あゝ
通勤の便を良くする目的で会社近くの古いアパートを借りた。
それでも徒歩で小一時間はかかるのは、私がまだ入社して三年目という側面もあったが、将来のための貯蓄をしたかったからでもある。
これまでより一時間遅く起きられる幸せというものを私は実感していた。近所の小学生が利用する通学路を通り、途中商店街を縦断して会社へ向かった。寝不足だった日々が嘘のように業務に集中できた。
帰り道、商店街で買い物をした。コンビニで弁当を買うよりも自炊した方が安上がりなので、不慣れでもそうすることにした。
道中に小学校がある。高いフェンスで隔てられ、グラウンドは私の腰ほどの高さにある。私はそれを右に沿って歩いた。そして角を曲がったとき、それを聴いた。
あー。
私は周囲に首を振った。当時は聞き間違いと思い、気にせず歩を進めた。
翌日、不思議な音のことなど忘れてあの角を曲がって出社した。与えられた仕事をこなし、昼には同僚と談笑して、定時までに業務を片付ける。おそらく多くの社会人がそうしていることに、私の身体も随分馴染んできたように思えた。
あー。
あの曲がり角で、またその音を聞いた。
まるで鴬張りの廊下のように、そこを通ると音が鳴る仕組みでもあるのだろうかと思った。私は足下を調べたが、綺麗に舗装されたアスファルトしかなく、マンホールのような特別なものはしばらく先にしか見当たらなかった。
しばらくその音は私の帰りを歓迎するように、毎晩あの場所で鳴った。一夜に一度だけ、短く、希薄に、それでも確かに耳朶に触れていた。
一度だけ徹底して調べたことがあった。あの音が鳴った後、角の当たりを手探りで触れてみたり、フェンスの先の小学校のグラウンドを覗いてみたりした。ちょうど角のあたりは草木が生い茂っていて、子猫のような小動物が潜んでいてもおかしくないような空間も見受けられた。しかし、親の帰りを待っている、あるいは孤独にひもじい想いをしている小動物の姿を確認することはできなかった。
その場で頭を悩ませていると、巡回中の警察官に声をかけられた。事情を説明すると、彼は私に訝しげな眼差しを向けつつも、腰から提げていたライトでフェンスの向こうを照らした。気のせいではないのかと結論付けられた私は、妙な疑いをかけられる前にその意見に賛同し、平静を装って立ち去った。警官は私の姿が見えなくなるまで、じっとこちらの背中を窺っていた。
翌朝、テレビニュースを点けると雨の予報が出ていた。午後から土砂降りになる虞があるらしい。私は傘を持って出社した。あの角では自然足取りが遅くなったが、子供達の高らかな笑い声があっては聞こえるものも聞こえなかった。
予報は当たり、街は一面グレーで染まり、車のヘッドライトが大粒の雨によって乱反射していた。時折吹き荒ぶ向かい風に弄ばれながら、私は傘を前のめりに差して家路を急いだ。夕飯は冷蔵庫にあるもので済まそうと考え、買い物は諦めた。とにかく一刻も早く家に帰り、風呂で温まりたかった。
この日、あの音が聞こえなかったことを、私は床についてから気付いた。天井を仰ぎ、音の正体について考えてみた。小動物ではないのなら、つまり何かの泣き声ではないのなら、あの音は何なのだろうと。
昨日フェンスに触れたとき、ぎぃと鈍い音が鳴ったのを思い出した。押しても引いても同じで、あの音とは似ても似つかない。
私は考えるのをやめて、声を出してみた。
あー。
一人きりの狭い空間に自分の声が泡のように浮き上がった。違うなと即座に心の中で断じた。音程が違うのだ。
音階で言えば、おそらく“レ”である。
あー。
これも耳に馴染まなかった。
私は眠りにつくことにした。目を閉じてどれほどで意識は途切れただろう。次に目を開けたとき、私はそれを現在時刻から推測できなかった。時計を見れなかったからだ。
身体は右に向いて動かなかった。右腕を下敷きに、ベランダを見つめるよう仕向けられていた。
誰に。
おそらく、いや絶対に、ベランダの窓ガラスに張り付いている人影にだ。
それは男か女か、はたして性別があるのかさえも分からなかった。雨上がりの月明かりを通してカーテンに投影されたシルエットだからだ。影は奇妙な格好をしていた。右腕を大きく上に、左腕は胸の当たりを押さえ、足は右だけをやや上げて片足立ちしていた。
私は見開かれた眼球の渇きから痛みさえも覚えて、これが夢の延長ではないことを理解した。直後、パッパッパッ、と何かが弾けたような音が鼓膜に届いた。私はまだ、影を見つめることしかできなかった。
途端、あー。
目の前の影から発し、続けて耳元で呼応するように――
あー……。
痰を絡ませたような余韻のあるその音は、今まで聴いたものの中で最も深く、おどろおどろしい感情を覚えた。
私は呪縛から脱するような思いで左目を動かした。目の端に、黒い束が見えた。
あれはおそらく髪の毛だ。
スマートフォンのアラームで目を覚ました。私の寝巻きは汗でびっしょりと濡れていた。ベランダを見ると、開け放たれたカーテンから朝日が差し込んでいた。昨夜は閉まっていたはずだが。
考えれば考えるほどに夢と現実の区別が曖昧になっていき、昨夜見たあの光景もただの悪夢の一端に過ぎないのではないかと思えてしまっていた。
それでも私は恐怖していた。食欲が湧かず、朝食を抜いていつもより早く家を出た。小学校には近付かず、遠回りして出勤した。仕事は手につかず、辛うじて作成した報告書はミスが目立ち、上司に強く指摘された。帰りも行きと同じ道を選んだ。道中、気を張り詰めて歩いていたがあの音は聞こえなかった。
土曜日、休日。私は散歩に出た。目的地は決まっていた。花屋に寄り、花を買った。あの角に手向けようと考えたのだ。そこで人が亡くなったかどうかなど調べていないし、何一つ確信を得ていないが、私は胸に圧し掛かる不安を少しでも軽くしたいあまりに急いでいた。このままでは日常生活に支障を来たすばかりか、寿命さえも縮ませかねないと思ったのだ。
心霊現象など非科学的で、全ては疲弊した脳が見せた幻覚に過ぎないと一笑に付すことができなかった私は、膝を震わせながら一歩ずつあの角を目指した。小学校の校舎が見えると鳩尾の辺りがやけに重苦しくなった。
休日ということもあり、学校とその周辺は静かなものだった。私の心とは裏腹に気持ちいいほどの晴天であるというのに、行き違う人が一人もいなかった。まるでこの校区の住民全てがどこかへ遠出したかのようだった。
私は角に辿り着いた。花束を供え、手を合わせた。安らかにお眠りくださいと、目を閉じて願った。その短い間に、私の頭に疑問が浮かんだ。
――私は誰に怯え、誰に冥福を祈っているのだろうか。不安と恐怖の赴くままにこのような行為に及んでいる私は一体何をしているのか。
私は目を開けた。立ち上がり、フェンスの奥の校舎を眺めた。あまり長居しているとまたいつぞやのように警官に疑いの目を向けられるかもしれない。そう思ったとき、風に煽られた。少し強く、フェンスがカラカラと音を立てていた。
背中を横薙ぎにされたのはあまりに突然だった。右足だけが浮かんだ。腹と顔はフェンスが食い込むほど押し付けられた。左手は胸とフェンスに挟まり、右腕は上に投げ出された。下半身の感覚は次第に薄れ、下腹部からは名状しがたい痛みが脳まで突き抜けていた。
車に追突された。そう自覚した私は、わずかに開く右目でフェンスの奥を見た。子供がこちらに向いて立っていたので、縋るような思いで助けを求めた。
パッパッパッ。
浜に打ち上げられた小魚がそうするように、私は口を開いては閉じた。言葉が出なかった。呼吸の合間に、発した。
あー。
子供と目が合った。赤黒く潰れた双眸と。
あー……。
私は気付いた。この声は、死に逝く私が、何も知らぬ過去の私に向けた警告であり、この得体の知れない子供を眠りから覚まさせるための呪文だったのだと。
外から学校というエリアに触れてみました。
何気ない、学校の敷地の角。
フェンスの奥の限定された空間からジッと「私」を見つめる何者かの姿を思い浮かべ、もう一度ご覧ください。
何者かの目の前で、フェンスにしがみつきながら生前の「私」にSOSを発している「私」の姿も想像していただければ尚更嬉しいですね。