3-2 子どもの恋
日も当たらないし、なんだかカラっとした空気になる。玄関ホールにも空調は行き届いている。
瑠々はどこへ? とあたりを見回すと、入って右側、最初に会った時に瑠々が逃げ込んだ部屋から淳悟さんが出てきた。
「氷水とか、それから飲み物を用意してきます。ええと、水? スポドリ?」
うろたえているので落ち着いて、と手で合図した。
「常温のスポドリを。なければ、少しお湯で薄めたもので。後は、氷水とタオルで大丈夫です」
その言葉に驚いた顔をしたけれど、淳悟さんは「ありがとう」と言うとキッチンへ小走りに向った。
私はノックをして瑠々の部屋に入った。涼しい風が顔を撫でる。元々エアコンをつけっぱなしにしていて、さらに強めたようだ。
中は殺風景で、ベッドと小さな棚があるだけだった。大きなベッドに横たわる瑠々は今にも消えてしまいそうだ。
珍しくショートパンツをはいていて活動的な格好に見える。まだスニーカーは履いたまま。
「瑠々、靴、脱がすよ」
私は床に膝をつき、瑠々の足元に手を伸ばした。
「ありがと……」
多少顔に赤みが戻ってきていた。
ハイカットの紺色スニーカー。ほとんど汚れもない。白い紐を解き、靴を脱がせてベッド脇に置く。そして細い足を持ち上げて、クッションの上に置いた。足が高くなり、瑠々は不思議そうに私を見た。
「何してるの?」
「熱中症は、血液が頭に回らなくなるの。だから足を高くするといいんだって」
へぇ、と吐息のような反応をする。小さな棚の上に置いてあるノートを取り、それで瑠々を扇いだ。
「大丈夫? 寒すぎない?」
顔を仰ぐと、気持ちよさそうに瑠々は目を閉じた。
「丁度いいわ」
あまり話しかけては休めない、と私はそれ以上口を開かなかった。
エアコンの音と、パタパタというノートの音。それだけが部屋に響いた。瑠々も目を閉じたまま。
元々色白で透き通るような肌をしているから、そうしているとまるで死んでしまったみたいに見える。怖くなって、思わず腕に触れてしまった。
「なぁに」
ぱっと目を開く。生気のある澄んだ瞳だ。
「あ、ごめん。体、熱をもっていないか確認したの。私よりちょっと冷たいくらいね」
「もう平気よ」
面倒くさそうに睨まれたが、安心した。意識もはっきりしている。
「瑠々さん、大丈夫ですか!」
大慌てで入ってきた淳悟さんは、右手に銀色の調理用のボウルに氷水、左手にスポドリの二リットルボトルとコップを持ってあらわれた。指の力を駆使して器用なことをしている。
「瑠々さん、自分で飲めますか、起きられますか」
「そんなに心配しなくて平気だって。めまいがしただけだから」
とはいえ、さっきは顔色も悪かった。私が手を背中に添えて起き上がらせる。コップを淳悟さんから受け取ると、両手でごくごくと飲み干した。
「染みるわぁ~」
そう言うと、ぽふっとベッドに背中を預けた。私は苦笑いしながら再び足をクッションの上に乗せた。
「自分で水分補給も出来るし、大丈夫そうね」
「だから、そう言っているじゃない」
笑顔を交わす私たちを他所に、淳悟さんは氷水につけたタオルをべしゃっと瑠々の顔に乗せた。絞っていないから、水が私にまで飛んでくる。
「瑠々さん、ダメですよ、油断したら!」
瑠々は口と鼻を塞ぐ濡れタオルをじわりとはがした。ゆっくりとした動作がホラー映画のようで怖い。
「ねぇ……殺す気?」
殺気に満ちた目で淳悟さんを睨んだ。濡れたタオルで口と鼻を塞ぐと息が出来ない、って常識だ。
「すっ、すみません!」
慌ててタオルを受け取る。淳悟さんの方が顔色悪くなってきたような。
「落ち着いて、ちゃんと絞りなさい」
「申し訳ないです」
はぁぁ、と深いため息をつきながら落ち込んでいる。淳悟さんがこんなに慌てているなんて珍しい。
水音を立てて、淳悟さんがタオルを絞る。それを瑠々のおでこに乗せた。
「もし体が熱かったら、脇の下とか、太ももを冷やしたほうがいいけれど、どう?」
私の問いかけに、瑠々は小さく笑みを見せる。
「大丈夫。おでこもいらないくらいすっきりしているわ」
いらない、と言われ淳悟さんはまたうなだれた。
「乗せておくわ、あなたの気遣いに免じて」
瑠々はからかうように言った。声も力強いし、もう平気だろう。
「ところで、梨緒子は熱中症の処置に詳しいのね」
「運動部にいると、熱中症対策の勉強もするの。だからこれくらいだったらみんな詳しいよ。もちろん、予防することが一番だけどさ。瑠々はあれだけ気を遣っていたのに」
自信満々に答えたけれど、淳悟さんから移ったのか、落ち込んでしまった。そう、私がいけないんだ。うなだれて、瑠々の顔を見られなくなる。
「ごめんね、余計なこと言って」
「余計なこと?」
枕の上で小さく首を捻る。
「慣れないスポーツをさせてしまった。ひ弱そうな子が、真夏に太陽の下でスポーツをしたらどうなるか考えなかった私が悪い」
大したことにはならなかったからよかったけれど、もし命に関わるようだったら。そう思うと、今更ながら恐ろしくなった。
どうして私はこう何も考えず行動してしまうのだろう。
「人の枕元で落ち込まないでくれる? 梨緒子が悪いんじゃないわ。私がやりたくてやったの」
そっけない言い方だけど、私を思って言ってくれた。顔をあげると、瑠々は眉間にシワを寄せながら笑った。
「泣きそうな顔しないで。だって、表に出てから梨緒子が来るまで五分と経っていないはずよ」
「瑠々さん、昨日からほとんど寝ていないからですよ」
諌めるような淳悟さんの言葉に、瑠々は大げさに肩をすくめた。
「おお、怖い怖い」
「どうして寝ないの」
まさか、わくわくして、というわけではないだろう。
「別に、何もしてないわ」
ふん、と顔を背ける。瑠々の代わりに淳悟さんが答えた。
「嘘ですよ。昨日から、梨緒子さんに食べてもらうんだってはりきって料理していたんです。ワインで肉を煮込んで。あと、お部屋のインテリアとか色々」
瑠々を見ると、さっきまで青白かった顔が赤くなっていた。
「余計なこと言わなくていい」
濡れタオルを広げて、顔を覆ってしまった。
「息できなくなるよ」
私がぴらっとタオルをはがすと、口を尖らせた瑠々は、大きな瞳で私を見た。
「絞ってあるから平気よ」
潤んだ瞳が可愛らしさを倍増させていて、同じ女の子ながらドキドキしてしまう。
「私のために、色々用意してくれていたの?」
ワインで肉を煮る、とはどういうことなのかよくわからないけれど、時間がかかりそうだ。インテリアまで気にして。色々手の込んだことをしてくれていたのだろう。
「ああ、うるさいうるさい」
手をひらひらさせ、私をしっしっと避けようとする。
ともかく、元気そうでよかった。私はほっと体の力を抜く。
「私、今日は家に帰ったほうがいいね」
寂しいけれど、瑠々に負担をかけさせたくない。しかし、瑠々は私の手首を力強く握った。随分パワーが戻ってきたものだ。さっきのか細い声が懐かしい。
「平気だって。お願い、帰らないで」
お願い。瑠々が、私にお願いだって。
別れを惜しむ子犬のような顔。そんな顔されたら帰れない。助けを求めるように、淳悟さんの顔を見る。困ったように眉を下げている
「瑠々さんは一度言ったら聞かないですからね。夕方まで大人しくしていて、体調が戻ったら、でどうですか?」
それまで眠っていてくださいよ、と淳悟さんが念を押すと、瑠々は笑顔で頷いた。
「わかった。眠たくなってきたし、大人しくしているわ。その代わり淳悟がちゃんと梨緒子をもてなすのよ。出来るわね?」
挑戦的な言葉に、淳悟さんははいはい大丈夫ですよ、と受け流した。
「お願いよ、梨緒子。眠っている間に帰らないでね」
「わかったって。いいから寝て」
淳悟さんは冷えすぎた室内のエアコン温度をあげ、瑠々の体にタオルケットをかける。そして飲みかけのスポドリをベッドサイドの小さな棚の上に置いた。
「じゃあ、後でね」
私の言葉に、瑠々は頷いて目を閉じた。私と淳悟さんはそっと部屋を出る。廊下は少し暖かく感じる。
「とりあえず、ダイニングへ」
促され、二人でダイニングへ向う。
淳悟さんは、ちらりと私の足元を見る。今日は、きちんと洗ったスニーカー。瑠々のものと比べると安っぽいけれど、黒地にピンクの線が入ったハイカットスニーカーは気に入っている。
「膝、汚れてしまいましたね」
さっきまで、ずっとベッドの脇で膝立ちをしていたからだ。いや、その前に瑠々を担ごうと地面に膝をついたから、その汚れか。私が手で払おうとしたその前に、淳悟さんがさっと手を伸ばして私の膝の汚れを払った。
「瑠々さんのために、綺麗な膝を汚してしまいましたね」
言っている言葉が頭に入らない。
淳悟さんが、私の膝に触った! 綺麗な膝って言っていたのは幻聴?
恥ずかしさで顔が熱い。何も言い返せないでいると、淳悟さんは私の顔を見てはっとした。
「すみません」
「だ、大丈夫です」
私のことを、子どもだと思っているから出来るんだろうな。大人の女の人には絶対やらないだろう。そう考えると少し悲しい。