記憶はないのに、口は悪い。
「僕、君の彼氏なんだ」
そう言うと、ベッドの上の彼女は、掛け布団を胸のあたりまで引き上げた。
「そんなこと言って、私をどうしようっていうんですか」
「どうもしないよ」
「……えっち」
何もしないと宣言した直後に、えっちな男に認定された。
困った。
こういう場合の返しを、僕は知らない。
いつもの真帆なら、まず僕の寝癖を指摘したはずだ。
『その後頭部は、誰に向けた威嚇ですか』
それから僕が手で押さえて、彼女が「そっちじゃありません」と笑う。それで、大抵の朝は始まっていた。
けれど、目の前の真帆は、そんなことを言わなかった。
頬を赤くして、こちらをうかがっている。
初めて会う男との距離を、測りかねているように。
今の彼女にとって、僕は、そういう男だった。
事故のあと、真帆には、ここ数年の出来事を思い出せない部分が残っていた。
家族の顔は分かる。学生時代の友達のことも分かる。それでも勤め先の話には戸惑うし、二年前に知り合った僕のことは、顔を見ても分からなかった。
怪我は回復に向かっている。
記憶については、まだ分からない。
思い出すことを急がせない。疲れたら面会を切り上げる。
ここへ来る前に聞いた話を、僕は頭の中でもう一度なぞった。
「宮田直人さん、ですよね」
「うん」
「母からも聞きました。私と、お付き合いしていた方だって」
名字と名前を、確認するように呼ばれた。
それだけのことが、思ったよりこたえた。
「嘘だとは、思っていません。でも、想像できなくて」
真帆が視線を落とす。
「私、あなたと、どんなふうに話してたんでしょう」
僕は、ベッドから少し離れた椅子に腰を下ろした。
「結構、ひどいことを言われてた」
「ひどいこと」
「寝癖を威嚇って言われたり」
真帆の目が、僕の後頭部へ移った。
僕は手で押さえた。
「……そちらにも、あるんですね」
「にも?」
「前にも、少し」
両手を使うことになった。
真帆が、口元を緩めた。
それを見て、僕もようやく少し笑えた。
「写真とか、ありませんか」
「写真?」
「一緒に、出かけたりしたときの」
「あるよ」
「見てみたいです。あなたが彼氏だったことより、私が、あなたの彼女だったところを」
僕は、鞄の持ち手を握り直した。
それなら、ちょうどいいものがある。
「アルバムがあるんだ。君が作ってくれた」
「私が?」
「付き合って一年のときに」
真帆は、しばらく僕を見ていた。
それから掛け布団を、少しだけ下げた。
「明日、持ってきてもらえますか」
その日、僕が彼女にもらえた最初の約束は、明日も会っていいということだった。
*
紺色の布張りの、小さなアルバムだった。
半年前、これをくれた真帆は、照れもせずに言った。
『あなたがスマホを落としたら、私たちの一年も一緒に割れそうなので』
そのわりに、写真の配置は丁寧だった。
日付は細い青ペンで書かれていて、映画の半券まで挟まっていた。
もらったあとも、二人で少しずつ写真を増やしてきた。
僕の書いた日付だけ、数字の八がだいたい潰れている。
「ちゃんとしてますね、私」
翌日、真帆は表紙を撫でてから、慎重に最初のページを開いた。
映画館の前で撮った写真だった。
巨大な怪獣のポスターの横で、僕が同じポーズを取っている。
真帆はその隣に、半歩だけ離れて立っていた。
「……これ、本当に恋人同士ですか」
「このときは、まだ」
「でしょうね。私、関係者だと思われたくなさそうです」
「撮る直前まで、もっと離れてたよ」
「それでも同じ画面に収めた撮影者の努力が光りますね」
言い方に、少しだけ覚えがあった。
「真帆に誘ってもらって、見に行ったんだ。前売り券が一枚余ったからって」
「私から誘ったんですか」
「うん」
彼女の指が、隣に挟まれた半券に触れる。
僕は早く交際の証拠を見せたくて、その先のページを開いた。
「ほら。これは、付き合って最初にお弁当を作った日」
芝生に敷かれたレジャーシート。
開いた弁当箱。
茶色い何か。
真帆は、写真に顔を近づけた。
「これは?」
「卵焼き」
「どれが?」
「その、端の」
「……ニワトリに何かされたんですか」
僕は思わず顔を上げた。
真帆も顔を上げた。
「何ですか」
「似たようなこと、前にも言われた」
「でしょうね。これは言われると思います」
写真の中の真帆は、箸で卵焼きをつまんでいた。
食べる直前ではない。僕に向けて掲げているところだ。
「あのときは、『卵に謝ってから食べてください』って言われた」
「謝ったんですか」
「謝った」
「卵に?」
「卵に」
真帆は口元を押さえた。
肩が、小さく揺れた。
僕は、ようやく少し息がしやすくなった。
「でも、真ん中は焦げてなかったんだ。そこは食べてくれた」
「残りは?」
「僕が食べた」
「責任の所在が明確で、いいと思います」
「今は普通に焼けるよ。しばらく特訓されたから」
「また作ったんですか」
「うん。翌週も」
真帆は、写真の自分を見つめた。
「……翌週も、一緒に食べたんですね」
その声が少し柔らかくなった理由を、僕はまだ考えなかった。
次の写真では、二人でコンビニの前に立っていた。
「これは夜景を見に行った日」
「夜景は?」
「道に迷ってるうちに、展望台が閉まった」
「なるほど。代わりに二十四時間営業の光を」
「温かかったよ」
「夜景に求める感想じゃないんですよ」
写真の僕は、紙コップを二つ持っていた。
真帆は手袋のまま、僕のコップを指さしている。
「このときも、怒られたな」
「何て?」
「『夜景なら見下ろしたかったです。あなたではなく』」
真帆は吹き出したあと、慌てて口元を押さえた。
「昔の私、性格が悪くありませんか」
「口は悪かった」
「訂正が限定的ですね」
「でも、そのあと、一時間くらい話してた。結局、楽しかったんだ」
言ってから、少し考えた。
「……僕は」
真帆は、もう一度写真を見た。
「私も、笑ってますね」
「僕を馬鹿にしてるから」
「それだけのために、この写真を選んで貼るでしょうか」
答えを考える前に、次のページがめくられた。
夏祭り。
カフェ。
日帰りで行った動物園。
真帆は何ページか戻り、また先へ進んだ。
「海の写真、ないんですね。プールも」
「……そうだね」
「カップルって、一回くらい、そういうところに行くものかと思ってました」
「人によるんじゃないかな」
「私、もしかして、かなづちでしたか?」
「そうですよー」
いつもの調子で答えてから、僕は口を押さえた。
冗談だと分かるはずだ、なんて、今の真帆には通用しない。
「ごめん、今のは――」
「まさか、あなたが泳げないんですか?」
目をそらした。
彼女の視線が、そらした先までついてきた。
「泳げるのは目だけですか」
僕は、笑ってしまった。
声が出た。
それまで遠慮していたぶんまで、まとめて出たような笑い方だった。
「ごめん。泳げないのは僕。君は泳げるって言ってた」
「でしょうね。さっきから、視線だけは達者なので」
駄目だった。
また笑ってしまった。
真帆が困ったように眉を寄せる。
「……そんなに面白いですか」
「うん。いや、面白いっていうか」
笑いながら、目の奥が熱くなった。
「今の、前の真帆みたいだったから」
彼女の唇が、少しだけ開いた。
それから、ゆっくり閉じた。
「……前の」
「うん」
真帆は、アルバムに視線を戻した。
帰るとき、彼女は表紙を両手で押さえた。
「これ、置いていってもらえますか。もう少し、見ていたいので」
「もちろん」
僕は嬉しかった。
思い出に興味を持ってくれたことも、昔のように話せたことも、何もかも。
だから、そのときの彼女の顔を、よく見ていなかった。
*
次に会ったとき、真帆は最初のページを開いて待っていた。
「今日は、確認したいことがあります」
「何?」
「この映画の日です」
怪獣のポスターの横で、僕が両手を上げている。
現在の僕まで、その姿勢にさせられそうな声だった。
「前売り券が余ったと言われて、誘われたんですよね」
「うん」
「最初から、この日に行こうという話でした?」
「いや。最初に言われた土曜日は、僕に予定があって。それで、日曜日はどうですかって聞かれて」
「はい」
「日曜も駄目だったから、翌週になった」
真帆が顔を上げた。
「余ったチケットの処理にしては、ずいぶん粘りますね」
「他の人に声をかけるのが面倒だったんじゃない?」
「それは、私がそう言ったんですか」
「いや。そうかなって」
「事実と推測を分けていただけますか」
彼氏だった証拠を持ってきたはずなのに、供述の信頼性を調べられていた。
「この服については、何か言ってました?」
写真の真帆は、薄い緑色のワンピースを着ている。
「珍しいねって言ったら、『人間として外出する最低限の礼儀です』って」
彼女は動物園のページを開いた。
ジーンズ姿の自分を指さした。
「別の日の私は、人間として失格だったんでしょうか」
「そういう意味じゃ」
「でしょうね」
真帆は映画のページに戻った。
「宮田さん。このころ、私のこと、どう思ってたんですか」
「好きだったよ」
「私には、好かれていないと思ってた?」
「嫌われてはいないと思ってた。でも、呆れられてるんだろうなって」
「そのわりに、何度も二人で出かけていますね」
「面倒見がいい人だから」
「面倒見のよさで、休日をそんなに消費します?」
僕は返事に詰まった。
真帆は、写真の自分を少しだけ見つめてから言った。
「この私、あなたのこと、かなり好きだと思いますよ」
病室の時計の針が、ひとつ進んだ。
「……そうかな」
「少なくとも、私は、そう見えます」
「でも、その前の週なんて、『土曜日も暇なんですか』って」
「誘ってるんですよ」
「暇な人だと思われてたんじゃ」
「誘ってるんですよ」
「僕、そのとき『いつも暇なわけじゃない』って言っちゃって」
「自分の見栄のために、私の勇気を無駄にしないでください」
返す言葉がなかった。
真帆は、呆れたように息をついた。
「それで、付き合うまでは?」
「知り合って、半年くらい」
「長いですね」
「頑張ったんだよ」
「私も頑張ってますよ、これ」
写真のワンピースを、指先がつついた。
言われてみれば、そう見えた。
映画に行ったあと、真帆は夕飯にも付き合ってくれた。
僕が店を決められずにいると、三軒も候補を出してくれた。
あれも全部、僕が頼りなかったからだと思っていた。
「告白は、どちらから?」
「僕」
「よくそこまで辿り着きましたね」
「真帆は、『仕方ないですね』って言ってたよ」
「そのあと、本当に仕方なさそうでした?」
「……顔は、そっぽ向いてた」
「はい」
「手は、つないでくれた」
真帆は天井を見た。
見知らぬ過去の自分のために、何かを耐えているようだった。
「断れなかったんじゃなくて、待ってたんだと思います」
僕は写真に目を落とした。
付き合ってから、大事にしてもらっていたことは知っていた。
ただ、好きだと伝えるのも、会いたいと言うのも、いつも僕からだったから。
ずっと、僕のほうが好きなのだと思っていた。
「そっか」
あの半歩の距離は、嫌だったからではなく、近づき方が分からなかっただけかもしれない。
「そんな前から、好きでいてくれたんだ」
「たぶん、ですけどね」
真帆は少し照れたように、写真から指を離した。
「ただ、卵焼きへの文句まで告白に換算しないでください。あれは普通に苦情だと思います」
「それは分かる」
「なら、よかったです」
僕は笑った。
真帆も、つられて笑った。
写真を見れば、あのころのことを思い出せると思っていた。
けれど、こんなふうに、初めて知ることがあるとは思っていなかった。
余ったチケット。
不機嫌そうな誘い文句。
少しだけ離れた立ち位置。
真帆が自分の恋を知らないまま説明してくれたおかげで、僕はようやく、彼女が何度も差し出していたものを見つけた。
「知らなかったな」
僕は写真の真帆を見た。
「僕ばっかり、会いたがってたわけじゃなかったんだ」
しばらく返事がなかった。
顔を上げると、目の前の真帆は、アルバムの端を撫でていた。
「……よかったですね」
僕は頷いた。
本当に、よかったと思ってしまった。
そのあと、何枚か写真の話をした。
真帆の返事が少しずつ短くなってきたところで、僕は尋ねた。
「疲れた?」
「少しだけ」
「じゃあ、今日はこのくらいにしよう」
アルバムを閉じ、鞄を持つと、真帆が小さく言った。
「あと五分だけ、いてくれませんか」
僕は手を止めた。
彼女は掛け布団の縫い目を見つめていた。
「写真の話じゃなくても、いいので」
胸のあたりが、むずむずした。
「……そんなこと、前は絶対言わなかったな」
照れ隠しに、僕は笑った。
真帆も、少し遅れて笑った。
「前は、何て言ってました?」
「『一人だと暇なんです』とか」
「そうですか」
僕は椅子に座り直した。
持ってきたプリンを二人で食べながら、病室のテレビの話をした。
真帆は、朝の占いが最下位だったのに、ラッキーアイテムが旅行鞄だったことに納得していなかった。
「持たせるだけ持たせて、どこに行けと」
僕はまた笑った。
彼女も笑って、それからプリンをすくった。
スプーンが底のカラメルに届くと、少しだけ眉を寄せた。
そんな、何でもない五分間だった。
アルバムを開かなくても楽しかったことに、そのときの僕は、まだ名前をつけなかった。
*
それから一週間ほどのあいだに、真帆の口は少しずつ悪くなった。
面会に行くと、
「一人だと暇だったので、ちょうどよかったです」
帰ろうとすると、
「もう帰るんですか。ずいぶん短い娯楽ですね」
何かを手渡せば、
「ご親切に。あとで何か売りつけるんですか」
僕が思い出話の中で伝えたことのある言葉だった。
最初は、嬉しかった。
記憶が戻ったわけではないと、真帆も言っていた。
それでも、話し方が戻ってきたような気がした。
ただ、少し変だった。
真帆は何か言うたび、僕の顔を見るようになった。
僕が笑うと、笑った。
僕がすぐに返せないと、言い直した。
以前の彼女は、僕の返事を待たずに自分で笑い出すことがあった。
くだらないことを言って、僕が呆れているのに、肩を震わせ続けることもあった。
今の真帆は、僕が笑うまで笑わなかった。
その日も、僕はプリンを二つ持っていった。
「この前と同じのでよかった?」
「ありがとうございます」
真帆が微笑んだ。
それから、何かを間違えたように、唇を結んだ。
「……甘いもので釣れると思ってるんですか」
「いや、釣ろうとは」
「あ、違うんです。今のは」
彼女は目を伏せた。
僕は、プリンを手に持ったまま、立っていた。
真帆が小さく息を吐く。
「やっぱり、違いますか」
「何が?」
「前の私と、言い方が」
手の中のプリンの冷たさが、急にはっきりした。
真帆の膝には、小さなノートが載っていた。
彼女はそれを閉じようとして、途中でやめた。
迷った末に、僕のほうへ向けた。
泳げるのは目だけですか。
一人だと暇なんです。
卵に謝ってから食べてください。
ページには、いくつかの言葉が書かれていた。
その上に、小さな文字で見出しがあった。
宮田さんが笑った言葉。
「会う前に、読んでおこうと思って」
真帆はノートの端を押さえた。
「思い出せなくても、教えてもらったとおりにすれば、少しは戻れるかと思ったんです」
「そんなこと、しなくていいよ」
言った瞬間、自分の言葉が軽すぎると分かった。
そうさせていたのは、僕だった。
僕は一番上の言葉を指さした。
「これは、昔の君に言われたことじゃない。この病室で、初めて聞いた」
「知っています」
真帆は、小さく頷いた。
「でも、前の私みたいだって、嬉しそうだったから」
何も言えなくなった。
ここで生まれた彼女の言葉まで、僕は昔の彼女が戻ってきた証拠のように扱っていた。
「写真の私、すごく、あなたのことが好きですね」
真帆は、ベッドの横にあるアルバムを見た。
「私も、分かるようになりました。どうして好きだったのか」
その目が、僕に戻ってくる。
「私が疲れると、話の途中でもやめてくれるでしょう。あの、旅行鞄の話も、ちゃんと聞いてくれました」
「うん」
「どうでもいい話だったのに」
「どうでもよくないよ」
「占いの結果としては、だいぶどうでもよかったです」
口元が、わずかに緩んだ。
けれど、すぐに戻った。
「だから、昔の私が羨ましくなりました」
真帆の指が、ノートの角をつまんだ。
「あなたの好きなものも、嫌いなものも知っていて。何を言えば笑うかも分かっていて。手をつなぎたいとき、いちいち考えなくてもよくて」
少しだけ、声が小さくなる。
「しかも、あなたは、その人のことが大好きなんです」
同じ真帆じゃないか、と言いかけて、やめた。
その同じ真帆に、僕は何度も、前と違うと言ったのだ。
「この前、もう少し一緒にいたいって、言ってみたんです」
「……うん」
「でも、違うんだなって思いました。そういう言い方は、前の私じゃないんだなって」
「あれは」
照れくさかっただけだ。
そう言いかけて、口を閉じた。
僕の都合を説明しても、彼女がそのあと何日も、言葉を選び直していたことは変わらない。
「知らない人の真似をしたら、あなたが嬉しそうに笑ってくれたんです」
最後のほうだけ、声が掠れた。
「やめどき、分からなくなっちゃって」
僕はプリンをテーブルに置いた。
椅子に座った。
何から言えばいいのか分からず、しばらく両手を見ていた。
真帆が忘れたものを、僕は覚えている。
だから僕のほうが、二人のことをよく知っているつもりだった。
昔の彼女の気持ちも。
今、僕の前で話している彼女の気持ちも。
どちらも、説明してもらわなければ分からなかったくせに。
「ごめん」
真帆は、すぐには何も言わなかった。
僕も、その沈黙を埋めようとはしなかった。
「一緒に過ごしたことを、君もまた思い出してくれたら嬉しい。それは、今も思ってる」
彼女の指に、力が入った。
「でも、僕は、そればっかりになってた。今、話してくれてることを、ちゃんと聞いてなかった」
紺色の表紙が、視界の端にあった。
「あの五分間、僕も楽しかったよ」
真帆が、ゆっくり顔を上げた。
「写真の話をしてなかったけど、楽しかった。もっといてって言ってもらえたのも、嬉しかった」
「……前は、言わなかったんでしょう」
「うん。だから、どう返せばいいか分からなかった」
「何年、彼氏をやってるんですか」
「一年半」
「研修、長くないですか」
真帆の口元が、少し動いた。
そのあとで、僕も笑った。
「長いね。しかも、教えてもらってばっかりだ」
彼女はノートを見下ろした。
「たぶん、すぐには気にしないようにできません」
「うん」
「あなたが昔の話をしてくれたら、また比べると思います」
「うん」
「でも、写真が嫌いになったわけじゃないんです。昔の私のことも、知りたいです」
そこで言葉が途切れた。
僕は待った。
真帆が顔を上げた。
「ときどき、今の私にも、質問してください」
それは、あまりに簡単なお願いだった。
簡単なことを、僕は、ずっとしていなかった。
「……プリン」
「はい?」
「カラメル、少ないほうが好き?」
真帆が瞬きをした。
「そこからですか」
「この前、底のほうで、ちょっと嫌そうな顔してたから」
「あれは、思ったより苦くて」
「じゃあ、次は違うのにしよう」
「上は、おいしかったです」
「うん」
「全部嫌いなことには、しないでください」
「分かった」
真帆は、僕とプリンを見比べた。
それからノートを閉じた。
「あと五分って言ったのは、暇だったからじゃありません」
「うん」
「もう少し、一緒にいたかったからです。私が」
今度は、昔の話をしなかった。
「僕も、いたかった」
彼女の指が、ノートを離れた。
僕は一度息を吸った。
「退院して、落ち着いたら、デートに誘ってもいいかな」
「それは、彼氏だからですか」
「……もう一度、彼氏になりたいから」
真帆は視線を落とした。
僕は返事を待った。
「じゃあ、誘ってください」
彼女は、小さく言った。
「行きたいところ、考えておきます」
帰る前に、アルバムはいったん僕が持ち帰ることになった。
鞄に入れると、真帆が少しだけ身を乗り出した。
「ちゃんと取っておいてくださいね」
「もちろん。大事なものだから」
「……はい」
彼女は、今度は嬉しそうに頷いた。
*
退院から三週間後。
短い外出にも慣れてきた真帆と、僕は水族館で待ち合わせた。
失った記憶は、まだ、ほとんど戻っていない。
それでも、あの日から話したことは、少しずつ増えていた。
カラメルは、少ないほうがいいこと。
入院中に見始めたドラマの続きを、気にしていること。
デートに誘うなら「どこでもいい」ではなく、候補を三つくらい出してほしいこと。
そして僕の出した三つを全部退けて、水族館を提案したこと。
約束の時刻の五分前に、真帆は現れた。
「お待たせしました」
白いブラウスに、紺色のスカート。
僕を見つけると、少しだけ歩くのが速くなった。
「待ちました?」
「十分くらい。僕が早く来すぎただけ」
「ずいぶん早いですね」
「落ち着かなくて」
真帆は、少し黙った。
「……そういうことは、ちゃんと言えるんですね」
「今日は頑張ろうと思って」
「始まる前に、疲れないでくださいよ」
彼女が笑った。
僕も笑った。
真帆は鞄から、入場券を二枚取り出した。
「買っておきました」
「ありがとう」
「先に言っておきますけど」
彼女は一枚を僕に差し出した。
「余ったんじゃ、ありませんから」
僕は、その券を受け取った。
「うん」
「あなたと来たかったので、二枚買いました」
写真の中の真帆が、何度も言いそびれたかもしれないことを、目の前の真帆が言った。
僕も、今度は一度で答えた。
「僕も、君と来たかった」
彼女の頬が、少し赤くなった。
「……分かれば、いいです」
館内では、思ったより話すことが多かった。
真帆は大きな魚より、岩の陰から半分だけ顔を出している魚を気に入った。
「見てください。出勤したくない朝の顔です」
言われると、月曜日の鏡で見た覚えがあった。
クラゲの前では長く立ち止まった。
売店では、抱くには小さく、鞄につけるには大きいアザラシのぬいぐるみを持ち上げて、しばらく真剣に悩んでいた。
「半端だね」
「そこが、放っておけなくありませんか」
僕が何か言う前に、真帆はこちらを見た。
「今、自分の話だと思いました?」
「ちょっと」
「心当たりの管理は、ご自身でお願いします」
笑いながら、僕は隣を歩いた。
真帆が何を忘れているかより、今、何を見ているかが気になった。
出口近くで、二人の写真を撮った。
真帆がスマホを構え、僕が隣に立つ。
「もう少し、寄ってください」
「このくらい?」
「隣の水槽の魚のほうが、距離が近いです」
肩が触れた。
僕が動かなくなると、彼女がこちらを見た。
「……手、つないでもらえませんか」
「いいの?」
「嫌なら頼みません」
差し出された手に、そっと触れた。
真帆の指が、僕の指の間に入ってきた。
シャッターが切られた瞬間、僕は目を閉じてしまった。
*
水族館を出たあと、近くの喫茶店に入った。
今度の店は、僕が探した。
カラメルのかかっていない、白いミルクプリンがあったからだ。
メニューを見た真帆が、こちらを見る。
僕は水を飲んだ。
「甘いもので釣ろうとは、してないけど」
「今、注文しようと思ってたんです。先に言い訳しないでください」
プリンとコーヒーが運ばれてくると、真帆は鞄を膝に置いた。
「アルバム、持ってきてくれました?」
「うん」
今日、持ってきてほしいと言ったのは、彼女だった。
僕が取り出すと、真帆は前のページを少しだけ眺め、それから写真の入っていないところまでめくった。
「今日の写真、ここに入れたいです」
スマホの画面を、僕に向ける。
「目、つぶってるけど」
「はい」
「撮り直したほうもあるよ」
「でも、これが一番、嬉しそうなので」
画面には、目を閉じた僕が映っていた。
その隣で、真帆も笑っていた。
僕の顔を見て、笑っている。
昔のアルバムを開くとき、彼女も、こんなふうに写真を選んだのかもしれない。
そう思ったけれど、口には出さなかった。
「じゃあ、次に会うとき、印刷して持ってくるよ」
「はい」
真帆は頷いて、プリンを一口食べた。
今度は、眉を寄せなかった。
「おいしい?」
「はい。ちゃんと、下まで」
「よかった」
彼女は、もう一口食べた。
それからスプーンを置いた。
「宮田さん」
「うん」
「今日、楽しかったです」
「僕も。次も、君と出かけたい」
「……少し待ってください」
「え?」
「今、言う順番を考えているので」
僕はコーヒーカップから手を離した。
真帆は膝の上で、指先を重ねていた。
その爪を一度見下ろし、また僕を見た。
「昔の私が、言わなかったみたいなので」
声が、少しだけ震えた。
「私は、言います」
僕は黙って頷いた。
「あなたが好きです」
胸の中で、何かが静かにほどけた。
嬉しくて、照れくさくて、どう返せばいいか分からなくなる。
でも、今度は逃げなかった。
「僕も、君が好きです」
真帆の唇が、小さく開いた。
「付き合ってください」
彼女は頷いた。
「はい」
それから、念を押すように付け足した。
「仕方なく、ではありません」
僕は笑った。
笑うと、彼女も笑った。
アルバムの横で、二人の手が近づいた。
今度は僕から差し出した。
真帆がその手を取った。
「……直人さん」
「はい」
「点呼じゃないんですから」
「急だったから」
「先に予告してから呼ぶ人がいます?」
指に、少しだけ力がこもった。
僕も、握り返した。
「そういえば、どうして水族館だったの?」
「魚を見たかったので」
「そっか」
「あとは、泳げない人でも楽しめそうだったので」
僕は、つないだ手を見た。
「気を遣わせてごめん」
「私が行きたかったんですってば」
真帆が少しだけ目を細める。
「あなたと」
「……うん」
今度は、ちゃんと聞けた。
真帆は空いている手で、ミルクプリンの最後の一口をすくった。
「次は、お弁当を作ってもらえませんか」
「いいけど。今はちゃんと焼けるよ、卵焼き」
「聞きました。特訓の成果を、私も食べてみたいので」
「甘いのと、しょっぱいの、どっちがいい?」
真帆は少し考えた。
「甘いほうで」
「分かった」
「焼き加減は、謝罪のいらない程度でお願いします」
僕は笑いながら、紺色の表紙を閉じた。
アルバムを閉じても、話すことはなくならなかった。
「泳げるのは目だけですか」
好きな人にこんなことを言われて嬉しくなってしまうのだから、直人も相当、真帆のことが好きなのだと思います。
ただ、懐かしい言葉を喜ぶあまり、初めて言ってもらえた言葉を聞き逃すこともある。
今回は、忘れた彼女が思い出す話ではなく、覚えている彼が、まだ知らない彼女に気づく話を書きました。
写真に残っている笑顔も、目の前にある笑顔も、どちらかを捨てる必要はありません。アルバムには、まだ空いているページがあります。
なお、直人の水泳能力については、物語を通じて一切改善しておりません。
恋愛の研修が終わったところで、水泳の研修が始まりそうです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




