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 季節は進んで、半袖でも暑いと感じるようになった頃。

 「あ、ゆーちゃんだ」

 久々に、下校時に美奈と一緒になった。女子は冷房に当たって冷えるのを避けるために夏でも長袖を着る子が多いけど、美奈はもう夏服になっている。以前よりさらに生地が薄くなって、美奈の肌の色がちょっとわかるくらい透けている。

 以前は毎日のように一緒に帰っていたけど、最近はぜんぜん合ってなかった。バイトでも作業が忙しくて、まともに会話する機会はあまりない。

 ぼくが黒川さんと接して距離を縮めると、美奈との距離は少しずつ遠ざかっていく気がする。ぼくには、距離を遠ざけたいという意思は決してないんだけど。

 そういえば、今日の美奈は食べ物を持っていない。汗も見えない。

 「今日は、何か買わなかったの?」

 「あんまり食欲ない」

 「珍しいな。暑いから?」

 「そうかもね」

 今日の美奈は、なんとなくそっけない。いつもと違って、ほっぺたがずっと下がっている。

 「ゆうちゃん、コンビニ寄らない?」

 「ああ、いいよ。ぼくも消しゴム欲しかったから」

 二人は、いつもの通学路を少しはずれて、最寄りのコンビニへ足を運ぶ。

 少しクーラーがきいて心地よい。店はいつもの感じ。コンビニって、いつ行っても変わらないよね。

 ぼくは目当ての文房具コーナーへ直行して三百円の消しゴムを取った。隣に美奈が居なくなっていたので、慌てて探す。

 美奈はいちばん人が集まる弁当・おにぎりコーナーの隣にある甘いもの(最近はスイーツって言うらしい)コーナーにいた。

 ふだん必要な時しかコンビニに寄らないぼくは知らなかったけど、けっこうバリエーションが豊富で、見ていて楽しい。値段も手頃だ。

 美奈は真剣に商品とにらめっこをしている。これだけの数の中から一つだけ選ぶのは大変そうだ。

 選定は、なかなか終わらない。美奈が、商品と睨み合っている姿を見ているだけのぼくは退屈で、三分も経っていないのに待ちくたびれる。

 「ねえ、これにすれば?」

 ぼくが適当にティラミスを提案する。実はぼくは食べたことはないけど、美味しそう。

 「チーズ好きじゃないんだー」

 「えっ、これチーズ入ってるの?チョコと生クリームだと思ってた」

 「ぜんぜん違うよ、チョコじゃなくてココアパウダーだし。まあ、あんまりチーズの味はしないけど」

 全然知らなかった。

 「ゆーちゃんは何が好きなの?」

 「甘いものはなんでも食べるよ」

 「そう」

 あまり会話をふくらませてくれない。美奈が真剣に考えているのに、ぼくが適当なのが気に触ったらしい。

 結局、美奈は無言で『抹茶とカスタードのシュークリーム』を鷲掴みしてレジに持っていった。抹茶とカスタードって、苦味と甘味が正反対じゃん。どこがいいんだろう。

 ぼくも美奈に合わせて、消しゴムを会計する。五百円玉がなくて千円札を出した。

 「ねえ、ゆうちゃんってさ」

 「何?」

 「黒川さんと付き合ってるの?」

 コンビニの駐車場から歩道に出たくらいのタイミングで、美奈が突然質問してきた。

 「いや、黒川さんとは友達だけど、そういう仲じゃないよ」

 「でも、二人でよく遊んでるんでしょ?」

 「そうだけど、だからって付き合っているわけじゃないだろ」

 「男子と女子が二人で一緒にいたら、誰だって付き合ってると思うよ」

 「ぼくと美奈は一緒にいてもそう思われてないじゃん」

 美奈の表情が、冷たいというより寂しげな表情に変わった。

 「そうだね、あたしは色気ないから誰といてもそんな風に思われないんだ」

 「そういう意味じゃないよ」

 美奈はかわいいよ、と思ったけど恥ずかしくて口に出せない。

 「ねえ、私が江崎さんと一緒に、今日の私とゆーちゃんみたいにコンビニ寄ったらどう思う?」

 「え?別になんとも思わないけど」

 コンビニなんて、一人でも、誰かと行ってもいいじゃん。どうせ大した用事じゃないんだから」

 「じゃあ、私、江崎さんとも同じようにコンビニ行くよ?」

 「べつにぼくの許可なんていらないだろ」

 「・・・そうだね」

 どうして美奈はここで江崎さんを引き合いに出すんだろう。ぼくには美奈の考えていることがよくわからなかった。

 「ばいばい、ゆうちゃん」

 いつもの分かれ道で、美奈はふらふらとぼくから遠ざかる。いつもの青信号、走らなかった。

 



 美奈はいつも天真爛漫だから、ちょっとでも悩みがあるときはすぐ気づく。ああいう、ちょっと落ち込んでいるときは、ぼくに何かをしてほしい時なんだ。

 小さい時、おばさんに怒られて家を飛び出した美奈はいつもあんな感じだった。ぼくは、いつもどおりに遊ぼうとするんだけど、美奈がぜんぜん楽しそうじゃないから、続かない。遊びながらも、ぼくを何かしら気づいてくれと促す目で見る。

 そのうち、美奈がおばさんと喧嘩したんだと打ち明けはじめる。ぼくは、その話をひと通り黙って聞く。美奈は、はじめは不満げな口調でおばさんのことを悪く言うんだけど、そのうち落ち着いてきて、自分の非を認めて、泣き出してしまう。

 美奈が泣いていると、ぼくは落ち着かない。とにかく、早く泣きやんでもらうために、美奈をおばさんのところへ半ば無理やり連れて行く。

 いつも美奈は泣きじゃくって、まともに『ごめんなさい』も発音できないけれど、おばさんは十分に反省している美奈をいつも、笑顔で許してくれる。 

 でも、さっきのコンビニで、もうずいぶん大人になった美奈は、泣かなかったし、悩みの内容を直接ぼくに伝えることもなかった。

 ぼくは、美奈の悩みを助ける力はちょっとあるかもしれないけど、美奈の悩みに気づく能力、実はないんだ。

 今回は、江崎さんが少し話に出たから、江崎さんと喧嘩したのかと思ったけど、一緒にコンビニに寄るという話を考えると、そうでもないらしい。

 だから美奈、悩みが何なのか教えてくれよ。

 その言葉は、ちょっと大人になったぼくから、発せられることはなかった。

 



 EK運送での仕事は働く時間こそ変わらないけれど、密度はどんどん濃くなっていった。

 バイトだけでは人出が足りず、社長は毎日のように現場作業に出るようになった。

 「お疲れ様です。今日も忙しかったですね」

 「ああ、お疲れ様。もともと新しい契約が入って、忙しくなるから君たちを雇ったんだ。これくらいは覚悟の上だよ」

 この頃には、ぼくは職場での簡単な社交辞令が問題なく言えるようになっていた。社長含めここの社員さんはみんな人当たりがよくて、ぼくも徐々にその空気に慣れていった。

 「栄子は、最近どうだ?」 

 仕事が終わると、いつもこうやって黒川さんの話題になる。

 ぼくは黒川さんと初めてジャスコに行った後も、何回か黒川さんと一緒に遊んで、その度に社長にその日のことを報告していた。

 でも、遊びに行った時は話題があるけど、何もない時の黒川さんは、相変わらずクラスで無駄な会話をすることはなかった。ぼく自信も、黒川さんと会ってからコミュ力が上がったわけじゃない。結局、成長していないのかも。

 「特に変わりないです」

 「そうか。変わりないか・・・」

 社長はふだんよく話すけど、黒川さんの話になると聞きに徹して、相槌程度しかない。話題がないと、二人とも沈黙してしまう。だからぼくはすぐに代わりの話題を用意する。

 「あの、シフトのことでお願いがあるんですけど」

 「なんだ?」

 「期末テストがあるので、来週一杯休ませてもらえないでしょうか」

 「ああ、構わんよ。学生の本分だからな」

 「忙しいところ申し訳ありません」

 「まあ何とかなるだろう。江崎くんと遠藤さんもいるし」

 「美奈は休まないんですか?」

 「正確には確認してないが、彼女、律儀で休むときは一ヶ月前から連絡してくれるんだ。今回は何も言ってこないから大丈夫だと思う」

 「そうなんですか。勉強大丈夫なのかなあ」

 「佐藤くん、遠藤さんと話さないのかい?」

 「最近、あまり顔を合わせないんです。避けているわけじゃないんだけど」

 「まあ、あれだけ江崎くんと仲がいいと、付き合いづらくもなるわな」

 「えっ?」

 そういえば、社長が毎日作業を手伝うようになってから、江崎さんとも挨拶程度の接触しかない。

 「君には栄子がいるから、大丈夫だろう」

 たしかに、美奈と疎遠になっても今のぼくには黒川さんがいて、寂しいとは思わないけれど。

 黒川さんがいるから、美奈と離れるべきなのか?できれば、二人と仲良くしたい。

 「そうだ、佐藤君。テストが近いならうちに来て栄子と一緒に勉強したらどうだ?」

 「いいんですか?お邪魔しても」

 「構わないよ。ついでに夕飯をごちそうしよう。一度佐藤くんと栄子と一緒に話してみたいんだ」

 「ありがとうございます!」

 「ああ、楽しみにしておくよ。時間は栄子と相談してくれ」

 社長は笑顔でそう告げると、足早に事務所へと戻っていった。

 人の家に上がるなんて、小さい時に美奈の家で遊んだとき以来だ。家に上がらせてもらえる友達がいる(今回、誘ってくれたのはそのお父さんである社長だけど)という事実が嬉しい。どんな風になるかわからないけど、すごくワクワクして、座っていても体が浮いているように感じた。




 つぎの土曜日、黒川さんに学校から自宅まで案内してもらった。自宅は、EK運送の事務所から自転車でさらに十五分くらい走ったところにあった。黒川さんは自転車での並列運転が嫌らしく、ぼくは黒川さんの後をずっと追った。

 黒川さんの自宅の周りは閑静な住宅街で、ぼくの住んでいるアパートと比べて、落ち着きを感じる。

 二階建てで、車庫と庭付き。まだ新しいみたいで、外壁の白が光って見えた。

 家の中に入ってもやっぱり綺麗で、よく掃除されているらしくホコリっぽいところがない。

 「それじゃあ、私の部屋に行きましょうか」

 「う、うん」

 黒川さんの部屋。

 これまで、黒川さんとぼくはあくまで友達で、異性としての意識は無かったけど、『女の子の部屋に案内される』となると、さすがに鈍いぼくでもちょっとは意識してしまう。

 黒川さんの部屋は二階にあって、フローリングでベランダ着き。右手から時計回りにベッド、洋服ダンス、本棚、勉強机が壁際に配置され、部屋の真ん中には座卓がカーペットの上に置かれていた。

 「パパは仕事で四時くらいに戻ってくるわ。それまで勉強しましょう」

 「わ、わかった」

 黒川さんはいつも通りだ。たぶん、『異性を部屋に案内した』という自覚はない。あるいは、それに対して抵抗がない。

 ぼくと黒川さんは座卓に向い合って座り、勉強をはじめた。この座卓、今日のために用意してくれたんだろうか。

 正直、ぼくはかなり勉強不足だったので、間に合わせるために集中して取り組んだ。黒川さんはいつものクールな表情を崩さず、黙々と勉強している。

 二人とも無言なら、わざわざ黒川さんの家に来ることないじゃないかと思って、ちょっと質問してみる。

 「あの、ここの単語がわからないんだけど」

 「英Ⅱ?教科書に載っているのを探すのがいちばん早いわ」

 「あ、ほんとだ」

 「定期テストは範囲がそこまで広くないから、要点を絞ればすぐに勉強できるわ」

 黒川さんは、質問に直接回答するのではなく、解き方や教科書の内容の探し方を教えてくれた。はじめは質問の答えが帰ってこなくて困惑したけど、一度限りの質問より、解き方自体を教えてくれるほうがこの先ずっと使えてありがたいことに後から気づいた。

 ほんとに黒川さんの考え方は論理的だ。




 「ちょっと汗かいちゃった」

 黒川さんが手を休める。六月の今日は、クーラーをつけるほどではないけど、湿度が高くて少し不快だった。

 「シャワー浴びてくるわ。悪いけどしばらく一人で勉強して」

 「えっ?」

 ぼくが呼び止めるスキを与えず、黒川さんはタンスから何かひらひらした綺麗な布みたいなのを取り出して部屋から出ていった。

 まさか裸で部屋に戻ってくることはないだろうけど、異性だけになんとなく気を使う。

 ふとタンスに目をやると、いちばん下の引き出しが開けっ放しだった。

 そこは、さっき黒川さんが綺麗な布を取っていったところだ。

 シャワーに行くのに、何が必要かなんてさすがに女心に縁のないぼくでもわかる。

 そこには、黒川さんがふだん見につけている下着があるんだろう。

 気になる。

 普通に考えて、人の下着なんか見ちゃダメだけど、気になる。

 ぼくの理性は数分で性欲に敗北した。ぼくはくれぐれも引き出しを黒川さんが開けたときの状態から動かさないよう、手のひらを腰より後ろに持って行って異様な歩き方で接近した。

 引き出しの中には、明るい色のパンツが、ていねいに折りたたまれて整然と並んでいる。

 女の子のパンツって、こんなに小さくたためるんだ。男物しか見たことないから知らなかった。

 ここまできたら、パンツをちょっと手にとって触ってみたい。でも、一度広げたら元通りにするのはむずかしいだろう。

 と、そこに救世主が現れた。端っこにある水色の一枚が、すでに広げられていた。たぶん、さっき黒川さんが取り出したときに引っかかったんだ。

 ぼくは、好奇心のままそれを手に取る。

 つるつるで、肌触りの良い生地。ゴムで伸びるとはいえ、一見人間のお尻に入るとは思えないサイズ。

 自然とぼくはパンツの内側をなぞってみた。ここには、黒川さんの、大事な部分が・・・

 ぼくを支配したかつてない変態的な感情は、階段を上がってくる足音で一気に理性と入れ替わった。

 まずい。黒川さんが戻ってくる。

 ぼくは一瞬でタンスに水色のパンツを戻し、席にもどって勉強していたフリをする。

 「おまたせ」

 黒川さんがドアを開けて入室してきた。タンスは黒川さんが開けたとおりにしてある。

 「早かった・・・うぇ!?」

 戻ってきた黒川さんを見て、ぼくは目が点になった。

 予想に反して、黒川さんは肌着の白いキャミソールとパンツだけの、ぼくから見れば裸に近い姿で戻ってきた。

 思わずぼくは、頭のてっぺんからつま先まで、舐めずるように黒川さんの体を見てしまった。前からスタイルはいいと思っていたけど、改めて見ると無駄な脂肪や筋肉がなくて、モデルのように美しい。

 胸は小さいけど、確かにふくらみがあって、その頂点にはピンク色の豆粒。え、あれって、ひょっとして、

 「ひゃあああっ!」

 黒川さんが自分のミスに気づいて、声にならない悲鳴をあげながら出ていった。自宅だと思って油断していたらしい。

 ぼくは悪いと思いながらも脳内にさっき見たものを必死で焼き付けた。

 数分後、ちゃんと服を来た黒川さんが戻ってきた。黒川さんはぼくと目を合わさず、なにも口にしなかったので、ぼくもそのまま黙々と勉強を続けた。




 「ただいま!」

 一階から威勢の良い声。社長が帰ってきた。

 「おかえりなさい!」

 黒川さんが、一階まで聞こえるよう大きな声で答える。黒川さんはいつも静かにしゃべるけど、こういうときの声はよく通る。

 「今から夕飯の支度をしてくるわ。佐藤くんはこのまま勉強していいわよ」

 「いや、ぼくも手伝うよ」

 ご飯を食べさせてもらうだけなんて、申し訳ないから。

 一階の台所では、社長が買ってきた食材をテーブルに置き、すでにした準備を始めていた。

 「今日は、奮発していい肉を買ってきたからな!」

 社長が笑いながら、赤地に白が美しい高そうな牛肉が入ったパックを袋から取り出す。

 「今日は、何をごちそうしてくれるんですか?」

 「焼肉だよ」

 「えっ、いいんですか?」

 焼肉なんて、家族と同じ時間に食事をしないぼくはめったに食べない。

 「構わんよ。いつもは栄子と二人で寂しいからな」

 いつも二人きり?

 ぼくは、これまで社長も黒川さんも母親の話を全くしてないことに気がついた。話したくない話題だと気まずくなるので、とりあえず聞かないことにした。

 黒川さんと社長は手際よく焼肉の準備をした。女の子の黒川さんはともかく、社長が手馴れているのには驚いた。ぼくはというと、家庭科の時間でしか料理の経験がなく、手伝うとは行ったもののしばらくは手が動かなかった。見かねた社長が皿の出し入れとか、いくつか指示をくれてそれに従った。

 「さて、少し早いかもしれんが、始めようか」

 一時間ほどの準備のあと、焼肉がはじまった。社長は缶ビールを開けている。

 「こんな豪華な食事、本当にいいんですか?」

 「遠慮はいらん!なにせ、娘の初めての彼氏だからな!」

 「えっ?」

 彼氏?ぼくと黒川さんとは友達だって、バイトで何回も説明してるのに!

 「ん?二人はそういう関係じゃなかったのか?」

 「違うわ」「違います」 

 ぼくと黒川さんが同時に即答した。わかってはいたけど、黒川さんに全否定されてちょっとつらかった。

 「ぼくと黒川さんは友達だって、バイトをはじめてすぐに説明したじゃないですか」

 「それは覚えているけど、何回も二人で遊びに行ってるんだから、もう付き合ってるようなもんじゃないのか?」

 「あくまで友達よ!」

 そう言いきった黒川さんの頬は、少し赤かった。どうしてだろう。

 「はっはっは、そうかそうか。まあ、今後に期待するとしよう」

 「期待したって無駄よ」

 黒川さん、ちょっと恥ずかしそう。なんだかいつもの『綺麗』なイメージじゃなくて、『かわいい』感じがする。

 まあ、ぼくが黒川さんと付き合うなんて、考えられないよね。優等生の黒川さんとぼくでは、ぜんぜん吊り合わない。

 「ごめんね佐藤くん、パパは酔うと失礼なことも平気で言うの」

 「おいおい、まだ一本目だぞ」

 社長は顔がすこし赤いが、あまり酔っているようではなかった。

 「それで、佐藤くんは栄子のどこが好きなんだ」

 「ちょっと、パパ!」

 黒川さんは止めようとしているけど、あえて普通に答えてみることにする。

 「えっと、黒川さ・・・」

 あ、いまは栄子さんって呼ばないと、ふたりとも黒川さんだ。

 「栄子さんは、論理的というか、考察がとっても深いんです。勉強の教え方はわかりやすいし、買い物なんかでも、値段や質をじっくり考えて、最終的にいい買い物ができるようじっくり考えるし、さっき勉強を教えてもらったときも、単に答えを教えてくれるんじゃなくて解き方のコツを教えてくれて、助かりました。ほんとにすごいと思います」

 ぼくが語れば語るほど、黒川さんの頬と耳が赤くなっていった。

 「そうかそうか!佐藤くん、見てみな!栄子は今、好きな男に褒められて照れているぞ!」

 「そんなのじゃないから!」

 「まったく、お前は素直じゃないな!」

 社長は黒川さんが腹を立てるのをちょっと楽しんでいるらしい。ぼくも黒川さんがムキになるのを見るのは初めてで、ちょっと面白かった。

 「いやあ、佐藤君くんが居てよかったよ。栄子が君と友達になってから、家でもすごく表情豊かになったというか、いつもより明るくなった。家でいても、栄子が佐藤君に心を許して、より感情豊かになるのが、手に取るようにわかったよ」

 「は、はあ・・・」

 これには、ぼくもちょっと照れる。

 「もう気づいてるかもしれないが、私の妻はもういない。栄子が三歳のときに、亡くなってしまった」

 急に社長がシリアスな話題を向けた。背筋が伸びる。

 「ワシは、町工場の次男坊として生まれてね。跡継ぎは兄貴に譲ったが、どうしてもこの土地に残りたくていまの運送屋を始めた。ちょうど、学生時代にできた妻との子ども、栄子が生まれるころだ。だから会社の名前はEK運送。ワシは栄子運送でもよかったんだが、妻が『大きくなったら栄子が恥ずかしい』と言って反対してな」

 黒川さんは、いつの間にかいつものクールな表情に戻っている。

 「はじめは、このへんの町工場の製品を出荷する小さな事務所みたいなもんだった。しかし、新しい仕事をこなすたびに、町工場の製品の質の高さがいろんな所に知れ渡って、いつの間にか仕事が増えていき、忙しくなっていった。そんなある日、どうしても人出が足りなくて、妻が栄子を連れて手伝いに来てくれた。その時、小さな栄子がバックしてくるトラックに向かって行ってしまったんだ」

 社長が、先程とは対照的な、悲痛な表情で続ける。

 「妻は、栄子を見て『危ない』と叫びながら、栄子の前に立った。すると、叫び声を聞いたトラックの運転手が慌ててクラッチを踏み外してしまって、トラックは急発進した。妻は、栄子の頭上を跳ね飛ばされていった」

 



今は昔。ぼんやり白い光に包まれて、正確には思い出せないけれど、確かにあった私の幼い頃。

 私は、ママに連れられて、パパのところへ行った。

 ママは「パパの仕事を手伝いにいくんだよ」と私に言った。だから、私もパパの手伝いをするんだと思ってた。だってもう三歳。私は、大きくなった。何でもできるよ。

 はじめて訪れたパパの仕事場は、灰色のコンクリの壁ばかりで、お家とは違ったけど、なんとなく、ここはお仕事をするところなんだ、と思わせて綺麗だった。

 私は、ママに後ろで見ているように言われて、ガレージの奥で待った。いまは待っているけど、時間がきたら私にもお仕事があるはず。

 しばらく待っていると、ふだんは広い道路でしか見たことのない大きなトラックが、ガレージの前の狭い道にあらわれ、バックを始めた。

 私は、トラックの運転手に手を振りながら「オーライ、オーライ」と合図する、作業着の男の人に気がついた。

 わかった!あれがお仕事なんだ!

 「私も手伝う!」

 私は、その人のほうへ駆けていった。

 その時、トラックはバックして、いちど事務所の前を通りすぎて、直進して入ってくるのだと私は勝手に思ってた。

 でも、その予想は間違っていた。トラックはバックしながら曲がって、直接ガレージに入ってきた。

 大きな、そそり立つ壁と、わたしの身長と同じくらいのタイヤが、みるみるうちに迫ってきた。

 「危ない!」

 お母さんの大声。ドンという鈍い音。何かが、私の頭の上を飛んでいって、風で私の髪が乱される

 その後のことは、よく覚えていない。




 「栄子は、そのことを覚えていないらしいが、その瞬間から栄子はこれまでと比べてすごく内向的になった。保育園でも、ずっとみんなのリーダーだったのに、一人で遊びだすようになった。そのまま小学校、中学校と上がっても、栄子は積極的に友達を作ろうとしなかった」

 EK運送のガレージにある白線は、きっとその事故のあとで引かれたんだ。

 同時に話を聞いているはずの黒川さんは、やはりいつもの無表情だった。感情を推し量ることはできない。

 「高校生活もそのままかと思って心配していたところ、佐藤君が現れた。じつは、始めは悪い虫じゃないかと思って警戒していたんだが、EK運送で真面目に働くのを見て好青年だとわかったよ。これほど栄子が心を開いた相手は、佐藤君が初めてだ。良かった、本当に良かった・・・」

 社長はビールを一気に飲み、うつむいて寝てしまった。

 「・・・パパはお酒を飲むといつもこうなの。今のうちにお肉食べちゃいましょう」

 黒川さんが口を開いた。不機嫌でも寂しそうでもなく、いつもの黒川さんの口調だった。社長が、酔って昔話をすることに慣れているらしい。

 その後、二人はお腹いっぱいになるまで焼肉を食べた。細身の黒川さんはぼくの倍くらいお肉とご飯を食べていた。女の子の胃袋ってどうなっているんだろう。




 焼肉の片付けを終えて、ぼくは帰ることにした。あまり遅いと黒川さんに迷惑がかかるし、母さんが不審がるから。

 「じゃあ、ぼくはそろそろ帰るよ。社長さんが起きたらお礼伝えといて」

 「ええ、わかったわ」

 ぼくは勉強道具をカバンにしまい、立ち上がる。

 「・・・ねえ、佐藤くんって」

 「なに?」

 「私のこと、好き?」

 「えええっ?」

 そう聞いてきた黒川さんは、いつの間にか顔も耳も真っ赤になっている。

 「そりゃ、友達としては大好きだけど、異性として付き合うとか、そういう風に思ったことはないよ」

 「そう・・・。パパが私のどこが好きなんだ、って聞いたときに普通に答えていたからびっくりしたの」

 「あれは・・・社長さんのノリに合わせたというか・・・」

 二人は沈黙した。こんな気まずい沈黙は、久しぶりだ。

 「じゃあ、もしぼくが黒川さんのこと、異性として好きだって言ったら、黒川さんはぼくと付き合ってくれるの?」

 黒川さんがピンと硬直した。いつものクールな面持ちはなく、代わりに限界まで恥ずかしそうな、はじめて見たときは想像もできなかった表情。

 「そ、それは・・・付き合わないわよ」

 否定された。

 あれ?

 これって、フラれたのかな?

 「だって、私たちの目的は友達が何であるかを理解することよ。まだまだわかりそうにないから・・・」

 黒川さんが、目を伏せる。

 「も、もし友達が何であるか理解できたら、次は恋愛が何であるかを理解するために彼女になってあげてもいいわよ」

 「ほんと?じゃあ、早く友達が理解できるようにぼく頑張るよ」

 黒川さんは恥ずかしさを抑えきれなくなってむこうを向いてしまった。

 「じゃあ、また今度」

 「・・・気をつけてね」

 これ以上間が持たなくなるのを避けるため、ぼくは黒川さんに別れを告げた。




 帰り道も、家に帰った後も、黒川さんのことが頭から離れない。

 あの時、ぼくの言ったことは、告白だったのだろうか。

 『もしぼくが黒川さんのこと、異性として好きだって言ったら、黒川さんはぼくと付き合ってくれるの?』という言葉は、『ぼくは黒川さんと付き合いたい』という解釈ができなくもない。『もし友達が何であるか理解できたら、次は恋愛が何であるかを理解するために彼女になってあげてもいい』という言葉に対して『早く友達が理解できるようにぼく頑張るよ』と返したのは、早く黒川さんと付き合いたいって言っているようなものだ。

 自分で言ったはずの言葉なのに、自分でも意味がよくわからない。

 黒川さんが『私のこと、好き?』と聞いてきたあの瞬間まで、黒川さんのことを異性として考えたことは一度もなかった。いや、あったけど、いまくらいの年頃の男なら、どんな女の子とでも付き合う妄想をするだろう。それに、何回考えてもぼくと黒川さんは吊り合わないという結果だった。

 でも、いつの間にかぼくと黒川さんの距離はすごく近くなって、吊り合うなんて考えなくてもよくなった。はじめてジャスコで遊んでから、黒川さんのほうからぼくに近づいてくれた気がする。

 友達になろうと思っていたのに、いつの間にか友達よりも近い距離まで来てしまったんだ。まだ恋人には達してないけど、黒川さんは、きっと・・・

 その日の夜は全然眠れなかった。ぼくの頭は黒川さんの淡麗な顔が、クールで美しい表情と恥ずかしがってかわいい表情を行き来する場面ばかり映した。




 夕食をごちそうになったあの日以降、黒川さんは休み時間のとき、ぼくの方を見るようになった。ぼくが気づくと、慌ててよそを向く。

 以前は、『友達』という仮定であっても、黒川さんがクラスでぼくと接触するのは学級委員の仕事くらいで、お互いが意識しあうことはほとんどなかった。

 でも、あの日の後から、二人の距離がまた縮まって、同じ場所にいるだけで意識せずにはいられなくなった。

 寝ても覚めても、黒川さんのことばかり意識してしまう。

 きっと、これは『友達』に対する感情じゃないよね。

 もう、『恋愛』になっちゃったんだ。

 『友達』がわからないぼくが『恋愛』なんて、できるんだろうか?

 とにかく、『友達』を理解できなければ、黒川さんは前に進まないだろう。それがいったいどういうことなのかも見えない。

 黒川さんと出会ったことで、ぼくの心の中での『友達』の問題は、いつのまにかぜんぜん違うものに変わっていた。

 



 黒川さんが勉強法を教えてくれたこともあって、期末テストはなんとか乗りきれた。

 テストが終わった日、久々にEK運送に出勤した。一週間近く休んでいたぶん、体力は鈍っているだろうから、気を引き締めて取り組まなければならない。

 いつものように更衣室で作業着に着替える。期間が空くと、作業着への袖の通し方もちょっとおぼつかない。それくらいぼくは不器用なんだ。

 隣をチェックすると、江崎さんのロッカーがすこし開いていた。美奈も来ているだろうから、三人フルでの作業だ。これなら社長が居なくても十分作業をこなせる。リハビリにはちょうどいいかな。

 ぼくはいつもの詰所へ向かった。

 江崎さんと美奈と、どんな話題で会話しよう。期末テストの話題だと、江崎さんがついてこれないかなあ。

 詰所が近づく。

 遠目に窓を覗くと、美奈と江崎さんの姿が確認できる。

 よし。今日からまた、気合入れて美奈と江崎さんと一緒に働こう。

 そんなことを考えながら、詰所の窓を覗くと、

 詰所の中では、ぼくがその瞬間まで想像もしなかったことが起こっていた。

 ソファに座る江崎さんに、美奈が正面から抱きついて、今まで見たこともない艶っぽい表情で、唇と、舌を絡めあっていた。


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