モノクローム
モノクローム
かに三昧
「どうでも良い事なんだけど、俺、昔、絵を書くの好きだったんだよな、しかも、白黒の、まぁ、どうでも良い事なんだけど……」
ベッドに仰向けに寝た俺は、真っ黒な見慣れぬ天井を眺め一人つぶやいてみた。
ケバケバしい古びた外装とは裏腹に、新装したばかりのシミ一つ無い綺麗な天井だった。
もっとも、内装もケバケバしいには違いないのだが。
腹の上でさっきまで暴れていた彼女は、今はそのまま突っ伏して酒臭い息を吐きながら、
「カズヤ…くぅん…」
などと、俺が聞いた事の無い男の名前を寝言で言っていた。
寝ゲロを吐きかけられるのも時間の問題のようだ。
彼女は俺の勤める会社に去年入社した女子社員で、資材の発注を受け持っていた。
ミスの少ない仕事ぶりと、取引先への愛想の良さと、欠勤の極めて少ない勤務態度を俺は高く買っている。名前は……だめだ、どうも思い出せない。
苦笑するしかない、どうやら俺も脳みそまで酒に漬かってしまったようだ。
何とも色あせた現実感だけが、俺の酒に漬かった脳みそを、糠みそのように混ぜっ返していく。
久しぶりに、ゆっくり思い出してみることにした。
俺が極彩色で濃淡だけの世界にいた日の事を
いつの頃だったかな、絵が好きになったのは……
一番はっきり覚えているのは、小学生の5年の時だった、確か授業で物語を聞いてそれの絵を書くってのをした時の事だった。
その時の物語は、―――マタギの老人が熊を追って山に入ってそこで亡くなる、でもってその死を悼んで月明かりの下、熊が集まって来る――― って話だったんだけど、何か、透明感のある、不思議な感じがしたのを今も覚えている。
俺はその時下書きをしているうちに、おかしな事に影を書かずに光の当たる側を書き始めていた、ちょうど写真のネガみたいな感じかな? 無論ガキの書くことだから今思えば何かとてつもなく変な絵だっと思う。だけど、その時の俺はその『光の絵』がいたく気に入っていた。
そしてどんどん書き込んでいくうちに『白』と『黒』だけの世界に俺は引き込まれていた……
それだけの事ならいくらも思い出に残っていないものだが、問題はその後だった。なにせ、小学校の授業だから色を塗る必要があったのだ……
俺は白と黒の光の絵に色を付ける事で何か汚してしまうような気がして、どうしても色を付けることが出来なかった。授業時間内は頑なに拒み続けたのだが、放課後一人居残りをさせられ、着色を強要されている内に涙ぐみながら無茶苦茶に着色した訳だが。それがその時の精一杯の反骨精神だった。
今にして思えば、その画用紙を赤く塗って丸めてトンガリ帽子にして、それをかぶって職員室まで謝りに行ってやれば面白かったと思うのだが、本当にそれをしたら洒落にならなかっただろう。
まぁ、そんな一件以来俺は白黒のしかもネガのような絵を暇さえあれば書くようになっていった。
中学は校区割りの都合で小学校より西に住んでいた俺は、俺の家から見て南西にある中学校に通ううことになった。そんな訳で仲の良かったツレの半分とはお別れとなった。で、よその小学校のやつらと同じ学校に通うことになるのだが、俺のいた小学校のやつらは全体の3割ほどで、残りの7割が隣の小学校のやつらとなった。
こんな状況の中では、俺のような偏屈な変わり者はやはり何かと悪い意味で目立つようで、何かと揉め事が絶えなかった。自分としては何も間違った事はしていないつもりだったが、教師一同の裁きは無難に多数派よりの采配になることが多く悔しい思いをしたものだった。
中学ではクラブ活動なるものが必修となった、別段興味のあるスポーツがなかった俺は、活動をあまりしていなさそうな文化系の部活に入ることにした、美術部も無論考えたが、小学校の時の嫌な思いでもあってどうしようかと悩んだのだが、結局ほかに目ぼしい所がなかったので美術部で手を打つことにした。
ここの美術部はまったくといっていいほど活動をしていないにも関わらず、「必修だから仕方なし」といった手合いで50名もの部員を持つ大所帯だった。自分の趣味で好きにやってる遊びを他人に評価されるのが嫌で、あの絵は家で飽きもせず書き続けてはいたが、俺も多分にもれず幽霊部員を決め込む事にした。
そんな釈然としない中学生活も夏休みの前くらいになると、それぞれの力関係や縄張りが明確になっていき、それなりに落ち着いてきたのだった。俺は級友との間ではそれなりに上手く溶け込んできたと思うが、依然として公正さに欠く采配をした教師一同に対する反感から反骨の心はもっぱら教師に向いていた。
2年になる頃にはこのキャラクターが定着してきたのか、類は友を呼ぶと言うか、学校に不満はあるがヤンキーになって世間に構ってもらうスタイルを潔く思わない、私から見てもやや偏屈な輩が私の周りは増え始めてきた。中でも同じ美術部で幽霊部員仲間にして2年生のクラス替えで初めて一緒になった吉田と言う奴とは特に気があった。
吉田は校内一の秀才だったが、気さくな良い男だった、しかし容姿がお世辞にもかっこよく無かったのが、思春期の奴の悩みだったようだ。もっとも俺も腹が出ていないこと意外奴とは大差なかったのだが、まぁそれなりに楽しい校生活となっていった。
勉強の方はと言えば、俺もさほど馬鹿ではなかったし、吉田の指導が良かったのか中の上あたりに位置していた。塾は特に通ってはいなかったし、放課後はゲーセンに入り浸っていた事を思うと凄く僥倖だったと今にしては思うものだ。
絵を描くのが趣味な事は相変わらず誰にも内緒にしていた、吉田にも内緒にしていたのは高尚な趣味だと思われるのが気恥ずかしかったのだと思う。
そして相変わらず教師とは事あるごとに衝突を繰り返していた。特に学年主任にして担任の大野とは全く持って反りが合わなかった。
体育祭や、文化祭や、なんやかんやと行事は着々と消化され、吉田も女の子に告白されて喜んだのも束の間、理不尽にも何故かその子に振られて…と、それなりのイベントも消化されていった。まぁそれは俺にはそんなイベントは無かったのだが。
そして瞬く間に俺たちは3年生になり高校受験を控える事となった、言い忘れたが吉田とは運良く3年生も同じクラスだった。
そんな人生の大切な過渡期にあって俺はどうでも良い事だが画期的な発見をした。黒い紙に白鉛筆で絵を書けば頭の中で明暗を変換せずに済むのでイメージ通りになると言う事だった。これを思いついたとき、『俺って天才』と本気で自分を褒めたくなった。
で、肝心の進学先は実力評価試験では十分射程範囲の公立の進学校を受験する事にしたのだが、俺は無念にも不合格となり滑り止めに受けておいた私立の普通科高校に通う事になった。
吉田は、私の滑った公立の進学校に無事入学を果したので、奴とは別々の学校に通う事になった。
後から聞いた話では私の内申は相当悪く書かれていたようで、腹立たしくも思ったが、そうなっても致し方ないと半ば諦める所もあった。
何にせよ我を通す事のリスクを骨身にしみて思い知ったのだった。
何はともあれ、雪が溶けて桜の花の咲く頃には俺も高校生になっていた。
この頃には、変わり者でも偏屈である必要が無い事を学んでいたので、普通の高校生となっていた。周りにも特に尖った奴はいなかったし、俺は周囲に埋没していく道を選ぶことにした。
よくよく考えてみればこの学校に集まった輩は、何かしらの志を持って入学をしたわけではなく、敗残兵の集まりだった。それ故に入学し一週間も過ぎると、それぞれ自分の新たのライフスタイル作りに皆が邁進していた。
例えば『高校デビュー』と呼ばれるヤンキーになるもの。色気づいて異性に過剰にアピールを始めるもの、無気力な生き方を決め込むもの、千差万別だった。
俺は周囲に溶け込むように、やや変形した学生服を着て、帰り道はゲーセンに立ち寄り、テレビや流行曲について話をしたりと、なんとなく親しい友人と無為に時間を重ねて行った。
そんな中でも俺が俺である証拠と言うべきものは相変わらず絵を描き続けていた事だった。
そう言えば周りでは髪の色をやや脱色するのが流行っていたようだったが俺はなんとなく黒い髪が好きだったので特に何もせずほって置いていたのだが友人らに、
「何で脱色しないの?」
と聞かれると、
「シド・ビシャスみたいで黒が良いんだよ」
と実はピストルズの曲も聴いたことが無いのにそう適当に答えたりしていた。
まぁその辺りが微妙な自己主張と言った所なのだろう。
無為に生きると月日が流れるのは妙に早い物で、季節は夏になり高校生活の最初の夏休みが訪れていた。
終業式では校長らしき背広を着た初老の男が、
「羽目をはずし過ぎないように」
とか、
「健康管理に気をつけるように」
と、月並みの訓示を延々とマイクに向かって言っていた。
とりあえず俺は40日間の連続休暇を手に入れたのだった。
夏休みに入りニ週間が過ぎ、休暇の有難味もやや薄れ、退屈な変化の無いダラダラとした日常にうんざりし始めたその日は、朝から晴れ渡り、絵に描いたような真夏日だった。
これと言って夜中に何かをする用事の無い俺は年寄りのようにとは行かないが、休日の若者としては意外に早起きで、9時前にはいつも目を覚ましていたのだが、その日は特に健全で8時過ぎには目が覚めていた。
せっかく早起きした訳だし、天気も良かったので、例の黒い画用紙と白鉛筆を持って出かけることにした。
知り合いに見掛られるが嫌だったので年相応でない格好をと思い、白のオッサンくさいポロシャツと、薄い茶色のスラックスを履いた。駄目押しに一昔前の私立探偵がかぶっていそうなスラックスと同色の帽子をかぶった。
無論これは俺の持ち物ではなく、親父の服だった、ガキの頃はやたらと大きく見えた親父だったが、こうして服のサイズが使い回しが利くようになってくると、いたずらに図体ばかり大きくなったものだとしみじみと思ったりもするものだった。
近所のスーパーのパートに入っている兼業主婦の母が作り置きをしておいてくれた朝食をさっさと食べて、9時過ぎには俺は取り合えず定期券を見せて電車に乗り込んでいた。
知り合いが居ない場所が望ましかったから、途中で乗換えをして学校と反対方向へ向かうことにした。
どうせならキセル乗車を決め込んでやろうといささかセコイ考えで五駅先の無人駅で降りることにした。
この駅で降りたことは無かったが近くに日本有数の大河が三つも流れるデルタ地帯なので、さぞ田園の濃い緑と、無人駅故に予想される未開発な長閑さと、適度に古い建物が期待できそうだった。
そうと腹を決めた俺は最後尾の車両に移動しておいた、この列車はワンマンで運転手一人なので無人駅に停車した場合の改札を逃れられる可能性が高いのだった。
案の定、例の無人駅に停車した列車は俺が下りたにもかかわらず改札せずに走り去っていった。
少々セコイとは思ったが学生にとって650円は貴重だったのでJRさんには申し訳ないと思いながら駅を後にした。
駅から適当な方向へ300m程歩いた辺りで何気なく振り返ると、意外にもあの無人駅のやや寂れた感じの赤い屋根と回りに植えられた夏の日差しを受けて緑に輝く広葉樹、陽炎をあげる真っ黒い一車線の舗装路をはさんでどこまでも続く水田に俺の心は掴まれていた。
これと言って確固たる描きたい対象物があった訳では無かったし、真夏の炎天下を歩くのもあまり楽しくはなさそうだったので、俺は100mほど後戻りし手ごろな木陰に陣取り駅周辺の絵を描き始めた。
強い日差しは濃いコントラストを作ってくれていて、俺の絵は、俺のイメージ通りに着々と、黒い画用紙に光が書き込まれて行った。
道路には車の通りも無く、駅の利用者さえ居なかった。おそらく平行して走っている私鉄をみんな利用しているのだろう。辺りには自分ひとりしか居ない、自分だけの世界に居るような錯覚にとらわれながら、いつの間にかやや位置を変えた太陽が作り出した、心地よい木漏れ日を受けながら俺はうつらうつらと居眠りを始めていた。
どんな夢を見ていたのかは忘れてしまったが、誰かに覗き込まれるような感じがして俺は、ガバッっと跳ね起きた。すると起きたばかりで霞む上に逆光で何も見えない視界の中に女の人がこちらを向いて立っていた。
いつもの授業中の居眠りの癖ですかさず涎を垂らしていなかったを確認しながら眠気を追い払っていった。
俺が起きたのを見届けてその女性は話しかけてきた、
「こんにちは、お休みのところ済みませんでした。」
意外に若い声だった、俺と同じくらいか?、彼女は続ける、
「私、趣味で写真を撮っていまして、あなたが写る写真を勝手に撮らして頂きました。起こすのも申し訳ないと思いまして、事後承諾の形になってしまって、本当にすみませんでした。」
なるほど、確かにカメラが首からかかっていた。あまりカメラには詳しくなかったが一眼レフと呼ばれえる類の高級品のようだった。彼女は俺から見て右側の小さなハンドルに手をかけながら、
「不都合がありましたら、フィルムを抜きますが……ご迷惑でしたか?」
と心底申し訳なさそうに続けた。
おそらくあのハンドルは裏蓋を開けるための物なのだろう。
俺はふと気がついた、目覚めていきなりの展開で多分寝ぼけも混じって、相当な仏頂面をしていたであろうと言う事と、一言も俺はしゃべっていない。つまり彼女は俺が気分を害していると思っているようだった。
「あぁ、すいません、寝ぼけていたもので、別に構いませんよ、怪しげな投稿写真とかに応募しなければ、ですけど。」
と我ながら出来の悪い冗談を飛ばしながら彼女を要約正常に戻ってきた目でざっと見てみた。
靴は白いアデダスの運動靴を履いていた、ズボンはオーソッドクスな紺色に染められたジーパンを履き、シャツは無地の白いTシャツを着ていた。
首に掛けられたカメラは黒と銀のツートンの四角い箱に握りこぶし大のレンズが付いていおり、肩からはカメラを入れる為と思われる薄茶色のカバンがかかっていた。
髪は後ろで束ねていて、背ははやや低め目でほっそりした体型だった。
そして何より印象的だったのが、今でこそ当たり前だが彼女は黄色いレンズの付いたサングラスをしていた。その風貌にさすが芸術を志す人は違うと感じ入り、俺はどこぞの芸大で写真をやっている方だろうと思った。
俺の返事に別に怒っていない事が伝わったようで少し彼女は、ほっとした顔になった、残念なことに俺のジョークは軽く黙殺されてしまっていたが、まあそれはどうでもいい事だ。
「声を掛けてからだと、イメージが変わってしまうような気がしてもので、ごめんなさい」
と彼女は少し固さの取れた謝罪をもう一度しながら、視線が俺のやや横に向いていった。
その視線に気が付き俺も視線の先を追ってみると、俺の書きかけの絵がおいてあった、『シマッタ』と内心思いながらも傍目には冷静をよそおい、そっと絵を回収した。
知り合いで無くってもなんとなく絵を見られるのは気恥ずかしいものがあった。が、無情にも彼女は容赦が無かった。
「素敵な絵ですね、影をつけるのではなくって、光をつけるって、写真みたいで面白いです。そういう描き方もあるんですね」
と、あまり触れては欲しくない辺りを言及し始めた。
俺は『参ったなぁ、本気で芸術やってる人になんて言えば良いんだ?』と動揺しながらも、
「自己流なんで、とても人に見せられる代物ではありませんよ」
となんとか取り繕って、これ以上この話題が続かない事を祈りながら答えた。
が、なかなか期待通りには行かないもので、
「そんな事は無いですよ、良く見せてもらって良いですか?」
と柔らかいが有無を言わせぬ調子で座り込んでいる俺に目線の高さを合わせるべくしゃがみこんで来た。
「まだ描きかけだけど……」
と注釈を入れて、俺は絵を彼女に手渡した。
彼女が俺の絵を見ている間に俺は彼女の顔を観察した。
下から見上げているのと、同じ高さで見るとでは印象がずいぶん変わるもので、黄色いサングラスの向こうの彼女の目は、一重まぶたで、やや垂れていて、柔和そうな細い眉毛とあいまって、尖った芸術家っぽい雰囲気は無かった、そして化粧っ気の無い薄い唇や少しふっくらした頬からは案外若くて俺と同い年くらいのように見えた。
なんとなく見とれてしまっていた俺に気づかず彼女は、実際の風景と絵を何度も交互に見比べていた。しばらくし彼女は、
「同じ構図の写真撮って良いですか?」
と俺に言ってきた、律儀にも著作権を感じたのかも知れない。
「良いけど、今の時間だと太陽が動いちゃったから絵と同じようにはなりませんよ」
と慣れない丁寧語に若干使い方を間違えたような気もしながらも、見とれていた事に気取られなくって良かったと思いながら答えた。
「ありがとう」
と彼女は答え、この構図だと40mm位かな?と独り言を言いながらバックの中から、今まで付いていたレンズに比べると2周り小さいレンズを取り出し手早く付け替えていた。
同じ構図にするために彼女は俺の横にやってきてカメラを構えて無造作に屈みこんだ、俺はふわりと漂うなんともいえない良い匂いにどぎまぎしながら動けなくなっていた。
彼女はそんな俺に気づいた様子もなく、カメラを構えてピントやなんやかを調節していた。俺はいつまでもこの時間が続けば良いのに内心思い始めたとき、彼女は急にすくっと立ち上がった。
シャッターを押した様子もなかったし、俺は気づかれたかと思いビクッとした。
「やっぱり、太陽が動いちゃったから同じにはならないね」
と残念そうにつぶやいた、そして俺の方を振り向き、
「貴方の絵はいつ完成するの?」
と聞いた、俺は動揺を悟られないように、冷静を装って
「落書きみたいなものだから、明日も朝から書けば昼までには完成すると思うよ。」
そして少し間をおき、
「気に入ったのならあげようか?」
と何故か俺は言っていた。
言ったはなから間髪をいれず俺は後悔した、『社交辞令で褒めてくれていたのに図に乗ってどうする?彼女が困るだけだろうが!』と自分で自分を糾弾していると、
「本当にいいの?」
と彼女は心底うれしそうに言って、
「明日も来るのなら、私も来ますね。そしたら写真も撮れるし。約束ですよ」
と言って、彼女はカメラを手際よくカバンにしまいながら、
「では、また明日!」
とこれ以上無い笑顔で手を振りながら私鉄の駅の方へ去っていった。
一人取り残された俺はようやく腰を上げて、さっさと片づけを済まして、1時間に1本のJRを待つことにした。帰り道はキセル乗車に失敗し定額を払うことになった。
翌日俺は、昨日よりも一回り早くめを覚ました、無論昨夜が色々な事を考えていてあまり眠れなかったのもあるのだが、それ以上に朝が来るのが待ち遠しくって仕方が無かったからだろう。
時計の針は7:30を少し回った所を指していた、早速居間に行くと母が丁度仕事に出掛けるところで、妙に早く起きてきた俺に訝しげな顔を見せたが、そこは忙しい朝の一時という奴で深く詮索せずに、
「行ってくるね」
と一声掛けて母は家を後にした。
俺は昨日と同様に母が作りおきをしてくれた、まだ暖かい朝食を食べ、昨日と同じ服をさっさと着て、8:18の電車に乗り込んだ。今回はきちんと650円もする切符を買って乗り込んだのだが、9:05に長島駅を降りる時には運転手兼車掌さんは俺の切符を見もしないで発車していった。
俺は取り敢えず彼女がもう既に来ていないかを確認したい気持ちを、誰も見てはいないのに妙に見栄っ張りな気持ちで『俺は別に彼女にまた会いたくってきた訳じゃないんだ』と無理に自分に言い聞かせて押さえ込み、昨日と同じ木陰に陣取り、昨日の続きの絵を描き始めることにした。
無論、内心彼女の事が気になって気になって仕方ない俺はなかなか筆が進まなかったのは言うまでもない。それでも30分もすると絵は完成してしまい、我ながら大作とは程遠いなと苦笑しながら、ごろりと草むらに仰向けに寝転んだそのとき、視界の端に自転車に乗った誰かがこちらに近づいてくるのを認めた。
俺は腹筋の要領で座りなおした。ママチャリに乗ったその人物はどんどんこちらに近づいてきた。田んぼ3枚ほどまで近づいた辺りでその女性は手を振ってきた。
間違いなく昨日の彼女だった。
俺が片手をあげて挨拶を交わす頃には、あの黄色いメガネもはっきりと確認できた。
彼女は近くに自転車を止めると、
「フぅーっ」
と大きく一息ついて、前カゴから昨日と同じカメラの入ったカバンを取り出して、
「おはよう」
と言いながら近づいてきた。俺もおはようと返しながら、
「絵、出来たよ」
と言って出来た手のそれを彼女に手渡した。彼女はその絵を見ると心底嬉しそうな顔をして、
「ありがとう、大切のするね」
と言って本当に大切そうに両手に持って絵を眺めた後、カバンから取り出した製図用らしい折り目の付かないファイルのしかもクリアファイル部分に入れて丁寧にしまいこんだ。
俺は思いのほか自分の絵が大切に扱われるのを見て、しりがこそばかゆい感覚襲われて、話題を微妙に変えるため立ち上がって、今しがた自分が座っていたところを手のひらでさしながら、
「どうぞ」
と彼女に言った。
一瞬、きょとんとした彼女は思い出したように、カバンからカメラを取り出しながら、
「ありがとう」
と言って、俺の横にやってきて、今しがた自分が座っていたところを陣取った。
俺は昨日のように不覚にも匂いにドギマギしてしまわないようさりげなくその場を少し離れて彼女の乗ってきた自転車のほうへ近づいていった。
彼女の自転車は典型的なママチャリで色は黒、丸くて大きな前カゴが付いていた。前輪の泥除けの部分に校章をかたどったシールが張られていた。
駐輪許可ってやつなのだが、その校章は俺が滑ったあの公立高校のものだった。『あそこのOBなんだ』と思ったのだが、卒業してるなら普通、原チャリ、いや車だよな?と思案していると、フィルムの巻き取りレバーを起こしながら彼女が近づいてきていた。
「多分、いい絵が撮れたと思う、焼きあがったら送り」
と言いかけて、
「文化祭で展示するので見に来てくれませんか?」
と彼女は言った。俺は文化祭?って事は、と続きを考える間を与えず、
「追分高校です、あの岡の上に立っているあの学校です」
俺が、『ああやはり同じ年頃だったんだ』、と一人納得していると、
「日時は9月18日、第二日曜です。ご都合どうでしょう?」
と案内ポスターの主要部分だけを抜き取ったような説明と、出欠の是非まで一息に進んでしまっていた。
「先の予定はいつもあやふやだけど、その日は都合をつけてなんとしても見に行くよ」
と我ながら隙のない返事をしていた。
「うん、待ってるね」
とにっこり笑って彼女は言って、唐突に、
「あのぉ、昨日電車でから見えた河口堰って、どう行くのかなぁ?」
と切り出してきた。おまけにカバンを肩に掛けてなんとなく、さらに物言いたげな表情で自分の自転車の後ろ辺りに立った。
さらに、
「家から電車だとあっという間なのに、自転車だと結構遠いんだね」
さすがの俺もこの外堀を埋める攻撃の真意を察して、
「では、私がご案内しましょうか?。お嬢さん。」
と芝居かかった言い回しで、河口堰がどこにあるのか知りもしない癖にそう答えていた。内心しまった、これはさすがに引くだろう、まずった。と思ったのも束の間。
「よしなに」
とこちらも芝居かかった言い回しで答えながらちゃっかりと自転車のキャリアに腰を掛けていた。
参った、どうやら向こうのほうが一枚も二枚も上手のようだ。降参って表情を無理に作って、俺は画材道具一式(とは言うものの筆箱と黒い紙の入った袋、小さな画板だけなのだが)を手早くまとめ、彼女の自転車の前カゴに入れると颯爽と自転車にまたがって、田んぼのはるか向こうに見える長良川の堤防の方へ、真夏の日差しの下、彼女を乗せてペダルを漕ぎ始めたのだった。
真夏の炎天下、日頃運動不足な俺は汗だくになって彼女を後ろに乗せて自転車のペダルをこいでいた。空は厭味なくらい真っ青で雲ひとつなかった。少しくらい曇ってくれと心底思いながらも自分の不甲斐なさを悟られないように俺は速度を維持するのに懸命だった。
そんな俺の苦労をどこ吹く風で彼女は唐突に、
「ねぇ、空の色って誰が見てみても青色なのかなぁ…?」
なかば独り言のようにそうつぶやいた。
?!、話の要点を掴み切れにまま俺は、彼女も見上げたであろう青空を見上げ、なんとはなしに、
「青空だからなぁ…」
と返事した。
「そうだね」
と彼女は答え会話は途切れてしまった。俺はペダルを懸命にこぎながらもう一度、雲ひとつない青空を見上げた。
青空はやはり俺には青く見えていた。
綺麗に耕地整理されて四角くなった田んぼを一枚横切った辺りで、
「でも、世の中には赤と青が入れ替わって見えてる人もいるかも知れないんじゃない?」
と彼女は途切れたと思っていた会話の続きを始めた。
なるほど、確かに言われてみればそうだ、理数系な人の考えでは光の波長の順番は赤から紫へ短くなっていくのだから入れ替わることは無いとか考えるのかもしれないけど、生憎俺はどちらかと言えば文系な人間なだったので単純に青空が真紅になった世界を想像してみた。ペダルを5回ほどこいでから、
「四六時中夕焼けみたいな世界だね」
と返事した。
「うん、そうでしょ」
と彼女は答えた。その時、不意に自転車が揺れた、横すわりで乗った彼女がプランプランと足を振ったに違いない。まったく呑気なものだ…志願兵のくせに汗だくの俺は心の中でちょっと毒づいた。
幸いなことに俺たちの乗った自転車は田んぼに囲まれた小さな神社の横を通り抜けようとしていた。神社には大きな杉の木が三本、真っ青な空に向かって伸びていた。杉の木の作る日陰は真っ白に燃え尽きそうな真夏の炎天下にあって、ひんやりしていて黒くて柔らかい感じがした。俺は自転車のペダルを漕ぐのやめて惰性で自転車を転がした。せっかくの日陰が何かもったいないような気がしたからだ。
おそらく後ろの彼女も不意に杉の木の後ろに隠れた真っ白な太陽を目を細めて見上げていたのだろう、再び炎天下に戻ってから彼女は話を続けた、
「じゃぁ、その人にとっては空は「赤空」なんだろうね」
俺は再びペダルを漕ぎながら少し考えて、
「いや、そうはならないと思うよ、だってその人が、俺たちにとって青色が、俺たちにとっての赤色に見えていても、空の色は青色ってきっと教えられるから、空が何色に見えていてもやはり青色なんだと思うよ」。自転車はようやく彼方に見えていた堤防にたどり着き、堤防の上に上がる上り坂に挑むべく俺は立ち漕ぎで頑張りながら、だから『青空』なんだよ」
と答えた。
「そっかぁ…やはり『青空』なんだね」
と少し残念そうな寂しげな声で返事があった後、
「ヨッ」
と言う掛け声と同時に、不意に自転車が軽くなって堤防の上にままたくまに登りきっていた。俺は自転車を止めて後ろ振り返ると彼女は自転車から飛び降りたようで、手を振りながら笑顔で坂を駆け登って来るのが見えた。
堤防の上から見る長良川は背の高い葦がびっしり生え、あたり一面緑の絨毯だった、時折吹く柔らかい風に葦の葉は揺れて、さらさらと音を立てていた。水面は陽光を反射して眩しく輝いていた。息を整えながらその景色を眺めていると、後ろから涼しい顔で近づいてきた彼女は、
「いい眺めだね」
と言いながら、そそくさとカメラを取り出し、前より短いレンズに付け替えて写真を撮り始めた。
向こう側の車道が邪魔だとか、川の中に立っている高圧電線の鉄塔の位置が悪いだのと、理不尽な文句を楽しそうに呟きながら、数枚写真を撮ったところで、
「あ、フィルム切れちゃった」
と言って、カメラの左側のハンドルを巻き始めた。おそらくフィルム交換をするのだろう。俺はカメラのフィルムを交換するのをあまり見たことが無かったので、太陽を背に肩ひざを付いて作業している彼女の肩越しに覗き込んだ。今しがた巻いていたレバーを上に引くと裏蓋があいて真っ黒なカメラの中身が現れた、左側にはコダックと書かれたフィルムが収まっていた。彼女は手際よく次のフィルムの箱を破りながらフィルムケースの中の未使用のフィルムと今しがたカメラから取り出したフィルムを入れ替え、カメラの右側の巻き取り軸にフィルムの端を噛み込ませ数回、巻き取りレバーを巻いてから裏蓋を閉じた。そして、フィルムの箱のコダック、カラーASO100と書かれた箱の一部を破ってカメラの裏蓋に挟み込んだ。何かの手品のような手際の良さだった。使用済みのフィルムの入ったケースにサインペンで何かのメモ書きをしながら、後ろにいる俺に、
「コダックのフィルムって色が綺麗に写るって話だから使ってるのだけど、良く解らないんだ…」
と独り言のように話しかけてきた。専門的な言葉に返答に窮していると、
「フィルムの交換、珍しいの」
と俺の心情を汲み取ってくれたようなことを言ってくれた。俺は、
「うん、始めて見た」
と素直に答えて、
「手品みたいだった」
と付け加えた。彼女は少し照れ笑いを浮かべながらもう少し撮らせてねと言って、今度はもっと長いレンズに付け替えて撮り始めた。
数枚撮ったところで、彼女は、
「お待たせ、もう少し下流へ行って見ようよ」
と言ってカメラを首に掛けたまま、河口の方を指差して歩きはじめた。
俺は彼女の自転車を押しながら横を歩いて行った、さっきまで雲ひとつ無かった空はいつの間にか、何段にも積み重なって複雑な形をした積乱雲が陽光を浴びてそれ自体が光っているかのような存在感で青い空を陣取っていた。
「青いだけの空はつまらないけど、雲って綺麗だね」
と彼女は雲を見上げてそういった。俺は青いだけの空も好きだったのだが、今見上げている雲は確かに綺麗だったので、
「そうだね」
と相槌を打った、彼女は、
「雲が光ってるみたい、あなたの絵みたいね」
と言った。確かに青空は黒のまま残して、雲を白く光らせていたような気がしたが、
「そかなぁ、俺のは本物みたいに綺麗には描けてないよ」
と照れくさかったので謙遜して、いや実際自分でも雲は上手く掛けないやと思っていたのでそう答えた。
堤防沿いの道はやがて産業用の幹線国道にぶつかった、車の通りがびっくりすくらい多いので渡るのは困難だなと思っていると、堤防より川寄りに歩きと自転車なら通れそうな側道があったので、側道を通って橋の下をくぐった。橋の下の日陰は神社の木陰とは違ってあまり心地よくなかったのでさっさと潜り抜けた、彼女も同感だったようで、何も言わずそそくさと歩いてぬけた。
橋をくぐると目の前に青い帽子をかぶったような奇抜なデザインの河口堰が見えてきた。
「わぁ、河口堰だぁ」
と税金の無駄使いと環境破壊の急先鋒と言うことで叩かれ続けた河口堰を見て彼女は嬉しそうだった。
彼女はまたカメラのレンズを換えながら写真を撮り始めた。熱心な事だと思い俺も足を止めると
「すぐに追いつくから、先に行ってて」
と言われ、ちょっとどうしようかと考えたが、のどがカラカラに渇いていた俺は、あそこなら自販機も日陰もあるだろうと思い、
「じゃぁ、自転車おいとくな」
と声を掛けて自転車を置いてゆっくりと歩き始めた、後ろではシャッターを切る音が聞こえていた。
数歩あるいたあたりで、
「ねぇ!」
と後ろ声をかけられ、振り向くと、彼女はカメラをこちらに向けていて、すかさずシャッターを切った。彼女は笑いながら駆け寄り、
「き、ね、ん、写真」
と一音ずつ区切って言った。事前に言ってもらえればもっと顔も作ったのに、まさか間抜けに口を半開きにしてないだろうかと少し心配には思ったが、この不意打ちに俺も少し可笑しくなって笑った。
俺は彼女と並んで、歩きながら少しづつ近づいてくる河口堰を見上げ、
「なぁ、あの青い部分、なんやと思う?」
と俺は彼女に話題を振った。彼女は、
「えっ?青い部分って、どこ?」
と聞き返した、
「あの堰の柱の上に付いている、あの部分」
河口堰は数本の橋げたのような柱が立っていて、それぞれの柱の頂上に青い箱みたいなものが乗っていた。普通に考えて堰を空けるためのモーターとかが入っていそうだが、何故か半透明っぽい色合いで不自然な感じのするものだった。彼女は少し間を置いて、
「あぁ、あれね、堰を空ける機械が入ってるんじゃないの?」
といたって普通過ぎるコメントをくれた。普通すぎるコメントに会話の続きを見出せない俺は少し気まずく思った。すると、
「あっ!いけない!自転車忘れたぁ、私取ってくるね」
と彼女は言い残して置き去りにされた自転車の所へ、首から下げたカメラを押さえながら走っていった。
空を飾る雲は少しさっきより増えたような気がした。
少し待とうかとも思ったのだけど、相手は自転車だし、よく目を凝らすと自販機らしきものも見えたので、先に行って何か冷たいものを買っておこうと思い俺は先に歩き始めた。俺が自販機にたどり着くと500ccの缶は既に売り切れていた、この暑さだ、さぞよく売れたのだろうと思ったが、補充が滅多にされないだけかもしれない。財布を広げ小銭を確認していると、
「お待たせぇ 」
と言って彼女が自転車にまたがって現れた。測ったようなグッドタイミングだ。
「何が良い?」
と俺、
「えっ、いいの?」
と彼女、俺は自販機に120円入れて目で彼女に促した。
「では、ご馳走になります」
と彼女は良い、自販機の見本窓の右下を指差して
「右下のポカリ」
と言った。
「ホイよ」
と言って俺は一番右下のボタンを押そうとやや屈み込んだが、右下はポカリの缶と同じデザインだったが色違いの薄緑色をしていて、ステビアと書かれていた。
「ん?これ?」
とボタンに指をかけながら彼女に聞くと、
「うん、ポカリ、それそれ」
と答えたのでそのままボタンを押し込んだ。ガタンって音がして自販機の取り出し口に缶が落ちてきた。俺はさらに120円入れて彼女の選んだステビアの左隣の普通のポカリのボタンを押した。さっきと同じようにガタンって音がして自販機の取り出し口に缶が落ちてきた。俺は2本まとめて自販機の取り出し口から、それぞれのステビアとポカリを取り出し、薄緑の缶のほうを彼女に差し出した。
「わーい、ありがとう」
とやや大げさに喜んで彼女は早くも汗をかき始めた、よく冷えたステビアの缶を受け取った。そして、缶に書かれたロゴを見ながら、
「あれ、ポカリじゃないんだ…これ」
と少し寂しそうに小さく呟いた。
―――『おいおい、知ってたんじゃないのか? …色も違うし…』―――
と内心思いながらも、『まっ、良いか』と言う事にした。
「向こう、眺めが良さそうだよ」
と彼女は堤防の上を指差した。
「うん」
と俺も相槌をうち、自転車を下に残して二人で堤防の階段を登った。丁度、おあつらえの位置に大き目の車止めのコンクリートブロックが置かれていたので二人とも何気なしに並んで腰をかけた。コンクリートブロックは二人で座るにはやや小さくって、ちょっと汗ばんだ腕があたって照れくさかった。
きっと彼女もちょっと照れくささを感じてたに違いない。無理に話題を作るように、
「あ、頂くね」
と言ってステビアの缶をあけ、喉を鳴らしてゴクゴクと飲んで、
「ぷはぁーっ、生き返る」
とまるでビールを飲む親父みたいな事を言った。俺もポカリに缶をあけグビグビっと半分ほど飲んで、ちょっとコメカミが痛くなったが確かに生き返った。
長良川の河口に巨大なヤジロベーのような物が作られていた。今度開通する伊勢湾岸道路の橋梁工事だった。なんとなく二人ともその巨大なヤジロベーを見ながら残ったそれぞれのステビアとポカリを飲んだ。先に缶が空になった俺は、
「開通すると東京もだいぶ近くなるそうだよ」
と話をふった。少し遅れて缶が空になった彼女は、
「名古屋市内って込むみたいだからね」
と返した。日頃、高速道路にも名古屋にも用事が無いのだが朝の交通情報から少しだけその惨状を知っていた俺は、
「みたいだね」
「うん」
と彼女は答えた。
空はまた少し雲が増えたようだった。
いよいよ話題も尽き、飲み物も底を尽き、俺は傍らの彼女の体温を感じながら、さてどうしようと思い、空を見上げるとさっきまで空の主役は俺だとばかりに張り切りすぎていた太陽を席巻して、さっきまで脇役に甘んじて白く輝いて空を飾っていた積乱雲が、急に大きくなって灰色になりつつあった。
「一雨来ちゃうね」
と言って彼女は腰を上げた。鼻腔の奥にかすかな雨の匂いを俺も感じて、俺も腰を上げた。
堤防の階段を降りながら彼女は、
「本当にごめんね」
と急に何の事か言わず謝ってきた。心底すまなそうだった。俺は突然の事にどう返して良いものか迷っていると、彼女は自分のカバンの中から大きなビニール袋を取り出し、自分のカバンと俺のカバンを濡れない様にしまい込んで、自分はチャッチャッと合羽を着込み始めた。用意周到である。呆然と見守る俺に彼女は、
「一人分しかないの」
と言った。傘なら相傘って手もあるが合羽では二人羽折だ。さすがに無理である。おまけに傘は俺も彼女も持ってなさそうだった。ようやくにして俺は、
「良いよ、気にしなくて」
と答えた。雨はポツリ、ポツリと暑く焼けた真っ黒なアスファルトに染みを付けて行った。
帰りは来た時以上に元気よく立ち漕ぎして、激しくたたきつける雨の中を二人を乗せた自転車は疾走した。彼女も横巣座りじゃなく、ちゃんと跨って落ちないように俺に捕まっていた。
朝とあまりに違う景色になったJR長島駅のホームに到着し一息尽きかける間もなく、列車が間もなく到着する放送が流れた。どうしようと思い彼女を見て口を開きかける先手を取って、彼女は、
「1時間に1本でしょ!?、さ、急いで」
と俺のカバンをビニール袋から取り出し手渡してくれた。
銀色にオレンジと緑の線の入った車体はホームに入ってこようとしていた。
言いたい事は、言い残した事は、あまりに多くてなかなか口から出て来てくれなかった。彼女は無人駅の構内まで着いて来てくれていた。
いよいよ列車がけたたましいスキール音を奏でながら、正規の停止位置で止まり、溜めこんだ重い空気が抜けるようなエアシリンダーの作動音がして自動扉が開いた。
俺は、
「じゃぁ」
となんとも冴えない言葉を発して、列車に乗り込んだ。
彼女は、
「うん、じゃ、文化祭で」
と言って手を振った。
「扉閉まりマース」
のアナウンスと同時に、ブシューと間抜けな音と共に扉は閉まり、夢のような非日常から俺は再びつまらない日常側の人間になった。
しばらくはドアについている窓ガラスの向こうの彼女を眺めながら、手を小さく振っていたが、列車が走り出すとそれも見えなくなった。
彼女もホームで列車が見えなくなるまで見送ってくれているに違い無いと俺は思った。
雨は翌日も続いた、そうこうしている内に雨は台風になった。家から出られない俺は見ても無いTVを付けて、漠然と時間を浪費した。
台風が去って、あの日と変わらない真夏の空が訪れても、何か気の抜けた日々が続いた。
学校の友人らから、カラオケやらボーリングやら誘われて遊びには行ったが、まさに心ここに在らずの態だった。
もともと学校でもこんな調子だったか、無意識に意外に上手く立ち回っていたのか、はたまた高校の友人たちが薄情だったのかは解らないが俺は深く詮索もされず。気が付いたら8月も残りわずかだった。
何度かわずかな手がかりを頼って吉田に連絡しようと電話機に手をかけたが、結局ダイヤルを回す踏ん切りが付かず、結局それもしないで終わった。つまるところ俺は根性無しなわけだ。
9月1日、予定通り2学期が始まった。始業式では背広を着た校長とおぼしき初老の男が、いつまでも浮かれ気分でいないでとか、学生にとって大事な時期だとか、月並みの訓示を延々とマイクに向かって言っていた。まるで、40日前を再生したかのようだった。
クラスの奴は海でナンパしただの、バイトがどうのだと、ワイワイ騒いでいた。この時期の急に身なりが派手になった女子はひと夏の思い出を作ったとまことしやかに、クラスの誰かが力説していた。
周りの喧騒の中、俺は独り、夏の色をまだ残した、白い雲の湧き上がる青空をぼんやりと眺めた。
夏休み明けはイベントが多い時期だ。体育祭やら文化祭やらひしめいている。もともと運動が人並み程度で帰宅部の俺は体育祭はごく普通の一参加者として可も無く不可も無く過ぎ去っていた。
文化祭はクラスで喫茶店をするのだの、お化け屋敷だのと出し物をごく一部のやりたい連中で大騒ぎしていた。普通に考えてクラス行事なので皆一丸となってとお題目は立てるが、そうそう上手くはいかない。気合のあふれる執行部が熱を持つほど、俺を含むどうでも良い輩との温度差は開くばかりだった。
本気で文化祭も取り組むとおそらくかなり楽しいイベントではあったのだろう。だが、開催日時がまずかった。10月18日、第二日曜。そうあの人が通う追分高校の文化祭とかぶっていたからだ。もちろん多少の迷いはあったが今は概ね、自校の文化祭に参加せずに追分高校に行くつもりだったから、ここで俺が熱を上げてしまうわけには行かなかった。
結局クラスの出し物は喫茶店に決まった。学校側で用意した時間はそれなりに協力をしたつもりだったが、放課後、その他はさっさと帰宅の途についた。幸いにもそう言った手合いがクラスのおおよそ過半数を占めていたので、特に俺だけ糾弾されるような事はなかった。
事前に家でも、10月18日当日は学校をサボると、声明を発表していたので、親父は少し眉をひそめ、
「そうか」
と承諾し、母は、
「協調性ってのも大事よ!」
と釘を刺しながらも大騒ぎするような事は無かった。
当日の俺の店番時間は10:00〜11:00だったが学校では事前に何一つ言ってなかったので、当日その時間に割りあたった他の誰かにはちょっとだけ申し訳なく思った。10月17日、文化祭前日にはみんなそれなりに熱を持っていたからだ。
10月18日文化祭当日、朝から学校へは熱を出したと仮病の連絡を入れ、なんとしても都合をつけた俺は、父がパチンコに出かけ、母が買い物に出かけるのを自分のベットの中で確認し、あの日と同じ、白のオッサンくさいポロシャツと、薄い茶色のスラックスを履き。駄目押しに一昔前の私立探偵がかぶっていそうなスラックスと同色の帽子をかぶり、家を出た。目指すは追分高校だ。
事前に下調べをしておいた、電車の時刻表に沿って滞りなく俺は追分高校文化祭会場である追分高校に着いた。
いかにも手作りっぽい派手な文化祭の看板を見ながら、どこも同じだなと苦笑し校門をくぐった。
普段は部外者の侵入を威圧するかのような校門も文化祭の時はどうも敷居が低くなるようだ。普段は生徒しか使わない下駄箱の所まで入り口の看板が案内してくれていた。
下駄箱の所には文化祭執行部のメンバーなのだろう。追分高校の飾り気の少ないブレザーを着た女子生徒が3人ほど俺のような外から来たお客さんに手作りのパンフレットを配っていた。
やはり、他校とは言え同年代のものに会うのは何かと気まずいものだったが、今更引き返す訳にもいかず。
「追分高校文化祭にようこそ、パンフレットです。どうぞ」
と笑顔で渡されるパンフレットを、
「どうも」
と言いながら受け取り、来賓用のスリッパを履き、今の履物をビニール袋に入れ、俺は校舎に入った。
あれこれ動き回って、知り合いに遭遇するのは何としても避けたかったので早速パンフレットを確認した。が、パンフレットには写真部の文字が無かった……
どう言う事なのだろう?あの人が嘘を言っていたとも思えないし、少し思案した結果、今の受付の女生徒に尋ねる事にした。
玄関を振りかえり歩き出そうとした時、
「よう!、どうしたそのカッコ?、おっさんみたいだぞ」
と、いつのまに現れたか解らないが、吉田が相変わらず小太りの体を揺らしながら、ズカズカと歩み寄ってきた。
ドガッとボデーブローを入れて、”く”の字になった俺の肩を叩きながら
「来るなら、来ると言ってくれよ」
と、満面の笑みを浮かべて、しばらく途絶えていた旧友の俺に、あの頃と変わらぬ態で語りかけて来てくれた。
「ああ、御無沙汰している」
と、俺は電話を躊躇っていた事の後ろめたさと、受験に失敗した意味の無い劣等感で、やや他人行儀に言葉を返した。
そんな俺の態度をどこ吹く風と、
「俺が案内してやるよ」
と、俺に言いながら、受付の女生徒に向かって
「ゴメ〜ン、知り合い来たから〜、ちょっと案内してくる〜。交代待ってくれ〜。」
と、大声で呼びかけた。
「エッ〜!」
「しょうがないな〜、吉田君はぁ」
「わかったぁ〜」
と三者三様の返事が返って来ていた。
その黄色い声援を受けて吉田は自信満々に
「行こうぜ、どこからにする?」
と、俺を促した。
「あ、ああ」
と歯切れの悪い返事をしながら、
「写真部ってどこだ?」
と聞いた。
「写真部?そんなのうちには無いぞ」
と、吉田は怪訝そうに答えながら、俺が少しびっくりしたような、困ったような表情をするのを見取って、
「誰に吹き込まれた?」
と逆に聞き返された。
俺は少し返答に窮しながら
「写真を展示するって、ここの生徒に聞いたんだ」
と、具体的な事を明かさぬ様に心がけながら答えた。
吉田は俺の顔色を通して心の内まで観察するかの様に目を細めて、しばし俺を眺めて、
「おんな、か?」
と言った。俺の下手糞なポーカーフェィスはすぐに看破され、奴はニヤリと笑った。
「うちには、写真部は無い」
と、もう一度奴は言い
「が、おそらく写真なら美術部の絵と並べて展示してあるはずだ」
と、俺の持っているパンフレットを奪い取って、校内見取り図を広げて、ビシッ!と『美術部展覧会場』と書かれた場所を指差した。
まったく頼もしい奴だ。俺は親愛と尊敬の眼差しで吉田を見た。
が、俺の尊敬と親愛を一身に受ける吉田は、目を細めて、正にスケベオヤジの形相で、
「で、名前は?」
と追い討ちをかけて来た。前言撤回、奴は打算的な男だ!
「実は、知らないんだ」
と、俺はあっさり白状した。
吉田の眼力にかかれば、俺の言葉の虚実は意味をまったくなさないようで、『しらばっくれるな!』と特攻やゲシュポタのような厳しい詰問はなく。
「そうか、頑張れよ」
と肩をポンと叩きながらそう言い。パンフレットを折りたたんで俺に返しながら、
「その格好、変装か? 俺と一緒にいると合いたくない奴に気付かれるかも知れない…なっ」
と独り言のように言い、吉田は踵を返して、背中を向けると、
「後日、詳細を原稿用紙10枚以上にまとめて報告するように」
と言いながら、片手を挙げて、玄関の受付の方へ歩いていった。
俺は、その後ろ姿が見えなくなるまで頭を下げていた。
吉田の教えてくれた、美術部展覧会場は隣の校舎の3階にあった。
校舎の中は生徒や、若干の父兄の方で人は結構居たが、運良く知り合いに出くわす事無く、目的の地の美術部展覧会場である。ようは美術室まで辿り着く事が出来た。
美術室の扉には「美術部展覧会場」と書かれた張り紙がされていたが、扉はしまっていた。俺は恐る恐る扉を空けて中に入ると、女生徒が一人店番をしていた。
「いらっしゃいませ」
と、やや遅れて店番の女生徒は挨拶し、未練がましそうに手に持っていた単行本を開けたままうつ伏せに机の上に置き、眼鏡を少しずらして、涙をぬぐった。
たんに感動系の本を読んでいたようだ。その証拠に、ズズッと軽く鼻をすすったあと
「ゆっくり見ていって下さいね」
と実に愛想良く、言葉を続けたからだ。
「お邪魔します」
と言いながら、後ろ手でドアを閉めて、展示された絵画の中に写真は無いか目を走らせた。
室内はコンパネでいくつもの展示版が設けられ、一目で全てが見渡せない作りになっていた。
仕方ないのでぼんやりと眺める風を装って、見てまわる事にした。
絵が好きと言っても、誰かに師事する事を嫌った俺はまったくの独学で自己満足な絵を書いてきたので、ちゃんと美術部と言う、クラブ活動で書かれた絵には、若干の反骨感と劣等感を感じてしまう。まったく持って器の小さい男だと、自分でもあきれてしまう。
目当ての、あの人の撮った写真を探すだけで良かったのだが、3枚目の展示版に飾られた油絵に俺は足を止めて魅入ってしまった。
『御在所』と題されたその絵は、この学校からも良く見える鈴鹿山脈の代表的な山で正式名称を御在所岳と言い、スカイラインやロープウェイも完備された、この地方の人には『湯ノ山』と親しまれる山がモチーフなのだが、目を奪われたのはその禍禍しい色彩にあった。
その、赤や、黒で彩られた絵を見つめていると、
「コーヒーどうぞ」
と受付の女生徒が紙コップに入れたコーヒーを皿に載せて持ってきてくれていた。
「あ、どうも」
と皿ごと受け取り、コーヒーを一口すすった。あきらかにインスタントな味がしたが、実にサービスの良い出し物だと思った。
再び、『御在所』に目を移した。すると
「その絵、私が書いたのです。どうでしょう?」
と、受付の女生徒は俺に話しかけてきた。『どうでしょう?』と言われた所で、素人の俺はどうしようもない。
俺を相当美術に造詣の深い人間だと思っているのだろうか?
確かに、わざわざ3階まで登って、小さく美術部展覧会場と張り紙のされた、閉ざされた扉を開けて入ってきたのだから、明確な意思を持って訪れたのだろうと思われても仕方ない節もある。
「不思議な色合いですね」
適当にそれっぽいコメントをした。
「ええ、学校の遠足で無理やり登山させられた、辛さを表現して見ました」
と、俺のコメントに対して、説明を入れてくれた。実に解り易い理由だ。率直で、自由な絵だと俺は思った。小説を読んで涙し、無理やり山を登らされて、腹いせにこんな絵を書いて、実に素直で、屈託の無い人だなと俺は半分呆れながらも関心した。
頷きながら話しを聞いている俺に、更に批評を期待するかのように、その女生徒はその場に留まっていた。
「すいません、私、素人なもので、実はあまり良く解らないんですよ」
困ったので正直に白状した。
「あっ、こちらこそすいませんでした。どこかの美大生か何かかと思ったものでして」
と、言いながらペコリと頭を下げて、
「では、誰かのご父兄の方ですか?」
と、尋ねられた。まったく困った質問だ。
「いや、父兄って訳では無いのですが、写真が展示してあると聞いたもので…」
尻すぼみで俺は答えた。
それを聞いて、
「あっ!?、ちょっと待って下さいね」
と言い残して準備室の方へ女生徒は走っていってしまった。猫舌の俺が炒れてもらったインスタントコーヒーを飲み終わる頃、何かA4サイズの封筒のようなものを左手に持って戻ってきて、右手に持った写真と俺の顔を比較して、一人頷き。
「ノブオ先輩からの託り物です。」
と言って、そこそこ厚みのある。化粧っ毛の無い茶封筒を俺に差し出した。
ノブオと言う初めて聞く名前に戸惑っていると、女生徒は右手に持った写真を俺に見せながら。
「御本人ですよね?」
と問いただしてきた。その写真には、長良川河口堰を背景に今日と同じ格好をして、半口を空けた間抜けな顔で振り向いた俺が写っていた。間違い様も無く俺だった。悔しいが良く写っていた。
俺は写真の間抜け顔に苦笑しつつ、頷き、手に持った皿付きのコーヒー紙コップと引き換えに、写真と封筒を受け取った。
女生徒は、少し辛そうな顔をして、
「ノブオ先輩、2学期の頭に急に転校したので今は居ないんですよ。
それで、展示する予定だった写真を封筒に入れて、この写真の人が尋ねてきたら、渡して欲しいって頼まれまして……
来なかったどうしようって思ってましたが、これで肩の荷が下りました。」
と一息に語った。
―――『転校?ノブオ先輩?』―――
鳩が豆鉄砲を食らったかのような顔をしただろう俺に
「すいません、シノブ先輩です。癖でつい… 多分、中に手紙か何か入っていると思いますよ。あ、中身は見てませんよ。本当です。信じてください。」
と、実は中身が気なって気になって仕方が無かった気持ちが滲み出すような説明をしてくれた。
俺は、転校したつまりもう居ないって事実に、世界が少し色あせたような錯覚にとらわれた。この女生徒に色々聞けば、仮に封筒の中に手紙が入っていなかったとしても何かを聞き出せたかも知れない。しかし、今の俺はそれどころでは無かった。
もう会えない、その事で思考は停止していた。
どうやって家に着いたのか、あまり覚えてはいないが、自分の部屋に入ってベッドに仰向けに寝転がり、大事に抱えてきた茶封筒を腕を伸ばして顔の前に持ってきて、しばらく眺めた。
色気の欠片もない、茶封筒だった。表には特に何も書かれていない。裏を見ても宛名も、シノブと言うらしい彼女の名前の記載も無い。俺の間抜け面を写した写真がセロハンテープで止めてあったような跡があるだけだった。
二度三度と表を向けたり、裏を向けたりと繰り返したが、意を決してベッドから置きあがり、小学生の頃から使っている学習机に着き、ハサミで丁寧に開封した。
中には、普通の大きさより二周りほど大きくプリントされた写真が3枚だけ入っていた。
どんなに中を見ても手紙は入っていなかった。
溜息をついて、その3枚の写真を眺めた。一番に上に置かれていた写真は、緑の濃い水田と紺色っぽい青空の間にある長島駅の駅舎と、その前に生えた木の影で居眠りをする俺の写真だった。確かこの写真を見せる為に、俺はあの人に文化祭に呼ばれたのだった事を思い出した。
そう、この写真を見に来てくれ。とあの人は言ったのだった。
会いに来てくれとは一言も言われてない。
さっきより大きく溜息をつき、次の写真を見た。
二番目の写真は、俺が書いていた絵とまったく同じ構図の写真だった。あの夏の日に見た、極彩色なあの風景が寸分たがわず写真に焼きこまれているはずだった。しかし、今の俺の目にはひどく色あせた物に見えた。
三番目の写真は、美術部展覧会場で見せられた、き・ね・ん・写真だった。
盛大な溜息をつき、俺は椅子の背もたれに体を預けて、天井を見上げた。そしてもう一度、腹の中を空にするように、大きく溜息をついた。
見なれた天井の木目模様にもいい加減飽きてきたので、写真を取り合えず封筒に戻そうと思い、俺は座りなおした。
3枚の写真を封筒に入れようとした時、写真が一枚手元から逃げ出し、床にひらひらと舞いながら落ちていった。やれやれと気だるげに拾おうとした時、裏返しに落ちた写真にはびっしりと文字が書かれている事に気がついた。
さっきまでの気の抜けた動きは嘘のように、俺はガバッと写真に飛びついた。
逃げ出した写真は『き・ね・ん・写真』で、裏面の文面の先頭に『No3』と書かれていた。
ダイリーグの遊撃手のごときフットワークで机にとって返した俺は、残りの2枚の裏面を確認した。残りの2枚の裏にも文字が書かれていた。
俺は服の襟を直し、椅子に深く腰掛けて、3枚の写真の裏面を確認し、『No1』と書かれた写真を手に取り、少し角張った、教科書のような文字を、一字一字確かめながら読み始めた。
No1
文化祭に誘ったのに関わらず、突然の転校となりまして、ごめんなさい。
あの日、偶然に木陰で休んでいる貴方を見かけ、勝手に写真を撮らせていただいた事を了承願えて本当に嬉しかったです。
あの時は、もっと年上な方かと思っていたのですが、多分私と同じ位ですよね?
名前も何も聞かずに勝手に舞い上がっていて、今にして思えば恥ずかしい限りです。変な奴とお思いだったかと思いますが、御了承下さい。
では、改めて自己紹介させていただきます。
名前は信夫紫です。追分高校の2年生で、一応美術部に在籍していますが、絵より写真に興味があったので顧問の先生に無理を言って一人写真部をさせてもらってます。
小さい頃に熱病を患いまして、その時にいわゆる色盲になってしまいました。今回の転校もその治療に急に東京へ行くことになった次第です。
手紙って書くの難しいですね…変な文章になっちゃいました。
文面を読み終え、『No1』の写真をもう一度、眺めた。
あの極彩色の夏の日を切り取った写真は、あの日と同じ極彩色に輝いていた。
『No1』の写真を置いて、『No2』の手紙を読むことにした。
No2
私が写真に興味を持ったのは、白黒な世界からでもキレイだなって思えた何かを、いつの日かカラーな世界を取り戻した時に、もう一度振り返れたら良いなと思ったからです。
貴方の書いていた絵は、私が見ている世界とびっくりするくらい似ていました。
白黒って普通言いますが、白色、黒色っても解らない私には単に濃淡しか見えていないんです。
自分しかこんな世界を見ていないような気がずっとしていたから、同じ世界を見ている人に出会えた事が本当に嬉しかったです。
色の付いた世界にいる人が、綺麗だと感じて、私と同じ色の無い世界にして絵を書いている。その景色をどうしても私はカラーの写真で残して置きたかったので、無理を言ってしまいました。
おまけに大切な絵まで貰ってしまって。あの絵は一生の宝物にします。
目が治ったら、真っ先に、この写真と、頂いた絵を見比べたいです。
俺は読み終えると、すぐに『No3』の写真に手を伸ばした。
No3
あの絵を書いた人がどんな人なのか、どんな世界を見ているのか、どうしても知りたくって、河口堰が見たいと無理を言ってすみませんでした。
正直、悪い人じゃ無さそうだったので図に乗ってあつかましい限りだったと反省しています。
おまけに、ジュースもおごってもらったし、合羽も自分の分しか用意していないし…駄目ですね私。
あの後、風邪などひいていませんか? 電車を見送った後、凄く心配でした。
私の目が治って、カラーな世界を取り戻した時、またあの場所で会えたなら、今度は私がジュースを御馳走しますね。
本当に楽しかったです。ありがとうございました。
『信夫紫』
彼女の手紙はそれで終わっていた。
『No3』の写真はいつまでもあの時間が続くと信じて疑わない、間抜けな面をした俺が写っていた。
『No2』の写真にはあの人がいつか取り戻したい世界が写っているのだろう。
俺は、写真を封筒に戻し、引出しにしまい、ベッドに倒れこんで、何もかも考えるを止めにして眠った。
翌日学校では身内の文化祭の話題で持ちきりだった。裏切り者の俺は周囲に溶けこめず、ぼんやりと外を眺めて過ごした。
2,3日経つと、文化祭ネタも尽きて、俺を含めて日常に戻っていった。
盟友の吉田への報告義務は未だ滞っている。
連絡先の無い、あの人へは、もう何も接点は残っていない。
そして、あの日以来、絵は一度も書いていない。
2年になって進路の話しの流れで、親父に、
「美大に行きたい」
と、一度もらしたが、
「それで、飯、食えるのか?」
と親父さまの言葉に、
「言ってみただけだよ」
と答えた俺に、
「そうか」
と親父は答え小さく、
「すまんな…」
と呟いたのを聞いた。世界の色はまた少しあせていった。
結局俺は名古屋の工業系大学に進んだ。
そこそこ勉強し、そこそこバイトをし、そこそこコンパをして、俺は自分の輪郭を描く、コントラストさえ薄らいで行った。
就職は地元の中小企業に就職し、そこそこ働いて、気がつくと3年目で主任の肩書きを貰っていた。
4年目の新人歓迎会で、去年入社した女子社員が一次会でつぶれたので俺が送って行くと中座した。
したたかに酔った彼女は、俺に抱きついたり、その辺でもどしたり、まさに前後不覚だった。しまいには、
「主任と結婚するぅ〜」
と、嬉しい世迷い事まで言う始末だった。
途方も無い労力を費やして、女子社員を駅まで搬入し、その娘の自宅方面のプラットのベンチに座らせた。相変わらず訳の解らない事を言ったり。一人で笑ったりしている。
困ったものだ…
ふと、ベンチの後ろに貼られた、鉄道の旅のポスターの写真に目をやった。
その写真は、急な斜面に作られた駅舎の白黒写真だった。その写真の場所にはまったく見覚えが無かったが、何か物凄く懐かしいものを感じ、俺は写真に釘付けになった。
そんな俺の服の裾を引っ張りながら彼女は何かを言いたげだった。おそらく構って欲しいのだろう。俺はポスターの写真を見たまま。
「どうでも良い事なんだけど、俺、昔、絵を書くの好きだったんだよな、しかも、白黒の、まぁ、どうでも良い事なんだけどな」
と誰とは無しに言った。
「あぁぁ!、主任のエッチぃぃ、どうせヌードを描きたかったんでしょ!!!」
と、言われ。
「まぁな」
と答えた。
ポスターの隅に小さく『写真:信夫紫』と書かれているのを見つけ。俺がこの写真に魅入った理由が納得できた。彼女が彼女の望んだ『カラーな世界』を取り戻したかどうかは解らないが、あの人はまだ、あの日に見た極彩色な濃淡だけの世界にまだいるという事は俺にも理解できた。
そして俺はもうその世界には居ない。まぁ、どうでも良い事だ…
「じゃぁ、今夜は君がモデルになってくれるかい?」
と俺は彼女に言った。
俺と彼女は結局電車に乗らなかった。
あの、3枚の写真も今ではすっかり日に焼け、色あせて、今の俺のいる世界と同じ色になっていた。
俺、昔、絵を書くの好きだったんだよな、どうでも良い事なんだけど……