4-2 ビジネスパートナー
ダイニングに戻り、淳悟さんは『雨傘』を置いて座るよう促した。
「どこから話しましょうかねぇ……」
困ったように、淳悟さんは顎をさすりながら言った。あまりヒゲは目立たないけれど、大人の男性なんだからあるのだろうな。触れてみたい、と思って赤面してしまう。今はそんなこと言っている場合じゃない。
「最初に、聞きたいです。淳悟さんは、瑠々を裏切っていたんですか?」
私の質問に、困ったように下唇を噛んだ。どういう答えが返ってくるか。私は不安で顔を合わせることが出来なかった。
「裏切っているといえばそうなります。けれど、僕にも信念があります」
思わせぶりな口調。どういうつもりかわからず、黙ることで続きを促した。
「瑠々さん、つまりは妙さんの夫であり、僕の祖父である光郎さんからの頼みごとなのです。絵と、妻を守ってくれと。つまり、僕は板ばさみ。どちらの祖父母の願いを叶えるかというところです」
瑠々の夫。
瑠々の夢を壊してまで、結婚した相手。私は正直、この人にいい印象はなかった。
思う通りに生きていたら、今孫の姿を借りて残してきた後悔を拾い集めることもなかったかもしれない。光郎さんから愛情を感じない。美人で勉強が出来るからって、旅館経営のために無理矢理政略結婚をした悪い人だ。頭の中では太って脂ぎったオジサンが、葉巻をくわえて高笑いをしている。あくまでイメージだけど。
「それで、淳悟さんは光郎さんの願いを叶えたと?」
非難交じりに言うと、淳悟さんは心外だと目を丸くした。
「約束は、先にしたほうからです。なにせ、光郎さんが亡くなった時。四年前からの願いですから」
「それを言われると……。ですが、理由はなんですか? 瑠々の願いを無視してまで守るほどのものなのですか?」
身を乗り出して淳悟さんを睨む。私にそんなこと言われる筋合いはないかもしれない。でも。
「私は瑠々の友達なんです。少なくとも、お泊まり会をしている今は。だから、瑠々の味方をします」
その言葉に、淳悟さんは微笑む。
「そう言われるとね。ちょっと迷っているんだ。瑠々さんにお伝えしたほうがいいかもしれない。そう思って、蔵から出してみたんですよ。事実確認をするために」
先ほどまでの戸惑った表情が、段々と柔らかいものになる。淳悟さんの中で、私は信頼してもらえたのだろうか。
正直な言葉を伝えてくれていると思えた。淳悟さんの次の言葉を待つ。
しかし、その空気をさえぎるようにダイニングの扉が開いた。
「私も聞かせてもらっていいかしらね」
すでにいつもどおりの気合の入ったワンピース姿で、瑠々が入り口に立っていた。
聞かれていた、と私が冷や汗をかいているのを他所に、瑠々は軽やかな足どりで私の横に座った。
淡い紫に、白い小花柄があしらわれているワンピース。ふわっと、いい香りがした。シャンプーかせっけんかわからないけれど、ナチュラルで可愛らしい香りだった。
「あれ、瑠々さん。おはようございます。どこから聞いていましたか?」
さほど驚いていない様子で淳悟さんは言う。もしかして、予想通りだったのだろうか。
「聞いていたも何も。私は知っていたのよ。あなたが『雨傘』を隠していることを」
私は驚いたけれど、淳悟さんはやっぱり、と頷いていた。
「これでも旅館の女将を五十年やってきたの。ちょっとした違和感でぴんとくるわ。だけど、どういう理由で隠していたかはわからなかったから。一緒にいるうちに、話してくれないかしらと期待はしていたのよ」
それを、先に梨緒子に言うのね、と私が非難される。今日はいつにも増してトゲのある口調だ。恐ろしい。
「ごめん。確かに、私がでしゃばるのはおかしいけど」
言い訳のしようもなく、私はもごもごと歯切れ悪く答える。淳悟さんがあれだけ勘が鋭いのだから、瑠々の方が敏感なのは当たり前だ。
「まぁいいわ。で、理由を聞かせてもらえる?」
小さく小首をかしげ、でも心の底では怒りが湧いている様子で淳悟さんに尋ねていた。解答によっては生きてここから出られないのではないだろうか、と私が心配になる。
「そうですねぇ」
淳悟さんも顔を曇らせながら、言葉を選んでいる様子だ。机をトントン小刻みに叩きながら、瑠々は無言で催促する。私は瑠々から自然と体を離してしまう。
「亡くなる直前、頼まれたんです。四年前、光郎さんが倒れて入院なさる前です。その時はお元気でしたから、何を言ってらっしゃるのか、と怪訝に思いました。ご本人は何か感じていたんでしょうね」
瑠々が私に説明するように「あの人は私と同じようにあっけなく亡くなったの」と呟いた。
「理由は、瑠々さん……妙さんに見られたくないものがあるから、と言うことでした」
「でも、それを聞いた時にはあの人は元気だったのでしょう。ならば自分で処分したらよかったのに」
「それが、額縁の裏板が外れなくなって、途方にくれてしまったからどこかで保管してくれと。中身が何かは教えてもらえませんでした」
「裏板? 何を隠していたのかしらあの人」
瑠々はすっと立ち上がり、立て掛けてあった『雨傘』に近づき、絵を覆っていた布を勢いよくはがした。小さな体に布が絡みつく。それをもどかしそうに投げ捨てる。
あらわれたのは、画像で見たあの絵だった。
青いインパクト。曇った雨の世界。そこに立つ女性、少女は雨傘をささずに微笑んでいる。額縁はこげ茶色で、細かい装飾が施されていた。絵よりも高そうだ。
「淳悟、後ろ向けなさい」
指図をすると、淳悟さんは大人しく従って大きな額縁を裏返しにし、床に置いた。深い緑の裏板が目に飛び込んでくる。ちゃんと色が塗ってあるんだ、と感心する。
裏板を止める金具はさび付いていた。瑠々がそれに触れるが、動く気配はなさそうだ。
「板割ってしまえばいいんじゃないの。これ、ベニヤでしょう」
実力行使しようとする瑠々を、淳悟さんは止める。
「絵が傷ついたらどうするんですか」
「模造品だもの。それより何を隠していたのか気になるわ」
「さっきまで、模造品とはいえ代わりのものはないって言っていたのに」
私のぼやきを聞き、瑠々は怒りの表情で私を睨む。余計なことを言ってしまった。
「優先順位は適宜変わるものよ! 頭が固いんだから!」
瑠々はダイニングの棚を漁り、大きなカッターナイフを取り出した。ダメだ、怒っているから人の言葉に耳を貸さない。元々人の話には耳を貸さないけれど。
「もし浮気なんてしていた証拠でも出てきたら、あの世でどうなるか、見ておきなさいよ!」
上の方を見てたんかを切った。何でも思った事を言う人だと思ったけれど、ここまで感情をあらわにするのは初めてだ。もしかして、なんだかんだ光郎さんの事、好きだったとか?
怒りを込め、刃を出したカッターナイフを裏板に突き刺した。けれど、細腕で幼い瑠々では傷は付けど致命傷を負わせることは出来ない。何度も何度も、瑠々はカッターナイフと突きたてた。
猟奇的って、こういうことなのだろうか。目の前で行われているとは思えないような、どこか他人事のような気分になってきた。
何度目かの攻撃の後、隙間が出来た。そこに指を入れ、力任せに持ち上げてその隙間を広げようとする。その手を、淳悟さんが優しく握った。
「僕がやりますから。瑠々ちゃんの体に傷がつきます」
そこで、瑠々は動きを止めた。今の体は自分のものではない。可愛い孫の体なのだと冷静になったのだろう。
私は、自分の手を見て放心している瑠々の肩を支え、立ち上がらせた。そして先ほどまで座っていた椅子に腰掛けさせる。
「申し訳ないわ。いい年してこんなに激昂するなんて」
幸い、手は傷ついていなかった。私はその震える手を取り、包み込んでさすった。
「なんだかんだ、光郎さんのこと好きだったんだね」
私の言葉に、瑠々は生気を取り戻した顔で首を振った。
「そんな。ビジネスパートナーよ。好きだなんて……」
そう言って、頬を膨らませた。
素直じゃないなぁ。大人ってどうしてすぐにこじらせたがるのだろう。好きじゃなかったら、信用していなかったら、あんなに怒ることじゃないだろうに。
バリバリと音を立て、割れていく裏板。木屑が飛び散っている。淳悟さんも許しが出たからか、容赦なく思い切りがいい。
「何か出てきました」
木屑の中から黄ばんだ白い封筒が出てきた。封がされていて、表には切手も貼られ住所も書いてあった。切手はサクラの絵が描かれたピンク色の十円切手。十円で手紙が送れるんだ、と驚きながら住所を見ると、そこには『加須 妙様』との宛名があった。差出人は『藤久保 光郎』となっている。
「なんて読むの、これ」
手紙を受け取った瑠々は、宛名を指差す私の問いかけにも上の空で答えた。
「かぞ、よ。私の旧姓。結婚する前にあの人が書いた手紙、なのかしら」
言いながらも、腑に落ちない様子で何度も封筒を眺めていた。
「でも、消印がついていないから私には送らなかったようね」
見覚えがないのだから、そうなのだろう。結婚前に、なんて書いたのか。好奇心がわいてくる。
中々封を開けない瑠々に対し、私も淳悟さんも無言で成り行きを見守った。しかし、落ち着きなく手紙を弄ぶと私に目を向けた。
「申し訳ないけど、梨緒子が読んでくれない?」
「はぁ?」
ぐいぐい封筒を押し付けられてしまう。瑠々は顔を赤くして、首を振っていた。
「何が書いてあるか恐ろしいわ。お前に愛情なんてないけれど結婚するんだ、とか。きっとそういう嫌味でも書いてあるのよ。だから見つからないように、わざわざ淳悟に頼んで死後も見つからないようにしていたのだわ。面識もない結婚前の私に手紙を送るなんて考えられない」
絶対に読みたくはないけれど、きっと中身が気になるのだろう。しかし荷が重い話だ。
「いやだよ、淳悟さんが読んで」
「淳悟はダメ! 一応あの人の孫なんだから傷つくことが書いてあったら……」
そこで言葉を切る。よほど、光郎さんを信用していないようだ。生前、どういう風に接していたのだろうか。
「傷つく程、僕は光郎さんと深く接点があったわけではありませんからね。梨緒子ちゃんが嫌でなければ。瑠々さんのお願い聞いてあげてください」
そうは言いつつ、淳悟さんも好奇心で目を輝かせていた。隠している四年の間、気になって仕方なかったのだろう。傷つくよりも、面白いネタがあるかも、と思っているのかもしれない。
「えぇ~。仕方ないなぁ」
私も、言葉とは裏腹に早速カッターナイフを使って封を切った。人間って性格の悪い部分が誰しもあるのだなぁ。
触れたことのない紙の質で出来た便箋。和紙なのだろうか。白くて厚みがあって、あたたかい。ところどころ黄ばみがあり、五十年の歴史を感じる。そして、文字は太い毛筆。びっしりと書いてあり、解読が難しい。言葉遣いも古いし。
わからないところを飛ばしながら内容を読み解く。どうやら、みんなが思っていた内容とは違うみたい。
私は恐る恐る、といった様子の瑠々に向け、手紙を読んだ。