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運動音痴で、特に趣味もなかったぼくは部活をする気にもなれず、一人で歩いて下校する。
明日のロングホームルームで、もし班ごとに行う活動があったらどうしよう。ちゃんと話の輪に入れるかな。足元のコンクリの灰色と黒を見つめながら、ひたすら家に向かって歩き続ける。
「ゆうちゃーん!久しぶりー!」
背後から、無邪気な幼なじみの声。ぼくは歩くスピードを変えずに、首だけ動かして振り向く。
一六五センチのぼくより一回り小さくて、制服のブレザーがあまり似合わない。腰まで届く黒いロングヘア。童顔で大きな目、屈託のない笑顔。汗かきで、まだ四月なのにブレザーを抜いて左腕にかけている。幼なじみの遠藤美奈だ。小学低学年の頃までぼくの家のアパートの隣室に住んでいて、美奈が引っ越した今も少しは会話をする。
「ねえ、ゆうちゃんクラスは?先生は?」
「二組。先生の名前はたしか丸屋だったかな。正確には覚えてない」
「ふーん、そんな先生知らないなあ」
「入学したばっかりだから、先生の顔なんかほとんどわからないだろ」
「あははっ、そうだね!」
美奈は人懐っこく、誰でも、どこでも、自分のペースで会話ができる。ぼくにはできない、当たり障りのない話題でずっとしゃべり続ける能力をもっている。以前から羨ましい。
「美奈はもう帰り?部活しないの?」
美奈は、中学では男子に混じって野球をするスポーツ少女だった。運動音痴なぼくとは対照的だ。
「うーん、この学校女子チームないし、クラブチームに入るほどやる気もないんだよね。このまま帰宅部でもいいかなって」
美奈なら、部活なんか入らなくても、クラスでいっぱい友達を作って楽しい学校生活を送れるだろう。
「ねえ、ゆうちゃん、クラスで友達できた?」
「ん・・・」
美奈がいつもの無邪気な笑顔で問いかける。この無垢で、百パーセント悪気のない笑顔は、小さい頃からずっと変わらない。
ぼくは正直に「できなかった」と言うのが恥ずかしくて、何も言葉にならなかった。
「そっか。まだ入学してすぐだもんね。友達ができなくても仕方ないよね〜」
美奈がぼくの心中を察した。美奈には、微妙な空気を読んですぐ修正するスキルがあるらしい。こういうのもコミュ力が高い特徴だ。
「それじゃ、また今度!」
美奈が走って青信号に向かうのを、ぼくは手を振ったりせず、黙って見送った。
ぼくの家は、田舎には似合わない八階建てアパートの五回にある。
家族は父さん、母さん、ぼくの三人。父さんは外資系企業の営業で、ほとんど家にいない。母さんは、父さんの取引先の会社で経理をやっている。
いまの母さんは、ぼくを生んだ人じゃない。ぼくを生んだ本当の母は、ぼくが六ヶ月のときに交通事故で亡くなったらしい。ぼくは仕事で忙しい父さんに代わってしばらく父方のおばあちゃんに育てられたが、三歳のときに父が再婚して、新しい母さんがやって来た。
新しい母さんがやってきた日のことは今でも覚えている。ぼくがいつものようにおばあちゃんとミニカーで遊んでいると、父さんと、茶髪で化粧の厚い女性が入ってきて、おばあちゃんと、父さんとその女性が向かい合わせに座ってお辞儀をした。その後、おばあちゃんがぼくに「この女の人が、ゆうすけの新しい母さんだよ」と言った。
ぼくは混乱した。母はもう亡くなって、二度と合うことができないとおばあちゃんから教わっていたのに、突然「新しい母さん」が目の前に現れて、どうしたらいいのかわからなかった。「こんにちは、ゆうちゃん。よろしくね。」と新しい母さんが話しかけてきても、どう反応したらいいのかわからず、おばあちゃんの膝もとへ逃げた。
人と会話が続かなくなったのは、ひょっとするとこの瞬間からなのかもしれない。
その後、今のアパートに移り住み、新しい母との同居が始まった。父さんが再婚したという事実は子どもながらに、ゆっくりと受け入れられた。でも「新しい母さんができた」ことに関しては、時間がたっても、認められなかった。
ぼくがそんな風だから、はじめは積極的に関わってきた新しい母さんは、同居して一年が経つころには、保育園への送り迎えや食事の時だけしか言葉を交わさないようになってしまった。
その代わりに、いつも仲良くしていたのが隣の部屋の美奈とおばさんだった。
同年代でアパートに住んでいるのが美奈だけということもあり、ぼくと美奈はよく遊んだ。おばさんは親切で、いつ遊びに言っても嫌な顔をせず入れてくれた。ぼくの父さんと母さんが出張で不在の時はよくお泊りさせてくれた。
その後、美奈の一家が新築の家を建てて引っ越した後も、時々美奈の家に訪れて遊んだりした。
でも、ぼくが美奈と決定的な違いがあることに気づいてからは。あまり一緒にいることはなくなった。
美奈は人見知りせず、何事にも積極的で、いろんな方面でたくさんの友達を作った。
でもぼくは、積極的に人に話しかけることができず、運動ができないから失敗して笑われるのが嫌で、サッカーや野球のクラブに入ろうとも思わなかった。
孤立しているぼくに美奈が話しかけると、からかい好きなヤツが「カップルだー!」「あつあつだねえ」「いつ結婚すんの?」とはやしたてた。美奈はそんなんじゃないよーと笑いながらかわしたが、ぼくはそれが恥ずかしくで、美奈を避けるようになった。美奈も野球クラブや他の友だちに多くの時間を裂くようになり、自然にぼくと美奈は「たまに話す幼なじみ」という距離を維持するようになった。
美奈は、友達だとは思わない。幼なじみなんだ。ぼくにとっての友達というものは、学校とかで、お互い素性を知らない状態で出会って、だんだん距離を縮めていい関係になることを指していた。
美奈はちがう。ものごころ着くのと同じくらいの時には一緒にいて、二人一緒に成長してきた。だから美奈の強いところも、弱いところも把握している。美奈もぼくのことを知っているから、お互い気がねがない。
学校で同級生と会話に困るぼくでも、美奈となら言葉詰まらず会話ができる。それは例えばおばあちゃんと話すときのように、当たり前のようにコミュニケーションが成り立つ関係。
ぼくは、美奈を友達だと思うことはなかった。
共働きで、掃除する人がいないぼくの家は散らかっている。ダイニングには、ラップをかけられたカレーライスがあった。
ぼくは、母さんとはそんなに親しくないと思っている。母さんも、適当な距離があれば大丈夫だと思っているらしくて、あまり干渉してこない。でも母さんは、どこかぼくを甘やかすというか、世話をかけすぎる傾向がある。
同級生で、親が共働きで忙しい家庭は、洗濯や掃除、料理を子どもがやるのも珍しくない(らしい。中学のときに女子の立ち話で知った)。母さんはそこそこいい企業の経理で、本当は仕事だけしても足りないくらい忙しいはずだ。
それなのに、母さんはぼくに家事を教えてくれない。
理由は、「家の手伝いなんかより、学生らしいことに時間を使いなさい」だって。
学生らしいことが具体的に何なのかは説明しなかった。多分勉強とか、部活とか、友達と遊ぶとか、だろう。
ぼくには、部活も友達もない。勉強はあるけど、家事があっても問題ないと思う。
それでも、母さんが不快な顔をするから、家事には手が出せなかった。
どうして母さんはぼくに家事をさせないんだろう。本当は体力的に辛いはずだ。ぼくを『育てている』という既成事実をつくりたいのだろうか。
父さんも母さんも戻ってくるのは深夜だろう。新しい環境に慣れるため気を張りっぱなしのぼくは最近、疲れのためか深夜まで起きていられない。だから家族での会話がない。
学校でも家でも、また寂しい生活を送ることになるのか、という思いを浮かべながら、ぼくはカレーを電子レンジで温める。