3-6 ルノワールの苦悩
「ろくじゅう……えっ、私のおじいちゃんより年上!」
「あら、そうなの。私もだいぶ年とったわね」
面白くなさそうに返されたが、問題はそこではない。どういうことだ。
「いきなり本題に入るんだね。頭ついていかない気がするけど、とりあえず全部聞く。つっこむのは最後にする。じゃないと話が進まないもんね、きっと」
ふぅ、と麦茶を口にする。香ばしい風味でパニックが少し緩和される気がした。
「助かるわ。じゃあ黙って大人しく聞いていてね」
言葉が強いんだから。私は何も言い返さず、続きを待った。
「中身の妙という人間は『ふじくぼ』創業者の藤久保光郎という男性の遠縁であり、配偶者なの」
はいぐうしゃ? 結婚相手、ってことかな。
「この屋敷も、夫が買い取ってホテルに改装したの。元々経営していた旅館に、このホテル。ここはご覧の通りだけど、今は国内に計三件あるの」
「へぇ、なんか、テレビで特集されそうな一族、って感じ」
「されたわよ。私、前田美波里似の美人女将だってテレビに出たことあるもの」
「誰、その人」
「知らないの? 前田美波里。まったく若者ぶって……」
横から、淳悟さんがすっとタブレットを出してきた。
画面には、ショートカットで笑顔を見せる美しい女性の画像があった。目じりにシワもあるし若くはないけれど、とても綺麗で瞳も大きく、はつらつとした印象の人だ。
「きっと、この話題を出すだろうと思って画像検索しておきました」
淳悟さんの準備に、瑠々はバツが悪そうな顔をして「そうそう、こんな感じ」とぼそぼそ答えた。淳悟さん、瑠々のことお見通しだな。私は密かにほくそ笑んだ。
してやられた顔なんて、なかなか見られない。
瑠々はわざとらしく咳払いをして、話を続けた。
「そういうところに十八才で嫁に来て、私はとても大変だったわけ。仕事仕事、子育て家事仕事。自分の時間は眠る時だけ。食事もお風呂も、仕事や子育てのついで。気がついたら、淳悟みたいに孫が七人出来るくらい、おばあちゃんになっていたの」
「淳悟さん、孫だったんですか」
見た目小六の少女の孫である二十三才の淳悟さん。
なるほど、オーナーと従業員とか、敬語で話すとかすべてに納得がいった。本当の話ならば。
「本物の瑠々ちゃんも、孫です。一番年齢が下の子ですね。一番上は、僕の兄です」
本物の瑠々と淳悟さんは、いとこ、ということか。それなら、見た目上しっくりくる。
「私はね、勉強して大学に行きたかった。学ぶことはいいことだ、学のない人間にはなりたくないと思ってね。幸い、我が家は裕福だったから。でも、のちの夫になる光郎が、ぜひ私を娶りたいと家に来てね。悪い話じゃないだろう、って両親が言うの。なんだかんだ言って、女は結婚して幸せになれ、って思っていたのね。確かに、大学に行っても大変なことが多いだろうって。そういう時代だったの。女が活躍するよりも、家庭に入るべき、っていうね」
瑠々は、窓の外の暗闇を見ていた。
それは、とても小学生の出来る瞳の色ではなかった。深くて、黒い。きっと、私の想像できない苦労を沢山してきたのだろう。けれど、それはまっすぐ強くて、後悔、というものではないと思えた。
「で、瑠々の中身の私は、病気になってしまった。今、入院しているわ。意識が戻らなくて、いつ亡くなってもおかしくない状態が続いているの」
私は、軽い調子で話す瑠々の言葉を聞き逃しそうになった。今、深刻な話をしたよね?
「いつ亡くなっても? どうしてそんな状況に」
かすれた声に、瑠々は眉をあげておどけて見せた。
「頭の血管が切れちゃった。ずーっと健康だったからいきなり。死ぬのを待つ私は、後悔とは違う感情が生まれたの。不思議ね、意識がないのに。もっと、人生楽しみたかった。子どものころは勉強、大人になってからは仕事と家事育児。一生懸命やったわ。誰に恥じることの無い人生。だから後悔じゃなくて、他にもやりたいことがあったんじゃないのか、って好奇心ね」
紺色のワンピースを指でつまんで、瑠々は笑った。それは『雨傘』に描かれている、傘がなくて少し困った様子の貴婦人のようだ。神秘さを感じて、私は息を飲んだ。
「瑠々がね、私の意識の中で言うのよ。おばあちゃん。私の体でよければ、って」
「なんだか、オカルトな話になってきた」
私が首を捻ると、瑠々はほほをふくらませた。
「私だって、なぜ今こういう状態なのか科学的には説明できないわ。とりあえず、最後まで聞きなさいって」
「はいはい」
肩をすくめる私を見て、瑠々は話を再開させる。
「自分はもう死ぬのだ、やり残したことがたくさんある人生だったと嘆いて、夢の中を彷徨っているとね、瑠々が目の前に現れて言うの。『おばあちゃま。自分には夏休みに遊ぶ友達もいない。両親はホテル経営で忙しい。中身が変わっても誰も気がつかないよ。私の体を使って』って。悲しいことを言うの。孫にそんなことを言わせるなんてさ、私はおばあちゃん失格よ。だからこそ、瑠々の体を借りることにしたの」
おばあちゃま、って呼ばれているんだ、と関係ないことをぼんやり思った。
「だから、友達が作りたい、って淳悟さんが勧誘してきたんですか」
瑠々はそれ以上口を開かなかった。その時は「拾ってきた」と酷い言われようで、私も怒ってしまった。
「それが、今の状況よ。これで理解してもらえるかしらね」
試すように、私を見てくる。
そう簡単に理解など出来るわけない。
思いつつも、ここでそう言ってしまえば頭の固い、つまらない人間だと思われてしまう気がした。瑠々には、自分の意見を押し通す力があるから、反対するにはそれなりに私にも力がないと何も言い返せない。
それに、こんなにもよくしてもらっておいて「信用しません」じゃ気まずい。
そこで、私は気がつく。ここまで話をしなかったのは、もう引き返せない所まで囲い込んでからと思ったから? だとしたら、まんまとその作戦にのっかってしまった。
「これから、あなたのことは瑠々ではなく、妙さんと呼べばいいの?」
しぶしぶ話に乗る、という私の様子を見て、少し意外そうに瑠々は眉をあげた。
「いいえ。瑠々の想い出の一ページになる為にも、瑠々として接して欲しい。これからも、細かいことは気にせずに瑠々の友人になってほしいから」
「飲み込んでくださって、よかったです。ねぇ」
私にも瑠々にも言うように、淳悟さんはほっとした口調で安堵した。
全然飲み込んでないけど、ここは乗らないことにはいけない雰囲気になってしまった。でも、嘘だとも思えなかった。不思議な状況だけど、言うとおりであればしっくりきてしまう。
「これからも、瑠々としてよろしくね」
にっこりと、作ったような笑みを見せる。
それは妙としての笑顔なのか、妙が無理して若作りしての笑顔なのか。
違和感に体がむずむずするけれど、深く考えずに今後も同じように付き合えばいい、か。いいのかそれで、と自分に問いかける。いいも悪いも、乗りかかった船という奴で、降りたらそこでおぼれてしまう。
「でも、さ。中身の妙さんは、今……」
聞いておかないといけない。私はもぞもそ、体を揺らしながら尋ねた。
「今際の際にいるわ。まだ生きているけれどね。お見舞いにかけつけた淳悟をつかまえて、今回は共犯者として巻き込んだの」
いまわのきわ、ってなんだろう。まだ生きていることは確かなようだけど。
淳悟さんがその時の事を思い出したように、懐かしむ目になった。
「びっくりしました。病院に行ったら、いとこの瑠々ちゃんが僕に言うんですよ。あんた、ふらふらしてやることないなら協力しなさいよって。そんな口のきき方をする子じゃなかったはずだし、僕は夢でも見ているのかと思いました」
愉快そうに笑うけれど、今まさに、私がその状態なんだけどな。
「その、妙さんが、もし……もし……」
亡くなったらどうなるの、と聞きたかったけれど、本人を前にして言葉に出来なかった。それを見た瑠々が話を引き受ける。
「ああ、ごめんなさいね。聞きにくいなら私から話さなくちゃいけないことよね。私が死んだら、瑠々は本物の瑠々になると思うわ。記憶があるかどうかはわからない。あなたがいきなり知り合いだ、友達だと目の前にいても、あの子は驚いて会話を上手にできないかもしれない。とっても引っ込み思案な子だから。私と接するのと同じようにしては、傷ついてしまう。ナイーブなのよ、梨緒子と違って」
「中身の、妙さんは?」
あくまで、私の知り合いは瑠々ちゃんではなく、瑠々の姿をした妙さんだ。そちらのほうが気になる。
「死んじゃうんだから、まぁそういうことよ」
声のトーンを落とさないように気を遣ったのか、瑠々はからっとした口ぶりで言った。
「そっか」
聞かなくてもわかってる。
せっかく友達になっても辛い別れが待っているのだと思うと、この先どういう風に接するべきか。
ダイニングには重苦しい空気が流れた。
「いいのよ。気なんかつかわなくて。本当なら、意識もなくベッドの上で死を待つだけ。こうして、孫が二人も協力してくれて、人生のロスタイム? というのを経験できているわけだからありがたいものよ。現世で頑張って生きたご褒美かしらね。徳は積んでおくものだわ」
「今はアディショナルタイムって言うの」
指摘すると、瑠々は苦々しい顔で麦茶を飲んだ。
上を向いた時のフェイスラインが、とても美しかった。中身が大人だから醸し出される色気、というものであろうか。首筋からいい匂いがしそう。甘い匂いではなく、スパイシーでセクシーな匂い。
「何、その長ったらしい名前。いちいち名称変えるのやめて欲しいわ。ばーちゃんはついていけない」
憎まれ口を叩くけれど、瑠々はきっと、サッカー用語使って私に合わせてくれたんだ、と勝手に思う。瑠々の気遣いは、ホテルの女将だった経験からなんだな、と感心した。これまでのもてなしも、そう考えればおかしくはない。部屋の改装をするにはやりすぎだけど。
「事情はわかったところで、目的は『雨傘』を探すことでしょう? 今までどう探してきたの?」
「今まで、って言ってもね。梨緒子が来る前の日に私も瑠々になったもんだから、何も」
口を尖らせ、瑠々は肩をすくめた。
「大人がいないと何も出来ないから、淳悟にわけを話して、それで本格的にここに拠点を決めたの。元々別荘にでもしようと思って、水回りのリフォームをしたばかりだし、電気ガスはあらかじめ通っていたしね。週に一回は管理人に清掃を頼んでおいたから小奇麗でしょ。生活用品の買出しとネット環境を整えて、さぁこれから、って時に梨緒子がノコノコきたわけよ」
「ノコノコって何よ、いちいちムカツクこと言うんだから」
しかし、その憎まれ口で重苦しかった場が元に戻った。変なの。普通こんな事を言い合ったら険悪なムードになるものなのに。
「つまりは、何も進展していないってことだね。一応私なりに調べてみたけれど、模造品、って見つけるの難しくない?」
模造品は、簡単に言えばコピーだ。著作権のきれた名画のカラーコピー。安く売っているから、お金持ちに限らず誰にでも手に入る。本物でも贋作でもない。カラーコピーの品なんて世界中にいくらでもある。
もし、それをなくしても、同じものを見つけるのは難しい。何せ、元々同じものがある商品だから、どれを見ても探している本物に見えるだろう。
「梨緒子って、携帯電話もないって言っていたけど、そういうことは調べられるのね」
「お父さんに頼んで一緒に調べたの。何も知らないで、協力は出来ないと思ったから」
へぇ、と瑠々は眉をあげて唇をあげた。意外だと思ったのか、少し嬉しそうに見えた。
「勉強してきてくれたのね。話が早くなるから助かるわ。そうなのよねぇ。どこから手をつけていいか途方にくれているの」
肘をテーブルにつき、瑠々は指を組んでそこに顎をのせた。やっぱり、仕草が古い。昔のマンガみたいだ。
「『雨傘』くらい有名な作品なら、また模造品を買えばいいだけじゃない。さすがに本物は無理だけど」
疑問に思っていた事をぶつけてみた。しかし、瑠々は顔をしかめて首を横に振る。
「梨緒子は子どもね。そういう問題じゃないの。いくら流通していても、それでなくては嫌だっていう想い出の品はあるのよ」
自分より幼い顔立ちの少女に「子ども」言われると腹立たしいけれど、中身は六十九才なのだ、と気持ちを落ち着かせる。まさに、私は孫の年齢なんだから。
「好きで嫁いだわけじゃないけれど、あの絵は夫が私の為に購入してくれた最初で最後のものなの。模造品だけれど、私は『雨傘』が好きだった。絵はもちろん、描かれた背景も含めてね」
『雨傘』は、ルノワールが苦悩の末書き上げた作品だ。
光を描く印象派の画家。
印象派とは輪郭がはっきりしていない、ぼやかしたような作風だと私なりに感じた。色味が薄く、キラキラしている。
しかし『雨傘』は、ルノワールが人間の豊かな内面描きたい、と書き始めた作品だった。
そのはずが、気がつけば光を追っていた。いつもの自分から抜け出すことが出来ず、ルノワールは苦悩する。
半分を描いたところで、旅に出て模索した。自分のやりたいことはなんなのかと。
そうして四年の月日をはさみ、再び描き始めた。未完成の左側は、きっちりと輪郭をとって、流れるようなタッチで描いた。異なる二つの手法で描かれた『雨傘』は、人生と通ずる。
右側は、光で描いた少女が柔らかく微笑み、青い傘をさした女性がその姿を優しく見つめている。傘に入りなさい、と声をかけているようだ。
左側は、傘はさしておらずカゴを持っている女性。にわか雨に少し戸惑っているようだ。
青を基調とした、光と人間の内面を描いた一枚。
迷って、悩んで、そこで生まれた新しい世界。苦悩から生まれたものは美しいと感じた。
瑠々の中身である妙さんは、ルノワールの考えに共感したのかもしれない。
目指すものがすぐに出来なかったとしても、途中で自分を見失ったとしても、信じていればきっと新しい道は見つかる。
「描かれた背景も調べてきた。瑠々が気に入ったにもわかる」
共感の言葉をもらい、瑠々は絵画の中の女性のように微笑んだ。
「わかってくれる? どんなに辛くとも、投げ出したくとも、人生は自分の手できっちり仕上げるべき。私はこの絵を見て自分を奮い立たせたの。逃げてもいい。悩んでもいい。いつか、新しい道が見つかると信じて。そうやって美しい絵に励まされ続けてきたわ」
夢見るような瞳で、瑠々は少し上の方を見つめた。
「唯一夫にねだって購入したもの。模造品だからなんでもいい、ってわけではないの」
なんだか申し訳ない気持ちで、私は肩を落とした。
同じ商品はあっても、買いなおして済むものではない。
サッカーボールだって、安物だけどお父さんが一緒にやろうって買ってくれたものだ。あれを無くして「どこにでも売っているからいいじゃない」と言われてもそれでは納得出来ない。
「でも、もういいわ」
「え?」
私が反省していることを見越してか、瑠々は明るい声でまっすぐな瞳を向けてきた。
「こうして、私の想い出を聞いてくれただけで、少しは成仏できた気がするわ。想い出って、共有できたらそれでいいのかもね」
成仏なんて、まだ言わないでよ。
私は泣き出したくなった。本当は、また『雨傘』を見たいはず。けれど、きっと私に気を遣って。淳悟さんにも心配かけさせないように。残っている時間を考えてのことかもしれない。
「ダメだよ、そんなの」
搾り出すように、私は言う。手に、自然と力がこもっていた。
「私、協力するから。『雨傘』見つけようよ」
なぜだか私がお願いするように、瑠々を見つめた。驚いたように、瑠々は大きな瞳を見開いている。それから、自然な笑顔で私を見つめ返した。
「ありがと、梨緒子」
この笑顔は、もしかしたら本物の瑠々から見ることが出来ないのかもしれない。
今こうして笑って、私と話しているのは妙さんだ。見た目は同じでも、心は違う。
「下調べしてくれたのならわかるでしょ。模造品を見つけるなんて途方もないことなのよ」
諦めたような口調に、なぜか私は苛立ってしまう。
「誰かが持っていったのか、捨てたのか、しまいこんで無くしたのか。どうやって無くしてしまったのかわかっているの? 少しはヒントがあるはずだよ」
「わからないわ。紛失したのは夫がなくなる少し前。四年前ね。誰も知らない間に消えてしまったの。私が見に来た次の日、管理人から連絡があってね。つまり、最後の目撃者は私だったの」
「その一日の間に盗まれたのかな」
「ここから誰かが持っていった、というのもあまり考えられないわ」
「どうして? 美しい絵なら、欲しがる人もいるはずだよ」
畳み掛けるような質問に、瑠々は困ったように眉をひそめた。
「盗むほど価値があるものではないわ。それに、かなり大きいから、持ち運びも大変でしょうし、それに見合う対価はないわね」
瑠々は、両手を広げて絵の大きさを表した。瑠々が一人では持てない大きさのようだ。うっかり落としたというには無理がある。
「それにここに出入りしている人ならば、あの絵を私がどれほど愛していたか知っている。管理人を含めてね。知っていて盗んだとしたら」
そこで言葉を切り、瑠々は淳悟さんの顔をちらりと見た。唐突な視線に、淳悟さんはうろたえた。
「な、なんですか」
「私に恨みがあって、腹いせに絵を燃やしてやった、というのが、一番ありえる話」
「そんな」
僕はしません、と言わんばかりに首をぶんぶん振った。
「淳悟を疑っているわけじゃない。だってあなたはホテルの跡継ぎは兄弟にまかせる向上心の無さだし、私とさして面識もない。ただ漠然と生きているだけで私に恨みを持つようなエネルギーもないでしょう? だからこの企みの共犯者にしたの」
酷い言われようだけど、淳悟さんは安心したように顔をほころばせた。
「そんなにまで恨みをかうようなことをしていたの?」
「これだけ生きてそれなりの立場でいれば、いくらでもあるんじゃない? 梨緒子にはまだ早いわね。とはいえ、殺してやる! って恨まれていないだけでも、上手く生きることが出来たと思うわ」
ふふっ、と柔らかい笑みをする。見た目は子どもだから無邪気なものだけど、話を聞いてしまった以上、笑えない。
「蔵を含め、この屋敷を探して無かった以上、『雨傘』を見つけることは非常に困難だ、ということね」
「それじゃあ、私はどうしたら」
心細いような気持ちになる。最初から、瑠々は『雨傘』を見つけることを諦めているんだ。だったら、なぜ私にこの話をしたのだろう。なぜ、孫の姿を借りてまでここに留まっているのに、簡単に諦めるの。
「ごめんなさいね。やる気を持って来てくれたのに。でも嬉しかった。梨緒子が下調べをしてここに来てくれたこと」
瑠々は残りの麦茶をぐいっと飲み干す。まるで子どもらしさのない仕草だった。うちのお父さんっぽい。
「お風呂に入ったら? お湯ははっておいたからすぐに入れるわ。今日は早く寝ましょう。本当は夜更かしして、梨緒子と遊びたかったんだけど」
淳悟さんを睨む。淳悟さんは当然だ、と口を真一文字に閉じて頷いた。
「当たり前です。瑠々さんも梨緒子さんも、今日は早く寝てくださいね」
本当のお父さんみたいだ。私も瑠々も、その渋い表情を見て噴き出した。
「淳悟も、いつの間にかおじさんっぽくなったわねぇ」
「淳悟さん、隠居、ってあだ名されていたくらいですもんね」
「梨緒子ちゃん、それは瑠々さんには秘密で……」
しー、と唇に人差し指をあてる淳悟さんに私は慌てるけれど、もう遅かった。
「隠居って、その年でそんなあだ名つけられていたの? 本当に覇気がない子ね。どうしてそんなやる気のない子になったのかしら!」
怒り出した瑠々を見て、淳悟さんは私にちょっと恨みがましい顔をした。まさか、言っちゃいけない事だと思っていなかった。
「あ、えーと、お風呂の準備しよっかな。ご馳走様でした!」
私は白々しい態度でダイニングを出た。
ふふ、と笑みがこぼれる。淳悟さんには悪いけど、こういうの、とっても楽しい。人の家の事情を垣間見るのは初めてだ。お泊まり会、って感じ!
「梨緒子ちゃん、お風呂の場所、教えてないですよ」
すぐ飛び出してきた淳悟さんも、瑠々から逃げてきたのだろう。困ったようにちらちら後ろを振り返りながらダイニングから出てきた。
「あ、そっか。後先考えず、とりあえず逃げてきちゃった」
「僕もです」
「すいません、言ったらダメだって思わなくて」
「大丈夫です、どうも僕のそういう部分が気に入らないみたいですけど、そうは言っても直りませんから。いつも聞き流してます」
優しい視線を交わした。私はこんな時間があることを初めて知った。言葉がなくても通じて、同じ思いを視線で交わして。家族だったら出来たけど、他人の、男の人と出来るなんて。
好きって、こういうことなんだろうな。でも、淳悟さんは中一の子どもには興味ないだろう。あったら、それはそれでちょっと引くし。