五十三話 自由
流暢に人の言葉を話す魔物――『チャンピオンカンガルー』。それはしっかりとした自分の意志を持ち、今までの魔物とは明らかに異質を放っていた。
そんな魔物を前にするジーク達は、初めて遭遇した”しゃべる魔物”により、強い警戒心を持ったようだ。
それ以上は踏み込まず留まり、『チャンピオンカンガルー』から視線を外さないまま探るように睨みを効かせている。
そして沈黙の中、先に口を開いたのはマインだった。
「人の言葉を解す知恵ある魔物……耳にしたことはあったが、こうして実物を見るのは初めてだな。さて、どう動いたものか……」
通常の魔物であれば、獲物たる人の姿を捉えた瞬間に襲い掛かってくるのが自然であった。しかし、現在対峙しているチャンピオンカンガルーにおいてはそれは無く、その場を動かずに仁王立ちを貫いているのだ。
戦闘に余程自信あるのか、何かの策なのか――。かつてない挙動の前に、マインは下手に動くことが出来ないのが心情であった。
腕を組みながら真っ直ぐに敵を視察していたジークは、作戦が決まったのかその口を開き出す。
「ここの魔物は全てレベルAだ、それはあいつも例外じゃない。油断せず慎重に事を運んだ方が無難だろう……言葉を話せる知恵を身に着けているのだから尚更な。ここはフォーメーションを組んで突破する。ミラはナオミの護衛を維持し、俺、マイン、ルルの三人で協力して奴を倒すぞ」
「「「了解!」」」
ミラ、マイン、ルルの三人がその指示に声を合わせ、守られる立場であるナオミは一人頷くのだった。
しかし、作戦が決まった直後、その張り詰めた空気の中に割り込むように声が響き渡る。
「そんなんあきまへん! ワイは守護者はんに『侵入者を見極めろ』言われておるやさかいね、一人ずつ来てもらわへんと見るもんも見れへんっちゅうねん! ワイの目は二つしかないんやで? どう考えても目の数とあんたらの数とじゃ合わへんやろが! 分かったら一人ずつ出張りや!」
意気揚々と、さも当たり前のように言い放つチャンピオンカンガルー。もちろんそんな言い分など聞く耳を持たなければいいだけの話なのだが、そのあまりにも太々(ふてぶて)しい態度に、ジーク達は白い目を向けて沈黙してしまった。
すると、マインが一つ咳ばらいをしては一人歩み出す。
「んんっ――! 一人ずつがご所望とあらば、まずは私が相手をしようじゃないか」
それだけ言い残すと、チャンピオンカンガルーの待つ中央へと向かって進んで行く。
「マインっ――! 待て!」
慌てて呼び止めるジークだが、当のマインはその足を止める様子はないようだ。
「なに、向こうが見極めるつもりなのだ。ならばこちらも見極めるとしようではないか」
マインはジークへと振り返らずに、背中でそう返すのだった――。
中央へと足を運んだマインは、チャンピオンカンガルーを目の前にして立ち止まる。腕を組み、真剣な眼差しで対峙している。
「一番手は私が相手しよう。話すことが出来る、こんなおもしろい魔物は初めてなんでな。せいぜい楽しませてくれ」
軽い挑発交じりにそう言い放つマイン。
対するチャンピオンカンガルーは何も答えずに、気迫溢れる真剣な眼差しで目の前のマインの姿を足元からマジマジと観察し始めた。
下から上へと見定めていくチャンピオンカンガルーは、くびれの所でピクリと瞼を動かし、更に視線は上ってマインの豊満な胸を視界に捉えるとカッと目を見開いた。
「文句なしの合格や! 通ってよし!」
親指を後方に向けて、その先に進むことを許可したチャンピオンカンガルー。
当然、戦闘する気マンマンだったマインは、あっけなく素通りの許しが出たことできょとんとした面持ちで固まった。
「見極める言うたやろが。あんたはワイのお眼鏡に適ったんや、その立派な乳……じゃなくて胸を張って進まんかい!」
「あ、あぁ。良く分からんが認められたということか。なら遠慮なく先へ進ませてもらうとしよう」
マインは呆気にとられつつも、無駄に戦う必要がなくなったことで先へ進むことにしたようだ。
「さぁ次は誰や! シャキシャキ出てこんかい!」
次の相手は誰かと急かすように、チャンピオンカンガルーは入り口にいるジーク達へと向かって声を上げる。
「ルルが行くー!」
次に名乗りを上げたのはルル。テトテトと小走りで中央へと向かい、チャンピオンカンガルーの前に対峙しては、両手の指を前にて合わせモジモジと上目遣いで見つめる。
「ほうほう」
チャンピオンカンガルーは顎の下に手を当て、目を細めては意味深に頷きながら、ルルのつま先から頭までを舐めまわすように視線を往復させる。
そして一つ大きく頷くと、感想を述べるように口を開き出した。
「こないな所にロリっ子が来ること自体驚きやがな、もっと驚くのは将来の可能性や。こりゃ~大人になったらえらいべっぴんさんになるでぇ。今でも子供ながらの初々しさと、小さくて可愛いらしいからアリやがな……って誰がロリコンや!」
口を開き出したかと思えば一人ツッコミを始めるチャンピオンカンガルーに、ルルはただ目をパチクリとさせている。
そしてチャンピオンカンガルーは自分の後ろへ親指を向け、マインの時と同じくルルを認めたようだ。
「合格や、お嬢ちゃん。通ってええで」
「いいの? わーい! ありがとうカンガルーの魔物さん!」
許可を得たルルはパーッと明るい笑顔を放ち、テトテトと横を通り過ぎて出口で待機しているマインへと合流する。
その間チャンピオンカンガルーは、笑顔で小走りするルルの姿を振り返ってまで目で追いかけ、ほんわかとした微笑みを浮かべていた。
ルルがマインとハイタッチを交わした所で、チャンピオンカンガルーは入り口側へと視線を戻す。
「次、私に行かせてください!」
名乗りを上げたのはミラだ。凛とした面持ちで足を進め、中央へと降り立つ。
チャンピオンカンガルーの前へと対峙すると、ミラは後ろで手を組んで、少し首を傾けてはおどけてみせた。
「ほう……」
ミラを見定めたチャンピオンカンガルーは、顎に手を添えて静かに考察を口にする。
「さっきのお嬢ちゃんと同じ、獣人のおなごやな。こっちは大人なんやろが……もうちょい出るとこ出てもええ気がするな。まぁこれも需要はあるやさかいね、気落とさんと気張って進みや」
まるで何かを諭すように、静かに語るチャンピオンカンガルー。
先へ進む許可が下りたのを察したミラだったが、どこか釈然としない面持ちでこめかみに筋を浮かばせている。
「あ、ありがとうございます」
ミラはそう一言言い捨てると、引きつる笑顔を放って足を運ばせたのだった。
「はいはーい! 次は私! これなら余裕っしょ!」
すでに三人が何事もなく突破したことにより、それを見ていたナオミが余裕の態度で手を上げた。
中央へと進み、チャンピオンカンガルーへと対峙するなりナオミは、まるでグラビアアイドルばりの悩殺ポーズを取り始めた。
しかし、そんなナオミを目にするチャンピオンカンガルーは口をあんぐりと開けて固まっていた。
「な、なんや……このけったいな生き物は」
「はぁ!?」
呟くように零したチャンピオンカンガルーの言葉を、色々なポーズを取っていたナオミは地獄耳よろしく聞き逃さなかったようだ。
眉を吊り上げてはキッと睨みを効かせ、チャンピオンカンガルーの耳を強引に掴んでは文句を垂れ始めた。
「こんな超絶美少女を前にして、なに寝ぼけたこと言ってるわけ!? その目は節穴か! 節穴なのかっ!」
「ちょ……やめぇ、やめぇって……」
片耳を掴まれて頭を揺さぶられるチャンピオンカンガルーは、さっきまでの威勢はどこへやらで、吐息を吐くように弱々しく抵抗している。
「ふんっ――」
ナオミはしばらく揺さぶった後、その手を離しては腕を組み、そっぽを向いて勝手に先へと進み出した。
「み、耳はあかんて……」
ナオミから解放されたチャンピオンカンガルーは、小さくなって女の子のように地面へと座り込み、体中の力が抜けたように小さくそう零すのだった。
最後に残ったジークは腕を組み、堂々とチャンピオンカンガルーの前へと対峙する。そして座り込んでいるチャンピオンカンガルーへと、まるで汚らわしいものでも見るような、冷たい軽蔑の眼差しで見下しの視線を送った。
その気配に気が付いたのか、チャンピオンカンガルーはハッと我に返るなり、立ち上がってはジークを下から睨み付けるようにガンを飛ばし始めた。
上から見下す者と、下から睨み付ける者。超接近している両者の間ではバチバチと視線の火花が散り、無言の圧力が支配する。
チャンピオンカンガルーは眉間にしわを寄せ、ギリギリと歯ぎしりをしては大きく口を歪ませている。それは次第に極端になっていき、もはや顔の原形を留めていない。
「何見とんじゃコラ、ボケカス! そんなアホ面通すわけあらへんやろが! さっさと帰ってゴブリンとでもちちくり合ってるのがお似合いや」
「見ているのはお前の方だろ。俺の顔をどうこう言う前に、今の自分の顔を一度鏡で見てみることだな」
「あぁん? しばき倒すぞボケ!」
互いに口論を交わした後、しばらくそのままの均衡が続いた。
やがてラチがあかないと察したのか、ジークが一つ溜息を尽く。
「はぁ……。時間の無駄だな」
それだけ言い捨てるように呟くと、チャンピオンカンガルーの目の前からジークの姿が消え去った。
転移にて状況を脱したジークはチャンピオンカンガルーを背にし、出口で待っているマイン達の姿を視界に映した。
しかしその瞬間に、再びあの顔が目の前に広がる。
「逃がすかコラボケ! 勝手に消えるなや! 消えるなら消えるで、電話の一本でもよこさんかい!」
転移にて姿を消したジークの前に、追いかけるように瞬時に移動したチャンピオンカンガルーが立ち塞がったのだった。
ジークは顔を引きつらせると、腕を組んだまま再び転移を行う。
「あっ――! 待てやコラ!」
チャンピオンカンガルーは、またしても消えたジークへ怒声を浴びせると、追いかけるように地面を蹴り出した。
縦横無尽、神出鬼没。空間内のあちこちに転移をするジークだったが、その度にことごとくチャンピオンカンガルーが目の前に立ち塞がる。それも各転移の度に、睨み付けるチャンピオンカンガルーの動きが毎回変わっている。
目と鼻の先で下からメンチを切るように。大股開きで座ってはヤンキーのように。横に並んでは、ジークの肩に腕を乗せて覗き込むように。体を仰け反らせて逆さまになってはイナバウアーのように。
するとチャンピオンカンガルーもジークの転移スピードに慣れてしまったのか、睨み付ける顔から一転、徐々に余裕の態度を見せ始めた。
片腕を上げて「やぁ」と挨拶をするように。金髪のツンツン頭のカツラを被っては「オッス! おらチャンピオンカンガルー! おらムラムラすっぞ!」と、某玉集めアニメキャラの物真似をするように。両手の親指を鼻に当てて、パタパタと手を振っては変顔でバカにするように。片肘を着いて地面に寝そべっては、鼻をほじるように。
千差万別にその動きを様々に変えていったのだった。それはもはや、転移にて現れるジークの前に、先読みして待ち構えるほどに到達していた。
さすがのジークもこれ以上は無駄だと察したか我慢の限界か、転移を止めて立ち止まっては大きく溜息を尽いた。
「はぁ……しつこい。マイン、お前達は先に行っててくれ。俺はこいつを片付けてから後を追う」
声をかけられたマインを含め、出口で待機していた一同が頷き返す。
そしてジークとチャンピオンカンガルーの両者が、間合いを取って正面にて対峙する。
ジークがまともに勝負をする腹を決めたことで、場の空気が緊張を取り戻す。
「ようやく腹ぁ決めたようやな」
「ああ。ここで決着をつけなければ、それこそ地の果てまで追ってきそうだからな」
「海の底だろうと地獄だろうと、絶対に逃がさへんで」
「ならば……二度と関わりたくないと思えるほどの、絶望を味合わせてやる」
お互いが軽い微笑を放つ反面、その場の空気は凍てつき始める。それは両者の緊迫した威圧感がぶつかるかのように、空気が震えて鼓動を始める。
地面が小刻みに揺れ、転がる小さな小石が振動を受けて震え上がる。
チャンピオンカンガルーはグローブをはめたその手を握り、キュッと一鳴らしの音を立てた。
「ほな、行くで?」
その一言の直後、まるで言葉を置き去りにするかのように、チャンピオンカンガルーの姿が消え去る。
そして瞬時に現れた時には、すでにジークの懐に入り込んでいた。
「チャンピオンアッパー!」
小さくかがむチャンピオンカンガルーは、地面を蹴り上げた強力な脚のバネを生かし、下から上へと拳を突き上げた。
ジークはその動きに合わせるように一歩後ろへと身を引き、チャンピオンカンガルーの拳を目と鼻の先にて紙一重で躱す。そして体をひねり、圧縮した風圧を拡散させた回し蹴りを放った。
チャンピオンカンガルーは飛び上がるように拳を放っていた為、その体は宙に置き去りにされる形となっていた。地に足を着いていないその状況では、決して躱すことは出来ないとジークは踏んでいた。
しかし――、その考えはチャンピオンカンガルーの取った思いもしない行動により崩れ去ることとなる。
「まだや!」
まるで空気を足場とするように、何もない虚空を力強く踏み抜いては蹴りを放つチャンピオンカンガルー。その蹴りのスピードは凄まじく、先に放っていたジークの蹴りよりも先に届いたのだった。
「ちっ――。そんな大道芸を隠し持っているとはな」
咄嗟に腕を構えてガードに徹したジークだったが、余程強力な蹴りなのか、吹き飛ばされないようにその衝撃に耐えるので精一杯のようだ。
「スキル『秘脚』言うてな、ワイはなんでも蹴り飛ばすことが出来んねん。例え、目に見ぃひん物でもなぁっ!」
しばしチャンピオンカンガルーの蹴りとジークのガードの腕とが合いまみえていたが、チャンピオンカンガルーの気合の一声によりその均衡は崩れ、お互いが弾かれるように飛ばされた。
ジークは少し後ずさり、チャンピオンカンガルーはクルクルと後方宙返りをしながら距離を取る。
動きを止めたジークはすぐさま右手を前へと突き出すと、腕輪型のアルカンシェルが輪を広げて腕からすり抜け、突き出す掌の前にてクリスタルの形状をかたどった。
そして前方に向いている頂点の一つから、細い虹色の光線を放ち始める。
しかしジークの転移にすら追いつくほどの、チャンピオンカンガルーの持つ強靭な脚力と動体視力の前では、どれだけ放っても当たることはなかった。
もはや残像を引きながら消え去るチャンピオンカンガルーを追いかけるのが限界で、強力な切断力を持つアルカンシェルでも当たらないことには意味を成さない。
舌打ちするジークは光線を放つのをやめると、アルカンシェルを手離すかのように地面へと落とした。
落下するアルカンシェルは地面へと接触すると、その姿を一気に変化させる。それは大量の水を解放し、床と壁を這うように拡散しては空間を覆ったのだった。
「なんやこれ?」
チャンピオンカンガルーは足元を覆う虹色のそれを目にし、突如現れた謎の液体に目を白黒させている。
アルカンシェルが空間内を覆ったところで、ジークはおもむろに翼を出しては宙へと軽く体を浮かせた。そして腕を組み、右目から青白い閃光を放つ。
「”凍てつけ”」
瞬間、空間内を覆っていた水が凍てついて変化し、辺りは虹色の氷で包まれた。
それにより、足首まで水に浸っていたチャンピオンカンガルーは、まるで足を掴み取られるように動きを封じられたのだった。
宙へと回避していたジークは両手の指先に風を纏わせ、まるで長い爪のように十本の風の刃を伸ばした。
「どれだけ早く移動出来ようとも、動くことが出来なければただの的だ」
そしてジークは高速で飛翔し、身動きの取れないチャンピオンカンガルーへとその刃の矛先を向ける。
「っしゃーんなろぉぉぉ! キングストレート!」
付け焼刃か悪あがきか、チャンピオンカンガルーは足元目掛けて渾身の右ストレートを放った。それは氷を砕き、足元を取り巻く地面を陥没させ、強力な火事場の馬鹿力を発現させた。
そして足のバネを引き絞り、向かってくるジーク目掛けて飛ぶように地面を蹴り上げる。
「なにっ――!」
まさか脱出されると思っていなかったジークは驚きの顔を浮かべたが、猛スピードで接近してくるチャンピオンカンガルーの姿を見るなり目力を強くさせる。
空中で踏みとどまり、前方の虚空を斬り付けてはクロスする五本の爪痕を刻み込んだ。
「おらぁー!! チャンピオンブロー!」
下から抉るように放たれる右の拳。それは虚空に刻まれた風刃をかき消すように跳ね除け、勢い落ちぬままジークへと直撃する。
「ぐっ――」
胸の前で両腕を交差させてガードするジークだが、風刃をいとも簡単にかき消すほど強烈なその一撃は、さすがに空中では耐えきれないようであった。
チャンピオンカンガルーが押し通すように前へと振り抜いたと同時に、ジークは大きく後方へと吹き飛ばされた。
後ろに迫る壁へと直撃する瞬間、ジークは軽やかに後方へと宙返りをし、まるで壁にしゃがみ込むように両足を着いた。そしてゆっくりと顔を上げ、遥か前方に立つチャンピオンカンガルーへと鋭い目を向ける。
ジークは両足を揃えるようにして壁を勢いよく踏み抜くと、その衝撃で氷もろとも壁が崩れ落ちた。
チャンピオンカンガルーもそのジークの姿に目をキッと鋭くさせ、地面を蹴り上げて真っ向から勝負を挑む。
中央で一度お互いの拳を交えると、その勢いを殺さないままに両者直線を描いて反対側の壁へと突き進む。そして再び壁を蹴っては、中央で交差する。
もはや目では追えないスピードで縦横無尽に駆け巡る両者。中央で交差する瞬間に空気が弾け、両者が足場にして踏み抜いているのであろう壁だけが無数に崩壊を始める。それは次第に吹き抜けの上空へと昇って行き、更にヒートアップしていく。
「うおりゃあああ!」
「はぁああああ!」
そしてお互いが一直線に突き進み、中央にて交差する刹那。ジークは右の拳を放ち、対するチャンピオンカンガルーも右の拳を放つ。全く同じスピード、同じタイミングで交差する寸前、チャンピオンカンガルーがその動きを変えた。
宙を蹴り真上へと上昇し、体をひねりながらジークの拳を紙一重で避けると、天と地が逆さまになるように翻り、オーバーヘッドキックの要領でジークの体へと真上から叩きつけたのだ。それはまさに一瞬の出来事、交差する瞬間に見せたコンマ数秒の事だった。
蹴り飛ばされ真っ逆さまに急降下するジークは、真上に位置するチャンピオンカンガルーの姿を捉えたまま一つ舌打ちをする。そして視線を外さないままに、大きく声を上げた。
「アルカンシェル!!」
その声に応じるように、空間内を覆っていた氷が再び水へと姿を変え、ジークの真下にて一瞬で集約した。その姿は球体を形作り、落ちてくるジークを受け止めるかのようである。
ジークが大の字ままアルカンシェルの上へと落下すると、その弾力を持ち味に衝撃を吸収し、楕円形に体を変化させてはジークを優しくキャッチしたのだった。
「目では追えても体が付いてこないか……」
小さく呟くジークの元に、上空からチャンピオンカンガルーの声が響き渡る。
「まだまだ行くでー! 上を取った方が、戦いでは有利っちゅうもんを教えてやるわ!」
チャンピオンカンガルーは真下のジークへと目掛け、宙を何度も蹴っては加速し、一直線に地面へと急降下を始めた。
ジークは地に足を着くとアルカンシェルを腕輪の姿に戻し、顔を上へ向けては迫るチャンピオンカンガルーを視界に映す。
「空を制する者は戦いを制するか。……ならば教えてやろう――」
ジークが右足を一歩後ろに引くと、両足が鉛色に変化した。
「”天と地そのものに差は無く、使う者の力量が差を生む”のだとな!」
宙を蹴るチャンピオンカンガルーの足元では空気の弾ける音が響き、加速に加速を重ねた超スピードでジークへと迫る。そして足を前へと繰り出し、超加速の乗った蹴りを体ごと叩き込む。
対するジークは右足を振り抜き、蹴りに蹴りで対抗した。
両者の足裏同士がぶつかり合い、強力な衝撃が辺りへ拡散する。二人を中心に空気が破裂したような爆音が轟き、周囲を取り囲む壁に亀裂を生んだ。
その状態を維持する状況は、均衡した力のように思えた。しかし、二人の表情には歴然とした差があった。
ジークが冷静な面持ちで真っ直ぐな目をしているのに対し、チャンピオンカンガルーは苦みを含み苦しそうな表情を浮かべているのだ。
無理に均衡を保っているだけのそれは、当然長くは持つはずが無かった。
「うわわわー!」
均衡していた強力な力の解放により、チャンピオンカンガルーは大きく吹き飛ばされた。後方の壁へと激突し、崩れ落ちるように地面へと転がる。
ジークは右足を降ろすと、鉛色に変化させていた両足を元に戻した。
「どれだけ強力な蹴りだろうと、この”迷宮自体”を蹴り飛ばすことはさすがに不可能だったようだな」
腕を組み、言い捨てるように零すジーク。そして倒れ込むチャンピオンカンガルーを背にし、出口に向かって歩き始めた。
「ま、まだや……」
声を震わせ、膝を揺らし、ボロボロになりながらも、虚ろな目でチャンピオンカンガルーは必死に立ち上がった。
「無駄だ。お前は何百という超スピードで強固な壁に衝突したも同然なんだ。死ななかっただけでも奇跡と思え」
ジークはチャンピオンカンガルーへと振り返り、もはや勝負は決したと諭すように声をかけた。
だが、それでもチャンピオンカンガルーは諦めない様子だった。
体中の至る箇所が骨折しているだろうに、ガクガクと膝を揺らしながらも、一歩、一歩とゆっくりジークに近づく。そして腕を力無くも振り上げ、ジークの胸へと拳を突き立てる。それはまるで赤子の拳も同然だったが、右の拳、左の拳と、チャンピオンカンガルーは打つのを止めなかった。
腕を組むジークは避けることもせずに、ただ真っ直ぐにチャンピオンカンガルーのそんな姿を目にしては、静かに口を開き出す。
「もうお前に勝機はない。それは知恵あるお前になら分かるはずだ。なのにどうして立ち向かう」
ジークのその言葉に、ポスッポスッと――非力な拳を放ちながらチャンピオンカンガルーは答える。
「ワイは……元からここにいたんとちゃう。昔はたくさんの仲間に囲まれ、家族もおった……。せやけどワイは、ワイだけは……みんなと少し違っとった。ワイだけ人の言葉も話すことが出来たし、他のみんなよりも、ちーとばかし賢かったようや。最初は物珍しさでチヤホヤやれよったが……気持ち悪いんやろな。次第に周囲の目は厳しくなり、ワイを避けるようになってきた。まだ子供だったワイはそれが良く分からんくてな……獲物を狩る練習だと言われてここに放り込まれたんや。ワイを一族から遠ざける為のウソだと知ったんは、誰も迎えに来ぃひんずっと後になってからや……」
チャンピオンカンガルーはまるで気持ちをぶつけるかのように、ポロポロと涙を流しながらジークの胸を叩き続ける。
「あんたに分かるんか……まだ子供だったのに、仲間からも、親からも見捨てられた悲しさが。どんなに助けを求めても、泣き叫んでも届かない虚しさが。寄ってくるのは異様な目をしたここの魔物達や。ワイを同じ魔物として見るんじゃなく、その目には獲物としか映っとらんのや……。必死で逃げて、死にそうになりながらも戦って……気が付いたらこんな奥まで迷い込んでしもうたんや。誰も助けに来ない、自分からも出られない、何を目的に生きればいいんかも分からない。一人惨めに死んでいくやと思うとった時、不思議な声が聞こえたんや」
「不思議な声?」
そのフレーズが気になったのか、ふとジークが口を開いた。
「ここの守護者言うとったわ、侵入者がいるから見極めろってな。一方的にそれだけ言うとこっちの声には一切反応しぃひんかったわ。だけど、ワイは胸が躍ったやんや……。何十年かは分からへんけどな、そないなぶりに誰かと話せる思うたんや」
胸を叩かれながら、嗚咽を漏らされながら、ジークは静かにその言葉に耳を傾け続けた。
「それが、俺に立ち向かう理由にどう繋がるんだ?」
その言葉に、チャンピオンカンガルーはジークの胸へと、拳を突き立てたまま止めた。そして、静かに口を開く。
「また……来てくれるかもしれへんやろ」
とても真っ直ぐな、素直な気持ち。その言葉を受けたジークは、目を丸くさせる。
「あんさんが、一番強いんやろ? ……だったらここでワイが勝てば、お嬢ちゃん達もきっとあんさん連れて引き下がる。そして……また挑戦しに来るかもしれへんやろ。だから戦うんや、立ち向かうんや。あんさんに敵わんのは重々分かっとる……。せやけどな……ここで負けを認めたら、また孤独になるんを認めると一緒なんや。”例え勝負で勝てなくても、弱い自分には負けたくない”んや!」
ジークは少し俯くと、踵を返してはチャンピオンカンガルーを背にした。
「悪いが……ここへはもう来るつもりはない。勝負は決し、俺が勝ってお前は負けたんだ。それはどう足掻いても覆ることはない」
ジークはそれだけを言い残すと、地面に崩れ落ちるように座り込むチャンピオンカンガルーを後にして、真っ直ぐ足を進め出した。
「待って……頼む、待ってくれや……。あんさん、勇者なんやろ? だったらせめて、一思いにワイを斬り捨ててくれへんか。魔物は敵なんやろ」
「……俺は物語に出てくるような勇者じゃない」
ジークは振り返らず、その足も止めないままに背中で答えた。
「……うぅぅ。そんな……あんまりや……」
涙を流し、地面に両手を付いては首を垂れるチャンピオンカンガルー。しかしふと、その目線の先に一つの小瓶があることに気が付いた。
それを手に取り、首を傾げながら前方のジークの背を見つめる。
ジークは立ち止まり、顔を横へ向けては後ろのチャンピオンカンガルーへと声をかける。
「勇者ではないが……魔王でもないんでな。毒は入ってない、飲むか飲まないかはお前次第だ」
その言葉に目を丸くするチャンピオンカンガルーは、小瓶の蓋になっているコルクを引き抜き、中に入っている液体を口の中へと流し込んだ。
すると、チャンピオンカンガルーの体を包み込むように、無数の白い光が漂い始める。それはキラキラと輝き、傷ついた体をみるみるうちに回復させていった。
「お前は言ったな……”例え勝負で勝てなくても、弱い自分には負けたくない”と。その想いは俺の心を揺さぶった。お前は……弱くなんかないさ」
地面に座り込むチャンピオンカンガルーは、ジークを見つめたまま静かに涙を流した。例え慰めだったとしても、向けられたその不器用な優しさは、打ちひしがれ乾いた心に強く響いたのだった。
チャンピオンカンガルーは立ち上がり、腕で涙を拭っては、ジークの背中へと叫ぶように、心の声を上げる。
「あんさんが何者でも、何をしようとしてるんかもワイは気にせん! だから救われたこの命、あんさんの為に使わせてーな! ワイを……弟子にしてはくれへんやろか!」
突然そんなことを言いだすチャンピオンカンガルーに、ジークはピクリと反応して後ろへと振り返った。
目にするは真剣な瞳。口先だけではなく、心からの進言だということを、ジークはその目を通して感じ取った。
しかし、再び顔を背け、チャンピオンカンガルーを背にして一言告げる。
「断る」
そう言われることを分かっていたのか、チャンピオンカンガルーは肩を垂らしながら、悟るような目で呟く。
「やっぱり……魔物やから、あかんのやな……」
その言葉を耳にしたジークは大きく溜息を尽く。
「……はぁ、弟子は取っていないんだ。それにな、俺の為に命を使うというのが気に障る。お前の命は、お前の為に使え。第二の人生を踏み出したいと言うのなら、自由に生きてみろ」
その扱いは魔物へと向けられるものではなく、まるで人に接するかのようだった。その言葉にチャンピオンカンガルーは目を丸くし、震えながらジークへと問いかける。
「なんでそないな言葉かけてくれるんや。ワイ……魔物なんやで? みんなから敵扱いされる、あの魔物なんやで?」
「あぁ。それがどうかしたか?」
チャンピオンカンガルーはわなわなと震えあがり、徐々に明るい笑みを放ち始める。
「もう難しい事言わへん! あんさんに付いていく! それでええやろ!」
ジークはふっと笑みを一つ零すと、ローブを翻しては出口へと向かって歩み始めた。
「好きにしろ。それが、お前の生き方ならな」
そしてその場を立ち去るジーク。
チャンピオンカンガルーは笑顔を浮かべて、ピョンピョンと飛び跳ねながらその背中を追うのであった。
開け放たれた、一本の小瓶を残して――。




