10
もう夏休みも半分ほどが過ぎたある日、ぼくは黒川さんと遊ぶ約束をした。
と言うか、黒川さんにマックに呼びつけられた、のほうが正しい。どうやらぼくが悩みを誰にも相談できないのに気づいて、ぼくが断れないよう、命令形のメールが来た。
「なんで呼ばれたか、わかる?」
注文を受け取って、席について早々黒川さんがぼくに問いかけた。二人ともコーヒーだった。
「なんとなく」
「なら話は早いわ。一体何を悩んでいるの?」
何について悩んでいるかまでは、バレてないようだ。
「あのね、この前、黒川さんの家に行ってから、いろいろ考えたんだ」
黒川さんはいつものクールな表情を変えず、黙って聞いている。
「友達って、何なのか。どこからが友達なのか。ぼくと黒川さんは、友達なのか」
昨日、寝ずに考えたセリフを、そのまま口から出す。
「いろいろ考えているとき、ふと以前社長から聞いた言葉を思い出した。『友達って、いつのまにかなっているものじゃないのか?』ってこと。これが一番正しいんじゃないかな?ぼくたちは初めに二人を友達だと仮定したけど、友達は意識的になるものじゃなくて、勝手にできるものだとしたら、そもそも今から二人は友達、なんて仮定をするのは間違いだったんだ」
事前に用意した言葉を読み上げるのって、言葉が無表情になりがちだ。まるで、ぼくの中にいる別のぼくが代わりに喋っているみたい。本心を隠しているのがバレそうになってヒヤヒヤするな。
「仮定が間違っていたら証明なんかできない。ぼくたちは、間違った証明を完成させようと何回も挑戦する過程で、密接にコミュニケーションをとって、いつの間にか友達どうしになっていたんだ」
全力で考えた、ぼくの論理だ。黒川さんがどう考えているのかわからないけど、どうにか納得させて『友達』とは何であるかの証明は、終わらせる。
「一緒に遊んでいるうちに、いつの間にかぼくと黒川さんは誰が見ても『友達』だと言える関係になった。それは黒川さんも異論ないと思う。だから、『友達』とは何なのか、実はもう結論が出ているんだよ。『友達とは、本人の意思によらず、無意識的にできるものである』って」
何とか、前半を言い切った。後半が勝負だ。
「それで?」
黒川さんは、表情を変えずに続きを促した。
ぼくの主張は黒川さんに受け入れられていられないようだ。けれどここまで喋ってしまったら、ぼくは続けるしかない。
「黒川さん、この前ぼくに言ったよね。『もし友達が何であるか理解できたら、次は恋愛が何であるかを理解するために彼女になってあげてもいい』って」
「・・・ええ。言ったわ」
「もう、気づいてるかも知れないけど・・・ぼくは、いつの間にか黒川さんを好きになってた。もしできれば、黒川さんと付き合いたい」
いちばん口にするのに勇気がいる部分を、言えた。自分でも、信じられないくらい無表情に。
黒川さんはその言葉を聞いても表情を変えない。
喜んだり、驚いたりせず、両肘をついて指をあごの下で交差させ、視線を鋭くして、ぼくを睨みつけている。
まずい。こんな険悪な空気になったのは始めてだ。でも、もう後戻りはできない。
「さっき言ったとおり、ぼくは『友達』とは何であるか、自分で結論を出した。黒川さんが納得しているかどうか、まだわからないけど、ぼくは次のステップに進みたい」
さあ、言おう。ぼくの虚無感を、なぎ払うために。
「黒川さん、ぼくと付き合って、『恋愛』とは何であるかを、一緒に解き明かしてください!」
言い切ると同時に、ぼくはおもいっきり頭を下げた。どんな返事が来るか怖くて、頭を机に伏せたまま目を閉じる。
少しの間、二人は沈黙。
「私は・・・」
黒川さんの声が、ぼくの脳天にぶつかる。ぼくは、ゆっくり顔を上げはじめ、
「私は、遠藤さんの代わりなんてイヤよ!」
黒川さんはぼくの視界に入ると同時にガタンと椅子を後ろにはねのけて立ち上がった。
その目からは、大粒のダイヤのような涙があふれていた。
遠い昔。
ほんとは、まだ十年も経ってないんだけど、ぼくにとっては遠い昔。
美奈がぼくの家のアパートの隣室から引越しすることになった。美奈の家のおじさんが、がんばってマイホームを建てたんだ。
引越しといっても、遠く離れるわけじゃない。通う学校も変わらないし、アパートと新しい家は歩いていける距離だった。その気になれば、いつでも会える。
でも、美奈はその引越しをとても嫌がった。おばさんが何度言っても、引越しの準備をしようとしなかった。いつもしょんぼりして、元気がなかった。
引越しの一週間前、美奈が僕の家に遊びに来た。
「引越し、嫌だなあ・・・」
美奈は何度もそうつぶやいて、テレビゲームも、マンガを読むのも、宿題をするのも長続きせず、夕方五時になっても帰ろうとしなかった。
「じゃあ、ぼくの家に住みなよ」
本気ではなかったけど、美奈の機嫌を何とか治すために言った。
「えっ、いいの?」
美奈が、目を輝かせた。
「やっぱりダメ!」
本気にすると思わなかったから、ぼくは急いで美奈のお願いを断った。
「どうして?」
「一緒に住むのは、家族だけだからだよ」
美奈は一瞬むっとして、また開き直る。
「じゃあさ、あたしがゆーちゃんのお嫁さんになったら、ゆーちゃんの家に住んでもいいの?」
「そうだよ」
美奈はにぱっ、と笑った。
「あたし。いつかゆーちゃんのお嫁さんになるね!」
ぼくは照れた。美奈がぼくのお嫁さんなんて、それはまあ、楽しいかもしれないけど、想像できないよ。
「じゃあね、ゆーちゃん!また今度」
機嫌を治した美奈は、そのまま家に戻った。
その日から美奈はいつもの笑顔に戻って、引越しの日も元気におばさんを手伝っていた。
ぼくは、美奈が元気になったことに安心して、美奈がぼくに何を言ったかなんて、すぐに忘れてしまった。
「私は、遠藤さんの代わりなんてイヤよ!」
黒川さんが、涙ながらに言い放つ。他のお客さんが、驚いてこっちを向くのがわかった。
「美奈の代わりなんて、言ってないよ!」
思わず、ぼくも大声で答える。
「嘘よ。さっきから、ずっと嘘ばっかりよ」
黒川さんが静かに腰を下ろしながら、涙声で言う。
「さっきから、ずっと黙って聞いていたけど、いつもの佐藤くんじゃない。ほんとの佐藤くんは、もっと言葉に感情がこもっているもの。きっと、用意したセリフを読み上げただけね」
「そ、それは・・・」
見ぬかれていた。黒川さんの勘が鋭いのはわかっていたけど、もとから用意されたセリフだって全部気づいているなんて。
「はじめてここに来たとき、佐藤くんは私の、普通の人は疑問に感じない、誰からも理解されない悩みに、真剣に答えてくれた。内容はめちゃくちゃだったけど、全力で私のことを考えてくれる佐藤くんを見て、本当にうれしかった」
涙の粒が、黒川さんの頬を流れ落ちる。
「『友達』とは何であるか、具体的な答えがどうやっても出ないのは、もうそのときに気づいていたわ。私のために、全力で答えてくれる佐藤くんのことを言葉で表現するなんて、できっこないんだもの」
あの時、ぼくと同じように、黒川さんの中でも何かが変わったんだ。
それを知って嬉しかったけど、今は喜んでる場合じゃない。
「何回も遊んで、そのたびに佐藤くんを意識するようになって、そのうち私は、これが恋だと確信した。でも、佐藤くんは私をそんな風に見ることはなかった。ここで遊ぶときに手をつないでくれたらいいなとか、二人で私の部屋に勉強しているとき、押し倒されたらどうしようとか考えたけど、そうはならなかった。私に気がない理由は、他に好きな人がいるからでしょう。この前、パパから遠藤さんがバイトの先輩と付き合ってることを最近知ったって聞いて、佐藤くんが最近悩んでいる理由が全部わかった」
はじめて黒川さんのぼくの気持ちに対する推察が外れた。
ぼくは、美奈を好きなわけじゃない。ぼくが好きなのは、黒川さんだ。
なのに、美奈が他の男性と付き合っていることが気になるから、悩んでいるんだ。
「私は、佐藤くんが好き。でも、遠藤さんのことが好きな佐藤くんと、付き合ってもしょうがない。私は、遠藤さんの代わりにはなりたくない・・・」
「違う!ぼくは美奈の代わりに黒川さんと付き合うなんて思ってない!」
「じゃあ、どうしてそんなに落ち込んでるの?」
「それは・・・」
それがわからないから、悩んでいるんだ。
「・・・私は、佐藤くんをあきらめるわ。いまの佐藤くんは、私に本当のことを教えてくれない。これでは信頼関係は築けない」
どうして本当のことを言えないか、わかんないんだよ。
さっきから、ぼくの本音はぜんぜん言葉に出ない。
「できれば、これからもいい友達でいましょうね。さようなら、佐藤くん」
黒川さんは泣きはらした目をこすりながら席を立った。ぼくは黒川さんが店から出ていくまで、本当の気持を伝えることも、引き止めることも、椅子から立ち上がることもできなかった。
どんなに辛くても、時間は当たり前に進む。
江崎さんと美奈が旅行から帰って、バイトに復帰する日がやってきた。
EK運送へ向かう途中、何度も心拍数が限界まで上がって、自転車を止めた。それでもバイトを休んで社長や社員の方に迷惑をかけることはできないから、休み休み自転車を進めた。
更衣室で着替える途中、江崎さんのロッカーが閉まったままであることに気がついた。
できれば、美奈も一緒に休みであってほしい。
そう考えながら詰所に行くと、そこでは美奈が一人で座って携帯をいじっていた。
このまま詰所に入ったら、久しぶりに美奈と二人きりだ。気まずくなるけど、詰所の外で待つのは不自然だ。
ぼくは意を決して詰所に入る。
「あ、ゆうちゃん、久しぶり」
ドアの音に気づいて、美奈がぼくのほうを向いた。
美奈は笑顔だった。でも、ぼくが慣れ親しんだ、子供っぽくて無邪気な笑顔ではなく、落ち着きのある大人の笑顔だ。江崎さんと付き合って、きっと旅行中に体を交わして、大人っぽい魅力が身についたんだ。
「旅行、楽しかった?」
気になっていることを思い切って聞く。
美奈は数秒ほど天を仰いで、それから視線を伏せたまま答える。
「んっとね、旅行、行かなかったんだ」
「えっ、どうして?」
「直前になって、行く気にならなかったの。何故かはわからないけど、どうしても行きたくなくなって、江崎さん怒らせちゃった」
江崎さんの名前が美奈の口から発せられ、ぼくの胸に突き刺さる。
「なんで、江崎さんと付き合ってるって、ぼくに教えてくれなかったの?」
美奈が、ぼくのことを嫌っているわけではないことがわかって、いままでの疑問を全部ぶつけたくなった。
「ごめんね」
どことなく寂しい笑顔を浮かべながら、美奈が答える。
「ゆーちゃんが、本当に私のことを想ってくれてるなら、私から言わなくても必ず気づくはずだから」
「思うって、どういうこと?」
「わかんないなら、いいよ」
一応美奈に聞いたぼくだけど、何となくその意味はわかっていた。
ぼくが美奈のことを好きなら、すぐにでも気づく。そういうことだろう。
「ねえ、覚えてる?あたしが引越しする直前になって、すごく嫌がってたこと。あの時、引越しをしたらゆうちゃんと離れてしまうと思ってた。新しい家は近いし、学校も同じだってこともわかってたけど、そういうことじゃなくて、ゆーちゃんがいつも私の近くにいなくなるのが怖かった」
覚えてるよ。美奈は、ぼくのお嫁さんになるって言ってくれた。
そして今、美奈は違う男と付き合っている。
「あたしね、絶対にゆーちゃんのお嫁さんになると思う。根拠はないけど、最後はゆーちゃんとあたしが一緒になる。今のゆうちゃんが、黒川さんに惚れていても」
「江崎さんはどうするの」
「あたしが、ゆうちゃんが黒川さんと二人で歩いてたって聞いて落ち込んでたとき、江崎さんが親身になって相談してくれたんだ。いろいろ話をしているうちに、江崎さんが告白した。その時のあたしは、江崎さんのことが好きなわけじゃなかったけど、あたしが誰かと付き合ったら、黒川さんばっかり見てるゆーちゃんがあたしに気づいて、あたしのほうに戻って来てくれるんじゃないかと思ったから。結局、あたしの期待ははずれちゃったけど」
美奈が、こんなに寂しそうな顔でしゃべるのを見るのは、あの引越しの前以来だ。
「江崎さんは優しいから、だんだん好きになって、手をつないだり、キスをするのも受け入れた。でも、この前、突然胸を触られて、怖くなった。汚されてしまう気がして、走って逃げちゃった。あの人モテるし、大学にも彼女がいるみたいなんだ。そんな人と付き合うあたしが悪いんだけどね。江崎さんとは、それっきり」
恋愛相談を異性にしてはいけない。知らず知らずのうちに相談相手に惚れ込むから。
テレビのワイドショーか何かで聞いたけど、本当だった。
わざわざ、二組が放課になるのを、校門の影で下校する生徒から『何やってるんだろうあの子』という視線を送られながら待つ。恥ずかしいけど、とぼとぼ歩くゆうちゃんを見つけたらぜんぶ忘れて、心が晴れる。夢中で、その後姿を追いかけていく・・・
毎日、あたしのクラスが早く終わった時はこれを続けたけど、ゆうちゃんはあたしへの態度を変えることはなかった。
いいんだ。ゆうちゃんと一緒にいる女の子はあたしだけだもん。ゆうちゃんは人見知りだから、友達は少ないし、彼女なんてできるわけないよ。
少なくとも、あの日マックで一緒にいる黒川さんとゆうちゃんを見るまでは、そう思っていた。
今でも、数秒前の事であるかのように思い出せる。落ち着いた黒川さんと、照れながらお喋りするゆうちゃん。あんな顔、あたしと一緒にいたときには一度も見せなかった。
いつもの買い食いに寄っていたあたしは、慌てて注文を持ち帰りに変えてもらって、そのまま店を出た。大好きなチーズバーガーとバニラシェイク、ぜんぶ食べられなかったのはあの時が初めて。
あたしは、小さい頃からゆうちゃんとずっと一緒に成長してきたのに、幼なじみから先に進めなかったんだ。黒川さんはゆうちゃんと出会って数ヶ月でデートまで持ち込んだのに。
完全に、あたしの慢心。あたしは、黒川さんに負けたんだ。
そうわかっていても、ゆうちゃんのことを簡単にあきらめる気にはなれなかった。誰かに相談したかったけど、学校の友達に恋愛相談なんてガラじゃないから、一人で悩んでた。
そこに、江崎さんが優しく声をかけてくれた。
はじめは悩み相談だけのつもりだった。でも親身になって、嫌な顔一つせず聞いてくれる江崎さんは、いつのまにかあたしの大事な存在になった。
ゆうちゃんとはちょっと違う感じだけどね。江崎さんは『お兄ちゃん』って感じかな。頼りになって、いつもあたしの味方をしてくれる。上の兄弟いないから、わかんないけど。
告白は、江崎さんのほうからだった。あたしは、江崎さんと男女の関係になろうとは思ってなくて、ずっと『お兄ちゃん』でいてもらうつもりだった。
でも、このままじゃ何も変わらない。それどころか、ゆうちゃんを黒川さんに奪われちゃう。
それだけは嫌だ。ゆうちゃんのお嫁さんは、あたしなんだ。
だからあたしは、江崎さんと付き合って、ゆうちゃんを嫉妬させる作戦に出た。
EK運送の社員さんに言いふらしたり、作業中の言葉遣いを変えたりしてゆうちゃんが気づくのを待ったけど、ゆうちゃん、鈍感だから、ぜんぜん気づく気配がないの。
そのうち、江崎さんはあたしを抱きしめたり、キスしたり、スキンシップを強要するようになった。彼女である以上、拒むことはできなかったけど、あたしは嫌だった。江崎さんとキスしても、感じるのはタバコ臭い口臭と、ねっとりとした嫌な感触だけ。ちょっとは体が反応するけど、それは愛によるものじゃなくて、条件反射みたいなもの。悪寒に近い。もし、ゆうちゃんとキスできたら、それはきっと全然違う。想像もできないけど、たぶん、キスしながら体重が軽くなって、空気より軽くなったあたしは空へ飛んでいく。
過激なふるまいを続けても、結局、ゆうちゃんはあたしに見向きもしなかった。
ある日、江崎さんが女子更衣室に入ってきて、キスのあと、無言であたしの胸をつかんだ。覚えているよ、胸の下の方から手のひらをいっぱいに広げてあたしの胸をむにゅうっっと包みこむ感触。気持ち悪かった。なんでその手がゆうちゃんじゃないんだろう、って考えた時、ついにあたしは江崎さんとの関係を耐え切れなくなった。
江崎さんが体目当てだったのか、本気だったのかはあたしにもわからない。もし本気だったのなら、あたしは江崎さんの恋心を弄んだことになる。それは、ちゃんと謝らなきゃいけないと思う。体目当てだったのなら・・・もう知らない。
結局、江崎さんじゃゆうちゃんの代わりにはならないんだ。あの、本当に優しくて、正直なゆうちゃんと、体ばっかりの江崎さんとは、ぜんぜん違う。
あたしって、友達は何人でも作れるけど、恋愛はぜんぜんダメなんだな。今回のことでわかったよ。
だから、あたしはゆうちゃんの幼なじみにはなれても、恋人にはなれないんだ・・・
「ゆうちゃん、黒川さんとお幸せにね。あたし、もうゆうちゃんと一緒に歩いたり、コンビニ寄ったりしないよ。でも、もし喧嘩したりして黒川さんが嫌いになったら、あたしのところに来ていいよ」
違うんだよ、美奈。ぼくは、黒川さんと付き合ってるわけじゃない。
美奈に伝えたいけど、言葉にならない。
付き合ってなくても、黒川さんを好きなことは、事実なんだから・・・
「江崎さんと、上手くいくといいね」
「えへへ、ゆうちゃんは優しいな」
そんなこと思ってないのに。本当は、破局することを望んでいるんだ。
どうしてだろう?本当のことが言えない。
一緒に育ってきた幼なじみだからこそ、傷つけるのが怖くて、正直な気持ちを伝えることができない。
葛藤と戦っていると、トラックがけたたましいエンジン音を上げながら事務所に入ってきた。美奈は静かに席を立つ。
「よっし、今日もがんばろー!」
ぼくが知っているいつもの無邪気な笑顔に戻った美奈は、勢い良く立ち上がって作業へ向かった。
美奈がバイトを辞めたと社長に知らされたのは、その翌日だった。
帰宅後、落ち着いていまの状況を整理しようと試みる。
黒川さんは、はじめて遊びに行った時に、ぼくを好きになったけど、ぼくは美奈のことが好きだから付き合えないと思っている。
美奈は、ぼくのことが好きだったけど、ぼくが黒川さんと付き合っているんだと思って、ぼくのことを諦めた。
二人の女の子が、ぼくの方へ近づこうとして、ある時ぶつかって、両方とも離れていくようになった。ビリヤードの球が、同じスピードで並びながらゆっくり近づいて、衝突して今度は離れていくさまが思い浮かんだ。
このままでは、両方ともぼくから見えなくなるまで、どこか遠い所へ行ってしまう。
どうにかして、もとに戻りたい。彼女なんていらないから、美奈と幼なじみで、黒川さんと少し不思議な『友達』の、以前の関係に。
でも、どうすればいいんだろう。いまの関係を作ったのは、他でもないぼくなんだ。これまで友達の居なかったぼくが、いきなり恋愛という、友達なんかよりもっと深いものに足を踏み込もうとしたせいで失敗したんだ。
今からぼくにできることはなんだろう。
どちらかに近寄れば、もう片方とは決定的に離れてしまう。
自分の無力さが、悲しい。