の小袖と打掛を着た美和ちゃんが、顔を俯かせながら進む。
白の花嫁衣装は「あなたの色に染まりたい」って意味しかないと思ってたけど、この時代で着るのには別の意味もある。もちろん、まっさらだとか清らかっていうのを表現してるのに違いはないんだけど、それと同時に「一度家を出たからには、死んでも実家には戻りません」っていう意味をこめた、一種の死に装束にあたるんだそうだ。
嫁迎えの儀の時の門火もそうだけど、花嫁側が結婚する時の心構えが不撓不屈の精神すぎる。これだけ実家に帰ってくるなって言われてるんだからさ、困難があったとしても、それに立ち向かって前に進むしかないじゃないか。
あ、いや。もちろん俺は美和ちゃんにそんな苦労はさせないけどさ。
美和ちゃんは、ひし形の周りを花弁の形に図案化した花菱を、狭い間隔で密に繰り返した幸菱を浮織にした白綾の小袖と打掛を着ていた。胸元には、愛染明王の守護札を雌雄の二つ作って夫婦和合のしるしとする、夫婦愛敬の護符を収めた守り袋がつけられている。
花嫁衣裳に身を包んだ美和ちゃんは、まるでこの世の者とは思えないほど綺麗だった。
この女が、これから俺の奥さんになるのか……
俺の、全身全霊をかけて大事にしよう。
前世と今世含めても、俺のたった一人の奥さんだからな。
俺が百歳で畳の上で死ぬ時は、美和ちゃんの手を握って逝きたい。
結婚式の時に思う事じゃないかもしれんけど。
そして新郎である俺は、やっぱり白い色の直衣を着ている。
男が白を着るのは、女性とは逆に浄衣、つまり神事・祭祀・法会など宗教的な儀式の際に着用される衣装が元になっている。元は儀式で使う為だけに着た白直垂が、やがて武家の威厳を保つための衣装になったんで、こうして婚礼の時に着るようになったって事らしい。
同じ白い衣装でも、男と女じゃ、意味合いが違い過ぎるんじゃないかね。
しずしずと、美和ちゃんが俺の元へと歩いてくる。
そして俺の前に座って指をついて頭を下げた。
「美和でございます。織田信喜様、ふつつかではございますが、いくひさしくよろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ、いくひさしくお願いいたす」
俺が軽く頭を下げると、美和ちゃんは膝立ちのまま侍女の助けを借りて俺の右手に座った。
武家の場合は新郎は左の腰に太刀を佩くから左に座るのはダメなんだ。
いついかなる時も、危険があったら刀を抜けるようにしておかなくちゃいかんからな。
っていうか、婚礼の時ですらそんな危険を心配しなくちゃいけない世の中だっていうのが悲しいけど。
まったく、早く平和な世の中が来てほしいよ。
侍女から盃を渡されて、まず美和ちゃんが「式三献」の儀式をする。
盃を受け取る時に、美和ちゃんが唇に差している紅の色が盃の縁についていて、それが妙になまめかしかった。
俺と美和ちゃんが三々九度の盃を交わすと、静かに侍女が部屋から出て行った。
つまり、今は、俺と美和ちゃんの二人きりだ。
……き、緊張するなんてもんじゃないな。
なんて声かければいいんだよ!?
何を言っていいのか分からず、前を向いたまま冷や汗を流す。
しばらくして、右に座る美和ちゃんが身じろぎする音が聞こえた。
「信喜様……」
「は、はい」
小さな声で呼びかけられて、どもりながら答える。
く、くそっ。カッコ悪すぎるぞ、俺。
「本当に、私で良いのでしょうか?」
「―――え?」
「姉上は、いずれの武家に嫁いでも見劣りせぬようにと様々な教養を身につけておりますが、私は元々商家へ嫁ぐだろうということで、手習いは多少たしなみましたが、姉上のように素晴らしい歌を作ることなどできません。ですから信喜様の正室として、私に武家の奥を取り仕切ることができるのかどうか、不安でたまらないのです」
思わず美和ちゃんの方を向くと、婚礼のための化粧のせいだけではなく、はっきりと分かるほど青ざめて見えた。
その顔を見て、俺は思わず息を止めてしまう。
交差する視線の先で、美和ちゃんの黒い瞳が揺れているのが分かった。
俺は、止めていた息を吐くと、硬く握りしめられている美和ちゃんの冷たい手を取った。
「何もできなくても、いいではないですか。ただ、貴女が貴女であるだけで」
好き、って気持ちは不思議だ。
相手のどこが好きかなんて具体的に言えなくても、ただその人を思うだけで胸が苦しくなる。
笑顔が見れれば嬉しいし、悲しい顔を見れば慰めたくなる。
だから、美和ちゃん。
俺が君に願うことは、きっとこれだけだと思うんだ。
「私はあなたの笑顔が好きです。上手な歌など作れずともいい。私だって、人に誇れるような才能などありませんから。でも、一つだけお願いがあります。私の前では、いつも笑っていてくださいませんか? 城に戻ってきた私を、笑顔で迎えて欲しいのです」
織田家の八男として生まれた以上、俺はこれからも戦の中に身を置かざるを得ない。
信長兄上を支えると決めた日から、俺の進む道が血塗られたものであることは分かっていた。
あえて見ないようにして逃げていたけど……きっともう、逃げられない。
だからさ。
だから、美和ちゃん。
戦で人を殺して城に戻ってきた俺を、どうか笑顔で迎えてはくれないだろうか。
そうすれば、俺は人の心を失くさずにいられるような気がするんだ。
俺は……、俺は君の笑顔に救われているんだよ。




