第2話 フリフリがついている真っ白な布
「俺、やっぱここに住みます…」
先輩を見た瞬間、それまで自分が言った言葉の意味など考えず、口をついて出てしまった。
「ちょっと平くん。僕を見たときと全然反応違うじゃん!もしかして、翠ちゃんに一目惚れしちゃった?」
「ち、ちがいますよ!よく考えたらここ以外に住む場所ないし、なんか楽しそうだなと思って!」
俺が苦しい言い訳をしている間に、先輩は自分の部屋へ向かって歩いて行ってしまった。
「翠ちゃん!今日は翠ちゃんの好きなオムライスだから、楽しみにしててね。」
「うん」
返事をしたと同時に、先輩は少し微笑んだように見えた。
その姿に、凝りもせず、また見とれてしまった。
「じゃあ、私ご飯の支度するから、ちょっと家に戻るわね。」
洋子さんの家はアパートのすぐ隣にある。
アパートの住人は、洋子さんの家に集まってご飯を食べるのが通例になっているとか。
西日が目に入って我を取り戻した俺は、さっきから出てきている「翠」という言葉が気になった。
「そういえば、先輩って翠っていう名前なんですか?」
瀬戸さんが不思議そうにこちらを見つめて言った。
「あれ、平くん、翠ちゃんのこと知ってるの?」
「いや、学校でたまたま見かけて…」
「そうなんだ、顔見知りなら話が早いね。彼女は元宮翠ちゃん。平くんと同じ黒岩高校の2年生だよ」
元宮翠…なんて綺麗な名前なんだ。
外見も綺麗で名前も綺麗とか完璧すぎる!
しかも同じアパートなんて奇跡だ…!
せめて声をかけて名前を覚えてもらお──
「ああ、平くん。二階は女子エリアだから男子禁制だよ」
「えっ」
瀬戸さんにそう言われたときには、先輩はもう階段を上がって二階まで行っていた。
「二階に上がると、洋子さんに厳重注意くらうから気を付けてね。まあ、その前に女の子たちから直々《じきじき》にボコボコにされるだろうけど」
たしかに、2階へ上がる階段から廊下にかけて、金属バットや刺股などの武器が置いてある。
「ここは1階が男子の部屋で、2階が女子の部屋。翠ちゃんと話したいなら、洋子さんの家に集まるときが狙い目かな~」
「洋子さんの家にはどんなタイミングで集まるんですか!?」
俺は、ついさっきまでここを出ていくと言っていた人間とは思えないような勢いで瀬戸さんに聞いていた。
「まあ、基本はご飯食べるときかな~。洋子さんはいつでも来ていいって言ってるから、各々《おのおの》ふらっと行くこともあるけど」
先輩の生活リズムがわからない今は、とりあえずご飯どきが会えるチャンスか…
「平くんって、本当に翠ちゃんに一目惚れしてるんだね…」
「…え!?な、なんですかいきなり…」
「僕にとってはいきなりじゃないんだけどな~。恋愛に疎い僕でも分かるんだから、相当あふれ出てると思うよ。まあ、翠ちゃんは気付かないだろうけど」
他人に自分の好意を知られるのは恥ずかしかったが、このときはもう、それでも先輩と友達になりたいという想いのほうが強かった。
「年下の男の子が入ってくるの久しぶりだからな~。よし、ここは僕が一肌脱いであげよう!」
瀬戸さん…!やっぱり大人の男は余裕があってかっこいいな!頼りになる男だ!ありがとう!俺もこんな大人の男に──
ヌギヌギヌギヌギ…
「何してるんですか。ってか、無駄に体鍛えてるのムカつきますね」
「へへ~、いいでしょ~触ってみる?ホレホレ」
「いいですよ!早く服着てください!」
「ちょっと!君たち裸で何してるの!」
ヤバい!警察だ!
「…ってあれ、あっくんじゃない。また君か~。もう上半身裸になってるくらいじゃ驚かないな~」
この人普段からどんなことしてるんだ…
「あ、そういえばあっくんさあ、今日スケボーにぐるぐる巻きにされて道路走ってた?」
「はい、改めて幸せを感じたくて。よかったらお巡りさんもどうです?意外とたのし──」
「うん、それね、普通に道路交通法違反だから。ちょっと署まで来てね」
「あ、ちょっと、これからご飯が…」
何やってんだこの大人は…
この瞬間から微塵も敬意を払う気がなくなり、俺もあっくんと呼ぶことにした。
さて、じゃあご飯の前に自分の部屋に行ってみるか。
俺の部屋は102号室。
部屋は6畳ワンルームだけど、一人暮らしができるだけありがたい。
家具はすでに設置されており、新たに置くのは勉強机くらいなので、生活はできそうだ。
お、ベランダもついてるのか。
今日はいろいろあったし、少し黄昏てみるか。
柵に身を預け、上を見てみる。
そういえば、先輩は二階のどの部屋に住んでいるんだろう。
もし、真上に住んでいたら、ベランダ越しに会話できたりするのかな。
2人の秘密の空間って感じで、なんかいいな…
そんな希望を抱いた瞬間、ベランダに出てきた先輩と目が合った。
先輩が手を伸ばした先には、フリフリがついている真っ白な布があった。
俺は先輩に会えたうれしさや、良からぬものを見てしまったのではないかという焦りなど、いろいろな気持ちが混ざり合って固まってしまった。
あんなに大きくて綺麗な先輩の目が、このときは横長に切れるように細く、冷ややかな視線が俺に注がれていた。
どうしてこうもうまくいかないんだ…
俺の平穏な日常はまだまだ遠そうです。