1-1 嘘にまみれた夏休み
ファンタジーアニメに出てくるような森の中、とはちょっと違う。ある程度人の手が入って整えられた人工的に美しい森は、私が生まれる前にはとっても賑やかだったらしい。今は、誰もいない。存在も忘れられているのかもしれない。そう思うと少し悲しいな。
そんな山の中で、妖精さんに出会えたら。なんて夢を見てしまい、私は恥ずかしくなる。まだまだ子どもだなぁ。
顔を勢い良く通り過ぎる風が心地いい。街中では感じられない清らかさを、深呼吸して体いっぱいに溜め込む。
小学生の時から乗っている、赤い自転車のブレーキをかける。砂利がいくつか勢い良く飛んだ。汗が顔や首から流れ落ち、黒いTシャツの首元から背中へ流れた。焦げ付くような白い太陽の光の中、その殻を破ろうと私はもがく。
何か変わりたい。そう思った中一の夏。
夏休みだから、ちょっと遠出しようと思った。一人やってきたのは元キャンプ場。一時期はキャンプに訪れる人で溢れかえっていたけれど、今現在は閉鎖されている。そんな場所に、サッカーボールひとつだけを持ってやってきた。
壊れた柵を乗り越える。使われていない廃れたキャンプ場ではあるが、所有者がいるため立ち入り禁止。正面の出入り口は背よりも高い柵に守られているが、裏の出入り口は背が低い。子どもでも簡単に侵入できる。ボールを落とさないよう気をつけながら足を踏み入れるが、こんなに雑草があってはうまくボールは蹴れないだろう。残念。
セミの鳴き声が反響して聞こえる程、木々に覆われた広場。さわさわ揺れる葉っぱの音を聞きながら、新鮮な緑の匂いでむせ返りそうになる。
遠い、とは言っても、自転車で二十分ちょっと。上り坂が大変な小さな山の中だ。
小学生の頃は、子どもだけで遠出してはいけなかった。どこまでが遠出に含まれるかというと、学区外はいけないというのだから狭い世界。
私は中に進んでいく。デニムのショートパンツで足を露出させているから、虫さされが心配。こんなことなら、暑苦しいなんて思わずにジャージで来るべきだったかも。元キャンプ場に来るには軽装だったなぁ。
携帯の電波は繋がりそうもない僻地、って感じ。とはいえ、私は携帯持ってないからそんな心配しなくていい。
中学一年生になっても携帯電話を持っていない。
必要に感じなかったから、親にねだることもしなかった。そう思い込んでいた。
『夏休みは、友達と旅行に行くの』
『梨緒子ちゃんは、どこかに行くの?』
『じゃあね、また、二学期に』
友達だと思っていたのは、私だけ。そこに私は含まれなかった。
ああ、思い出しただけで腹が立つ。とはいえ、あの子たちが悪いわけではない。私は友達ではなく、クラスメイト。LINEのアカウントを聞かれることもない。人生に携帯電話の必要がなかったのだと、夏休み前に思い知ることになるなんて。
それとも、友達と思っていた私が身の程知らずなのかな。でも、自分のことは嫌いじゃないから性格を直したいとも思ってない。直すというより、変わりたいと思った。
苛立ちを込めて、ぽーんとサッカーボールを蹴り上げた。その勢いで、長いポニーテールが自分の顔にあたる。汗が髪の毛に持っていかれ、キラキラ弾け飛ぶ。
ワールドカップで使用されるような公式ボールではなく、安物の白黒サッカーボールは、緑の森に吸い込まれていった。
ボールを追いかけ茂みに入る。草木が伸び放題、と思って顔をしかめながら進んでいると、急に視界が開けた。あたりを見回すと、そこには『ふじくぼ』と書かれただけの木の看板があった。赤地に、オレンジの文字。古くて汚れているし、はじっこは欠けているけれど、なんだか高級そうな、植物の葉っぱのような装飾も四隅に施されている。
ふじくぼ……って、何? 花とか木の名前とか?
セミの鳴き声に集中力を奪われながら頭を回転させるが、その言葉に聞き覚えはなかった。
この細い道を登ったところに、何かがあるってことかな。小高い山の上まで導いてくれているような雰囲気がある。
ここを登れば、何かあるかも!
夏休みの大冒険になってきた! と浮かれる。面白いことが待っている予感がする!
「行ってみよう」
固い決意で言葉にすると、その声がかすれて出た。待てよ。これだけ汗をかいたんだから、喉も渇く。水飲み場で水分補給してから行こう。
ボールを拾い上げ、さっきの水飲み場に行こうと振り返ると、そこに人がいた。驚いて私は小さな悲鳴をあげてしまった。いつの間に。
大きなバッグを抱えた大人の男性が、にこやかにこちらを見ている。黒縁のメガネの奥の目が、笑っているような、そうでもないような。大学生のような見た目だけど、凄く落ち着いて見える。
怒られる? でも、この人は何者?
一歩下がる。いざとなったら走って逃げてしまえ。
しかし、男性は私の独り言を聞いていたのか、にこやかなまま私に話しかけた。
「喉が渇いたのなら、うちにいらっしゃいませんか」
優しい声色に、警戒心を解いてしまいそうになる。だめだ、知らない人に話しかけられても、付いて行ってはいけない。
「知らない人の誘いは受けられません!」
気丈に声を出した。こういうことはきっぱり断らなければ。
「偉いですね。それはそう。僕は知らない人。でも、君の知りたがっている『ふじくぼ』のことも教えてあげるし、きっと面白いことが待っていると思いますよ」
目にかかるほど長めの前髪が、顔の前で揺れている。きちんとパーマをしているのか、ふんわりセットされている。茶色よりも薄い色だけど、金髪ではない。茶色と白が混ざったような、給食に出てくるコーヒー牛乳みたいな色。こんな田舎で珍しい派手さがある。
怪しい。地元の人でもないようだし。
「だからって、気安くついていけません」
私が疑いの眼差しを向けていると、男性は柔らかく笑った。
「まぁ、どちらかというと、君が付いてきたのですが。こちらから言わせたら、人の土地で何しているの? って」
微笑を絶やさず、爽やかに髪を風になびかせたまま言う。
この人、キャンプ場の所有者だったのか!
反論出来ない。勝手に敷地内に忍び込んで、悪者扱いされたら気分も悪いだろう。言葉も表情も柔らかいのに、すっごく怒られたような気分になった。不良になったつもりはないけれど、不真面目ではあるのだ。
「ごめんなさい」
私は小さく頭を下げた。
「素直な子ですね。勝手に入り込んだことは目を瞑るから、お帰りなさい」
ね、と言い含めるように言って、男性は、私の横を通り過ぎて道に入っていった。踏みつけられた草があり、何度か通っていることはわかった。
自分を変えたいんじゃないのか、私。
今までどおりの考えで終わってしまいそうになる心をひっくり返すように、私は大きな声で男性の後姿に言葉をかけた。
「付いていってもいいですか?」
ばかっ、というお母さんの声がどこからか聞こえて来そうなほど、私の決断は思い切ったものだ。
「いらっしゃるのなら、おもてなししますよ。お客様」
怪しさ満点の笑顔に、心が浮き足立った。なんだか、楽しそうな夏休みになりそうだ! 私もこぼれる笑顔で返した。
「よろしくお願いします!」
そうは言っても、不安は不安だ。引き返すなら今のうち、とちょっとだけ心のはじっこに残っている。それが表情に出たのか、男性は雰囲気をほぐすように、茶化した声を出した。
「大魔王を倒しに行くような、大げさな気持ちじゃなくて大丈夫ですよ。そうですね、まずは自己紹介しましょう。僕は、藤久保淳悟と言います。さんずいの淳に、りっしんべんに五に口で淳悟。藤久保は、植物の藤に、久しく保つ、で藤久保」
わざわざ、漢字の並びまで教えてくれた。細かい。ふじくぼ、は苗字だったのか。
「なんと呼べばいいですか?」
「そうだな、下の名前で」
「では、淳悟さんで。私は、栄梨緒子です。梨に、いとへんの緒に……子どもの子」
自分の名前を説明するとき、子どもの子、というのは好きじゃない。余計なモノだって気もするし、古臭い。大人になっても子どもだって言わなくちゃいけない。
「わかりました、梨緒子ちゃんと呼んでいいですか?」
「はい」
大人の男性に梨緒子ちゃん、と呼ばれて私はくすぐったい気持ちになる。やだ、ニヤケそう。
「さ、行きましょうか。熱中症になってはいけない。飲み物をお出しします」
「わーい、いただきます!」
汗をかいていなさそうな淳悟さんだけど、それでも顔は汗で湿っていた。うっすらと生えたヒゲの隙間が艶めいて見えるけれど、まったく不潔な気がしない。お父さんのヒゲは汚らしいのに。小さい頃はあれでジョリジョリされるの、好きだったけどな。私も大人になったものだ。
淳悟さん、背も高いし、態度に余裕もある。カッコいいなぁ。先を歩く広い背中を、じっと見てしまう。
「少し登りますが、すぐですよ」
淳悟さんの言うとおり、数分歩いただけで目的地に辿り着いた。
木々が光も視界をさえぎることのない広場に出た。そこも緑に溢れた、林に囲まれた場所。
「わぁ、凄い」
その中央に美しい洋館が建っている。
表玄関の広場に噴水があった。でも、今は水が流れていない。
緑が眩しい広場。こんなところあったんだ、と思いながら、屋敷を見上げる。レンガ造りの壁は濃い灰色。白い窓枠が可愛らしく映える二階建ての洋館は、教科書で見るような明治時代のクラシカルな洋館に似ていた。とはいえ、現代史まで歴史の勉強をしていないから、詳しくない。
「綺麗なお屋敷ですね」
私の言葉に、淳梧さんは微笑む。
「昔の華族が建てたお屋敷なんです。西洋の文化を取り入れたもので、庭も西洋庭園と日本庭園の両方があったのですよ」
「両方あるって、なんか違和感ありそう」
その風景はおかしくないのだろうか。
「明治時代の混沌とした様子を表していて趣深いと思いますよ。ちゃんと調和していて驚きます。今は管理出来なくなって、どちらも見られなくなってしまいましたが」
広場には、名残であろう花々が未だ美しく咲いていた。
ピンク色の花をポールに巻きつかせてタワーを作っていたり、白く小さな花が群生していたり。こんなの、ドラマの中でしか見たことない。
「今でも充分綺麗じゃないですか。お手入れしていたら、もっと綺麗だった、ということですか」
「それはもう、芸術作品のようでした。僕自身、子供の頃の記憶なので曖昧ですがね」
「子どものころ……。あの、今おいくつなんですか?」
聞いていいものか悩んだ。人の年はあまり気にしない方がいい、気を悪くする人もいるからと、お母さんは言っていた。
けれど、淳悟さんはなんてことないように「二十二歳です。今年、二十三歳になります」と答えた。
思ったより若いような。顔だけならば、きっと年相応なのだろう。友達とはもっとくだけた話し方をするのだろうし。
「私は、中一です」
「そう。やっぱり、丁度いい」
丁度いい、ってなんだろう。子どもの生き血をすすって長生きするドラキュラとか? でも、ドラキュラは日中出歩かないか。しかも真夏。心の隅にある不安はまだくすぶっていて、いちいち疑ってしまう。
私の心配をよそに、淳悟さんは満足そうに頷いていた。手にしていた荷物を地面に置いて、表玄関の大きな扉を開く。
「ようこそ、『ふじくぼ』へ」
『ふじくぼ』は、建物の名前でもあったんだ。この美しい古めいた洋館の。扉を開いた先から、カビくさいような、少し湿った臭いがした。でも中はとても冷えていて、エアコンがついているのだとわかる。まさか、天然で涼しかったらホラーハウスだから違うと信じよう。
二十年ほど前に使われなくなった洋館。中は太陽の光を存分に取り込んで、とても明るかった。古い洋館、というからなんとなく薄暗いものをイメージしていた。
見上げると、きらびやかなシャンデリアがあった。二階まで吹き抜けで、電気はついていないのに太陽の光だけでも宝石のように輝いていた。
贅沢な作りを観察していると、二階から下を覗く少女がいた。黒髪のボブで、じっとこちらを見ている。まばたきもせず。まるで幽霊に見えた。
見間違い、ではない。私はその少女を凝視した。汗で肌に張り付いたTシャツが、湿布を貼ったかのような冷たさに変わる。
私にしか見えていないのだろうか。淳悟さんを振り返ると、くすくす笑っている。どうやら、私だけに見えているわけじゃなさそうで安心した。
「梨緒子ちゃん、あれは幽霊ではありませんよ。どちらかというと鬼ですかねぇ」
「鬼!?」
「あなたたち、人のことあれこれ言うの止めてくれる?」
高くて、甘くて、ふわふわ飛ぶシャボン玉のような。吹き抜けを降りてくる響いた声に、私はびくりと体を震わせた。それと同時に安心する。よかった、鬼でもないみたい。