130 反本丸
「牛を食すだと!? うつけも大概にせい!」
牛さんの放牧と遊水池の普請を信長兄上に奏上したら、しこたま怒られた。久しぶりの手加減なしゲンコツだ。痛い。
「で、でも兄上……」
「でもも案山子もないわ! 坊主どもに破門されるぞ」
神仏が信じられているこの時代、破門されるっていうのは、死後に極楽浄土に行けなくなるのと同意語だったから、破門されるかもってだけで普通の人は震え上がってしまうだろう。
でもさぁ。史実で比叡山を焼き討ちして仏敵なんて呼ばれちゃう信長兄上にそんな事言われても、全然説得力がないんだけどなぁ。
「でも滋養に良いのですよ……」
頭を押さえながら涙目で呟くと、一緒に来ていた明智のみっちゃんが「恐れながら」と声をかけた。
「なんだ」
信長兄上は、顎をくいっと動かし、みっちゃんに発言を許した。
「畏れながら申し上げます。喜六郎様が牛を食したいとおっしゃるので調べましたところ、崔禹錫食経という書物にて、健康な黄牛の肉は滋養に良いと書かれており、これを反本丸という薬にして食すとも書いてございました」
「薬だと?」
「はい。薬でございます」
「なるほど、薬か。して、どのように作る」
「まずは黄牛、つまり立派な牛を用います。その筋を取り除き、肉を切り、切った肉はよく洗ってから一晩水に浸します。更に三回洗った後に、酒と共に煮ます。そうしたものをさらに味噌で漬けます」
「うまそうだな」
「薬でございます」
「薬か」
「はい」
えーっと。この禅問答みたいなのっていつまで続くんだろう。
とりあえずみっちゃんが俺の味方をしてくれているってことかな。がんばれ、みっちゃん。
「薬であれば体の悪い者に処方いたすのも致し方あるまい。それならばうるさい坊主共も黙らせられるやもしれんな」
「津島神社の祭神は牛頭天王でございますが、薬師如来の権現となります。ゆえに、薬として食すのであれば津島神社のお墨付きを頂けましょう」
「で、あるか」
「はい。喜六郎様の枕元に牛頭天王が権現して薬の製法を伝えたと申しておけば、より一層よろしいかと」
ええー。なんでそこで俺!? ヤダよ。また拝まれるじゃないか。それに牛頭の神様なんて枕元に立ったら、おいしく牛肉を食べれないじゃないか。
って、言いたいけど、言えない。
だってここで下手に口を出して、信長兄上が怒ったら、夢の焼き肉が遠ざかっちゃうからな。
ここはじっと我慢だ。
俺も大人になったな。うむ。
「光秀」
「はっ」
「まずは老いて死んだ牛にて試してみよ。そして完成したものは清須に持ってくるが良い」
えー。いいなー。信長兄上だけ先に牛肉を食べようとしてるー。ずるいぞ。
味噌に漬けるってことは、味噌漬けか。その前に酒で煮るのはどうなんだろう。保存食として仕方がないのかな。でもうま味が全部出ちゃいそうだけどな。
酒と味噌に漬けるだけだったら、夏場じゃなければ保存できそうだけどな。それでその肉をゴマ油を引いたフライパンで焼いたら、おいしいんじゃないかな。
そ……想像しただけで、ヨダレが……
「あめうし、とありますので、飴色の牛に限りましょう」
「ふん。小賢しい」
「つきましては小者を幾人かお借りしたく存じます」
「良かろう。当てはあるのか?」
信長兄上に聞かれたみっちゃんは、一瞬考えたけど、すぐに返事をした。
ここで長考すると信長兄上が怒りだすからな。さすがみっちゃん、信長兄上の性格を把握してきてるな。
「殿が最近お目をかけております、木下はいかがでしょう」
「猿か。なるほど適役かもしれんな。許す。好きに使え」
「ははっ」
平伏する時に、みっちゃんがチラっとこっちを見て、微笑んだ気がした。
ありがとう、みっちゃん! これで牛肉が食べられるよ!
「さて、次はこの水堀だが、これは何だ?」
信長兄上が龍泉寺の縄張り図を見て、顔をしかめた。
えっ。牛だけじゃなくて遊水池もダメなのか!?
ここで牛が飼えないってことか。
「遊水池といって、洪水の時に水を貯めて、川が氾濫しないようにするのです」
「龍泉寺には作らん。作るならば、もっと下流だな。もしくは吉根か」
吉根の辺りは上流から流れてきた庄内川が、急カーブで左、つまり西の方向に曲がる船の難所だ。一度、川遊びをした時に見たけど、吉根のあたりはこんもりとした丘になってるんだよな。あんなとこに遊水池を作れるのかね。
「しかしあの辺りは骨が出るから厄介だな」
「あの辺りで戦でもあったのですか?」
「さて。古い墓でもあったのだろう」
古い墓か。昔、お寺があったのかな。
吉根の辺りに遊水池作るとなると……あそこに牧場作るのかな。いやまだ決まってないけど。
「でも兄上。こちらの水堀はよろしいのでしょう?」
「堀は必要であろうしな。これは良かろう」
遊水池で牧場計画は頓挫したけど、牛肉食べよう計画は進んだみたいだから、まあいいか。
江戸時代の彦根藩では
元禄年間3代藩主井伊直澄の家臣に花木伝右衛門という武士がおり、伝右衛門は江戸在勤中に読んだ『本草網目』に従い、黄牛(あめうし、立派な牛の意味)の良肉を主剤とした「反本丸」と言う薬用牛肉を製造したことが記録として残っている
ウィキより
ということで、薬として将軍家に献上していました。
ただこの時代、まだ本草網目ができていないので、幻の料理本、崔禹錫食経を出しました。ちなみにこの本は現存していません。
吉根のあたりは上島古墳群というのがあったそうです。




