176 婚礼直前
信長兄上が尾張をほぼ統一して、外患はともかく、内憂のほうはひとまず落ち着いたと言っていいだろう。
そこで当初からの予定通り、俺と美和ちゃんの婚礼が執り行われることになった。
意外なことに、この時代の結婚式は夜に行われる。時間は大体、暮れ六つから八つ、つまり午後六時から午前二時くらいまでの間らしい。
月谷和尚さまによると、陰陽道では、男は陽で女は陰とする。そして昼が陽で、夜が陰。
だから陰である女の人を家に迎えるのには、陰である夜がふさわしい、ってことになるんだそうだ。
「婚礼の婚の字も、女と昏しという二文字でもって表されておりますでしょう? 昏しとはすなわち、日暮れのことでございますからなぁ」
「なるほど。それで夜に婚礼の儀が行われるのですね」
「ふむ、ふむ。さようでございますよ」
初めて会った時と姿の変わらない月谷和尚さまに説明されて、俺はなるほど、と納得した。
なんとなく現代の感覚で言うと、結婚式は昼間の方が良さそうに思うんだけどな。花嫁行列だって昼間のほうが安全だろうし。
夜に移動するんじゃ、賊とかに襲われる危険がありそうじゃないか?
もっとも、そこら辺の賊程度では適わないくらいのお付きの兵士をつけているから大丈夫なんだろうけど。
でも十八年くらい前に、陸奥の伊達晴宗が、奥州一の美少女の誉れ高い久保姫が結城晴綱に嫁ぐ際の輿入れの行列を襲撃して攫って、強引に正室にしたって話も聞くしなぁ。
伊達っていったら、あの伊達政宗の父親か祖父ってとこかね。
先祖代々、やることが派手なのかもしれん。
ちょうどその頃、月谷和尚さまも奥州にいたらしくて、そりゃもう大変な騒ぎだったらしい。この辺りでは全然知らない人が多いけど。
この時代じゃネットどころか、新聞も江戸時代にできた瓦版もないからな。そんな大事件があっても、そのニュースが全国に広がるってことはないんだよ。
そう考えたら、本当に月谷和尚さまの情報網って凄いよな。
他にもこの時代の常識なんかも教えてもらってるし、月谷和尚様がいなかったら、俺の戦国ライフは行き詰ってたかもしれないと思う。
月谷和尚さまの庵の方に足を向けては寝れないな。うむ。
そんな月谷和尚さまとのやり取りを思い出しながら、俺は部屋に揺らめく灯りを見る。
ようやく圧搾機が完成して作れるようになった龍泉寺印の蝋燭が、ここかしこに置かれて部屋の中を明るく照らしている。
昼間ほど明るくはないけど、それでも夜だというのにも関わらずここまで部屋の中を明るくしていれば、龍泉寺城に初めて来た美和ちゃんはきっと凄く驚くだろう。
この日の為に、たくさんの蝋燭を用意しておいたからな。
そして、部屋の真ん中には、灯りの灯されていない特別な一本がある。
竹の空洞部分を使って作った大きな蝋燭には、墨で五十本の線が引いてある。上から二十五番目の線の色は銀で、五十番目の線の色は金にしてもらった。
つまりこれは、俺と美和ちゃんの結婚記念の為の蝋燭ってことだ。
結婚二十五年目が銀婚式。結婚五十年目が金婚式。
これは俺の前世の母親が、父親に結婚記念日を忘れられて思いっきりキレて離婚騒動にまで発展した時に覚えた。前世の母さん曰く、とにかく夫婦の記念日を忘れたら離婚届をつきつけられても男は文句を言えないんだそうだ。
ごめんよ、母さん。記念日どころか結婚もしないうちに死んじゃって。
本当に、俺は親不孝だな。
そして今世の母親のことにも思いを馳せる。
父の愛を得られずに狂った土田御前。
その歪んだ愛情は、信行兄ちゃんを溺愛して、信長兄上を排斥しようとした。その結果、織田家中を混乱に陥れた。
そして今なお、清須城に作られた座敷牢で、信長兄上と俺に怨嗟の声を上げているらしい。
でも。
でも、結婚直前の昨日、信長兄上が語ってくれたことがある。
おそらく亡き父上は、尾張下四郡の守護代だった織田大和守達勝の娘だった、男子が生まれないということで離縁された最初の妻を寵愛していたのだろう、と。
「でも、その方は、ご実家が父上と対立したことに加えて、悋気が激しいことから離縁されたのではないのですか?」
「……その噂を流したのは、おそらく母上であろう」
なぜ、と聞くまでもなかった。
母上は、父上が離縁した前妻に心を残しているのを知って、その評判を貶めようとしたんだろう。
……そんな事すれば、ますます父上に疎まれるだろうに。
もっとも、それが分からないからこそ、座敷牢に幽閉されるような事態になったわけだけど。
「織田の男は、情が深い。ゆえに、想った女を失うと箍がはずれる。父上があれだけ側室を持ったのも、そのせいだろう。お前も織田の男だからな。覚えておくといい」
単なる女好きじゃなかったのか。そういえば信光叔父さんも正室一人だけを大事にしてたな。
信行兄ちゃんだけは違うけど、そう言われれば側室を持ってても、大勢の側室を抱えてるって人は少ない気がする。
あれ? でもそうしたら、信長兄上は……
正室である濃姫と結婚してから、ずっと側室は持ってなかったよな。さすがに嫡男どころか女子も生まれてないってことで、最近ようやく側室を持つようになったところだ。
もし、織田の男が愛するのがただ一人なんだとしたら。
父上にとっての前妻がそうで、信長兄上にとっては濃姫なんだとしたら。
美和ちゃんのお姉さんの吉乃さんは、信長兄上にとってどういう存在なんだろう?
「案ずるな。俺は濃も吉乃も大切に思っておる。だがおそらく、お前はそうはなるまい」
あ、良かった。吉乃さんも大事に想われてるらしい。
やっぱり美和ちゃんのお姉さんだしな。子供を産むためだけに側室にされたんじゃなくて、本当に良かったよ。
でも、俺には無理だな。
前世では魔法使い寸前だった男だぞ? そんな俺が側室まで持つとか考えられん。
自慢じゃないが、そんな甲斐性は俺にはない!
「私は……美和殿以外を妻にと考えた事はありません」
「であろうな」
腕を組んだまま頷いた兄上は、ニヤリと口の端を上げた。
「お前が複数の妻を持って、諍いを起こさせずに上手にあしらえるとも思えぬからな」
うっ……。図星だけど、図星なだけに言い返せなかった……




