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記憶はないのに、口は悪い。

作者: 週休七日
掲載日:2026/10/05

「僕、君の彼氏なんだ」


 そう言うと、ベッドの上の彼女は、掛け布団を胸のあたりまで引き上げた。


「そんなこと言って、私をどうしようっていうんですか」


「どうもしないよ」


「……えっち」


 何もしないと宣言した直後に、えっちな男に認定された。


 困った。

 こういう場合の返しを、僕は知らない。


 いつもの真帆なら、まず僕の寝癖を指摘したはずだ。


『その後頭部は、誰に向けた威嚇ですか』


 それから僕が手で押さえて、彼女が「そっちじゃありません」と笑う。それで、大抵の朝は始まっていた。


 けれど、目の前の真帆は、そんなことを言わなかった。


 頬を赤くして、こちらをうかがっている。

 初めて会う男との距離を、測りかねているように。


 今の彼女にとって、僕は、そういう男だった。


 事故のあと、真帆には、ここ数年の出来事を思い出せない部分が残っていた。

 家族の顔は分かる。学生時代の友達のことも分かる。それでも勤め先の話には戸惑うし、二年前に知り合った僕のことは、顔を見ても分からなかった。


 怪我は回復に向かっている。

 記憶については、まだ分からない。


 思い出すことを急がせない。疲れたら面会を切り上げる。


 ここへ来る前に聞いた話を、僕は頭の中でもう一度なぞった。


「宮田直人さん、ですよね」


「うん」


「母からも聞きました。私と、お付き合いしていた方だって」


 名字と名前を、確認するように呼ばれた。

 それだけのことが、思ったよりこたえた。


「嘘だとは、思っていません。でも、想像できなくて」


 真帆が視線を落とす。


「私、あなたと、どんなふうに話してたんでしょう」


 僕は、ベッドから少し離れた椅子に腰を下ろした。


「結構、ひどいことを言われてた」


「ひどいこと」


「寝癖を威嚇って言われたり」


 真帆の目が、僕の後頭部へ移った。


 僕は手で押さえた。


「……そちらにも、あるんですね」


「にも?」


「前にも、少し」


 両手を使うことになった。


 真帆が、口元を緩めた。


 それを見て、僕もようやく少し笑えた。


「写真とか、ありませんか」


「写真?」


「一緒に、出かけたりしたときの」


「あるよ」


「見てみたいです。あなたが彼氏だったことより、私が、あなたの彼女だったところを」


 僕は、鞄の持ち手を握り直した。


 それなら、ちょうどいいものがある。


「アルバムがあるんだ。君が作ってくれた」


「私が?」


「付き合って一年のときに」


 真帆は、しばらく僕を見ていた。

 それから掛け布団を、少しだけ下げた。


「明日、持ってきてもらえますか」


 その日、僕が彼女にもらえた最初の約束は、明日も会っていいということだった。



     *



 紺色の布張りの、小さなアルバムだった。


 半年前、これをくれた真帆は、照れもせずに言った。


『あなたがスマホを落としたら、私たちの一年も一緒に割れそうなので』


 そのわりに、写真の配置は丁寧だった。

 日付は細い青ペンで書かれていて、映画の半券まで挟まっていた。


 もらったあとも、二人で少しずつ写真を増やしてきた。

 僕の書いた日付だけ、数字の八がだいたい潰れている。


「ちゃんとしてますね、私」


 翌日、真帆は表紙を撫でてから、慎重に最初のページを開いた。


 映画館の前で撮った写真だった。

 巨大な怪獣のポスターの横で、僕が同じポーズを取っている。


 真帆はその隣に、半歩だけ離れて立っていた。


「……これ、本当に恋人同士ですか」


「このときは、まだ」


「でしょうね。私、関係者だと思われたくなさそうです」


「撮る直前まで、もっと離れてたよ」


「それでも同じ画面に収めた撮影者の努力が光りますね」


 言い方に、少しだけ覚えがあった。


「真帆に誘ってもらって、見に行ったんだ。前売り券が一枚余ったからって」


「私から誘ったんですか」


「うん」


 彼女の指が、隣に挟まれた半券に触れる。


 僕は早く交際の証拠を見せたくて、その先のページを開いた。


「ほら。これは、付き合って最初にお弁当を作った日」


 芝生に敷かれたレジャーシート。

 開いた弁当箱。

 茶色い何か。


 真帆は、写真に顔を近づけた。


「これは?」


「卵焼き」


「どれが?」


「その、端の」


「……ニワトリに何かされたんですか」


 僕は思わず顔を上げた。

 真帆も顔を上げた。


「何ですか」


「似たようなこと、前にも言われた」


「でしょうね。これは言われると思います」


 写真の中の真帆は、箸で卵焼きをつまんでいた。

 食べる直前ではない。僕に向けて掲げているところだ。


「あのときは、『卵に謝ってから食べてください』って言われた」


「謝ったんですか」


「謝った」


「卵に?」


「卵に」


 真帆は口元を押さえた。

 肩が、小さく揺れた。


 僕は、ようやく少し息がしやすくなった。


「でも、真ん中は焦げてなかったんだ。そこは食べてくれた」


「残りは?」


「僕が食べた」


「責任の所在が明確で、いいと思います」


「今は普通に焼けるよ。しばらく特訓されたから」


「また作ったんですか」


「うん。翌週も」


 真帆は、写真の自分を見つめた。


「……翌週も、一緒に食べたんですね」


 その声が少し柔らかくなった理由を、僕はまだ考えなかった。


 次の写真では、二人でコンビニの前に立っていた。


「これは夜景を見に行った日」


「夜景は?」


「道に迷ってるうちに、展望台が閉まった」


「なるほど。代わりに二十四時間営業の光を」


「温かかったよ」


「夜景に求める感想じゃないんですよ」


 写真の僕は、紙コップを二つ持っていた。

 真帆は手袋のまま、僕のコップを指さしている。


「このときも、怒られたな」


「何て?」


「『夜景なら見下ろしたかったです。あなたではなく』」


 真帆は吹き出したあと、慌てて口元を押さえた。


「昔の私、性格が悪くありませんか」


「口は悪かった」


「訂正が限定的ですね」


「でも、そのあと、一時間くらい話してた。結局、楽しかったんだ」


 言ってから、少し考えた。


「……僕は」


 真帆は、もう一度写真を見た。


「私も、笑ってますね」


「僕を馬鹿にしてるから」


「それだけのために、この写真を選んで貼るでしょうか」


 答えを考える前に、次のページがめくられた。


 夏祭り。

 カフェ。

 日帰りで行った動物園。


 真帆は何ページか戻り、また先へ進んだ。


「海の写真、ないんですね。プールも」


「……そうだね」


「カップルって、一回くらい、そういうところに行くものかと思ってました」


「人によるんじゃないかな」


「私、もしかして、かなづちでしたか?」


「そうですよー」


 いつもの調子で答えてから、僕は口を押さえた。

 冗談だと分かるはずだ、なんて、今の真帆には通用しない。


「ごめん、今のは――」


「まさか、あなたが泳げないんですか?」


 目をそらした。


 彼女の視線が、そらした先までついてきた。


「泳げるのは目だけですか」


 僕は、笑ってしまった。


 声が出た。

 それまで遠慮していたぶんまで、まとめて出たような笑い方だった。


「ごめん。泳げないのは僕。君は泳げるって言ってた」


「でしょうね。さっきから、視線だけは達者なので」


 駄目だった。

 また笑ってしまった。


 真帆が困ったように眉を寄せる。


「……そんなに面白いですか」


「うん。いや、面白いっていうか」


 笑いながら、目の奥が熱くなった。


「今の、前の真帆みたいだったから」


 彼女の唇が、少しだけ開いた。

 それから、ゆっくり閉じた。


「……前の」


「うん」


 真帆は、アルバムに視線を戻した。


 帰るとき、彼女は表紙を両手で押さえた。


「これ、置いていってもらえますか。もう少し、見ていたいので」


「もちろん」


 僕は嬉しかった。


 思い出に興味を持ってくれたことも、昔のように話せたことも、何もかも。


 だから、そのときの彼女の顔を、よく見ていなかった。



     *



 次に会ったとき、真帆は最初のページを開いて待っていた。


「今日は、確認したいことがあります」


「何?」


「この映画の日です」


 怪獣のポスターの横で、僕が両手を上げている。


 現在の僕まで、その姿勢にさせられそうな声だった。


「前売り券が余ったと言われて、誘われたんですよね」


「うん」


「最初から、この日に行こうという話でした?」


「いや。最初に言われた土曜日は、僕に予定があって。それで、日曜日はどうですかって聞かれて」


「はい」


「日曜も駄目だったから、翌週になった」


 真帆が顔を上げた。


「余ったチケットの処理にしては、ずいぶん粘りますね」


「他の人に声をかけるのが面倒だったんじゃない?」


「それは、私がそう言ったんですか」


「いや。そうかなって」


「事実と推測を分けていただけますか」


 彼氏だった証拠を持ってきたはずなのに、供述の信頼性を調べられていた。


「この服については、何か言ってました?」


 写真の真帆は、薄い緑色のワンピースを着ている。


「珍しいねって言ったら、『人間として外出する最低限の礼儀です』って」


 彼女は動物園のページを開いた。

 ジーンズ姿の自分を指さした。


「別の日の私は、人間として失格だったんでしょうか」


「そういう意味じゃ」


「でしょうね」


 真帆は映画のページに戻った。


「宮田さん。このころ、私のこと、どう思ってたんですか」


「好きだったよ」


「私には、好かれていないと思ってた?」


「嫌われてはいないと思ってた。でも、呆れられてるんだろうなって」


「そのわりに、何度も二人で出かけていますね」


「面倒見がいい人だから」


「面倒見のよさで、休日をそんなに消費します?」


 僕は返事に詰まった。


 真帆は、写真の自分を少しだけ見つめてから言った。


「この私、あなたのこと、かなり好きだと思いますよ」


 病室の時計の針が、ひとつ進んだ。


「……そうかな」


「少なくとも、私は、そう見えます」


「でも、その前の週なんて、『土曜日も暇なんですか』って」


「誘ってるんですよ」


「暇な人だと思われてたんじゃ」


「誘ってるんですよ」


「僕、そのとき『いつも暇なわけじゃない』って言っちゃって」


「自分の見栄のために、私の勇気を無駄にしないでください」


 返す言葉がなかった。


 真帆は、呆れたように息をついた。


「それで、付き合うまでは?」


「知り合って、半年くらい」


「長いですね」


「頑張ったんだよ」


「私も頑張ってますよ、これ」


 写真のワンピースを、指先がつついた。


 言われてみれば、そう見えた。


 映画に行ったあと、真帆は夕飯にも付き合ってくれた。

 僕が店を決められずにいると、三軒も候補を出してくれた。


 あれも全部、僕が頼りなかったからだと思っていた。


「告白は、どちらから?」


「僕」


「よくそこまで辿り着きましたね」


「真帆は、『仕方ないですね』って言ってたよ」


「そのあと、本当に仕方なさそうでした?」


「……顔は、そっぽ向いてた」


「はい」


「手は、つないでくれた」


 真帆は天井を見た。


 見知らぬ過去の自分のために、何かを耐えているようだった。


「断れなかったんじゃなくて、待ってたんだと思います」


 僕は写真に目を落とした。


 付き合ってから、大事にしてもらっていたことは知っていた。

 ただ、好きだと伝えるのも、会いたいと言うのも、いつも僕からだったから。


 ずっと、僕のほうが好きなのだと思っていた。


「そっか」


 あの半歩の距離は、嫌だったからではなく、近づき方が分からなかっただけかもしれない。


「そんな前から、好きでいてくれたんだ」


「たぶん、ですけどね」


 真帆は少し照れたように、写真から指を離した。


「ただ、卵焼きへの文句まで告白に換算しないでください。あれは普通に苦情だと思います」


「それは分かる」


「なら、よかったです」


 僕は笑った。

 真帆も、つられて笑った。


 写真を見れば、あのころのことを思い出せると思っていた。

 けれど、こんなふうに、初めて知ることがあるとは思っていなかった。


 余ったチケット。

 不機嫌そうな誘い文句。

 少しだけ離れた立ち位置。


 真帆が自分の恋を知らないまま説明してくれたおかげで、僕はようやく、彼女が何度も差し出していたものを見つけた。


「知らなかったな」


 僕は写真の真帆を見た。


「僕ばっかり、会いたがってたわけじゃなかったんだ」


 しばらく返事がなかった。


 顔を上げると、目の前の真帆は、アルバムの端を撫でていた。


「……よかったですね」


 僕は頷いた。


 本当に、よかったと思ってしまった。


 そのあと、何枚か写真の話をした。

 真帆の返事が少しずつ短くなってきたところで、僕は尋ねた。


「疲れた?」


「少しだけ」


「じゃあ、今日はこのくらいにしよう」


 アルバムを閉じ、鞄を持つと、真帆が小さく言った。


「あと五分だけ、いてくれませんか」


 僕は手を止めた。


 彼女は掛け布団の縫い目を見つめていた。


「写真の話じゃなくても、いいので」


 胸のあたりが、むずむずした。


「……そんなこと、前は絶対言わなかったな」


 照れ隠しに、僕は笑った。


 真帆も、少し遅れて笑った。


「前は、何て言ってました?」


「『一人だと暇なんです』とか」


「そうですか」


 僕は椅子に座り直した。


 持ってきたプリンを二人で食べながら、病室のテレビの話をした。


 真帆は、朝の占いが最下位だったのに、ラッキーアイテムが旅行鞄だったことに納得していなかった。


「持たせるだけ持たせて、どこに行けと」


 僕はまた笑った。


 彼女も笑って、それからプリンをすくった。

 スプーンが底のカラメルに届くと、少しだけ眉を寄せた。


 そんな、何でもない五分間だった。


 アルバムを開かなくても楽しかったことに、そのときの僕は、まだ名前をつけなかった。



     *



 それから一週間ほどのあいだに、真帆の口は少しずつ悪くなった。


 面会に行くと、


「一人だと暇だったので、ちょうどよかったです」


 帰ろうとすると、


「もう帰るんですか。ずいぶん短い娯楽ですね」


 何かを手渡せば、


「ご親切に。あとで何か売りつけるんですか」


 僕が思い出話の中で伝えたことのある言葉だった。


 最初は、嬉しかった。


 記憶が戻ったわけではないと、真帆も言っていた。

 それでも、話し方が戻ってきたような気がした。


 ただ、少し変だった。


 真帆は何か言うたび、僕の顔を見るようになった。


 僕が笑うと、笑った。

 僕がすぐに返せないと、言い直した。


 以前の彼女は、僕の返事を待たずに自分で笑い出すことがあった。

 くだらないことを言って、僕が呆れているのに、肩を震わせ続けることもあった。


 今の真帆は、僕が笑うまで笑わなかった。


 その日も、僕はプリンを二つ持っていった。


「この前と同じのでよかった?」


「ありがとうございます」


 真帆が微笑んだ。


 それから、何かを間違えたように、唇を結んだ。


「……甘いもので釣れると思ってるんですか」


「いや、釣ろうとは」


「あ、違うんです。今のは」


 彼女は目を伏せた。


 僕は、プリンを手に持ったまま、立っていた。


 真帆が小さく息を吐く。


「やっぱり、違いますか」


「何が?」


「前の私と、言い方が」


 手の中のプリンの冷たさが、急にはっきりした。


 真帆の膝には、小さなノートが載っていた。

 彼女はそれを閉じようとして、途中でやめた。


 迷った末に、僕のほうへ向けた。


 泳げるのは目だけですか。

 一人だと暇なんです。

 卵に謝ってから食べてください。


 ページには、いくつかの言葉が書かれていた。


 その上に、小さな文字で見出しがあった。


 宮田さんが笑った言葉。


「会う前に、読んでおこうと思って」


 真帆はノートの端を押さえた。


「思い出せなくても、教えてもらったとおりにすれば、少しは戻れるかと思ったんです」


「そんなこと、しなくていいよ」


 言った瞬間、自分の言葉が軽すぎると分かった。


 そうさせていたのは、僕だった。


 僕は一番上の言葉を指さした。


「これは、昔の君に言われたことじゃない。この病室で、初めて聞いた」


「知っています」


 真帆は、小さく頷いた。


「でも、前の私みたいだって、嬉しそうだったから」


 何も言えなくなった。


 ここで生まれた彼女の言葉まで、僕は昔の彼女が戻ってきた証拠のように扱っていた。


「写真の私、すごく、あなたのことが好きですね」


 真帆は、ベッドの横にあるアルバムを見た。


「私も、分かるようになりました。どうして好きだったのか」


 その目が、僕に戻ってくる。


「私が疲れると、話の途中でもやめてくれるでしょう。あの、旅行鞄の話も、ちゃんと聞いてくれました」


「うん」


「どうでもいい話だったのに」


「どうでもよくないよ」


「占いの結果としては、だいぶどうでもよかったです」


 口元が、わずかに緩んだ。


 けれど、すぐに戻った。


「だから、昔の私が羨ましくなりました」


 真帆の指が、ノートの角をつまんだ。


「あなたの好きなものも、嫌いなものも知っていて。何を言えば笑うかも分かっていて。手をつなぎたいとき、いちいち考えなくてもよくて」


 少しだけ、声が小さくなる。


「しかも、あなたは、その人のことが大好きなんです」


 同じ真帆じゃないか、と言いかけて、やめた。


 その同じ真帆に、僕は何度も、前と違うと言ったのだ。


「この前、もう少し一緒にいたいって、言ってみたんです」


「……うん」


「でも、違うんだなって思いました。そういう言い方は、前の私じゃないんだなって」


「あれは」


 照れくさかっただけだ。


 そう言いかけて、口を閉じた。

 僕の都合を説明しても、彼女がそのあと何日も、言葉を選び直していたことは変わらない。


「知らない人の真似をしたら、あなたが嬉しそうに笑ってくれたんです」


 最後のほうだけ、声が掠れた。


「やめどき、分からなくなっちゃって」


 僕はプリンをテーブルに置いた。

 椅子に座った。

 何から言えばいいのか分からず、しばらく両手を見ていた。


 真帆が忘れたものを、僕は覚えている。


 だから僕のほうが、二人のことをよく知っているつもりだった。


 昔の彼女の気持ちも。

 今、僕の前で話している彼女の気持ちも。


 どちらも、説明してもらわなければ分からなかったくせに。


「ごめん」


 真帆は、すぐには何も言わなかった。


 僕も、その沈黙を埋めようとはしなかった。


「一緒に過ごしたことを、君もまた思い出してくれたら嬉しい。それは、今も思ってる」


 彼女の指に、力が入った。


「でも、僕は、そればっかりになってた。今、話してくれてることを、ちゃんと聞いてなかった」


 紺色の表紙が、視界の端にあった。


「あの五分間、僕も楽しかったよ」


 真帆が、ゆっくり顔を上げた。


「写真の話をしてなかったけど、楽しかった。もっといてって言ってもらえたのも、嬉しかった」


「……前は、言わなかったんでしょう」


「うん。だから、どう返せばいいか分からなかった」


「何年、彼氏をやってるんですか」


「一年半」


「研修、長くないですか」


 真帆の口元が、少し動いた。


 そのあとで、僕も笑った。


「長いね。しかも、教えてもらってばっかりだ」


 彼女はノートを見下ろした。


「たぶん、すぐには気にしないようにできません」


「うん」


「あなたが昔の話をしてくれたら、また比べると思います」


「うん」


「でも、写真が嫌いになったわけじゃないんです。昔の私のことも、知りたいです」


 そこで言葉が途切れた。


 僕は待った。


 真帆が顔を上げた。


「ときどき、今の私にも、質問してください」


 それは、あまりに簡単なお願いだった。


 簡単なことを、僕は、ずっとしていなかった。


「……プリン」


「はい?」


「カラメル、少ないほうが好き?」


 真帆が瞬きをした。


「そこからですか」


「この前、底のほうで、ちょっと嫌そうな顔してたから」


「あれは、思ったより苦くて」


「じゃあ、次は違うのにしよう」


「上は、おいしかったです」


「うん」


「全部嫌いなことには、しないでください」


「分かった」


 真帆は、僕とプリンを見比べた。


 それからノートを閉じた。


「あと五分って言ったのは、暇だったからじゃありません」


「うん」


「もう少し、一緒にいたかったからです。私が」


 今度は、昔の話をしなかった。


「僕も、いたかった」


 彼女の指が、ノートを離れた。


 僕は一度息を吸った。


「退院して、落ち着いたら、デートに誘ってもいいかな」


「それは、彼氏だからですか」


「……もう一度、彼氏になりたいから」


 真帆は視線を落とした。


 僕は返事を待った。


「じゃあ、誘ってください」


 彼女は、小さく言った。


「行きたいところ、考えておきます」


 帰る前に、アルバムはいったん僕が持ち帰ることになった。


 鞄に入れると、真帆が少しだけ身を乗り出した。


「ちゃんと取っておいてくださいね」


「もちろん。大事なものだから」


「……はい」


 彼女は、今度は嬉しそうに頷いた。



     *



 退院から三週間後。

 短い外出にも慣れてきた真帆と、僕は水族館で待ち合わせた。


 失った記憶は、まだ、ほとんど戻っていない。


 それでも、あの日から話したことは、少しずつ増えていた。


 カラメルは、少ないほうがいいこと。

 入院中に見始めたドラマの続きを、気にしていること。

 デートに誘うなら「どこでもいい」ではなく、候補を三つくらい出してほしいこと。


 そして僕の出した三つを全部退けて、水族館を提案したこと。


 約束の時刻の五分前に、真帆は現れた。


「お待たせしました」


 白いブラウスに、紺色のスカート。

 僕を見つけると、少しだけ歩くのが速くなった。


「待ちました?」


「十分くらい。僕が早く来すぎただけ」


「ずいぶん早いですね」


「落ち着かなくて」


 真帆は、少し黙った。


「……そういうことは、ちゃんと言えるんですね」


「今日は頑張ろうと思って」


「始まる前に、疲れないでくださいよ」


 彼女が笑った。


 僕も笑った。


 真帆は鞄から、入場券を二枚取り出した。


「買っておきました」


「ありがとう」


「先に言っておきますけど」


 彼女は一枚を僕に差し出した。


「余ったんじゃ、ありませんから」


 僕は、その券を受け取った。


「うん」


「あなたと来たかったので、二枚買いました」


 写真の中の真帆が、何度も言いそびれたかもしれないことを、目の前の真帆が言った。


 僕も、今度は一度で答えた。


「僕も、君と来たかった」


 彼女の頬が、少し赤くなった。


「……分かれば、いいです」


 館内では、思ったより話すことが多かった。


 真帆は大きな魚より、岩の陰から半分だけ顔を出している魚を気に入った。


「見てください。出勤したくない朝の顔です」


 言われると、月曜日の鏡で見た覚えがあった。


 クラゲの前では長く立ち止まった。

 売店では、抱くには小さく、鞄につけるには大きいアザラシのぬいぐるみを持ち上げて、しばらく真剣に悩んでいた。


「半端だね」


「そこが、放っておけなくありませんか」


 僕が何か言う前に、真帆はこちらを見た。


「今、自分の話だと思いました?」


「ちょっと」


「心当たりの管理は、ご自身でお願いします」


 笑いながら、僕は隣を歩いた。


 真帆が何を忘れているかより、今、何を見ているかが気になった。


 出口近くで、二人の写真を撮った。


 真帆がスマホを構え、僕が隣に立つ。


「もう少し、寄ってください」


「このくらい?」


「隣の水槽の魚のほうが、距離が近いです」


 肩が触れた。


 僕が動かなくなると、彼女がこちらを見た。


「……手、つないでもらえませんか」


「いいの?」


「嫌なら頼みません」


 差し出された手に、そっと触れた。


 真帆の指が、僕の指の間に入ってきた。


 シャッターが切られた瞬間、僕は目を閉じてしまった。



     *



 水族館を出たあと、近くの喫茶店に入った。


 今度の店は、僕が探した。

 カラメルのかかっていない、白いミルクプリンがあったからだ。


 メニューを見た真帆が、こちらを見る。


 僕は水を飲んだ。


「甘いもので釣ろうとは、してないけど」


「今、注文しようと思ってたんです。先に言い訳しないでください」


 プリンとコーヒーが運ばれてくると、真帆は鞄を膝に置いた。


「アルバム、持ってきてくれました?」


「うん」


 今日、持ってきてほしいと言ったのは、彼女だった。


 僕が取り出すと、真帆は前のページを少しだけ眺め、それから写真の入っていないところまでめくった。


「今日の写真、ここに入れたいです」


 スマホの画面を、僕に向ける。


「目、つぶってるけど」


「はい」


「撮り直したほうもあるよ」


「でも、これが一番、嬉しそうなので」


 画面には、目を閉じた僕が映っていた。

 その隣で、真帆も笑っていた。


 僕の顔を見て、笑っている。


 昔のアルバムを開くとき、彼女も、こんなふうに写真を選んだのかもしれない。


 そう思ったけれど、口には出さなかった。


「じゃあ、次に会うとき、印刷して持ってくるよ」


「はい」


 真帆は頷いて、プリンを一口食べた。


 今度は、眉を寄せなかった。


「おいしい?」


「はい。ちゃんと、下まで」


「よかった」


 彼女は、もう一口食べた。


 それからスプーンを置いた。


「宮田さん」


「うん」


「今日、楽しかったです」


「僕も。次も、君と出かけたい」


「……少し待ってください」


「え?」


「今、言う順番を考えているので」


 僕はコーヒーカップから手を離した。


 真帆は膝の上で、指先を重ねていた。

 その爪を一度見下ろし、また僕を見た。


「昔の私が、言わなかったみたいなので」


 声が、少しだけ震えた。


「私は、言います」


 僕は黙って頷いた。


「あなたが好きです」


 胸の中で、何かが静かにほどけた。


 嬉しくて、照れくさくて、どう返せばいいか分からなくなる。


 でも、今度は逃げなかった。


「僕も、君が好きです」


 真帆の唇が、小さく開いた。


「付き合ってください」


 彼女は頷いた。


「はい」


 それから、念を押すように付け足した。


「仕方なく、ではありません」


 僕は笑った。


 笑うと、彼女も笑った。


 アルバムの横で、二人の手が近づいた。

 今度は僕から差し出した。


 真帆がその手を取った。


「……直人さん」


「はい」


「点呼じゃないんですから」


「急だったから」


「先に予告してから呼ぶ人がいます?」


 指に、少しだけ力がこもった。


 僕も、握り返した。


「そういえば、どうして水族館だったの?」


「魚を見たかったので」


「そっか」


「あとは、泳げない人でも楽しめそうだったので」


 僕は、つないだ手を見た。


「気を遣わせてごめん」


「私が行きたかったんですってば」


 真帆が少しだけ目を細める。


「あなたと」


「……うん」


 今度は、ちゃんと聞けた。


 真帆は空いている手で、ミルクプリンの最後の一口をすくった。


「次は、お弁当を作ってもらえませんか」


「いいけど。今はちゃんと焼けるよ、卵焼き」


「聞きました。特訓の成果を、私も食べてみたいので」


「甘いのと、しょっぱいの、どっちがいい?」


 真帆は少し考えた。


「甘いほうで」


「分かった」


「焼き加減は、謝罪のいらない程度でお願いします」


 僕は笑いながら、紺色の表紙を閉じた。


 アルバムを閉じても、話すことはなくならなかった。

「泳げるのは目だけですか」


好きな人にこんなことを言われて嬉しくなってしまうのだから、直人も相当、真帆のことが好きなのだと思います。


ただ、懐かしい言葉を喜ぶあまり、初めて言ってもらえた言葉を聞き逃すこともある。


今回は、忘れた彼女が思い出す話ではなく、覚えている彼が、まだ知らない彼女に気づく話を書きました。


写真に残っている笑顔も、目の前にある笑顔も、どちらかを捨てる必要はありません。アルバムには、まだ空いているページがあります。


なお、直人の水泳能力については、物語を通じて一切改善しておりません。

恋愛の研修が終わったところで、水泳の研修が始まりそうです。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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