部屋でわたしと死体と死神と
私の目の前には、相沢の黒いしなやかな背中がある。半袖から出ている腕には、無駄な肉はなく、細く引き締まっている。
「じゃあ、行ってくる。俺のことは気にしないで先に寝ていていいからな」
相沢は玄関に向かいながら気遣わしげに呟いた。私がぐいっと視線を上げれば、癖のある彼の短い髪が歩くたびにふわふわ動いている。彼は前を向いたまま靴を履く。
「うん、わかった。頑張ってね」
玄関を開けた際に相沢は振り返り、口の端を僅かに上げる。そして、私に応えるように微笑んだ。眼鏡の奥に見えた彼の涼やかな目元は優しい。バイトに出かける相沢を私は笑顔で見送り、用心のために鍵をかけた。彼は夕方から居酒屋で働いているため、夜中に帰宅してくる予定だと聞いていた。
今、私がいるこのマンションの一室は、相沢が借りて住んでいるものだ。築浅なのか、設備は割と新しく見える。玄関のすぐ傍に台所があり、調理をするためには十分な広さがある。その台の上には、調理器具や調味料が並んでいて、彼は日常的に料理しているみたいだ。部屋の間取りは南北縦長で、南側の八畳ほどの部屋に入ると、天井の高い開放的な空間が広がっている。ただ、そこは彼の私物で満たされていて、家主のいない部屋は落ち着かない。思わず私の口から「はぁ……」と暗いため息が出てしまう。
「今日からこの部屋で暮らすのか……」
独り言を零して憂鬱な気分を紛らわせるが、やることを思い出して気合を入れる。
「いつまでも、うじうじしていても仕方がないか。結局、決めたのは自分だし」
壁にある梯子を上り、屋根裏部屋に到着する。大人二人が布団を敷いて寝られる広さがあり、自分の衣装ケースと布団一式が置かれていた。今日からここが私の居場所となる。
先ほど相沢の車で私の荷物を運んできたばかりだった。時間がなかったため、必要なものを適当にケースに詰めてきただけだけど。私はその蓋を開けると、生活に必要なものを取り出して整理し始める。
異性の友達の家に、短い間とはいえ、お世話になることに私は不安を感じずにはいられない。油断すれば二度目のため息をつきそうになる。私は作業をしながら、運命の決断をした時のことを思い出す。
そう、あれは昨日のことだ。ちょうど昼の休憩が終わり、三限目の真っただ中だった。次の授業で試験を受ける予定だった私は、食堂にやってきていた。がら空きだったテーブルを一人で占有して、今日のランチメニューを無我夢中で掻き込むように食べていた。なにせ、朝から何も食べてなくて腹ペコだった。そんな時、「なに食べてんの?」と急に後ろから男に声を掛けられて、それまで背後に存在すら感じなかった私は心底驚いた。
「えっ? うぐっ! ゴホッゴホッ!」
その結果、盛大に喉を詰まらせ、さらに気管にまで入ってしまい、むせて激しく咳き込んでしまった。口の中に入っていたご飯がテーブルの上に無残に飛び散り、本当に酷い有様だった。咳をしながら慌ててリュックの中から拭くものを探すが、残念ながら見つからなかった。
「これ使えよ」
振り返って相手を見れば、私の良く知る人物が可笑しそうに携帯用のちり紙を差し出していた。
ようやく呼吸が整い、男から貰った紙を使って身の回りを綺麗にして、やっと話せる状態に戻った私が真っ先にしたことは、勝手に私の真横に同席した男――相沢雅行を睨みつけることだった。彼はタンクトップにハーフズボンと外と家との区別が付いていないような寛ぎ過ぎた格好をしていた。髪だって寝癖なのか、元々の癖なのか、分からないほどあちこちカールしていた。
「人が苦しんでいるっていうのに、ニヤニヤ笑わないでよ。そんなに性格悪いから、クラスの女子に悪口を言われることになるんだよ。一体なにをしたの?」
私の憎まれ口に相沢は涼しげな目元を細めて苦笑する。彼は顔だけはなにをしなくても見た目が良かった。平凡な私とは大違いである。
「あのオガの吹き出し加減は犯罪でしょ? いや、それよりティッシュのお礼もなし?」
相沢の突っ込みに私はわざと口を尖らせて、「サンキューです!」と全く気持ちの籠ってないお礼を投げつけた。
「うわっ、可愛げがないなぁ」
「元はといえば相沢が驚かせたせいだし!」
相沢の文句を私はばっさりと切り捨てた。そんな私を平然と相沢は受け流し、「それよりさ」と話題をさっさと切り替える。
「俺って悪口言われてたんだ? もしかしてあれかな? ”私ってかわいくないし~”っていう返事に思わず”そうだね”って答えた昨日のやつかな?」
それを聞いて私は顔を顰めた。
「うわっ! 相沢ひどいね。そういうときは、”そんなことないよ”ってお世辞でも言うもんだと思うよ?」
「そうなんだ? 心にも思っていないことを言わなきゃならないなんて、ほんと面倒くさいね~」
そう呟く相沢は心底嫌そうな表情を浮かべている。彼は顔と頭が良いくせに、この不器用な性格のせいで、付き合う人を選ぶ。
私が相沢と出会ったのは、去年この大学に入学してクラスが一緒になった時だ。彼は自己紹介で私の名字を知った時、「小笠原って、長くて呼びにくいね」と文句をつけてきたのだ。それで相沢の第一印象が”変わった奴”となった。
「じゃあ、”オガさん”って略していいよ」
「下の名前で呼んで、じゃないんだ?」
「うん。初対面の人に下の名前で呼ばれるのって、好きじゃない」
「へー」
そういうやり取りの後、相沢は私のことを”オガ”と呼ぶようになった。さん付けで呼ばれた記憶はないため、他人の名前を呼ぶのさえ面倒くさいらしい。でも、裏表のない正直な彼の性格を私は割と気に入っていた。ただ、彼には人を遠ざけるような暗い噂があったけれども。
「そういえば、オガって一人暮らしだっけ? どこに住んでいるの?」
唐突な質問に私は面食らい、「うん、一人暮らしだけど、知らなかった?」とご飯を咀嚼しながら答えた。
「うん。みんなで遊びに行く時は、学校から出発していたから、知らなったんだよ。でさ、オガはそのアパートの何階に住んでいるの?」
「なんでいきなり私の部屋の話になるの?」
「いや、色々と気になって。だから部屋を見せて欲しいんだ」
「え?」
急な要求に私は戸惑うばかりである。相沢の顔を窺うと、そこに照れ臭さや胡散臭さは全くなかった。ただ、彼から伝わるのは、思いつめたような真剣な想いだ。
「訳アリなんだ? それならいいよ」
結局私は彼の要望を受け入れることにした。彼が信用できる人柄なのは、今までの付き合いで分かっていたからだ。でも、それまで平穏だった心に細波が立つのを感じずにはいられなかった。
「男を部屋にあっさり部屋に入れるのって、どうなのよ? 少しは警戒しようよ」
相沢の小言に私は思わず顔を顰めて彼を睨み付けた。
ここは私の部屋である。試験が終わった直後、相沢の車で私のアパートまで移動した訳である。六畳一間の和室に板の間の小さなキッチン、風呂トイレつきの1Kである。古い二階建てのアパートだったが、部屋が上階であることと、値段とバス停との距離を気に入って、入学当初から住んでいる。
「自分で頼んでおいて、そんなこと言わないで欲しいな。相手はちゃんと選んでいるし、それに真面目な理由なんだよね?」
私は言い返しながら、相沢の前のテーブルに麦茶を入れたコップを置いた。
私の部屋には最小限の家具が置かれている。シングルのベッドと、冬にはこたつに変身するテーブル、壁側に収納用の三段ボックスを横にして、その上にテレビを載せている。どれも実家から持ってきたお古だ。
「まあ、そうなんだけど」
相沢は返答しながら、コップを手に取って麦茶を飲み始めた。
「もうすぐ夏休みになるよね? オガって、実家に帰るの?」
「えーと、実家に帰るのは九月に入ってからだよ。それまではこちらでバイトする予定だけど」
「そうなんだ……」
私の返答を聞いて、相沢は顔色を曇らせる。
「それがどうしたの?」
相沢の質問の意味を尋ねると、「いや、実は、オガにはこのアパートにいて欲しくないというか……」と彼は歯切れ悪く答える。
「はぁ? それってどういうこと?」
「友達の家にしばらくいれないのか?」
さらに説明を求めても、相沢は要求ばかりを口にするだけで肝心の理由を話してくれない。私は彼に苛立ちを感じる。
「ちゃんと説明してくれないと、聞ける話も聞けないよ?」
不満をやんわり相沢にぶつけると、彼は顔つきを改めて、「ごめん」と心から申し訳なさそうに呟いた。
「実はさ、視えたんだ。オガのアパートで良くないことが」
それを聞いた途端、私は息を呑んだ。
相沢にはあだ名がついている。”死神”というとても不吉なものが。
「私、死ぬんだ?」
そう言いながら、私の背筋に悪寒が走った。ちょうどその時、スイッチをつけたばかりのエアコンから冷風が流れてきて、鳥肌まで立った。
「怖がらせてごめん。でも、俺としてはそんな予知を覆したいだけなんだ」
「なにが視えたの?」
「俺が視た夢の中で、オガがアパートに入っていったと思ったら、オガの部屋からブルーシートに覆われた死体が警察によって運ばれていったんだ」
その相沢の説明に私は一瞬呼吸を忘れる。
「つまり、私がこの自分の部屋で死ぬってこと?」
私は相沢を凝視する。そんな中、彼はゆっくりと首肯した。
「だから、このアパートにいないで欲しいんだ。ここにいなければ、……そもそも死を再現できなくすれば、死を回避できるかもしれないと思うんだ」
「事情は分かったよ。でも、いつまで自分の部屋に戻っちゃいけないのかな? ずっと部屋に戻れないのも困るし……」
「警官は半袖を着ていたから、夏の間は駄目だな。それに、夢を見てから、割とすぐっていうか、日にちが掛かったことはない」
「じゃあ、あと少しで夏休みが始まるし、その期間が一番危ないんだ……」
一時的とはいえ、頼れそうな友人を思い浮かべるが、もともと在籍している理系の学科では同性の同級生が少ない。その上、貴重な友人たちは、実家暮らしの他、一人暮らしをしていても休み中は不在の予定ばかりだ。
「やばい、あてにできる人がいない」
「じゃあ、俺の家に来いよ」
悲痛な私の呟きに対して、相沢はいともあっさり衝撃的な解決策を提案する。
「ええ? 相沢の家に!?」
目を白黒させて仰天する私を相沢は事もなげに見つめ返す。
「俺の部屋ってロフトがついているから、オガはそこで寝るといいよ。お互いバイトで忙しいから、あまり会わないと思うし」
「そ、そうなんだ?」
「うん。まあ、そういうことで決定な?」
それから本日、大学の試験期間が終わり、事務員と担当教員によるガイダンスの後に大学は夏休みに入った。それで引っ越しを実行した訳である。
自分のトートバッグから、ガイダンスで渡された資料を取り出した。そこには夏季休暇中の注意事項が沢山書かれていた。さらに、事務員からの口頭での注意を思い出す。数年前に学生が酔っぱらって海で溺死したこともあったと聞いた。
「それに空き巣の被害もあったって言っていたよね」
郵便物がポストに溜まっていると、泥棒に狙われやすくなるから注意してくださいと事務員は言っていた。今回、長期間部屋を空けることになるので、それが少し心配だった。私はそれを気にしながらも、用済みとなった紙をゴミ箱に投げ入れた。
「でもさ、先に寝ていていいよとは言ったけど、実は初日くらい起きて待っていてくれるかなぁと期待していたんだよね」
翌日、寝起き早々、私が相沢から言われた台詞は挨拶ではなく文句だった。
「そうだったんだ? それは悪かったね。今度はフリフリエプロンでお迎えしようか?」
眠い目をこすりながら適当に言い返したところ、相沢は「お、いいね~」と嬉しそうに返事をするので、私は心底ドン引きした。ところが、そんな彼は台所で私の分まで朝食を作っていたので、直前の気持ち悪さは都合よく吹き飛んだ。私の視線はふわふわのオムレツに釘づけだ。
テーブルには、先ほどのおかずの他にトーストと、サラダにスープまで用意されている。
「相沢すごいね! もしかして、私のためにかなり気合を入れて作ってくれた?」
自分の朝食なんて、パンと野菜ジュースくらいだったので、まともなメニューを出す相沢に尊敬の眼差しを向けた。
「いや、一人のときは面倒だからここまで用意しないけど、実家にいた時はこのくらい普通に出していたよ?」
「へー、そうなんだ! すごいねぇ」
相沢の家事スキルが自分より高いことに私は一瞬で悟った。
「じゃあ、食べようぜ」
「うん、いただきます!」
一口食べただけでも、自分との腕前の差を感じた。見た目通り、美味しい相沢の料理に感心するばかりである。
「相沢がこんなに料理できるなんて知らなかったから正直驚いた」
私の褒め言葉に相沢は照れくさく笑う。その愛嬌のある表情は今まで見たことがなく、つられて自分まで恥ずかしくなる。くすぐったい感触に驚いて、思わず彼から視線を逸らしてしまった。そんな自分に戸惑ってしまう。
「オガはお昼前にバイトだよね?」
私のおかしな状況に気付かず、いつもの通りに相沢は話しかけてきた。
「そうだよ。それまでに洗濯したいんだけど、洗濯機を借りてもいい?」
「ああ、今ちょうど使ってないからいいよ」
「うん、ありがとう」
ご飯を食べ終わった後、私は食器洗いを買って出た。お世話になりっぱなしでは居候としては肩身が狭い。「ふりふりのエプロンはしなくていいのか~?」と、相沢のふざけた突っ込みを躱しながら過ごしているうちに、あっという間に外出時間になる。私は彼に見送られながら、いつもの調子でマンションを出た。
『前に貸した本って読み終わった? 悪いけど、返してほしいんだ。別の友達から借りたいって言われて』
大学の同級生からスマホにメッセージが届いたのは、相沢と同居生活を始めて一週間後のことである。バイトが終わり、私が店を出た直後に確認したのだ。
夏休み以前に男友達から借りていた本の存在を思い出す。しかし、その本は自分の部屋に置きっぱなしだ。
『うん、わかった。でも、今は外出しているから、後で連絡するね』
私はそう返事をして、自分のアパートに向かう。自宅の郵便物や投函されたチラシが気になっていたので、様子を見に行きたかったのも理由にあった。本を取りに行くのだって部屋に入って数秒間で済む作業だ。相沢の不吉な予言を忘れた訳ではない。用事を済ませて、すぐに私は自分のアパートから離れるつもりである。住み慣れた街を歩き続け、次の角を曲がればアパートに到着する頃、スマホから着信音が流れる。相手は相沢だったので、私はすぐに応答する。
「はい、もしもし?」
『オガ? バイト終わったんだろ? お疲れ様』
「うん、ありがとう。相沢は今日バイト休みなんだね」
歩いていた私の目前に古いアパートが見えた。辺りは日が暮れ始めていて、薄暗くなっている。
『うん、そうなんだよ。せっかく夕飯作って待っていたのに、帰りが遅いからどうしたのかなって』
バイト先から相沢のマンションの方が近く、いつもならとっくに帰っている時間だった。
「あ、ごめん。用事があって自分のアパートに寄ってから帰るつもりだったんだ」
私がそう説明した次の瞬間、『オガ、絶対駄目だ!』と相沢の感情が豹変して、スマホ越しに恐ろしいほどの剣幕で怒られた。
「え、ちょっと寄るだけだよ? 一分もかからないと思うよ?」
『オガ、止めてくれ。それで何かあったら俺は一生後悔するよ』
相沢の絞り出すような必死の言葉を聞いて、私の足はピタリと止まった。アパートの敷地に入る直前だった。
「ごめん、今すぐ帰るね」
相沢の返事を聞いてすぐに私はスマホを鞄に仕舞うと、彼の部屋に急いで帰った。
玄関を開けて出迎えてくれた相沢は、私の顔を見た瞬間、心底安堵の表情を浮かべる。
「心配しすぎかもしれないけど、今だけは用心してくれ。本当に頼む」
色んな感情がせめぎ合っているだろう顔をして、相沢は私に懇願してきた。
彼の態度によって、先ほどの自分の行動がいかに安易だったのか、申し訳ないほど理解した。
「相沢、心配かけてごめんね」
今にも泣きそうな相沢に私はただ謝ることしかできなかった。
「どうして自分のアパートに行ったの?」
その日の夕飯時、あからさまに機嫌の悪い声で相沢は尋ねてきた。
「郵便が何か届いてないか気になって。あと、友達から借りていた本を取りに行きたかったんだ……」
私は彼の顔色を窺いながら答えると、「そんなの俺に頼めばいいだろ」と彼はぶっきらぼうに文句を返してくる。私はちゃんと謝ったのに。私たちはその後、食事中に何も話さなかった。絡まった糸のように私の感情は彼への不満と自分の落ち度でぐちゃぐちゃだった。
ところが、就寝前に「気まずくしてごめんな」と相沢から謝罪があった。ちょうど私がロフトに上ろうと、梯子に手を掛けた時である。彼は部屋に敷かれた布団の上にあぐらで座りながら、私のことを見上げていた。
「オガは俺の予知のことを信じてくれたのに、オガの行動が気に入らなかったからって、怒ったりしてごめんな」
その彼の落ち込んだ様子が捨てられた子犬のように見えて、私は慌てて「いや、こっちこそ相沢に心配させてごめんね」と彼のことを気遣った。見つめ合った時、お互いに気持ちが同じことに気付く。タイミングを合わせた訳でもないのに、私たちは同時に笑みを浮かべていた。
「仲直りできて良かったよ。でも、なんで俺があんなに心配したか、訳を聞いて欲しいんだ」
「訳って?」
私が聞き返しながら梯子から離れ、彼の布団の傍に腰を下ろした。
「死因についてだよ。こんなにピンピンしている人間が突然死ぬとしたら、どんな原因が考えられる?」
そうだ。私は相沢に言われるまで、そのことに頭が回っていなかった。
「もしかして、誰かに殺されるかもしれないってこと?」
相沢は私の言葉に頷く。
「それに、突然死だって考えられる。確率は低いかもしれないけど、実際無い訳じゃない」
相沢の言葉に私は何も返せなかった。
「怖がらせるかと思って言わなかったけど、今日のことを考えるなら、早めに説明しておけば良かったな」
「ううん、私こそ考えなしだった。本当にごめん」
「いや、もういいよ。俺も色々ごめんな。じゃあ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
話が終わった後、私は再び梯子に近づいた。そして、上ろうとした時、「なあ、オガ」と相沢から再度声を掛けられた。
「俺のこと、信じてくれてありがとうな」
彼から改めてお礼を言われて、私は照れくさくなる。
「だって、相沢って、嘘は言わないし」
適当にお世辞だって彼は口にしない主義だから。私が恥ずかしい気分を誤魔化しながら答えると、相沢は可笑しそうに「そうだな」と同意していた。
その優しい彼の笑みを見て、私は思い出さずにはいられなかった。今回の私のように、去年の夏に彼が同級生のことを助けたかったことを。
「バイクに乗るな」
相手に邪険にされながらも、何度も相沢は同級生に忠告していた。ただ、彼に死んでほしくなかったからだ。でも、相沢は彼に信じてもらえず、頭がおかしな奴だと言われ、拒絶されていた。そして、実際に同級生が事故死した時、彼の友達が事故の原因を相沢のせいにした。相沢が不吉なことを彼に吹き込んだせいだと。こうして彼は”死神”とあだ名をつけられて、恐れられるようになった。
相沢は彼の死を知った時、崩れるように号泣していたのに――。
そして次の日、私は相沢と共に自分のアパートへ向かった。ちょうど私のバイトが休みだったので、相沢のバイトが始まる前に行こうという話になったのだ。
「オガはアパートに入るなよ」
用心深い相沢の意見に従って、私はアパートの前で待つことになった。彼は階段を上って二階に行き、廊下を歩いて私の部屋の玄関前に辿り着く。そして、私が渡した鍵でドアを開け、身を乗り出して中を覗いたと思ったら、慌ててドアを閉めた。彼はそのまま急いで引き返して私の元に戻ってくる。その様子は見るからに尋常ではない。
「どうしたの?」
私の問いに相沢は「警察を呼ばないと」と張り詰めた顔をして答えた。私が何か言う前に「部屋の中で誰か死んでいる」と彼は言葉を続けた。そんな馬鹿な。一瞬そんな台詞が口から出そうになる。でも、相沢がそんなことを言うはずがない。驚愕のあまりに私は相沢の顔を凝視することしかできなかった。
しかし、このまま行動しない訳にはいかない。私は自分の目で確かめるため、彼の制止を無視して、自分の部屋に近づき玄関のドアを開けた。咄嗟に鼻を突く異臭。それから視界に入ったのは、台所と部屋の間で倒れている見知らぬ男だった。
それから、事態は騒然となった。パトカーが至急駆けつけて、現場検証と事情聴取が行われた。私たちはアパートのすぐ傍に停めたパトカーの中で、色々と話を聞かれることになった。でも、私は自分の部屋で起こった惨事に混乱していて、まともな思考回路をしていなかった。ほとんど相沢が率先して話の受け答えをしてくれた。
それから、部屋の中にあった死体は、ブルーシートで覆われて運び出されていった。
私たちがアパートの前の道路から立ちながらそれを見守っていると、相沢は私の横でポツリと呟く。
「夢で見た通りの光景だ」
その言葉を聞いて、私は思い出す。彼が視た死の場面を。私の部屋で発見された死体はブルーシートで覆われて運ばれていったと。
「私、助かったの?」
私の質問に相沢は声を震わせながら「そうだ、そうだよ」と頷く。その顔は今にも泣きそうで、堪えるように顔を片手で覆っていた。それから、いきなり彼にもう片方の手で、私の手を握られた。急なことで驚いたけど、別に私はそれが嫌じゃなかった。むしろこうすることによって、彼が落ち着くのなら、力になれて良かったと思ったほどだ。だって、彼は私のために泣いているのだから。
「ありがとう相沢。私のことを助けてくれて」
「うん」
「相沢は命の恩人だね」
「そんなことはないよ」
そう答える相沢の声は震えていた。
「そんなことあるよ。だからさ」
私は言いながら、眼鏡の奥で真っ赤な目をしている相沢を見つめる。
「私のことを一佳って、これからは呼んでください」
それから、私の生活は日常に戻る――ことはなかった。大変だったのは、死体が自分の部屋で見つかった後の対応だった。事件直後、実家にいた両親が心配して駆けつけ、さらに大家さんも大慌てでやってきて、部屋を引き払う話になったからだ。死人が出た部屋に住み続ける気に到底なれない。私は急きょ引っ越しをすることになった。
「死体の男は、前科持ちの窃盗犯で、空き巣を繰り返していた人物だったんだって。部屋にあった犯人の鞄の中には、盗んだ私のパソコンが入っていたんだよ。それから、検死した結果、犯人が死んだのは発見された前日。つまり、私の部屋に忍び込んだ時に突然倒れて亡くなったみたい」
引っ越しから一週間後、私は相沢の部屋にいた。彼から夕飯に招待されたからだ。先ほどまで、夏野菜が沢山入ったカレーと真っ赤なトマトが食卓に並んでいた。
「発見の前日って、時間帯はいつ頃だったの?」
相沢の質問に私は「夕方頃だったらしいよ」と答えた。それを聞いて彼の顔が強張る。
「挨拶した時に隣の人がね、教えてくれたんだ。日が暮れる頃、私の部屋から人の気配がしたって。だから、ちょうど私が帰宅したと思ったらしいよ」
あの時、私が相沢に無断で自宅に帰ろうとした時も同じ時刻だった。もし彼から電話が掛かってこなかったら。もし、私があのまま部屋に戻っていたら、一体どうなっていたんだろう。部屋で空き巣の犯人と鉢合わせて、果たして私は無事だったのだろうか。
そしてなにより。そもそも相沢と一緒に暮らしていなかったら、私は空き巣の犯人の代わりに突然死していたのかもしれない。
そう、ブルーシートに覆われていた死体は、私だったのかもしれないのだ。想像するだけで、私は恐怖で身が竦んだ。
「一佳」
相沢の呼び声で私は我に返った。
「大丈夫、もう終わったことだから」
私の不安を払拭するように、穏やかな顔をした相沢が話しかけてくる。
そうだ、もう死を恐れることはないんだ。私の目の前にいる相沢は、何も言ってこない。あれから再び別々に暮らすようになり、『飯を作り過ぎたから食べに来いよ』と、こうして、ありがたい連絡を寄越してくれるだけだ。
「うん、ありがとう、雅行」
私は相沢を見つめながら微笑む。すると、彼も笑い返したので、私はとても穏やかな気分に戻れた。彼の心遣いが嬉しく、気分が上向きになる。
実は名前で呼んでほしいと頼んだ後、彼からも同じ提案をされていた。
彼に一佳と呼ばれるたびに、雅行と彼の名前を呼ぶたびに、くすぐったいような照れくさいような気分になる。この複雑な感情は一体なんなのか――。顔まで熱くなる、そんな自分の変化に、私は今とても動揺している。