2-1 秘密のふじくぼ
末っ子が甘やかされるのは、我が家だけなのだろうか。ふと、昨日お母さんの料理を手伝うお姉ちゃんを見て思った。私には手伝え、って言わない。きっと、お姉ちゃんがやってくれてるから。
宿題しろとか、早く寝なさいとか。そういうことは言われる。でも、家でのことは家族任せ。私を褒めて甘やかしてくれる。本当は何にも出来ないし、すぐ怒るし、友達いない子なのに。ため息が出そうになる。
こういうときは、体を動かして汗をかくことが一番だ。適当に宿題を終わらせ、お昼ご飯を食べて、すぐに家を出た。今日は雲が多くて、直射日光の焼けるような暑さはなかった。
自販機で飲み物を買えるだけのお金をハーフパンツのポケットに入れ、私はふじくぼ目指して自転車を走らせる。
焦げちゃうくらい、太陽が出ていればよかったのに。
ぼんやり考えているうちに、キャンプ場跡まで到達した。セミの鳴き声が一段と厚みを増し、大きくなる。
砂利道を走るのは神経を使うが、そこもクリアして自転車を止めた。柵を乗り越え、再び雑草の中に飛び込む。ふわっとした、じゅうたんみたいな感触がスニーカーを通して伝わってきた。寝転がってみたいな、と思う気持ちを抑え、昨日、ボールを飛ばした場所まで歩いた。
土のグラウンドになっているところは雑草だらけだけど、レンガやコンクリートで舗装された部分は綺麗なものだ。半分は舗装され、残り半分の土のグラウンドにテントを建てていたのだろう。
『ふじくぼ』の看板の前に立つ。改めて見ると、あのお屋敷の雰囲気を汲んだ、品のいいものに見える。額の汗を拭い、緩やかな山道を登る。山道というより丘と言っていいくらい、険しさはまったくない。
一日ぶりにふじくぼの前に立つ。今日は太陽が出ていないから、昨日より薄暗く見えた。グレーというか、黒に近い色合いで重苦しい。なんだか、緊張してきた。昨日、ケンカしちゃったわけだし。あの顔で「何しに来たの?」と言われたらすくんでしまうか、言い返してまたケンカしてしまうかどちらかだろう。多分、ケンカするかな。
玄関ポーチの前で、インターフォンを探す。でもそういったものは見当たらず、困った。扉をトントン叩いてみるけど、特に反応はなし。留守かなぁ。辺りを見回して、ふらふらと屋敷の周りを歩く。空き巣みたい。玄関から右手にまわると、一面が窓になっている壁が見えた。
何これ、と中を覗きこむ。室内は広くはない。アンティークな机と、細い骨組みの黒い椅子が二脚あるだけ。机には、小さな観葉植物が置いてあった。座ったら壊れそうな椅子だけど、使えるのだろうか。一面窓だけど、そのガラスはまったく汚れていなかった。
すごーい、と声が漏れる。外国のカフェみたいだ。床も変な模様だ。黒と白のチェック柄っぽい。でも、人の気配はない。
窓一面の部屋から離れ、さらにそこから進んでみても、覗き込むような高さにある窓がない。
覗きなんてよくないけど、この屋敷のことを知りたくて観察をやめられない。明治の時代に建てられたものがこんな身近にあるなんて思いもよらなかった。蒸し暑さも忘れて、綺麗に整えられた芝生の上を歩く。淳悟さんは放置されていたから昔の面影はない、と言っていたけど、きちんと手入れをしている。うちの小さな庭ですら、すぐ雑草が伸びてしまうのに。
セミの鳴き声の中で屋敷を半周したところだろうか。屋敷の裏手に、新しい建物が見えた。屋敷よりだいぶ小さいし、一階建てだ。それでも、ウチの家と同じ大きさに見えた。お父さんが悪いわけじゃない、ここのお屋敷が大きすぎてよくわからないの。
離れってやつかな? 私はわくわくして、その建物に近づいていった。湿度の高い風に、緑の匂いが強く混じっている。なんだろう、とあたりを見回すと、その離れの側に、草が積んであった。草刈りをしたのだろうか。
離れの建物の扉は開いていた。私は足を止める。物音が聞こえたわけじゃない。けど、人がいる気がした。セミの鳴き声と風に揺られた木の葉の擦れる音にかき消されているだけで、本当は何かが待ち受けているのかもしれない。
淳悟さん? 瑠々? どちらでもなかったらどうしよう、と思う反面、そこに足が向く。覗いてみたいという不思議な衝動は抑えられない。
自然と忍び足になりながら、こそっと壁に身を寄せる。手で顔の汗を拭ってから、室内に顔を覗かせた。
中は物置のようになっていた。さすがに一軒家よりは狭く、棚と、まわりに置いてある木箱でほとんどが占められていた。なんだか、重要文化財でも保管してあるみたいなかっちりとした箱だ。淵に金具で装飾してある。
建物の中から、金属の音がぶつかるような物音がする。人はいた。知らない人だったらさっさと逃げよう。目を凝らすと、見覚えのあるコーヒー牛乳色の髪の毛が、棚の向こうに見えた。
淳悟さんだ。安心して声をかけようとすると、中から話し声が聞こえた。
「草刈り、お疲れさま。助かるわ。管理人にはしばらく休んでいてもらわないといけないからね」
「その穴埋めに僕を呼んだわけですね。重労働です。汗びっしょり」
ふー、という淳悟さんのため息。相手は若い女の人。淳悟さんの彼女、とか?
「電動芝刈り機があるからだいぶ楽ですね。ここまでの道のりもすぐに作れましたし」
キャンプ場跡からふじくぼまでの道は、淳悟さんが電動芝刈り機を使って作ったものか。どうりで歩きやすかったわけだ。
「文化財に登録してくれ、って市からも言われていたんでしょう?」
「まぁね。でも、そんなことしたらちょっとリフォームしようかな、ってわけには行かないの。お風呂とトイレが綺麗なのも、私が断っていたからだよ。ありがたく思いなさい」
誰だろう。ふじくぼの偉い人? 棚の向こうに隠れてわからない。
「そもそも、どういう経緯でこのお屋敷を手に入れたのか、僕は細かいことは知らないのですが」
「私だって知らないわ。あの人が勝手に買い取って、ホテルにするって言ってきたんだもの。私に拒否できるわけない。旅館で手一杯だっていうのに」
あーあ、と女性は面倒な口ぶりで過去を語っていた。
若い女性だと思ったけど、内容からかなり上の年齢のようだ。ホテルだったのはすっごい昔だって言ってた。彼女ではないな。安心。
「暑いから、さっさと戻るよ」
やば。身を隠さなくては。そう思っても、隠れるところなんてなかった。私はその場で落ち着き無くウロウロしただけで、ほどなく中から出てきた瑠々に見られてしまった。
「あれ、瑠々ちゃんもいたの?」
私と鉢合わせして、驚いたのは瑠々のほうだった。
目を丸くしている瑠々の後ろから、淳悟さんも出てきた。昨日とは違い、黒の半袖Tシャツにジャージ姿で、体中に草がついている。
「梨緒子ちゃん、いらっしゃい」
慌てる様子もない淳悟さんとは違い、瑠々と私はぽかんとしたまま、言葉が出なかった。もう一人、出てくるはず。なのに、淳悟さんは扉に鍵をかけてしまった。古めかしい木の札には『蔵』と書かれていた。
「あの」
私のうろたえた様子を見て、瑠々は話を聞かれたのだとわかったのだろう。ふぅ、とため息をついた。
淳悟さんが鍵をかけて、なんの言い訳も出来なくなったことに対してか、足で淳悟さんを蹴飛ばしてから、私の顔を見上げた。
「ここは暑いわ。中で話しましょう」
言葉遣いは同じだと思う。それなのに昨日とは違う声に聞こえた。嘘みたいに大人びて、作り物みたいだった瑠々が、今は自然に見える。
先に屋敷へと歩みを進める瑠々の後姿は、小学六年生には見えない。着ているのは可愛らしい白のワンピース。ふわふわした素材で、元々の愛らしさをさらに格上げしている。草が付いてるけど。
なのに、歩き方はきびきびしていて、ちょっとガニマタ。言い方は悪いけどおばさんみたいだ。
どういうことだろう、と脛を押さえる淳悟さんを見るが、苦笑いで瑠々の後に続いた。
あれ、これがキツネに化かされる、というやつだろうか?
頭が混乱しているのも、瑠々が変なのも、全部暑さとセミのうるさいせいだ。
納得できる答えがあるのだろうか。
とはいえ! ようやくワクワクする夏になってきた! やはり、なんらかの秘密が『ふじくぼ』にはあった。
テンションが上がるのを感じながら、瑠々と淳悟さんの後に続いた。