1-2 『雨傘』との出会い
「ただいま、瑠々(るる)さん」
荷物を玄関脇の小さなテーブルに置いて、「るる」と呼んだ少女に声をかける。さんづけで呼ぶ、ということに驚いた。
「誰? どこで拾ってきたの?」
声色のわりには鋭い言い方で、それが反響するから怖く聞こえる。
「はは、拾ってきたとは、瑠々さん言葉が悪い」
扉を閉めながら、受け流すように淳悟さんは答えた。
少女はむすっとした表情で、大階段を降りてきた。宝塚の舞台のようだけれど、じゅうたんのようなものはひいてなくて、華やかさはない。
木材の床を、こつこつとローファーのような茶色の靴を鳴らしている。白と紫のタータンチェックのワンピースで、ふわふわと膝丈スカートの裾を揺らす。パフスリーブからのぞく腕を手すりに置いている。それは折れそうなほど細く、白い。日に焼けていて、筋肉質な私とは全然違う。
お金持ちっぽい子だな。歩き方も着ているものも品がいいというか、周りにはいないタイプだ。そして、とても可愛い女の子だ。黒髪ボブの前髪は目の上で切りそろえられていて、黒目の大きな瞳は光に満ちている。ピンク色の唇は、超不機嫌そうにへの字に歪んでいるけれど。
怒ってる、よね。
「で、なんなのこの子」
この子、って。私と年頃は変わらないだろうに。というか、背が小さいからだいぶ年下に見える。
上から物を言う子だな、と、私は面白くなかった。淳悟さんから、さん付けで呼ばれているのも変だ。
「瑠々さん、欲しがってたでしょ」
「何を」
まさか、さっきの妄想どおり、子どもの生き血を吸って永遠の若さを? だから買い物を淳悟さんに頼んで……。と思って、バカバカしくなってやめた。
白い肌は確かに美しいし、こういう子役が吸血鬼役をやったらはまるだろう。けれど、今、すごーく不機嫌そうに私を見て、淳悟さんにトゲのある対応をしているのを見ると、まるで歓迎されていないのもわかる。とても人間らしい、そして子どもらしい対応。
なんか、ぴりぴりしてきた。いっそ吸血鬼の館のほうが楽しかったかも、というくらい、ツンケンした少女のせいで空気が悪くなった。
私が口を尖らせていると、淳悟さんがこちらを見たので、慌てて口角をあげた。私まで不機嫌になったら申し訳ない。
「瑠々さん欲しがってたでしょ、友達」
私は何を言っているか理解するまで少し時間がかかって、それから少女のほうを見た。
ぽかん、と淳悟さんの顔を見上げていたかと思うと、その白い肌を真っ赤に染めた。
「言ってないわよ! 言ったけど、その辺で拾ってこいなんて言っていないわ!」
そう言って駆け出すと、一番近くの部屋に入って扉を閉めてしまった。
バツが悪そうに、淳悟さんはこちらを見た。
「友達になってもらいたくて、誘ったんだ。とはいえ、あの通り面倒くさいというかウザいというか、傲慢というか鼻持ちならないというか自分勝手で偉そうな子で。正直、無理だよね」
「あ、いえ」
ごもごと返事をする。あの子もだけど、淳悟さんもなかなか口が悪い気がする。私はなんと答えたらいいか分からなくて、うつむいてしまった。そうですね、とは答えることは出来ない。
「そうだ、約束通り飲み物ご馳走しなくちゃね。そしたら下まで送るから。気を悪くさせてしまってごめんね。あんなに拒否するとは思わなくて。対人間においては、自分にも人にも厳しいからなぁ」
ダイニングに案内するよ、と、あの子が入った部屋とは反対方向に歩いて行った。
私は一度、あの子が入って行った部屋を振り返り、それから淳悟さんについていった。
大きな扉を開いてダイニングに入る。そこには、大きな机が置いてあった。椅子が八脚。普通の家にあったら、リビング全部使っても置いておけない大きさだ。
「ここのお屋敷、涼しいですね」
「エアコンはつけたり消したりしないほうがエコなんだって聞いて、そうしているんです。帰ってきたらすぐ涼しいしね。さ、好きなところに座って。ボールはどこか端に置いてください」
淳悟さんに言われ、私たちは並んで腰を下ろした。椅子もテーブルも冷たく感じられて気持ちいい。新しい家具ではないけれど、掃除がされていて清潔感があった。
あまり人の家をじろじろ見てはいけないと思いつつ、興味はあるので観察してしまう。
ここにも、当たり前のようにシャンデリアがある。玄関ホールのものより小さいけれど。大きな窓から、この部屋にも太陽の光が溢れていた。
食器棚には、コーヒーカップや、お皿が並んでいて、どれも高そう。ダイニングにはそれぐらいしかものがなかった。広いけれど、どこか寂しい気がした。生活感がないというか、物が揃っていないというか。
ダイニングの向こうにはキッチンがあるらしく、そこへ淳悟さんは買ってきた食材を持って入っていった。
「何飲みますか?」
部屋の観察中に声をかけられ、私はびくっとしながらも頭を巡らせた。喉が渇いたから水でもなんでもよいけれど、ふと、頭に飲み物が浮かんだ。
「コーヒー牛乳がいいです」
言ってから、しまった、と思った。連想したきっかけが淳悟さんの髪色だというのもあるし、ワガママで贅沢な希望だ。
そんなこと知る由もない淳悟さんは、苦笑いしながらキッチンから顔を出した。
「それはないなぁ。カフェオレでいいかな? 砂糖とミルクたっぷり入れるから」
「はい、それで」
ふー、とこっそり息を吐きながら、勝手に後ろめたさを覚えていた。
注文を聞き、淳悟さんはキッチンに入っていった。カチリ、という音は、やかんを火にかけた音だろう。
さっきの女の子、めっちゃ可愛かった。あの性格でなければ、だけど。印象は最悪。
友達が欲しい、と言っていた。それなのにあの態度。そりゃー、友達できないでしょ、と私は心の中で思う。夏休みに、一人で探検している中一女子に言われたくはないだろうけれど。
人を呪わば穴二つ。
私が誰かの悪口を言うと、お母さんはそう言う。誰かを恨めしく思うなら、自分もそう思われる覚悟をしなくてはいけない。その覚悟がないのなら、悪いことは言わないこと。
友達がいない、ということを知らない家族だけど、どこかで気がついているのかもしれない。中学生になってから友達を家に連れて行ったこともないから、いい加減怪しんでいるだろうな。夏休みだし。
キッチンから、氷を割る音が聞こえる。汗もひき、張り付いたTシャツも少しずつはがれてきた。
汗をかくのは好きだ。代謝がいいから人より多くかくけれど、気持ちが晴れやかになる。運動は対人関係で気を遣わなくていい。
待っているのもいたたまれないので、お手伝いしなくちゃ。席を立ち台所へ向った。淳悟さんとお話したいし。
泥で汚れた白いハイカットのスニーカーで、入っていいものか悩んだ。気にしていなかったけれど、ここは土足なんだ。外国みたい。
「あの、淳悟さん。お手伝いしていいですか?」
入り口から顔を覗かせると、コーヒーの粉をドリップするためにフィルターに入れていた淳悟さんが、少し驚いてこちらを見た。すぐに笑顔を作ると、首を横に振る。
「大丈夫だよ。お客様にはおもてなしするって言ったのだから」
「いえ、あの」
なんと言うべきかもどかしく思っていると、淳悟さんは私を招き入れてくれた。
「いいですよ。お手伝いお願いします」
お話したい、って気持ちが漏れてしまったのかも。ちょっと恥ずかしい。
「あ、でも、こんな靴なんです」
汚れた靴を少し上げる。そ淳悟さんの靴はピカピカだった。買い物の行きかえりで少し土汚れもあるけれど、ちゃんと手入れをしているのだとわかる。大人は、ちゃんと靴も手入れするんだ。
「平気ですよ」
淳悟さんは気に留める様子もなく、私を受け入れてくれた。
おうち帰ったら、靴をちゃんと洗おう。
恥ずかしく思いながら、私はコーヒー香る台所へと入って行く。まだまだ私には刺激の強い香りだ。
「梨緒子ちゃんは、なぜこんな廃れた場所に?」
夏休み、一人で何をしているのだろう、と不審に思っているのかも。
「運動っていうか……」
歯切れの悪い言葉にふぅん、と面白そうに口角をあげて、淳悟さんはコーヒーの粉が入った袋をしまった。グラスが三つ、すでに並べてある。
「何で笑うんですか」
シンプルな、透明なグラス。ブランド物なのか、百円ショップのものなのか、私には区別が付かない。でも、とっても綺麗。磨いてあるのかな。
「いえいえ、嘘がつけない素直な人なんだと思いまして」
細められた目を見ながら、私は納得できなかった。
「真実ではありませんが、嘘はついていません」
なぜだかムキに名って言ってしまう。
白地に青い花が描かれた、古めかしいけれどオシャレなデザインのやかんは、音と湯気を立て始めていた。淳悟さんは火を消し、やかんのお湯を少しだけコーヒーの粉に注いでまたコンロに置いた。白いシャツは長袖で、それをまくって肘までの丈にしている。そこから覗く腕は細いけれど少し日焼けしていて、やかんを持つと筋肉が盛り上がって見えた。
「お湯、こんなちょっとでいいんですか?」
「少量のお湯で粉を湿らせて少し時間を置くんです。すると、コーヒーの心からの香りと風味が顔を出してくれるんですよ」
うっとりと鼻で息を吸った。意味はよくわからないけれど、美味しく飲めるならいいか。
「うちは、お湯に溶けるインスタントしかないからなぁ」
「それはそれで、どれも美味しいですよ。今日は粉ですが、インスタントも飲み比べます」
「淳悟さん、大人の男性、って感じですね。私の周りはバカな中学生男子しかいないから」
クラスの男子を想像すると腹が立ってくる。まったく知能の低い奴らだ。私をいつもからかってくる。色黒ゴボウ足とか、脳みそ筋肉とか。勉強だってクラスで上位五番には入る時もなくはないくらいなのに、バカにされる筋合いはない。
バカ、という言葉に淳悟さんは苦笑した。いけない、口が悪かった。私は手で口をおさえた。
「それじゃあ、好きな男の子はいなさそうですね」
「いません」
これ以上口を開くと嫌われてしまいそうだから、私は一声だけ答えた。
「どんな人がタイプなんですか」
雑談とはいえ、結構核心に迫った質問。目の前にいるというのに。
「タイプ、ですか」
恥ずかしいけれど、本当のことだし。私は正直に答えることにした。
「淳悟さんみたいな、大人の男性です」
ああそう、ありがとう。そう言って余裕の微笑みを返してくれる。そう思ったのに、淳悟さんは目を軽く見開いて、慌てたように顔を逸らした。
「そう、なの」
嬉しそうに顔をくしゃっとさせて、やかんを手にしてコーヒーの粉にお湯を注いだ。
「そんな、気を遣わなくても……別に……。あ、社交辞令だよね、そうだよね」
もごもご言いながら、とっても嬉しそうに目を細めた。
その姿を見て、私も嬉しくなった。私が褒めたことで、こんなに嬉しそうに笑ってくれる人がいるんだ。胸がほわほわして、あったかい。
「本当です。社交辞令が言えるほど大人じゃないので」
言いながら、緊張してしまった。深い意味なんてないつもりだった。素敵だって思うのは本当だけれど。
淳悟さんは、やかんを手にしたり、メガネを押し上げたり、落ち着きがなくなっていた。その意外な姿がとても可愛らしい。
もう少し、淳悟さんとお話していたい。そう思っていたらダイニングから物音が聞こえた。
淳悟さんの顔を見ると、先ほどまでの笑顔とは違う、また大人の余裕をのぞかせる笑みに戻っていた。
「瑠々さん、やっぱり気になって来たようですね。梨緒子ちゃんも、行ってあげてください。カフェオレ、ちゃんと三人分入れていますから」
さっきグラスを三つ用意したのは、こうなることがわかっていたからか。淳悟さんからしたら、あの子がこういう行動をするのはお見通しだったわけだ。
また文句を言われたら嫌だな、と思いながら、ダイニングに戻る。そこには、椅子に座った瑠々の姿があった。足組んで腕組んでるし。
めんどくさい雰囲気。げんなりしながら、私は声をかけた。
「何か嫌なこと言いにきたの?」
心外だといわんばかりに靴を慣らした。茶色のローファーは、やっぱりぴかぴかだ。
「人を危険人物みたいに言うのはよして」
「なんなの。さっきはすぐに姿を消したのに、今度は偉そうに座って睨みつけるなんて」
負けじと、私も腕を組んで敵の前に立った。
「勝手に人の家来て、文句言われる筋合いないわ。友達になりたいって? 偉そうになんなのよ」
白くて、そばかすも毛穴もないような頬を膨らませて言う。リアクション、古くない?
「こっちだって、そんなつもりで来た訳じゃない。『ふじくぼ』ってなんだろうってウロウロしていたら、淳悟さんが来てみないかって誘ってくれただけ」
ふーん、と顔をにやけさせながら頷いた。
「淳悟がかっこいいから、ほいほいついてきたわけね」
「そうだよ」
「淳悟がかっこいい事は否定しないのね」
先ほどまでのやり取りを思い出し、私は言い返せなくなった。顔、赤くなってたら悔しい。負けた気がする。冷静でいなくては。
「カフェオレ飲んだら帰るから、心配しないで」
今度は何も言い返してこなくなった。
何を考えているのか、黒目がちの大きな瞳で私を見やった。どうしたのだろう。沈黙があるとどうしていいかわからない。何を言いたいのだろう。
「帰らないで欲しいんですよね、瑠々さん」
台所から、白いトレイにグラスを三つ乗せた淳悟さんが出てきた。優しい手つきで、それをテーブルの上に並べる。
「さ、瑠々さんもどうぞ。腕組みなんて、女の子のすることじゃないですよ」
優しくたしなめられ、二人同時に腕を下ろした。意地になって、恥ずかしいところを見られてしまった。
「こんな甘ったるい飲み物イヤよ」
変わらず偉そうに文句を言っている。
「僕たちの分は、砂糖少なめにしました」
パステルカラーのストローが刺さっている。私はピンク、淳悟さんと少女は黄色だった。砂糖の多い少ないで分けているのだろうか。
まったく、文句言うなら飲まなきゃいいのに。私はそう口に出す代わりに、ストローに口をつけてカフェオレを吸い込んだ。コーヒー牛乳とは違う、香りを主張するコーヒー。ちょっと苦いけれど、とっても美味しかった。喉も渇いていたので、グラスの半分まで、いっぺんに飲んでしまった。
「おいしー」
ストローで氷をつつきながら、私は口の中の余韻を楽しんでいた。
「それは良かった」
嬉しそうに淳悟さんは返事をしてくれる。でも、さっきみたいに、慌てふためいた様子はない。どうやったら、あの顔を見せてくれるのかな。とろけたプリンみたいな笑顔。
むすっとしたままの少女も、赤い唇をストローにつけて少し口にした。ノーメイクだし幼いはずなのに、妙に色っぽくてドキドキしてしまう。
「何見ているの」
目線だけこちらを向く。私は驚いたけれど、別に、と言葉を濁した。見とれていた、なんて言ってやるものか。
「あのー、お二人はどういう関係なんですか?」
聞いていいものなのか迷ったけれど、聞かないわけにはいかない。
淳悟さんは、微笑んだまま首を傾け、隣に座る少女の顔を見た。それに対し、眉をしかめながらカフェオレを飲んでいた少女は、少し言葉を選んで答えた。
「主人と下僕。オーナーと従業員。奴隷でもいいけれど」
「酷い」
思わず顔をしかめた。平然とそんなことを言ってのけるなんて。なんなの、この子。
「名前も知らない人に、酷いと言われる筋合いもないわね。誰なの、あなた」
この状況で名前を気にするって、マイペースな子。
「一応、聞いてあげる。名前書いて」
すっと立ち上がり、ダイニングにある小さな棚から紫色の花柄メモ用紙とボールペンをとってきて、私の前に置いた。わざわざ書くの、と思いながら、私はペンを手にした。
丸っこくて、上手ではない字を書いて返す。
汚い字、と思われるのは嫌だから、精一杯丁寧に書いた。あんまり意味ないけど。
「私の名前も教えてあげないとね」
サラサラと絵を描くように『藤久保瑠々』と書いた字を見る。すごーく上手。子どもの字には見えない。
「藤久保瑠々よ。あなた、年齢はいくつ?」
「中一」
「そう。私は、えーと、小六」
少し言葉につまりながら言う。自分の学年につまるのは、春先だけだと思うのだが。やっぱり年下だった。
瑠々か、綺麗な字だし、可愛い名前だ。自分の名前が嫌になる。
「梨緒子、可愛い名前ね」
じっとメモ用紙を見ながら、瑠々が言う。まさか、褒められるとは。
「全然。親が言葉の響きで決めただけだし。気に入ってない。あの、名前を聞いたところで奴隷がどうのとか、教えてもらってもいいですか?」
素直にありがとうを言えないまま話を戻すと、瑠々はそうねぇ、と頬杖をついて私を見つめる。
「絵を探しているの。ルノワールの『雨傘』という絵よ」
ルノワール。私は『雨傘』というものがなんなのかわからなかったけれど、ルノワールは知ってる。
「絵画ってこと? それなら、どこかの美術館にあるんじゃない?」
「そんなこと分かるわよ。私が探しているのは、模造品。この屋敷に飾る為に買ったものよ」
「パクリ? 盗作?」
「模造品! あのね、美術品というのは本物を語る贋作もあるけれど、模造品として安く手に入るの。偽物だとわかっていて買うわけ。インテリアとしてね」
上からの物言いに、私はまたイラッとくる。私のことを年上だとわかって言うのだからタチが悪い。こっちは先輩だよ、一才だけ。
「きっと『雨傘』ってなんだろうって思っているでしょうね」
瑠々は少し待っていて、とダイニングから出る。マイペースというか、自由というか。自分の行動に、みんなが付いてきてくれるとでも思っているのかな。
「瑠々ちゃん、小六には見えませんね」
「えっ。そうですね。ちょっと変わり者なので」
淳悟さんは「ははっ」と軽い笑い声をあげる。なんか変なの。
すぐに帰ってきた瑠々は、手にタブレットを持っていた。操作しながら席につく。スマホを持ってないし、パソコンも使えない私からしたら、凄いことだ。かっこよく見える。
「これが『雨傘』」
タブレットに表示された絵は、まず「青」という印象が頭に飛び込んできた。青いドレスを着て、青い傘をさしている女性たち。子供や男性の姿もある。一番手前の女性は、傘をささず、バスケットを手に優しく微笑んでいた。困っているようにも見える。
絵画のよさはわからないけれど、とても綺麗な絵だと思った。
「素晴らしいでしょう。絵だけでなく、この作品にはルノワールの苦悩が描かれているの。左右で少し、絵のタッチが違うでしょう? 四年という時間をあけて描かれたの」
見ただけでは、そんなに違いがあるようには思えない。けれど、そういう背景があるなら、そうなんだろう、と反論せずにタブレットの画面を見ていた。
「気に入って模造品を買った。それが、盗まれてしまったの」
盗まれた、という穏やかではない話になって、私は瑠々の顔を見た。今までの偉そうな態度とは違い、女の子らしい、儚げな表情に見えた。
しかし、私の顔を見ると、また小生意気な顔つきになった。
「模造品なんだから、買いなおせば? と思ってるでしょ」
図星をつかれたが、私は首を振った。
「思ったけど、そうしないってことは想い出がある、大切なものなんだろうなって思い直したもん」
見透かされて、それを隠すためにちょっと大げさに言った。すると、瑠々はまた女の子らしく微笑んだ。
喜んでいるのだろうか。よくわからない子だ。
「それを探すために、淳悟さんと?」
「そう。暇人だから声をかけたの」
暇人、と言われ、淳悟さんは苦笑いをした。反論はしないので、どうやらヒマなのは事実らしい。
「ここは昔ホテルとして使われていて、そこに飾っていた絵なの」
「華族が建てたと聞いたよ」
淳悟さんが言っていたことを思い出す。
「そう。それを買い取ってね。キャンプ場が出来てからは喫茶店として利用していたのだけど、キャンプ場も無くなって、喫茶店も閉じたの」
キャンプ場が活気のあった時代にすら生まれていなかった。このお屋敷にはずいぶんと歴史があるのだな、と私はまたきょろきょろとあたりを見回した。
ホテルとか、喫茶店とか、そうだったようには思えない空間だった。確かに豪華なシャンデリアはあるけれど、それくらいしか目立つものがない。きちんと片付けられてしまったのだろう。静かに高級感を保ったまま、ここに存在し続けてきたのだろうな
そんな風に歴史ある建物が、ホテルとか喫茶店とかそういう風に利用されている、ということに驚いた。
あれこれ考えている私を他所に、瑠々はよく通る可愛い声で独り言のように呟いた。
「昔の話はいいわ。『雨傘』を見かけたら教えて。とはいえ、世の中に模造品はいくらでもあるから、見つかる気はしないのだけど」
そう言って、タブレットの電源を切った。黒くなった画面は、ほとんど指紋が付いていなくて綺麗だった。
「よかったですね。自己紹介して、目的を話して。これで、二人はお友達だ」
ニコニコと、淳悟さんが言う。しかし瑠々は首を振った。
「ただの社交よ」
冷たい物言いに、私も強い口調で反論する。
「社交って何。私だって、これだけの情報教えられただけで友達認定されたら困る」
私のそっけなさに瑠々はため息をついた。
それきり、瑠々は口を開かない。なんでよ、と戸惑う。ちらり、と私を見て口を開いた。
「はいはい、私が悪うございました」
瑠々はカフェオレを残し、タブレットを手に立ち上がる。
「別に、あなたが悪いわけじゃ」
キツイ言い方をしてしまった。ごめんと言えずに、中途半端にかばうような事を言うと、冷ややかな顔で見下ろしていた瑠々と目が合う。
「いいの。私と友達になりたいからここに来たのではないものね。淳悟が余計なことしてくれたせいで、私もこの子も嫌な気持ちになったわ」
淳悟さんを鋭く見やると、黙って部屋から出て行った。言っている本当の意味がわからなくて、私は戸惑った。あの子は私に怒っているわけでも淳悟さんに怒っているわけでもない。自分に怒っている、という感じ。
「違います、淳悟さんが悪いわけじゃないです。私が、すぐかっとなったから」
すぐに否定の言葉をかける。淳悟さんは気にしていないような顔で、カフェオレを口にしていた。
「まぁ、瑠々さんの言う事も一理あります。すみませんでした」
私があんな態度をとったせいで、皆が嫌な思いをしてしまった。今日に限ったことじゃない。同じ事の繰り返しになってしまった。