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自宅に戻ると、玄関の様子はいつもと違って、母さんのヒールが玄関に並んでいた。今日は早く帰っているらしい。
自室に入ってぼくは驚いた。ほどよく散らかっていた文房具やマンガ、洗濯物など、すべてが綺麗に整理されていた。勉強机の上には、今月の小遣いと思われる五千円札が無造作に置かれている。
部屋を散らかしていたのはぼくに非があるけれど、勝手に整理されたら、どこに何があるのかわからなくなってしまうじゃないか。
こんなひどいことをする犯人は一人しか考えられない。
「お帰りなさい。部屋、掃除しておいたわよ」
おそらく犯人である母さんが部屋を覗き込んでぼくに報告する。顔を合わせたのは入学式の日以来だ。
相変わらず、化粧が濃い。
「な、なんでこんな勝手なことするんだよ!」
ぼくが、精一杯怒った口調で抗議する。それは勢いがなく、弱々しい負け犬の遠吠えを思わせる響き。
「だって散らかってたじゃない。新しい学校始まって疲れてるんでしょ?私が変わりにやっといてあげたのよ」
母さんはぼくが機嫌を損ねているのに感づくと、悪びれる様子もなく退散していった。
確かに、はじめての高校生活で疲れていて、掃除がおろそかになっていたことは確かだけど、勝手に掃除する必要なんてない。そもそもぼくの部屋が散らかっていたって、母さんには何も関係ないじゃないか。
無駄な好意に、無駄にイライラする。
母さんの世話好きというか、過保護には腹が立っている。ずっと前から、料理や掃除などの家事はぼくがやると主張してきたけど拒否。そのくせ母さんは掃除はたまにしかせず、洗濯も毎回しわができるほど適当に干し、料理はカレーとか肉じゃがとか、自分が慣れているものばかりで、適当だった。
どうせぼくには友達もいないし、毎日家事をしたって時間は余るのに。
母さんとの接し方、未だによくわからない。ぼくを生んだわけじゃない今の母さんは、ぼくに愛情をあまり注いでいないんだ。少なくとも、美奈のおばさんが、美奈を愛するさまに比べたら。
学校では、友達がいなくても黙っていればいいけど、家族はそうはいかない。『同じ釜のメシを食う』以上は、どうしても何かしら接触しないといけない。
ぼくは机の上の五千円札を手に取り、ベッドに仰向けになって、部屋の照明にむかって両手でお札を掲げた。できることなら、自分で何もかもできるようになりたい。本当はこの五千円札も受けとりたくない。けれど受け取らなければシャーペンの芯も買えないんだ。
親から離れて、自立したい
* * *
はじめは慣れなかった高校生活も、二週間たつと当たり前のように進んでいく。
ぼくは中学の時と同じように、休み時間のほとんどを机に伏せて寝たふりをして過ごした。中学と違うのは、給食が弁当になって、みんなグループで食べるようになって一人のぼくの疎外感が少し増したくらい。
もうクラスのみんなには「佐藤は話しにくい」という認識ができているのだろう。ぼくに話しかけてくる人はいなかった。
時々、ずっと寝たふりをしていたら不審がられるかと思って顔を上げている時、特に
することのないぼくは黒川さんの様子を観察した。
黒川さんは休み時間のほとんどを、前の授業のノートの仕上げと次の時間の準備に費やしていた。たまに時間が余ると、机に肘をついて視線を窓の外にやったままにして、次の授業が始まるのを待っていた。昼休みは弁当を持ってどこかへ消える。生徒会に入って、昼休みも仕事があるのだと女子の立ち話を盗み聞きして知った。
ぼくが見ている限り、黒川さんが友達と他愛もない会話をすることは、なかった。隣の女子にちょっとノートを見せてもらったり、辞書を貸してもらったりすることはあったけれど、暇つぶしが目的でくだらない会話をする姿は見られなかった。
いつ見ても綺麗な顔立ちだけど、あまり感情を表に見せない。ほとんど表情が変わらないんだ。
やはり黒川さんには、友達がいないのだろうか。
根拠はないけれど、ノートの仕上げや授業の準備という行為を利用して、無駄なコミュニケーションを避けている気がするんだ。
そのうち、この考えを正しいことが決定づけられることがあった。生徒会の仕事が休みだと思われるある昼休み、黒川さんは一人でお弁当を食べ始めた。
友達のいない僕が言うのは矛盾しているけど、普通なら休み時間、誰かと一緒に昼食をとるだろう。いつも生徒会で食べていて、友達がいなくても女子なら無理やりにでもどこかのグループに入れてもらうのが普通だ。
黒川さんはそれをしなかった。一人で食べている姿は、表情はいつものクールな顔を崩してはいないけれど、一人という状況がどことなく寂しい雰囲気を作っていた。
いつも、簡単なコミュニケーションには困らないのに、黒川さんは一人になってもそれを使おうとしない。
だとしたら、ぼくと似ているわけではなくなる。
ぼくは、口下手で簡単なコミュニケーションができないけれど、心の奥では友達がほしい。みんなと同じように、何人かのグループの一員として過ごしたい。
でも黒川さんは、その気になれば簡単なコミュニケーションをとることができるのに、それを避けているように見える。
黒川さんは、友達が欲しくないのかな?
クラスでずっと退屈しているぼくは、いつの間にか黒川さんへの好奇心を育てていた。
一人の人間についてこんなにも考えこむのは、今までに無かったことだと、この時はまだ気がつかなかった。
「ゆうちゃん♪」
もう慣れてしまった一人の帰り道で、美奈が後ろから寄ってくる。左手にはブレザーとクリームパンの袋。校門を出る前に食べきったらしい。
「美奈か。よく一緒になるね。」
「えへへっ。そうだねっ!部活とかやってないからかな?」
「それでも、クラスごとに終わる時間はけっこう違うんだけどなあ」
「ふふっ、なーんでかなっ♪」
美奈はやたらとご機嫌らしく、言葉に楽しそうなリズムの旋律が伴う。
今日はカッターシャツの下に肌着を着ていないらしく、汗で透けて黒いスポーツブラがほとんど丸見えだ。美奈は背がちいさいのに胸がけっこう大きくて、アンバランスな感じがする。暑がりなのはわかるけど、気づいてないのだろうか。見ているこっちはちょっと恥ずかしい。
「ねえ、ゆうちゃんは部活やってないんだよね?」
「今はやってないし、これからやる気もないよ」
「じゃあさ、バイトしてみない?」
「えっ?」
意外な提案だった。いちおう進学校であるうちの高校では、学業に支障をきたすバイトは禁止されている。美奈は正義感の強いところがあり、学校の規則をやぶるようなことはしないはず。
「でも、うちはバイト禁止だよ。大丈夫なの?」
「みんな、隠れてけっこうやってるみたいなんだ。案外ばれないらしいよ」
「そうなんだ・・・」
ぜんぜん知らなかった。よく考えたら、バイトの話を学校でして、先生に見つかったら大変だから、学校外でも遊ぶような友達がいないぼくは知る由もなかった。
「どうして美奈はバイトがしたいの?」
「んーとね、部活やってないから時間と体力が余ってるっていうのもあるんだけど・・・」
ずっとニコニコしていた美奈が、ちょっと真面目そうな表情になって、真剣な話になるんだと感じたぼくは、少し緊張して自分の胸がきゅっと締まるのを感じた。
「うちの家、弟が二人いて、お母さんもパートだからあんまりお金がないと思うんだ。将来、大学に進学したらもっとお金もかかるし。だから家計に入れるだけ稼ぐのは無理でも、自分のお小遣いくらいは自分でどうにかできたらいいなって」
ついさっきまで、背が小さくて無邪気な美奈を子どもっぽく見ていたのに、この答えを聞いて突然、美奈がすごく大人に見えた。
美奈は、ぼくが思っていたよりもずっと将来のことを考えているんだ。
「おばさんにはちゃんと話したの?」
美奈のおばさんも正義感が強いはずだ。おばさんの子どもではないぼくが何か悪いことをしたとき、美奈と同じように怒られた記憶がある。
「バイトすること自体は問題なく許してくれたよ。バイトのしすぎで勉強ができなくなったら辞めるとか、いろいろ決め事はしたけど」
「そっか。なんとなく、おばさんらしい条件だね」
「それでね、実は一つだけ、クリアできてない条件があるの」
美奈が、少し訴えかけるような目でこちらを見る。
「必ず、友達と一緒にバイトを始めなさいって。大人だけの集団に一人で入っていったら、悪いことを企む人がいるかもしれないから、相談できる同年代の友達と一緒にやって、おかしなことがあったら二人でいっしょにやめなさいって言われたんだ。一人じゃ、辞めるのも自由に決められないこともあるから」
それで、美奈はぼくを誘ったのか。
確かに、ぼくも時間には余裕がある。なにより、自立したいという願望がある。
「・・・ぼくも、バイトやってみたいな」
「ほんと?じゃあ、一緒にやろっ!」
「でも、どんなバイトするつもりなの?先生にバレたら大変だから、コンビニとかはできないし・・・」
「実はね、もう決めてあるんだ!」
美奈が、カバンの中から四つ折りにした紙質の悪いチラシを取り出し、広げて見せた。
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「これなら、人目につかないから先生にばれないし、力仕事でダイエットもできるよ!」
「荷物運びなんて、腕に筋肉がついてむしろ太くなっちゃうよ。今も野球で鍛えた二の腕が残ってるのに」
「筋肉は健康的だからいいの!」
本音を言うとぼくは体力に自信がないので、なるべく力仕事は避けたい。でもコミュニケーション力は体力と比べてもっと低いし、接客業よりはマシかもしれない。
「じゃあ、ぼくもそこでいいよ」
「よしっ!じゃあ私が電話しとくね。面接の時間が決まったらまた連絡する!」
美奈は自分の希望が全面的に受け入れられ、安堵の笑顔をぼくに向けながら、いつもの青信号を走って渡っていった。
自立するため、バイトをする。
美奈の誘いでそう決めたぼくには、一つ障壁があった。母さんの承認だ。以前から、母さんはぼくが自立することを良く思っていない。おそらくぼくがバイトするなんて許可しないだろう。
でも美奈を裏切るわけにはいかない。どうにかして母さんを押し切るしかないんだ。ぼくは母さんが帰宅してダイニングで夕食をとっているところに、意を決して乗り込む。
「母さん、一つ頼みがあるんだ」
「どうかしたの?」
「バ、バイトがしたいんだ」
緊張して、唇が乾いて、一瞬「バ」が発音できなくて言い直した。
「どうしてバイトがしたいの?」
「そ、それは・・・」
自立したいから。
「小遣いが、欲しいから・・・」
百%の本音は口から出なかった。もちろん小遣いは欲しいけど、いまぼくを養っている母さんを前に。「自立したい」と、言えなかった。
「今のお小遣いで足りないなら、もっと増やしてもいいわよ」
「ええっ・・・?」
小遣いがもっと欲しいのなら、小遣いを増やしてくれたらバイトをする必要はない。
これでは、正当な理由がなくなってしまう。
「で、でも、美奈と約束しちゃったんだ」
とっさに言い訳を思いついた。
「働きに行くのに、一人じゃ行けないって言うの?そんな覚悟じゃバイトなんかできないわよ」
母さんは美奈のおばさんと正反対の思想を持っているらしい。
「違うんだ。美奈のおばさんが、子どもだけでは危ないから友達と一緒じゃなきゃダメって言うから・・・」
違わないだろう。自立したいなら一人でも働ける覚悟がいる。美奈のおばさんなんかぼく自身の言い訳にすぎない。自分で自分の言葉を心の中で否定する。
「・・・ああ、そう。勝手にしなさい」
この言い訳が母さんに有効だったらしい。そういえば小さい時、美奈の家でごはんを食べると言ったときも、今みたいに不機嫌そうに許可した。よその家庭とのいざこざを嫌っているんだろう。
母さんはお皿を乱暴に流し台に漬け、自分の部屋へ戻っていった。
想定したとおりではなかったけれど、なんとか母さんを説得できたぼくは、興奮してすこし荒げた呼吸を、ダイニングの机に両手をつけてもたれることで整えて、十分に落ち着いたあと自分の部屋に戻った。