一夜かぎりの婚約でしたが、月下美人の恋は朝になっても終わりません
月下美人の葉には、棘がある。
リディア・ファルネーゼは、幼いころからそう思っていた。
濃い緑色の葉は、縁が波打ち、ところどころ鋭く尖っている。指先で触れれば傷つきそうな姿をしているのに、年に数度、夜のあいだだけ、息を呑むほど白く美しい花を咲かせる。
リディアもまた、夜会に姿を現せば人目を引いた。
白金色の髪に、深い青の瞳。亡き母から受け継いだ美貌は、月明かりの下でこそ美しく映えた。
けれど、彼女に近づいた者は、皆、不幸になった。
最初の求婚者は、横領が発覚して爵位を失った。
二人目の求婚者は、既婚者であることを隠していたと知られ、国外へ逃げた。
親しくなった令嬢は、婚約を破棄して修道院へ入り、その後、二度と社交界へ戻らなかった。
誰も、事情を知ろうとはしなかった。
人々はただ、囁いた。
「あの方は、月下美人のようね」
「美しいけれど、近づけば棘に刺されるのよ」
やがてリディアは、社交界でこう呼ばれるようになった。
――棘のある月下美人。
その夜も、王宮の大広間へ足を踏み入れた途端、さざ波のように囁きが広がった。
リディアは聞こえないふりをして、壁際へ向かった。
王宮では今夜、月下美人の開花を祝う夜会が開かれていた。
王妃が大切に育てている月下美人が、今夜、一斉に花を咲かせるのだという。
宴は日没に始まり、花がしぼむ夜明けとともに終わる。
そのため、この夜会は「一夜の舞踏会」と呼ばれていた。
「ファルネーゼ伯爵令嬢」
背後から声をかけられ、リディアは振り返った。
そこに立っていたのは、第二王子ユリアンだった。
王位継承争いから距離を置き、王宮の温室で植物ばかり育てている変わり者の王子。
華やかな金髪を持つ兄王子とは対照的に、ユリアンの髪は夜空のように黒い。穏やかな灰色の瞳は、夜会の喧騒よりも、窓辺に置かれた鉢植えへ向けられていることのほうが多かった。
「少し、お時間をいただけますか」
「殿下のお望みでしたら」
リディアが礼をすると、ユリアンは彼女を大広間から連れ出した。
案内されたのは、王宮の奥にある小さな温室だった。
温室には、まだ蕾のままの月下美人が並んでいた。
人払いを済ませると、ユリアンは単刀直入に言った。
「今夜一晩だけ、僕の婚約者になっていただきたい」
リディアは、しばらく答えられなかった。
「……聞き間違いでしょうか」
「いいえ。今夜から、明日の夜明けまでです」
「なぜ、私なのです」
「あなたなら、僕に恋をしていると思われないからです」
あまりにも率直な答えだった。
リディアは腹を立てるより先に、笑いそうになった。
「ずいぶんと失礼な理由ですこと」
「申し訳ありません。ですが、あなたも僕に好意を持ってはいないでしょう」
「ええ。殿下とまともに言葉を交わしたのは、今日が初めてです」
「ですから、都合がよいのです」
ユリアンによれば、今夜の夜会で、彼は公爵令嬢との婚約を発表させられる予定なのだという。
相手は王妃の姪であり、現在、王宮内で最も力を持つローレンツ公爵の娘だった。
しかし、ユリアンはローレンツ公爵が王宮の薬草園から希少な薬草を横流ししていると疑っていた。
「公爵は、僕が管理する温室へ自由に出入りする権利を欲しがっています。娘と僕が結婚すれば、王族の名を使って、薬草をいくらでも国外へ持ち出せる」
「証拠はあるのですか」
「今夜、手に入る予定です」
「それまでの時間を稼ぐために、婚約者が必要なのですね」
「はい」
ユリアンは、机の上に一通の書類を置いた。
一夜かぎりの婚約契約書だった。
夜明けとともに婚約は解消され、リディアの名誉を損なわぬよう、王家が正式な声明を出す。さらに、協力の対価として、ファルネーゼ家の負債を王家が肩代わりするという。
「私の家の事情まで、お調べになったのですね」
「不快に思われたのなら、謝ります」
父が亡くなって以来、ファルネーゼ家の財産は叔父のゲオルグが管理している。
けれど、領地の収入は年々減り、邸宅を手放す話まで出ていた。
リディアは、書類に目を落とした。
「夜明けまで、殿下の婚約者を演じればよいのですね」
「危険が及ぶ可能性もあります」
「私に近づくと不幸になるそうですから、殿下もお気をつけくださいませ」
皮肉を込めた言葉だった。
しかし、ユリアンは笑わなかった。
「あなたに近づいたから、不幸になったのですか」
リディアは顔を上げた。
「横領を告発したのは、あなたでしょう」
「……何のお話ですか」
「最初の求婚者は、領民から税を不正に取り立てていた。二人目の男には、妻だけでなく子どももいた。修道院へ入った令嬢は、婚約者から暴力を受けていた」
誰にも話していないはずだった。
リディアは、思わず後ずさった。
「なぜ、それを」
「調べたからです」
「どうして」
「僕は植物を育てています」
答えになっていなかった。
ユリアンは、月下美人の鉢へ手を伸ばした。
「植物を育てていると、よく分かるのです。見た目だけで性質を決めつけると、大抵、間違える」
彼の指先が、尖った葉の縁をなぞった。
「今夜かぎりで構いません。僕を助けていただけませんか」
リディアは、もう一度契約書を見た。
夜明けまで。
たった一晩だけなら、誰かの隣に立ってもよいのかもしれない。
「承知いたしました」
リディアはペンを取り、名前を書いた。
「夜明けまで、私は殿下の婚約者です」
*
第二王子が婚約者を伴って大広間へ戻ると、楽団の演奏が止まった。
ユリアンは、リディアの手を取って広間の中央へ進んだ。
「皆に紹介します。リディア・ファルネーゼ伯爵令嬢。僕の婚約者です」
どよめきが起きた。
ローレンツ公爵の顔から、笑みが消えた。
その隣にいた公爵令嬢は、扇の陰からリディアを睨んでいる。
「おめでとうございます、殿下」
最初に声を上げたのは、リディアの叔父、ゲオルグだった。
彼は満面の笑みを浮かべながら近づいてきた。
「まさか、姪が殿下のお心を射止めていたとは。保護者である私にも、何も申しておりませんでしたので」
「今夜、決めたことです」
ユリアンが答えた。
「それはまた、ずいぶんと急なお話ですな」
「恋とは、そういうものなのでしょう」
あまりにも平然と言うので、リディアは一瞬、本当に彼に求婚されたような錯覚を覚えた。
叔父は探るように二人を見比べた。
「リディア。殿下にご迷惑をおかけしてはいけないよ」
「ご心配なく、叔父様」
「お前は昔から、少々、言葉が強すぎるところがある。誤解を受けないようにな」
優しい忠告のようでいて、その声は周囲の者にも聞こえるよう、わずかに大きかった。
ほら、やはり棘のある娘なのだ。
そう思わせるための言葉だった。
「彼女の言葉は、僕には十分、優しいですよ」
ユリアンが言った。
叔父の表情が固まる。
「それに、婚約者についての忠告は、本人ではなく僕へお願いします。彼女を選んだのは僕ですから」
「……失礼いたしました」
叔父が去ったあと、リディアは小声で言った。
「お上手ですこと」
「何がですか」
「恋に浮かれた婚約者の演技です」
「演技に見えましたか」
ユリアンは涼しい顔で尋ねた。
リディアが返事に困っていると、楽団が再び演奏を始めた。
「踊っていただけますか」
「契約に、ダンスは含まれておりません」
「婚約者が一度も踊らなければ、怪しまれます」
「仕方ありませんね」
リディアは彼の手を取った。
ユリアンの手は、王子のものとは思えないほど硬かった。
土を掘り、鉢を運び、枝を剪定してきた者の手だった。
「殿下は、本当にご自分で植物を育てていらっしゃるのですね」
「王子が土に触れるのは、おかしいですか」
「いいえ。意外だっただけです」
「あなたの手も、令嬢のものにしては傷が多い」
リディアは反射的に、指先を隠そうとした。
ファルネーゼ邸の温室は、母が亡くなって以来、リディアが一人で管理していた。
使用人を雇う余裕がなくなってからは、土の入れ替えも、鉢の運搬も、自分でするようになった。
「月下美人を育てているのです」
「やはり」
「ご存じだったのですか」
「あなたの母上が、王妃陛下へ株を分けたと聞きました。今夜咲く花は、あなたの家から来たものです」
それはリディアも知らなかった。
母が亡くなったのは、彼女が十歳のときだった。
母は、月下美人を愛していた。
花が咲く夜には、幼いリディアを起こし、二人で朝まで花を眺めた。
「母は、月下美人の花言葉を教えてくれました」
「儚い恋、ですか」
「ええ。一夜でしぼむから、恋も長くは続かないのだと」
「ずいぶんと寂しい花言葉ですね」
「美しいものは、長く続かないのでしょう」
曲が終わった。
ユリアンはリディアの手を離さず、言った。
「僕は、そうは思いません」
そのとき、温室へ続く扉の前に、王宮の侍従が現れた。
胸元へ手を当てる。
ユリアンと決めていた合図だった。
証拠が見つかったのだ。
「行きましょう」
二人は人目を避け、温室へ向かった。
*
王宮の大温室では、無数の月下美人が咲き始めていた。
白い花弁が一枚ずつほどけ、甘く濃い香りが夜気へ溶けている。
リディアは足を止めた。
「きれい……」
母と見た花が、目の前いっぱいに咲いていた。
ユリアンは花ではなく、リディアを見ていた。
「殿下?」
「いえ。何でもありません」
侍従が、温室の奥から木箱を運んできた。
箱の中には、王宮の紋章が入った薬瓶が並んでいる。
「ローレンツ公爵家の馬車から発見いたしました」
「中身は?」
「王宮の薬草園でしか栽培されていない鎮痛薬です。国外では、同じ重さの金より高値で取引されるものかと」
これで、公爵の横流しは証明できる。
しかし、リディアは箱の隅に刻まれた印を見て、息を呑んだ。
「これは……」
ファルネーゼ家の紋章だった。
「どうして、我が家の印が」
「薬草を盗んだ罪を、ファルネーゼ家へ着せるつもりだったのでしょう」
ユリアンが答えた。
そのとき、背後で扉が閉まった。
「そこまで調べていたとは、さすがですな」
現れたのは、ローレンツ公爵ではなかった。
ゲオルグだった。
リディアの叔父は、いつもの柔和な笑みを消していた。
「叔父様……」
「公爵と手を組んでいたのですね」
ユリアンがリディアを背後へかばう。
「手を組んだ、とは人聞きが悪い。私はただ、衰退するファルネーゼ家を救おうとしただけです」
「家の収入を横領して、借金を作ることが?」
リディアは震える声で尋ねた。
「お前の父は、温室と花ばかりに金を使った。あのままでは、いずれ家は潰れていた」
「だから、領地の収入を公爵へ流したのですか」
「いずれ、お前を公爵家へ嫁がせるつもりだった。そうすれば、すべて丸く収まったのだ」
「私の悪評を広めたのも、叔父様ですね」
求婚者たちの罪が明るみに出るたび、なぜかリディアが彼らを陥れたという噂が流れた。
修道院へ入った令嬢を助けたときも、リディアが婚約を壊したと囁かれた。
「お前は昔から、余計なことばかりする。黙って美しく微笑んでいればよかったものを」
ゲオルグが、月下美人の鉢へ手を伸ばした。
「この花に似ているよ。美しいが、棘がある」
その手が、葉の陰で何かを握った。
月明かりを受け、細い針が光った。
「殿下!」
リディアは、ユリアンの前へ飛び出した。
ゲオルグの手が振り下ろされる。
針が、リディアの手袋をかすめた。
その隙をついて、ユリアンが叔父の腕をつかみ、侍従たちが一斉に取り押さえる。
「リディア!」
ユリアンが彼女の手を取った。
手袋の表面が切れていたが、皮膚までは届いていない。
「大丈夫です。刺さってはいません」
床へ落ちた針には、透明な液体が塗られていた。
侍従がゲオルグを連れていく。
温室に残されたのは、二人と、咲き誇る月下美人だけだった。
「なぜ、前へ出たのです」
ユリアンの声は、怒っているように震えていた。
「殿下をお守りするのも、婚約者の役目かと思いまして」
「契約には入れていません」
「では、追加の報酬をいただかなくてはなりませんね」
「冗談を言っている場合ではありません」
ユリアンは破れた手袋を外し、何度も彼女の指先を確かめた。
触れ方は、壊れやすい花を扱うときのように優しかった。
リディアの胸が、妙に苦しくなった。
「本当に、傷はありません」
「……よかった」
彼は、心から安堵したようだった。
その横で、月下美人の茎が揺れた。
「やはり、棘があるのですね」
「ありませんよ」
ユリアンが言った。
彼は、月下美人の平たい部分を指先でなぞった。
「そもそも、これは葉ではありません。葉のように見える茎です。縁が尖っているから、棘があるように見えるだけで、本当の棘はない」
「……葉ではないのですか」
「はい」
リディアは、ずっと葉だと思っていた緑の茎を見つめた。
葉に見えるものは、葉ではない。
棘に見えるものも、棘ではない。
人々が真実だと思っていたものは、初めから何一つ、真実ではなかった。
「あなたも同じです」
ユリアンが言った。
「私が、月下美人と?」
「人々は、あなたの言葉を棘だと言う。けれど、あなたは誰かを傷つけるために言葉を使ったことなど、一度もない」
「私に近づいた人は、皆、不幸になりました」
「違います。罪を犯した者が裁かれ、苦しんでいた者が逃げることができた。それを不幸と呼ぶのは、真実を知らない者だけです」
リディアの唇が震えた。
誰かに信じてもらいたいと思ったことは、とうに諦めていた。
誤解されてもよかった。
嫌われてもよかった。
誰かが救われるのなら、それでよいと思っていた。
けれど、本当は一度くらい、言ってほしかったのかもしれない。
あなたは間違っていない、と。
「月下美人に棘はありません」
ユリアンは静かに繰り返した。
「あなたにも、棘などない」
温室の窓の向こうが、わずかに白み始めていた。
夜明けが近い。
同時に、二人の婚約が終わる時刻も近づいていた。
*
ローレンツ公爵とゲオルグは捕らえられた。
ファルネーゼ家の財産は返還され、リディアに向けられていた噂についても、王家が正式に否定することになった。
一夜の舞踏会が終わるころ、月下美人は少しずつ花弁を閉じ始めていた。
リディアとユリアンは、最初に契約を交わした小さな温室へ戻った。
机の上には、婚約契約書が置かれている。
窓から差し込む朝日が、「夜明けとともに婚約を解消する」という文字を照らしていた。
「夜が明けました」
リディアは、左手にはめられた指輪へ触れた。
「そうですね」
「契約どおり、指輪をお返しいたします」
指輪を外そうとしたとき、ユリアンが彼女の手をつかんだ。
「待ってください」
「殿下?」
「その契約は、確かに夜明けまでです」
「ええ」
「ですが、契約が終わったあとに、新しく申し込むことまでは禁じていない」
リディアは、彼の言葉の意味を理解できなかった。
ユリアンは懐から、もう一枚の書類を取り出した。
今度は、王家の印も、報酬の記載もない。
ただ、二人の名前を書く場所だけがある。
「リディア・ファルネーゼ伯爵令嬢」
ユリアンは、彼女の前へ跪いた。
「今度は一夜かぎりではなく、僕の婚約者になっていただけませんか」
「……なぜ」
「あなたをお慕いしているからです」
「ですが、昨日まで、まともに話したことも」
「話したことがないだけです。僕は以前から、あなたを知っていました」
横領を告発した令嬢。
傷ついた女性を逃がした令嬢。
悪評を受けても、一度も言い訳をしなかった令嬢。
そして、亡き母の温室を一人で守り続けている令嬢。
「どうして、今まで何もおっしゃらなかったのです」
「あなたに近づく理由が、見つからなかったのです」
「王子殿下なのに?」
「植物以外のことは、苦手なもので」
あまりにも真面目な顔で言うので、リディアはとうとう笑った。
ユリアンも、つられるように笑う。
「月下美人の花言葉は、儚い恋です」
リディアは言った。
「一夜でしぼんでしまうから」
「しぼむのは、花だけです」
ユリアンは、窓辺の鉢を見た。
「茎も、根も、生き続けます。季節が巡れば、また花を咲かせる」
「それでも、花が咲いている時間は短いでしょう」
「だからこそ、また咲く夜を待てばよいのです」
彼は、リディアの手を取った。
「来年も、その次の年も、あなたと一緒に見たい」
朝日が昇る。
白い花は静かに閉じていく。
一夜かぎりの婚約は、確かに終わった。
けれど、リディアは指輪を外さなかった。
「契約書は必要でしょうか」
彼女が尋ねると、ユリアンは首を横に振った。
「今度は、契約ではありません」
「では、私が途中で気持ちを変えるかもしれませんよ」
「そのときは、もう一度、好きになっていただけるよう努力します」
「何度でも?」
「何度でも」
リディアは、差し出された書類へ名前を書いた。
月下美人の花は、朝になればしぼんでしまう。
けれど、花が終わることと、すべてが終わることは同じではない。
葉に見えるものが葉ではなく、棘に見えるものが棘ではないように。
儚いと思われていた恋もまた、一夜で終わるとは限らないのだ。
ユリアンの隣で、リディアは左手の指輪を朝日にかざした。
月下美人に棘はない。
彼女たちの恋もまた、朝になっても終わらなかった。




