とある悪女の離婚劇
それはもうじき年も明ける頃のこと。子爵邸の扉を叩く音が、夜遅くに響き渡った。
こんな夜遅くに誰だろうか?若干の警戒を持って、私と夫のクラウスは正面玄関へと向かった。
「どちら様ですか?」
「ベルナデットと申します。夜分遅くに失礼いたします」
「ベル!?久しぶりじゃないか」
雪の中、突然現れたその女性のお腹は、少し大きかった。
「さあ、中へ入って。一体どうしたんだい?」
「……すみません、このたび子供を身籠ってしまったのですが、事情があって行く宛が無いのです。お願いします、この子が生まれるまでの間だけで構いません。春には必ず去りますので、しばらくここに留め置いて頂けませんでしょうか?」
唐突かつ一方的な要求に、私はただ困惑するばかりだった。一体何者だ、この女性は。
「クラウス様、この方とはどういったご関係なのですか?ベル、と呼ぶからにはかなり親しい間柄に思えますが……」
「あ、ああ。ベルは僕の幼馴染だ。最後に出会ったのは今年の春頃になる」
「……申し訳ありません。ご迷惑なのは承知しております。しかし今の私には身寄りもなく、頼れるのはクラウス様だけなのです」
幼馴染というからには、彼女も貴族令嬢であるはずだが……子供の父親に逃げられたのか?それは……確かに哀れとは思うが。
「クラウス様、どうかご冷静にお考えください。幼馴染の窮地を救いたいと思うかもしれませんが、私たちもそれほど裕福ではありません」
「ううむ……」
クラウス・クラウザー家は、近隣の農地を運営している子爵家だ。150年前の武勲で子爵に任ぜられたが、その後は周辺国と同盟を結んだことで功績を立てる機会を失い、今では少しずつ領地を切り売りしてやり繰りしているのが現状である。
運営収益も乏しく、そこまで贅沢が出来るほどの水準ではない。使用人達に掛かる人件費を考えれば、我が家で人一人を養うゆとりが十分にあるとは思えなかった。
「………」
……っ、何を迷っているのだ。こんなもの、拒否一択ではないか。
そもそもの話、冬の間ずっと知人の女性を囲おうだなんて、普通は考えない。もしも私が昔馴染みの男を春まで囲おうと言い出したら、どう思うだろうか?
「……よし、分かった。我が屋敷で保護しよう」
「え!?」
正気か!?
「よろしいのですか!?ありがとうございます、クラウス子爵!」
「クラウスでいいよ、ベル。昔馴染みじゃないか」
「ふふっ、嬉しい!ありがとう、クラウス!」
クラウス様は、私にも許していない呼び捨てを彼女に許可すると、使用人たちに命じて客間へ案内させた。保護を決断してからの行動に、迷いは見られなかった。
「クラウス様……!?」
「彼女と仲良くしてやってくれ、エリス」
信じられない……!
「……念のためお聞きしますが、お腹の子に覚えがあるなどということは、ございませんよね?」
「馬鹿なことを言うなッ!!」
「っ!?」
二の句は、継げなかった。これほどまでにクラウス様を怒らせたのは、この人と知り合ってからの15年間で、初めての事だった。
「……後の事は使用人に任せ、君も寝なさい」
そう言って、クラウス様は歩き去っていった。おそらく、ベルナデットさんの様子を見るために。
「お、奥様……大丈夫ですか……?」
一人残っていた、小さな使用人が震えていた。まだ幼い彼女には、男性の大声は刺激が強過ぎたことだろう。
「……怖い思いをさせてごめんなさい。私は大丈夫よ、何もやましい事はしてないんだから。クラウス様の妻として、堂々と過ごすだけだわ。今まで通りね」
「……はい」
「さあ、クラウス様の言う通りにしましょう。寝支度を頼むわね、カレン」
「はいっ」
この日は強がって見せたものの、翌朝からベルナデットさんは存在感を発揮し始めていた。
周囲の予想と異なり、彼女はクラウスに対し、必要以上の庇護を求めなかった。むしろ身重なまま働きに出ようとして、クラウスから止められていたほどだった。
「無茶だよ、ベル。こんな寒い季節で働きに出るなんて」
「体が軽い内に稼いでおきたいの。それに滞在に掛かるお金は、ちゃんと働いて返したいのよ。甘え通しでは、エリス様や使用人さん達にも申し訳ないわ」
「そんな心配はしなくていいんだ、ベル。どうか安心して暮らして欲しい。使用人のことも、もっと積極的に使ってくれ。妊婦の世話を見て見ぬふりをしたとあっては、彼女達も夢見が悪いだろうから」
「でも……」
クラウス様らしい優しさの表れだった。そういう優しさに、これまで好感を抱いてきたのも確かだった。きっといつか私が懐妊した時も、こんな風に優しく接してくれるのだろう。
……そう、いつかだ。私には、まだ向けられたことのない優しさだった。どちらが原因かは不明だが、結婚してからの三年間、私達の子供は未だに授かっていなかったから。
「クラウス様、ベルナデットさんの言う事にも一理あります。この家に置く以上、何もかも無償とあっては、却って本人も気を使ってしまいます」
「そうは言うけどエリス、妊婦の働き口など、早々すぐに見つかるものではないよ」
では、彼女は今までどうやって暮らしてきたのか?身重と気付かず、働いてきたからではなかったのか。妊婦を気遣う余り、基本的な所が抜け落ちている。
……仕方ない。出来れば、この方法は取りたくなかったのだが。
「仕事なら、ここにあります」
「何?……あ、使用人か!」
「ええ。住み込みの使用人という扱いであれば、金銭的な負担をお互いに減らせます。それに雇用主が我々なら、色々と融通も利かせやすくなります」
「流石だよエリス!ベルも、それでいいかい!?」
「エリス様……!ありがとうございます!実は最近、悪阻も酷くなってきていて、外で働けるか不安だったのです。これで、春まで安心して過ごせます……!」
安心したというのは、本当だったのだろう。彼女は深々と頭を下げると、ポロポロとたくさんの涙を流した。
正直、この提案は避けたかった。彼女の仕事量を減らさざるを得ない以上、他の使用人達に不公平感が生まれる恐れがあるし、心情的に彼女を客人扱いに徹することが難しくなる。
そしてその予感は、あろうことかこの直後に的中することになってしまった。
「な、泣かないでベル。もう大丈夫だよ。ここで働くなら春になった後も、ううん君と子供が落ち着くまで、ずっといてくれてもいいんだから」
「クラウス様!?私が提案したのはそういう意図ではありません!」
「ありがとう、エリス。今は僕に任せてくれ。さあ、僕に掴まれベルナデット。ベッドで少し休むと良い」
「ありがとう、クラウス……本当にありがとうございます、エリス様」
何故だ、どうしてこうなるのだ。やはり提案などせず、悪女に徹して追い出すべきだっただろうかと、思わずそう反芻してしまう程の信じられない状況だった。
ぐるぐると頭の中を先ほどのやりとりが駆け巡る中、使用人の一人が溜息をついた。
「奥様、ご提案の内容はともかく、もう少し柔らかな言い方をすべきかと。ベルナデット様は、旦那様の大事な客人であり、妊婦です。旦那様が、彼女から奥様を遠ざけているのは、その物言いが原因なのではありませんか?」
「……出過ぎた忠告をしないで頂戴。私は何も間違ったことは言ってないはずよ」
「はい。では、仕事に戻ります」
この日から少しずつ、私を囲う歯車が狂い始めた。
まず、クラウス様が私と過ごす時間が減っていった。減った時間と同じだけ、ベルナデットさんと過ごしているようだった。夜に床を共にすることも、彼女を囲ってからは無くなった。
使用人達の態度も、少しずつ変わっていた。
「ベルナデット様、どうぞ」
「まあ、ブランケット!ありがとう、少しお腹が冷えるなと思っていたの」
「お気になさらず、これも仕事ですから。どうぞ、お大事になさってください。」
「シンディさんは本当によく気が付いてくれるのね。こんな優秀な使用人が傍にいるなんて、クラウスも幸せ者だわ」
最初は夫婦の間に入ってきた異物という認識だったはずが、ベルナデットさんの態度は非常に腰が低く、使用人達の仕事ぶりを賞賛し続けるものだった。ほんの些細な、それこそ日課としている花への水やり一つで、大げさに褒めていた。
彼女は使用人の失敗を叱りつけたりもしなかった。私なら反省内容を聞き取って、再発防止策を考えさせるところなのだが、あくまで客人に過ぎない彼女には、その必要が無かったからだろう。名目上の使用人となった後も、それは同じだった。それが、使用人達からは非常に好ましく映ったのだろう。
一方で私の物言いが強く感じられたのも、使用人たちは気に入らないようだった。
「ベルナデットさん、床よりも窓を拭いてくださるかしら?」
「はい、エリス様!」
「奥様、ベルナデット様は大事な時期なのです。あまり酷使なさらない方がよろしいかと」
酷使という言葉に引っかかりを覚えたが、私にも考えはあるのだ。
「もう安定期に入ったと、彼女から聞いたのよ。床に這わせるのは私も怖いけど、窓拭きなら立ってでも出来るし、辛いならいつでも座って休めばいいじゃない。まったく体を動かさないのも、胎教によくないと聞くけど」
「知識だけで育児は出来ませんよ。ベルナデット様、もうお休みください。あとは我々がやりますので」
暗に、子を産んだことがない私への当て付けのように感じられた。いや、実際にそうなのだろう。そう確信させるほど、使用人たちの態度は加速度的に悪くなっていった。
エリス様のなんと冷たいことか。いっそ旦那様の幼馴染である、ベルナデット様が奥様だったら良かったのに……と。
それは日々の仕事ぶりにも、影響を与え始めた。
「あら?いつものカモミールティーはどうしたの?」
「申し訳ございません、奥様。昨晩に使い切ってしまいまして」
「え、昨日はまだ残ってたじゃない。あれを飲むのは私くらいなものだと思っていたけども……」
「はあー……ベルナデット様が、同じものを御所望されたのです。申し訳ございません、雪が降っておりますが、本日中に買い足しておきますので。では失礼します」
「え?ちょっ……!?」
この頃から、使用人達の方から一方的に会話を切られることが増えた。そして遂には、使用人の方から話し掛けられることのほうが稀になった。
一方で、ベルナデットさんに対する厚遇は増すばかりだった。客人として、そして仕事仲間として、常に使用人たちの事を気に掛け続け、身重なまま仕事を手伝おうとする彼女に対し、報いてあげようと思う人間は少なくなかった。
私の物言いが冷たいからなのか、それとも普段から彼女たちに直接指導をしていたのが、悪印象だったのか。いずれにせよ自業自得と言えば、その通りかもしれなかったが、身近な人間の心が離れていくのを感じるのは、やはり辛かった。
「奥様!カモミールティーでしたら、私がお淹れしますよ!」
でも一人だけ例外が居た。高齢で引退した使用人と、ちょうど入れ替わるようにして入った使用人の少女、カレンである。
まだ10歳かつ新人である彼女は、クラウス様の大声に怯えて以来、私の傍で仕事をすることが多かった。
「でも、茶葉はもう無いって言ってたわよ」
「へへっ、ベルナデット様用に確保されてたのを、こっそり持ってきちゃいました」
「ベルナデットさん用にですって?」
「駄目でしたか?」
まだ内面が幼過ぎるカレンは、人の悪意がよく分かっていない節がある。客人用に茶葉を確保していいなら、奥様用に確保しても良いだろうと、それくらいの認識なのだ。
「いいえ、駄目じゃないわ。ありがとう、カレン。ところでベルナデットさんの事で、最近気になる事とかあった?」
「そういえば、使用人達とパーティーを開きたいと言ってましたよ」
「パーティーを?」
そんな話は聞いたことがない。ベルナデットさんに金は無いはずだから、屋敷のお金を使うことになるのだろうけども……。
「クラウス様は御存知なのかしら」
「はい、旦那様も賛同されてました。早速予算を確保されるとかで、先輩達も喜ばれてました」
もはや目眩すら覚えた。彼女は住み込みの使用人とはいえ、実態はただの客人に過ぎない身だ。屋敷の運営費を使った行事を計画して良い立場ではない。
「確かに皆よく働いてくれてるし、ちょうど班分けして冬季連休を取ってもらおうと思っていたのだけども……」
「冬季連休ですか?」
「もちろん、御駄賃も込みでね」
「やったぁ!じゃあ私、奥様と市場に行ってお買い物したいです!」
「あらあら、それじゃいつもの仕事と変わらないじゃない」
使用人たちに連休を与えるのは、この国においてはあまり一般的ではない。休暇を与えるタイミングは雇い主次第だが、使用人がいないと生活が成り立たないので、通常は3,4日おきに一度、休暇を挟む程度だ。
「でもパーティーの規模によっては、連休は上げられても御駄賃が少なくなってしまうかもしれないわね」
「えー!?」
クラウス様にも連休計画の予算は伝えてあったはずだが、承知の上で賛同しているのだろうか?
「そうならないよう、クラウス様に進言しましょう。まだ間に合うかもしれないだろうから」
なんとなく嫌な予感を感じた私は、クラウス様を怖がるカレンに自室掃除を命じてから、彼の書室へ向かった。しかし結論から言えば、既に手遅れであった。二人は使用人の慰労会と称して、結婚式でも呼ばなかったような一流のシェフを一時雇用し、当日に使う料理や高級酒も大量注文していたのだ。
「一体この慰労会に、金貨何枚お使いになられるおつもりですか!?」
その見積もり額は、冬季連休で使用人達に渡す駄賃とほぼ同額だった。慰労会を開けば、彼女たちにお金を渡すことは出来なくなるだろう。
「エリス、君だって常々言っていたではないか。使用人達のために、僕達で出来ることをやろうと」
「その気持ちは今も変わりません!ですが!」
「もういい。ベルに先を越されたからといって、こうもヒステリックになるとは思わなかった。最近の君は変わったな」
「予算計画を提出したのは、私が先でしょうに!」
「どちらの計画を先に進めるかは、主人たる僕の裁量に任せられている。何も問題は無い」
話し合いをすることもなく、客人であるベルナデットさんの意見だけを取り入れ、妻である私の意見を軽視することが、主人の裁量ですって……!?ああ、もう話にならない!これ以上この人に余計なことを吹き込まないように、一度彼女に直接釘を差すしかないわ。
「ベルナデットさんは、今どちらに?」
「休憩中の使用人たちと、茶を飲んでいるが」
「彼女と話してきます」
「駄目だ、許可できない。最近の君は攻撃的で、彼女に何をするかわからない」
何をしでかすか分からないのは、今の二人の方ではないか。いや、既にしでかしているか。
「そこまで心配なさるなら、クラウス様も同席してください。私はただ、催しの意図を確認したいだけです」
「……まあ、それならば良いだろう。変な気は起こさないでくれよ」
言葉の一つ一つに引っかかるものを覚えながら、私はクラウス様の監視と共に、使用人の休憩室へ向かった。自然と足に力が入り、子爵夫人らしからぬ足音が立ってしまっていたが、今はそれさえも気にならなかった。
休憩室のドアをノックして開けると、そこではカモミールティーを片手に、使用人と談笑するベルナデットさんが居た。
「あ、エリス様!すみません、お茶を頂いておりました」
「座ってて構わないわ。いつもご苦労様ね」
ケラケラと笑いながら過ごす使用人たちだったが、私の顔を見た瞬間、笑顔が消えた。邪魔者がやってきたと言わんばかりの態度を隠そうともしない。
その様子を叱責しないクラウス様にも腹が立ったが、今は彼女と話し合うのが先だ。
「ベルナデットさん。使用人達のために、慰労会を企画したというのは、本当かしら」
「ひょっとして、お食事会のことでしょうか。もしかして、エリス様は反対ですか?」
「ええ、反対よ。内容はともかく、規模が大き過ぎるわ」
「規模が大きい……?あれでですか?」
我慢の限界は、ここまでだった。私達の結婚式に匹敵する料理を出すことが、大した規模ではないとでも言うつもりか。
「一体どういう金銭感覚をしているの?そもそも使用人ではあっても客人に過ぎない貴方に、屋敷の福利厚生を企画する権利も、権限も無いはずよ」
「え?そ、それは……えっと……」
涙目になったまま反論しない彼女を見て、使用人達の目に明らかな敵意が宿った。
「奥様。ベルナデット様は、私達を思って慰労会を企画してくださいました。この屋敷の主人である旦那様がそれを許されている以上、何も一切の問題は無いはずです。ベルナデット様を責めるような言い方は、おやめください。見るに堪えません」
「貴方こそ聞くに堪えないわ、シンディ・レーン。屋敷の福利厚生を考えるのは誰でも自由だけど、そのために客人が屋敷の資産を使っていい道理は無いでしょう。貴方達の給金が、どこの金庫から出ているのか、わかっているのかしら?」
「!?」
フルネームで呼ばれた使用人は、誰を蔑ろにしてきたのかに漸く気づいたのか、今更になって震え上がっていた。その他の使用人もまた同様だった。
「お、おいエリス。そんな言い方をしなくても良いだろう。彼女達が怯えているじゃないか」
「では、シンディの指導なり処置なりは、クラウス様にお任せするとして。今はベルナデットさんの考えを聞かせてもらいたいわ。私の意見は、間違っているかしら?」
「そんなことは……でも、私はただ、使用人さん達に楽しんでもらいたくて……!そんな、大規模なものにしようだなんて考えは……!?あぅっ、お腹がっ……!」
「ベル!?」
大きくなったお腹を露骨に守ろうとする彼女を見ても、私は同情することが出来なかった。
「エリス!これ以上はやめろ!慰労会の発案は彼女だが、開くと決めたのは僕だ!僕がそうしたいと決めたからだ!責めるなら僕を責めるがいい!!」
「そうですか。ではお辛そうな彼女の代わりに、次の質問はクラウス様がお答えになってください」
「な、なに……!?」
「彼女を抱いた記憶があるのか否か」
「エリス、お前何を言って!?」
頬を赤く染める使用人とクラウス様だったが、私の目はそれ以上に赤く燃え上がっていたかもしれない。
「クラウス様の彼女に対する同情は、度を越しています。私の方でも色々と調べましたが、私と婚約関係になる前は、彼女と過ごす事が多かったそうですね」
「下衆の勘繰りだ!!これは深刻な侮辱だぞ!?すぐに撤回しろ!!」
「では彼女を過剰なまでに護り、私から遠ざけようとしている理由を、論理的にご説明ください。私の目からは、クラウス様が彼女に対して特別な感情を抱いているようにしか見えないのですよ」
「なっ……!くぅ……」
いつもと違って怒鳴っても退かない私に対して、クラウス様は戸惑っているようで、反論しようにも口をモゴモゴさせるばかりだ。そんな煮え切らない様子にも、腹が立った。
「抱いた覚えが無いなら結構です。金輪際お金に関する相談は一切させないと誓わせ、彼女をここから出す期日を、出産予定日から逆算して具体的にお決めください。覚えがあるなら、彼女と人生を共にする覚悟をお示しください」
「……私から話します。今年の、春頃です」
そのか細い声はお腹の痛み以上に、罪悪感によって押し潰されそうになっているように思えた。
「ベル!?」
「3年ほど前になりますが、私には交際している男性がいました。親の反対を押し切って始めた交際でしたが、その男性は生活力が乏しく、最後も酷い別れ方をして……家族も家も、お金も失ったところに、クラウスと再会しました」
貴族令嬢にしては妙に腰が低いように感じられたのは、平民のような暮らしが長かったからだろうか。
「クラウス様のことだから、貴方のことを手厚く支援されたでしょうね」
「はい……彼は生活を立て直すためのお金と、宿を貸してくれました。私はその日から必死になって働き、少しずつお金を返してきました。そして今年の年明け頃に完済し、宿代を自分で払えるようになったのです」
ずいぶん簡単に言っているが、貴族生まれ貴族育ちのご令嬢が、平民に交じって仕事をし、お金を稼ぐというのは並大抵の努力ではない。生真面目な性格の方は、生来のものなのだろう。
「その後、ささやかなお祝いの席でお酒を飲み過ぎた私は、彼の手で宿へ運ばれて……。これで最後だと思うと寂しくなり、つい彼の温もりを求めてしまったのです。……クラウスは、私の初恋でした。小さい頃からずっと、好きだったんです……!駄目だと分かっていたのに、止められませんでした……!」
クラウス様から、彼女を支援していたという話は聞いていない。普段の生活にも違和感は無かったから、あくまで彼のお金と時間が許す範囲で行っていたのだろう。黙って支援していただけであるなら、私も苦言を呈するだけで済んだというのに。
「ごめんなさい……!お酒に酔っていたとはいえ、私は許されないことをしました……!まして、妊娠するなんて……!」
「その一度きりなのね?」
「……はい。そういう約束でした」
「よくも妻がいる家に、助けを求めることが出来たわね」
「…………返す言葉も、ありません。妊娠が発覚してからは、体を使った仕事をさせてもらうことも出来なくなって、宿代も払えず。……本当に、ここが駄目なら、もう生きていけなかったんです……」
……はあ。人生とは、一つボタンを掛け違えるだけで、ここまで苛酷に至るものなのか。
「わかったわ。正直に話してくれてありがとう、ベルナデットさん。……間違いありませんか、クラウス様」
「ぐっ……すまない。……言い出せなかった」
ベルナデットさんのことは哀れに思う。クラウス様の優しさも否定はすまい。
「……まあ、彼女への支援が善意からだったという点は信じましょう。その点はもう問いませんし、今後の処置についても、クラウス様にすべて一任します。しかしこれは、立派な不貞行為です。すぐに離婚の準備を進めさせて頂きます」
だがそれはそれ、これはこれである。もうこの人と人生を共にする選択肢は、私の中からは消えていた。
「離婚だと!?」
「本来ならばお二人有責での調停離婚にすべきところですが、それだとお互いに時間もお金も浪費してしまいます。よって書面による合意離婚としましょう」
「ま、待ってくれ!本気なのか!?」
「ええ、本気です。別に困らないのではありませんか?私と離婚後、ベルナデットさんと再婚なさればよろしいのです。使用人達も、私よりベルナデットさんが子爵夫人となった方が、都合がよろしいでしょうから」
使用人たちは、一様に顔を伏せたままだった。しかしそれは、私への罪悪感というより、すべて見透かされていたことに対するばつの悪さから来るものに見えた。そう信じたくなるほど、私も使用人に対する不信感が高まっていた。
「君は……それでいいのか……?」
「それを私に聞きますか?裏切ったのは、貴方の方でしょうに」
「……本当にすまない」
「では、失礼いたします」
「待ってくれ、どこへ行くんだ」
「とても疲れましたので、しばらく休ませて頂きます。ああ、それと……妊娠中のカモミールティーは、子宮に悪いからお勧めしませんよ。知識だけから来る忠告ですが」
未だに敵意を隠そうともしない誰かさんへ、たっぷりと嫌味を返した私は、そのまま振り返らずに部屋を出た。
「エリスさん!……いいの、クラウス?」
「……ベルナデット。エリスが許してくれると言うなら、僕もその通りにしたいと思う」
「それって……!」
「僕は彼女と離婚する。そして君と――」
ドアから漏れ聞こえたのは、そこまでだった。僅かに拍手らしきものも聞こえた気がするが、それは流石に聞き違いだったと思いたい。
私は自室へ入って早々に、荷物をまとめた。取り急ぎ、ここを出ていくだけなら手で持てる分だけで十分だ。
「奥様、どちらへ?」
「カレン、私は実家へ帰ろうと思うの」
「そんな……いつこちらへ戻られますか?」
「戻らないわ。ここは不快すぎるし、もうすぐ私の家ではなくなるから」
「じゃあ、カレンも連れてってください!拾ってくださったご恩を、まだお返しできてません!」
「駄目よ、実家に貴方を雇う余裕は無いかも知れないわ」
「なら無給で構いません!お金は別の仕事で稼ぎますから!私の居場所はここではなく、奥様の傍なのです!」
……カレンはかつて、路地裏で死にかけていた孤児だった。クラウスには無理を言って、雇用という形で拾った訳だが、確かにここに残っても辛いだけかも知れない。他の使用人達も、私を慕っていたカレンの事は疎ましく思うだろうから。
「……仕方のない子ね。そこまで言うなら、貴方を必ず傍に置くと誓うわ。ついてきなさい」
「はい!」
私はカレンに退職届の書き方を教え、クラウス宛の置手紙と共に自室の机の上に置くと、すぐに出立した。
後で聞いた話だが、屋敷の人間が私の失踪に気付いたのは、翌日の夕方だったそうだ。給仕をしていた使用人が、私が自室に引き篭っているものだと決めつけ、不在を確認しなかったかららしい。
そんなことであの屋敷がちょっとした騒ぎになっているとも知らず、私は実家の前に寄るべき所へ向かった。義両親、つまりクラウス様の両親へ、離婚を報告する必要があったからだ。これも当然と言えば当然だが、クラウス様の幼馴染であるベルナデットさんの事を、義両親は覚えていた。
「あのベルナデット嬢が……それは誠か、エリス殿」
「彼女はそう告白しております。クラウス様も身に覚えがある様子でした」
「なんてこと……!?うちの息子が、ごめんなさいね」
「いえ。それより、こうなっては離婚は避けられないでしょう。しかし夫有責の調停離婚ではなく、書面での合意離婚としたいのです。その為には両家の合意とサインが必要なので、お二人にも是非ご協力頂きたいのですが」
「そう、か。……お腹の子は、男の子か?」
……彼女が跡継ぎを産むかどうか、さっそく気になるわけね。
「分かりません。しかし女児にしては、よくお腹を蹴っていたように思います」
義両親の決断は早かった。
「分かった、二人の離婚を受け入れよう。慰謝料は我々が一時負担するから、後日金額を提示してくれ」
「後のことは任せて頂戴ね」
「感謝いたします、お義父様、お義母様。それでは、お元気で」
私は義両親の屋敷から出ると、深い溜息を付いた。最後まで良心的な義両親に見えたが、内心ではほくそ笑んでいたかもしれない。義両親からすれば、いつまでも跡継ぎを産めなかった私より、健康な母体を持つ幼馴染の方が、まだマシだろう。
……ううん、そんな風に考えちゃいけない。クラウス様への怒りと憎悪で、良くない方向に気持ちが向かっている。
クラウス様と異なり、義両親は私を裏切っていないのだ。どんな形であれ、最後まで私に協力してくれる方々を悪く考えては、罰が当たってしまう。それにクラウス様の子供を為せなかった責任の半分は、妻である私にもあっただろうから。
「奥様~……」
「もうすぐ、奥様ではなくなるわね。今のうちに、私のことをエリスと呼ぶことに慣れておきなさい」
「はい、エリス様」
実家にたどり着いたのは、そこから乗合馬車を乗り継ぎながらの数時間後だった。日もすっかり落ちて、夕食の時間もとっくに過ぎた頃に、実家のドアをノックした。夜遅い時間だったにも関わらず、両親は私を迎えてくれた。
「うそ、エリスなの!?」
「ど、どうしたのだ、連絡も無しに」
「ただいま、お父様、お母様。クラウス様に浮気をされて、屋敷を飛び出してきてしまいました。間もなく離婚するので、またここで暮らしてもいいですか?」
「ああ……可哀想なエリス。ええ、ええ、もちろんよ。おかえりなさい、エリス」
「さあ、とにかく上がりなさい。ところで、隣の子供は?」
「カレンと申します!奥さ……エリス様の使用人を続けたくて、お屋敷から付いてきました!ここで働かせてもらえませんか?」
「お父様、今の私にとって心許せる友人は、この子だけなのです。どうか……」
「そんな心配そうにするな。娘の友人と言うなら、私にとっても娘のようなものじゃないか。それより二人ともお腹が空いているだろう。さあ、お入り」
両親の愛に触れた私は、静かに涙を流した。本来ならクラウス様と共に、両親のような関係を築きたかった。
私が居て、クラウス様が居て、遂に見られなかった子供に囲まれての、慎ましい生活。
それだけで十分だったというのに。
クラウスからの連絡は、一週間を経過しても尚、一つとしてなかった。
だが変化はあった。使用人の一人が、くたびれた様子で私の元へと訪れたのだ。
「奥様のおっしゃる通りでした」
「何の話?」
「つい先日の慰労会で、私はびっくりして固まってしまいました。御二人の結婚式でも見なかったような豪華な食事と、香りだけで上等と分かる酒の数々。その企画者が客人のベルナデット様という、異様な光景……当日になってようやく、奥様の仰っていたことが正しかったと理解できたのです」
「そう。良かったわね、良い思い出を作れて」
「……これからは、定期的に開くそうです」
「あら羨ましい」
「申し訳ございませんでした!」
……今になって、頭を床にこすりつけられてもね。
「ベルナデット様は結婚前だというのに、もう旦那様の妻であるかのように振る舞っています!旦那様もそれに気を良くして、ベルナデット様を寵愛されていますが、あのような浪費が長く続くはずがありません!お願いします、お屋敷にお戻りください!奥様の忠告であれば、お二人も聞き入れてくださるはずです!」
「貴方もご存知でしょうけど、私は離婚に向けて動いているの。義両親と両親も協力してくれているわ。だからもう、あの屋敷に私が関わることは無いの」
「そんな……!でも、でもまだ正式に離婚された訳ではありませんし……!」
……舌を引き抜いてやろうかしら。見苦しいにも程があるわ。
「無理なものは無理よ。用はそれだけかしら?カレン、お客様がお帰りになるから、お見送りして」
「はい」
「で、でしたらせめて、私もここで働かせてくれませんか!?もうあそこでは働きたくありません!あのお屋敷は異常なのです!」
「貴方を雇うですって……?」
「は、はい!私の仕事ぶりは、奥様が一番よくご存じのはず!そ、そこのカレンだって、私からの方が教わりやすいでしょう!!」
「ひっ……」
カレンの小さな悲鳴は、引き攣った作り笑顔を見せるシンディによるものか、それとも私の怒気を感じ取ったからか。だが以前なら憤慨して大声を張り上げた所だろうが、今となっては嘲笑すら浮かばなかった。
「働きたくないんじゃなくて、働けなくなりそうだから、都合よく転職しようとしてるだけじゃない。自分をよく見せようとして前の職場を腐すのは、人としてどうかと思うわよ」
「ッ!!?」
「それといい加減に学びなさい、シンディ・レーン。貴方の軽過ぎる口と舌は、いずれ貴方自身の身を滅ぼすわ。これが私にできる最後の苦言よ。さあ、帰りなさい。可愛いカレンじゃなく、剣を抜いた衛兵に見送られたくなかったらね」
失意のままトボトボと帰るシンディの背は、彼女よりも半分以上幼いはずのカレンよりも小さく、弱々しかった。
「なんだか可哀想」
「カレンは優しいわね」
「そうですか?」
「ええ。でも、優しいだけじゃ人は動かないわ。将来、貴方も人を動かす立場になるはずよ。私を見て、良い所も悪い所も、少しずつ学びなさい」
「大丈夫です、私はエリス様に動かされていれば満足ですから」
「ふふ……まあ、今はそれでいいわ。さあ、お茶の時間にしましょうか。もちろん付き合ってくれるわよね、カレン」
「はい!」
シンディは知らなかっただろうが、今日にも両家の屋敷に離婚決定の通知書が届く予定だった。とんだ無駄足だったと地団駄を踏むか、それとも何もかも手遅れだったと失望するか、果たしてどちらだろうか。
シンディを除く使用人達は、その後もパラパラと私の元へ訪ねては、帰ってくることを要求してきた。いずれも屋敷の財政を心配しているようで、実際は保身のためというのが見え見えだった。
私とクラウス様が離婚した事を知った後も、その訪問は続いた。結局のところ彼らが最後に頼れる相手と言えば、彼ら自身が蔑ろにしてきた私だけだったのだろう。なんとも皮肉な話である。
だがその相談内容は、急激に深刻化していった。
お給金が減り、支給日に支払われなかった。慰労会が無くなり、使用人向けのお茶やお菓子が買えなくなった。そして、クラウス様から余裕が無くなり、小さなことで叱責されることが増えた。ベルナデット様は、未だに優しい方だけども。
私も最初は丁寧に応対していたが、愚痴ばかり聞かされたことで気が滅入り、二ヶ月目からは塩を撒いて帰らせた。三ヶ月目からはそれすら億劫になり、カレンに塩の入ったボウルを持たせた。時々、父と母も塩まきに参加していた。
そうしてさらに数か月が経過した頃。今更になって、あの人がやってきた。
両親は激怒し、父に至ってはその場で剣を抜いた程だった。しかし私はそれを宥め、客間へと彼を通した。そういえば、ベルナデットさんはどうしたのだろう?
「済まなかった、エリス。僕が間違っていた」
開口一番に謝罪の言葉を述べたクラウスは、深々と頭を下げた。
「何に対しての謝罪ですか?」
「ベルナデットとのことだ。もっと君の声に耳を傾けるべきだった」
「抽象的な謝罪をするために来ただけなら、早く帰ってくれませんか」
「嘘だったんだ!」
「……はい?」
「生まれた子供は、白髪の女の子だったんだ……!」
……なるほど。二人とも髪は金髪だし、クラウスの子ではないのだろう。
「たぶん、あれは付き合っていたという男の子供だ……!ベルナデットのやつ、俺から金を受けている頃も、まだあの男と繋がっていたんだ!!」
「それで?」
「へ……?」
「それで、生まれた子供の姿が思っていたものと違ったから、なんだと言うのです?私にも、生まれた赤ん坊にとっても、関係無いではありませんか」
「いや、だから……」
「血の繋がりがどうあれ、妻が子供を産んだ以上、貴方は父親になったのですよ。もっとしっかりなさって、ベルナデットさんをお支えしないと――」
「た、頼む!もどってきてくれ、エリス!」
エリスの手を両手で握るクラウスには、些かの余裕も感じられなかった。
「ベルナデットの為を思ってここまで頑張ってきたが、ここ数か月の出費で、もう金が無いんだ!使用人も次々退職して、屋敷の中はボロボロ!最近じゃ食事も自分たちで用意しなきゃいけない始末だ!」
訪問してきた使用人達から聞いてた話ばかりだが、それを教える義理も無い。
「手を放してください。衛兵を呼びますよ」
以前はこの温もりに安らぎを感じていたが、今は身の毛がよだつほどの不快感を生じさせた。
「聞いてくれ!このままでは来月の生活もどうなるかわからないんだ!頼むエリス、戻ってきて、一緒に屋敷を立て直してくれないか!このままじゃ僕達の屋敷を売るしかなくなる!」
「売ればいいじゃないですか」
当たり前の事を言っただけなのに、クラウスの顔は真っ青になった。
「お金が無いなら借りる。借りられないなら持ち物を売る。そうならないようにお金を管理する。極々普通のことで、誰でもやっていることです。お屋敷を売るしかない段階で相談されても、私にはどうしようもありません」
「君の家でもあったんだぞ!?僕との思い出だって――」
「他人の家がどうなろうと関係ありません」
いつまでも離さない両手を、強引に振り払った。僅かでも体温を共有したかと思うと、吐き気すら覚えた。
「た……他人……!?」
「ええ、他人です。離婚した今、むしろ外敵と言っても良いでしょう」
「……!!」
「用件はそれだけですか?ではお帰りください。父の我慢も、そろそろ限界でしょうから」
「僕が……僕が、過ちを犯したばかりに……!」
「そうですね。でも仮にクラウス様が清廉潔白だったとしても、同じ結果になったかもしれません。だってクラウス様……子供に憧れてましたものね。私と同じで」
ぷるぷると震えていた彼だったが、最後に一縷の望みをかけるかのように、とんでもないことを口走った。
「僕達、ベルナデットが来るまでは、幸せな結婚生活を送っていたよな……?」
今となっては、それすらも悔やまれるほどだ。
「もう一度やり直せないかな……?」
「別の女を抱いた手で、もう一度私を抱けるとお思いですか?御免被りますわ。私は貞淑でありたいと思ってますので」
「うっ……ううっ……!」
その後クラウスは、乗ってきた馬車に泣き顔のまま乗り込んだ。向かう先はボロボロになった屋敷か、それとも義両親の屋敷か。
「……元旦那様、もう行きました?」
「ええ、もう出てきても大丈夫よ」
「ふぅ……結局、エリス様の言ったとおりになりましたね」
「思ったより早かったわ。でも、下手に長引くより良かったのかも。あの屋敷を立て直すにしても、売り払うにしても、早い方が良いに決まってるのだから」
「立て直せるとお考えですか?」
「だとしても、私ではどうにもならない話よ」
使用人から聞く限り、贅の限りを尽くした慰労会とやらは、月に二度のペースで開かれていたようだ。これがせめて他の貴族や王家との交際に使われていれば、まだ救いも残されていたかもしれない。
しかし実態は、ただ贅沢な食事を身内で楽しんでいただけだ。これでは誰も救いの手を伸ばせない。悪徳金融の手なら、伸びてくるかもしれないが。
「彼女に惚れこみ過ぎたのか、負い目のせいかは知らないけど、無計画に貯金を吐き出すからこうなるのよ」
ベルナデットの狙いは、屋敷の乗っ取りだったのだろうか。最初からそのつもりでクラウスに接触し、子爵家の安定した資金で子育てしようと画策していた可能性は、十分にある。慰労会は使用人の心を掴むためだったのだろうが、本人も贅沢な食事を楽しむ内に、やめられなくなったのではないか。
……そう思っていたのだが、事態はこれだけで終わらなかった。
夏の暑い盛りにクラウスの屋敷が売却されたという話を、母親から聞かされた。しかし、義両親の元へ向かう馬車には、クラウス一人しか乗っていなかったというのだ。
「ベルナデットさんと一緒じゃなかった……?」
「結局、再婚してすぐに離婚したみたいね。まあ、妻が他人の子を産んだともなれば、それも仕方ないのかもしれないけども」
確かにそうかもしれないが、それはそれで少し薄情な気もする。私を裏切っておきながら、再婚相手の裏切りは許さないというのは、少々自分に甘すぎるのではあるまいか。同じ穴の狢同士、仲良くすればよかったものを。
しかしせっかく私が身を引いてあげたというのに、やり直しの機会を活かすどころか、捨ててしまうとは。結婚とは、そうも軽いものなのだろうか。それとも、そんな軽い男性と結婚していた自分を、情けなく思うべきなのか。
窓を打ち付ける横殴りの雨のせいで、外の空気を吸うことも出来ない。運がいいのか悪いのか、今日は父も不在なので仕事を手伝うことも出来ない。最近また背が伸びたカレンのために、普段使い用のスカートでも縫ってあげようかな。
微妙に厳しい現実から逃避していた私の耳に、わずかだが呼び鈴の音が聞こえた。
「え……こんな大雨の日に、誰かしら……?」
私と母は、少し警戒しながら玄関へ向かった。するとドアの外にずぶ濡れのまま立っていたのは――
「……ベルナデットさん!?」
生気の無い目をした彼女が、真っ白な赤ちゃんを胸に抱いていた。
「突然すみません……。お湯と、タオルだけ貸して頂けませんでしょうか。申し訳、ございません……」
「早く中へ入りなさい!赤ちゃんの体に障るでしょ!」
「……っ」
これはまずいかもしれない。こんな状況なのに、赤ちゃんが静かすぎる……!
「お母さま、すぐにお医者様を呼べますか!?」
「落ち着きなさい、エリス。ベルナデットさん、まずは貴方と赤ちゃんの体を乾かしましょう。そしたら、お話を聞かせて頂ける?」
「ごめんなさい……!ごめんなさいっ……!」
大雨の中でも分かるほどの、大量の涙を流す彼女の顔は、疲れ切っていた。
赤ちゃんはベルナデットさんとお風呂に入った瞬間、激しく泣き始めた。どうやら疲れ切っていただけで、泣く気力は残っていたらしい。しかしあの大雨に晒されたのだ。くれぐれも風邪を引かないことを祈るばかりである。
「……何度も何度もご迷惑をお掛けして、申し訳ありません……」
「その通りね。まさか離婚した後も迷惑を掛けられるとは思わなかったけど」
そのまんま口をついて出た言葉は、ベルナデットさんの胸に深々と刺さったらしく、何も言い返してこなかった。
「こらエリス、あまりベルナデットさんを虐めないの」
「だって事実ですから。それで、クラウス様が頼れないから、今度は私に助けを求めに来たというわけ?中々いい度胸ね」
「……いえ。今日は、お別れを言いに来ました」
「どういう意味かしら」
「そのままの意味です。私、この国を出ようと思います。娘と二人で、遠くの土地を目指すつもりです」
どう考えても、前向きな言葉には聞こえなかった。
「遠くの土地で、何をするつもり?」
「まだ、決めていません」
「お金があるようには見えないけど、どうやって遠くの土地とやらに行くというの?」
「……歩いて、まいります。きっともう、謝る機会も無いと思って、最後のご挨拶に伺いました。でもまさか、こんな急な大雨になるとは思わなくて……私は良くても、赤ちゃんが、すごく寒そうに震えてて……!だから駄目ってわかってても、ま、また私……迷惑をかけるって、分かってたのですが……!!」
この人は、きっと死ぬ気だ。この真っ白な赤ちゃんと一緒に、誰にも迷惑を掛けない場所で。
「エリス」
ああ、もう。わかってるわよ、お母さま。まったく……これじゃクラウスの事を嗤えたもんじゃないわ。
「はあ……その白い赤ちゃんに免じて、今晩は泊めてあげるわ。ちゃんと食べて、しっかり休んでから出て行きなさい」
「……いえ、もうじきに雨は止むと思います。そしたらすぐに――」
「別に貴方のためじゃないわ。赤ちゃんを見殺しにしたくないだけよ」
「……っ」
「元主人からの命令よ。この子のために、嫌でも黙って泊まりなさい」
「……エ、エリス様」
「何かしら」
「信じてください……私、クラウス以外に抱かれたことは、ありません……!!」
「……はあ?どういう意味かしら?」
「私はクラウス以外に、肌に触れることを許したことはありません……!前の交際相手から逃げたのも、強引に婚前交渉を求められたからだったんです。だから男の人に抱かれたのは、クラウスが初めてで、あの日が唯一でした……!娘は、ロベリアは、間違いなくクラウスとの子供に違いないのです……!」
……なんだって?
「クラウスから聞いた話と、随分違う気がするのだけど。あの人、貴方が自分を裏切ったって、ここでベソかいてたわよ」
「クラウスには何度も説明しました。有り得ない、クラウスだけを愛していると、声と涙が枯れるまで叫びました。でも、誰からも信じてもらえず……」
「それはそうでしょう。そうでないと、髪色が説明つかないじゃない」
これに勝る物的証拠はあり得ない。クラウスが不貞を疑うのは当然だろう。
「そう……ですよね……だから、私も怖くなって……!もしかしたら、私が寝てる内に、別の男に抱かれていたのかもしれないと思うと……!!」
だがどうやら状況は、私が思っていたよりも複雑だったらしい。
「ベルナデットさん自身に心当たりが無いんじゃ、確かに説明しようがないわよね」
「………し、信じてくださるのですか?私のような、酷い女の言葉を……?」
「ええ、信じられるわ。貴方、隠し事が苦手なタイプでしょう?私への後ろめたさを、使用人としての働きで返そうと頑張りすぎるほどにはね」
この子はいつだって、まっすぐ過ぎるのだ。
「エ、エリス様……!!わ、私なんかのことを、そこまで見てくれていたなんて……!ごめんなさい……本当に、ごめんなさい……!!私の勝手な希望で、エリス様の人生を狂わせてしまって、本当に申し訳ありませんでした……!!」
「今日だけで何度謝るのよ。もうわかったから、いい加減頭を上げなさい。話しにくいったらありゃしないわ」
まあ、どっかの誰かさんと違って、どうやら心から反省しているようだし。ここまでまっすぐだと、これ以上虐める気も起きないというものだ。結果だけ見れば、浮気男から別れるきっかけをくれたと考えられなくも無い。
……なんて、そこまでは割り切れないかな。彼女が私の人生を狂わせたのは確かだし。
それでも、不思議と元夫に比べれば、幾ばくかマシな人間に思えた。それはベルナデットさんの行動原理が、悪意によるものではなかったからかもしれない。
私は内心のモヤモヤを全てため息と共に吐き出し、カレンに命じてカモミールティーを用意させた。もう彼女も妊娠していないわけだし、安心して飲めるというものだろう。
「どう、落ち着いたかしら?」
「……はい。ありがとうございます。このお茶、とっても美味しいです。お屋敷でも、一番好きな茶葉でした」
あらそう。このお茶の良さが分かるとは、ほんの少しだけ見直したわ。おかげで私の飲む分が減ってしまったみたいだけど。
「それにしても、ロベリアちゃんは見れば見るほど、見事に真っ白ね。まるでウサギだわ」
「うさぎ……ですか?」
「知らない?ウサギの中には、この子みたいに全身が真っ白な子がいるのよ」
「そうなんですね。それを知ってたら、名前はラビーにしてたかもしれません」
「……良かったわ、生まれる前に教えなくて」
「ふふっ……!」
こんな風に彼女とゆったり話す機会なんて、これまで一度でもあっただろうか。もしあったなら、もう少し穏当な決着もあったかもしれない。出来ることなら、彼女とはもっと違う出会い方をしたかったものだ。
このままこの母娘に会えなくなるのが、ほんの少しだけ惜しく思えてきた。ほんとにほんの少しだけど。
「……ウサギですって?」
「お母さま、どうしました?なんだかお顔が険しいですが……」
「ねえ、エリス。白いウサギの目がどうして赤いか、知ってるかしら?」
「いえ、そこまでは」
「……この子も白いウサギと同じかもしれないわよ、エリス。私も初めて見るけど」
「同じ……?」
「白いウサギはね、白い色をしてる訳ではないらしいの。あれは全身の色が抜け落ちているせいでそう見えるだけで、目が赤いのも血液の赤がそのまま映っている為らしいわ」
なんだって!?それって、この赤ちゃんと一緒ではないのか!?
「ベルナデットさん、ひょっとしてこの子の瞳の色は!?」
「あ……赤ですっ!ルビーみたいに赤い瞳です!じゃあ……じゃあ、娘も白いウサギと同じなのですね!?こ、この子は、クラウスの子供かもしれないのですね!?」
「ええ、そうかもしれないわ。首都でちゃんとした検査をしないと、はっきりしないけども」
「良かった……!ああ、良かった……!私……それを知れただけでも……!」
……なるほど、首都の医師か。
「お母さま。首都の医療機関の中に、随一の血液内科がありませんでしたか?遥か昔、鑑定スキルで世界を救った勇者ユリウスが開業したとかいう」
「鷹の爪病院のことかしら」
「そこでなら、血液で血縁関係を調査することも出来ますよね」
ベルナデットさんの目から、枯れ果てることを知らない涙が溢れ出した。
「……血縁……を?そ、それをすれば、この子の父親が誰なのか、分かるのですか……!?クラウスの娘であることが、証明されるのですね!?この子に父親の存在を、教えてあげられるんですね!?」
その希望に満ちた美しい涙を、私は完全に無視した。
「検査に掛かるお金は、我が家でも捻出できないほど高額よ。誰がそのお金を出すと思っているの?言っておくけど、私は出さないわよ」
「あ……は、はい……」
「勘違いしないでね、ベルナデットさん、私は貴方の事が嫌いなの。今まで会ってきた人の中で、一番嫌いよ」
「……っ!」
「だって貴方は卑怯だから」
この子に対して、必要以上の同情は必要無いのだ。
「酔った勢いと気の迷いとはいえ、貴方は既婚者に抱かれることを望んだ。しかも貴方は、妊娠した責任をクラウス様に転嫁したわ。あの冬の夜に屋敷のドアを叩いた時、クラウス様なら自分の頼みを断れないだろうと、そんな打算が無かったと断言できる?」
「……出来ません。私は自分の都合を優先して、クラウスとエリス様の人生を破壊しました。私は……お二人の、加害者です」
「その通りよ。だから私が貴方に協力する義理は無いわ」
どこまでもむかつく女だ。不倫をした事実も、その後の自己保身も、まっすぐにこちらを見つめながら肯定している。しかもそれでいて、後悔と反省に満ち溢れている。救えない女としか思えなかった。
……でも。
「でもね……私は貴方が思っているほど、善良でもないの。むしろ悪であると言っても差し支えない、卑怯者の悪女なのよ」
誠に残念なことに、私はカレンやベルナデットさんのような、真っ直ぐな人間が好きなのだ。やり方を間違えてもなお、自分を曲げずにいられる人間を、評価せずにはいられないのだ。
「え?」
「だから悪女らしく、貴方を利用することにする。私を裏切り、貴方をも軽々と捨てた男を、心の底から後悔させるために。ねえ、妊娠する前はどんな仕事をしていたの?」
「……冒険者です。3年前に交際相手から逃げ出して以降、私にはそれしか生活する手段がありませんでした。普通のお店では、雇ってもらえなかったので」
まあ、そんなところだろう。男爵家だか子爵家だか知らないが、下手に雇えば彼女の家から圧力なり嫌がらせがあってもおかしくない。そんなリスクを商人が冒せるはずがないのだ。
……この子が、馬鹿正直に自分の正体を明かしたりしなければね。万事に対して真っ直ぐ過ぎるのよ、この子は。
「ランクは?」
「Cです」
「……わお」
…………わーお。
「ねえエリス、よくわからないのだけど、Cランクって凄いのかしら?」
「ええ、かなり凄いですよ。ベルナデットさんくらいの年齢なら、頑張ってもDが精々のはずです」
一般的な衛兵であれば、Dランク相当で十分務まるとされている。Dランクと言えば、武装した山賊を単騎で倒せる実力と見做せるからだ。
ただしそれは、成人を迎えた15歳からコツコツと下積みを積んだ上での話である。下積み無しの3年足らずでCランクなんて、文字通り指折りの昇進速度と言えるだろう。
「貴方、そんなに強かったの?悪いけど、とてもそうは見えないわ」
「えっと……どう言ったら伝わるでしょうか。強さは普通、だと思います」
……なんとなく、この子の普通は当てにならない気がする。
「じゃあ、ダイアウルフは単騎で倒せる?」
「あ、それなら10匹までなら可能です」
「は!?」
「まあ、すごい!」
すごいどころではないぞ、お母さま。昔、うちの馬車が5匹の群れに襲われた時、護衛3人でやっと倒していたじゃないか。
ヤバいなこの子、やろうと思えば腕っぷしだけで、この屋敷を単独制圧出来たんじゃないか?
にも関わらず、この人はそうしなかった。元主人である私を害してまで、自分が生きようとはしなかった。あくまでも凍える赤ちゃんを救うためだけに、我が家に助けを求めたのだ。いずれ我が子と共に朽ち果てると承知の上で、今を苦しむ娘のために、恥をかくことを厭わなかったのだ。
それが出来るだけの強さと高潔さ、そして同じだけの弱さと優しさが、この女には備わっている。
……だったら行ける。これなら十分に、計画を遂行できる。
「ベルナデットさん。これは善意からではなく、私の悪意から来た提案だと思って頂戴。くれぐれも、誤解しては駄目よ」
「は、はい?」
「貴方は明日から、我が家を拠点にして冒険者に復帰しなさい」
何を言われているのかわからないのか、ベルナデットさんはきょとんとしたまま動かなくなった。
「そして我が家の護衛任務の際には、直属として貴方を雇う。その報酬は直接支給するから、ギルドの仲介料も発生しないと約束する」
「え?えっ!?あの、何のお話ですか!?」
「いいこと?貴方はそうして得たお金を、全力で貯めなさい。寝食を削って、死ぬ気で赤ちゃんを育てながら、お金を貯めて、貯めて、貯めまくって……母子ともども、首都で血液検査を受けなさい。そして、あの男に検査結果を叩きつけてやるのよ。あの男の誤ちを、言い訳出来ない物的証拠で明かしてやりなさい」
「……エリス……様?」
「貴方が留守の間は、私が責任をもって、赤ちゃんを預かる。検査に必要なクラウスの体組織も、私が意地でも手に入れる。だから貴方は、私が成しえなかった彼への復讐を、自分の娘を利用して成し遂げなさい。それがクラウス様と、貴方への罰よ」
クラウス。貴方は選択を間違えたわ。
貴方は妻である私を裏切るべきではなかった。
もっと彼女を信じて、捨てるべきではなかった。
「……エリス様は、へそ曲がりであられますね」
でも、貴方が犯した最大の失敗は、たぶん私を敵に回したことじゃないわ。
「でも私はエリス様のこと、嫌いにはなれません」
「あらそう、気が合わないわね。それで?私の悪意に満ちた提案を受ける覚悟が、貴方にあるかしら?」
貴方が敵に回すべきではなかったのは、恐らく――
「……はい!このベルナデット・フォン・アポリネール……エリス様と我が娘の為に、粉骨砕身することを誓います!!」
――その目は、母親としての強さと、女の矜持、そして忠誠心で燃え上がっていた。
それから、さらに季節が巡った。何度も、何度も。
ベルナデットさんの強さは、明らかに異常だった。その実力はダイアウルフ10匹分どころではない。
冒険者に復帰して一年後には、ドラゴンゾンビを単騎討伐しており、瞬く間にBランクへ昇格していた。
武器を選ばないどころか、武器が無い時は素手で魔獣を引き千切る姿から、いつしか血祭のベルナデットと呼ばれるようになっていた。
首都からやってきたと言うエルフの記録係によると、人間の中には時々、生まれつき信じられないような力を持つ者がいるらしい。勇者ユリウスもその一人だったとか。
ベルナデットさんはそれを知る由もなく、我が家ではいつもの優しい彼女だった。使用人に親切で、カレンにも温かく接し、そして私と両親に変わらぬ忠誠を誓っていた。そして僅かに得られた時間では、娘の世話にしながら、私とカモミールティーを共にした。
そのお茶会の中で、面白い話があった。いや、くだらない話と言うべきか。
「え、それじゃあ、貴方は慰労会の予算には関わってなかったの?」
「提案はしましたので、関わってないとまでは言えませんが……クラウスには、使用人の持ち寄りで食事会を開いてもよいかと相談していました。そのために、屋敷の食堂をお借りしたいとも」
「全然内容が違うじゃない……それじゃあ、あの企画は誰が?」
「クラウスが主体になっていましたが、シンディさんも関わっていると思います」
「シンディ・レーン?」
「はい。そもそも私が考えていたのは、慰労会ではなく親睦会だったはずなんです。だけど私の発案を聞いたシンディさんが、私の知らない所で話を大きく盛ったみたいで、いつの間にか私が豪華な慰労会を企画してることになってて……。シンディさんから話を聞いたクラウスも、その方が良いと思ったらしく……」
「で、気が付いたらお屋敷主催の大宴会に発展してた……と」
「最初の慰労会の時点で、これはおかしいとすぐに気付きました。その後すぐにクラウスには、こんな大宴会にしなくていい、こんなことは今回限りにしてほしいと訴えました。でも私の前でエリス様に啖呵を切った手前、引っ込みもつかなくなったみたいで……」
「……馬鹿馬鹿しい。ごめんなさい、私も誤解していたわ。てっきり貴方の金銭感覚が狂ってるのかとばかり……」
「あの宴会を普通と感じてたら、一人で借金返済なんて出来ませんよ」
「そ、そうよね。確かにその通りだわ。嗚呼、私も相当頭に血が上っていたのね……やっぱり人間は、冷静さを失ったら駄目だわ……」
あの離婚劇は、ベルナデットさんの甘えと、クラウスの短慮、そして私の感情制御不足が原因で招かれた悲劇だったのだ。今となっては半分、どうでもいいことではあるのだが、その一端を担ったシンディは今、どうしているだろうか。おそらく、あまり幸福に過ごしてはいないだろうが。
その末路を聞いたのは、すべての決着がついてからであったが、それはまた別の話である。
さて、ロベリアちゃんも日に日に大きくなり、私が予想していたよりも早くに立ち歩いた。ただし普通のおもちゃに一切興味を示さず、木剣で楽しそうに遊ぶ点には、やや小さくない不安を覚えたものだが。
しかし白い肌に日光は辛いらしく、いつも大きな白い帽子と白い服を纏っていた。その姿はいかにも儚げで美しく、一見すると深窓の令嬢にさえ見えた。5歳になる頃には、近所の子供達から連日のように、お茶の誘いを受けていたほどである。その中身が、毎日両手半剣を軽々と振るう見習い戦士であるとも知らずに。
そして、ロベリアちゃんが6歳の誕生日を迎えた時……遂にその日がやってきた。
あの日のように、雪の降る夜だった。でも今回、彼を求めてドアを叩いたのは、私の方だった。
「誰だい、こんな時間に……エ、エリス!?」
「ご無沙汰しております、クラウス様」
彼は最後に出会った日から、驚くほど老け込んでいた。まだ30歳のはずだが、若白髪が目立っている。屋敷を失ったことによる気苦労が、彼をここまで老化させたのだろうか。
「懐かしいな……でも、一体なんの用だい?もう会いには来ないものと思っていたけど」
「ええ、私は付添い人です。用があるのは私ではなく、この方ですわ」
「……久しぶりね、クラウス」
「ベル……!!」
ベルナデットさんの姿は、クラウスとは対照的に若々しく、美しかった。本業に復帰した彼女の肉体は、戦いを生業とする者らしく、常に全盛期を保っていたのだ。
「……帰れ。二度と姿を見せるなと言ったはずだぞ」
「そうはいかないわ。ロベリアが貴方の娘だってこと、認知してもらいに来たのだから」
「ロベリア……だって?」
「はじめまして、おとうさま」
雪に溶け込んでしまいそうなほど白い少女が、ペコリと丁寧にお辞儀した。その様子にクラウスも思わず鼻白んだが、ふんと鼻を鳴らして、これを無視した。
「僕はこの子の父親じゃない。この不気味なほど白い髪と、血のように赤い目が、動かぬ証拠だ。不貞は明らかだというのに、そうまでして養育費を毟り取りたいのか?血祭よ」
「……動かぬ証拠と言うのは、こういう書類のことを言うのよ」
そう言うとベルナデットさんは、懐から鑑定書を取り出し、クラウスの前に突きつけた。
「これは……?」
「私達3人の、血縁鑑定の結果よ。首都の専門病院で、検査してもらったの」
「なに……?よくそんな大金があったものだな。また見知らぬ男に脚を開いたのか?」
その言葉に反応したのは――
「我が家への侮辱に対する即時撤回を求めますわ、クラウス・クラウザー子爵」
「……えっ!?」「エリス様……!?」
…………私だった。
ああ、頭に血が上っていくのを感じる。駄目だと分かっていても、やはり感情に支配されてしまうのが、私なのだ。
「ベルナデットさんの雇い主は我が家です。家名に誓って、彼女に売春などさせていません。もしも発言を撤回しないなら、我が家への侮辱と捉え、報復も厭いません。我が家には、常に最大戦力が控えていますゆえ」
この直後、ベルナデットさんの目に危険な色が宿った。今日は帯剣していないが、それが彼女の無力化を意味していないことは、この領内の人間なら全員理解していることだ。もちろん、この馬鹿でさえ。
「わ、わかった!発言を撤回する!」
「よろしい、撤回を受理しましょう。それと私がここにいることの意味を、よく考えた方がよろしいかと」
「ど、どういう意味だ?」
「私が無駄を嫌う性格なのを、貴方が一番よくご存じのはずです」
「……はっ!?」
そう、無駄なことはしない。私はやること成すことに意味がある。だったらベルナデットさんの訪問が、無意味な暇潰しであるはずがないでしょうに。
「……じゃ、じゃあ、まさか……本当に!?」
「……血液検査の結果、ロベリアが貴方の娘であることが、証明されたわ。この娘は……白子症だったのよ。髪が白いのも、目が赤いのも……ただ病気だったの」
クラウスの手足が、ガタガタと大きく震え始めた。
「ちゃんとよく見て……!ほら、目元が、貴方にそっくりでしょう!?これが私と貴方の娘なのよ!私はちゃんと、貴方の子を授かっていたのよ!!」
寒い夜だというのに、彼の額から汗が流れ続けている。その内心に様々な感情、思い、後悔や恐怖が襲い掛かっていることだろう。
「……信じてって……あれほど言ったのに……!!貴方を愛してるって、ずっとずっと、叫び続けていたのにッ!!貴方に捨てられたあの日まで、ずっと!!ずっとッ!!」
「あっ……ご、ご……!?」
「クラウス様。私との合意離婚と異なり、かなり強引に彼女と離婚されたようですね。彼女の不貞を理由にした、調停離婚だったと聞いていますよ。ロクな証拠も無しに、使えるお金も限られている中、どれだけの数の裁判官を買収されたのでしょうね?」
「あっ……うあっ……!?」
「しかしご覧の通り、ロベリアちゃんは不貞の証拠どころか、彼女の潔白を証明しています」
「ひっ……!」
「この落とし前……どう付けて頂きましょうか」
「ひぃぃぃぃ!!」
頃合いだ。私が味わった屈辱と、ベルナデットさんを捨てた報いを、今受けさせてやる。
私はベルナデットさんの名誉を棄損したことへの慰謝料請求と、6年間を遡って養育費請求する旨の通達書を投げつけてやろうとした。これで彼の社会的地位は、完全に地に落ちる。彼女と同じ平民暮らしが自分にもできるかどうか、試してみるがいい。
その時だった――
「パパー?どうしたの?この人達、パパのおともだち?」
――震えるクラウスの後ろから、小さな男の子が歩いてきたのは。
「ア、アドルフ!?あ、ああ、その……ち、ちがくて……そう、ただの知り合いだよ!」
「そうなんだ?みなさまはじめまして、アドルフ・クラウザーです」
……アドルフ……クラウザー……。クラウスの……息子……?
「……ええ、初めまして。私はエリス。まだ小さいのに、ちゃんとご挨拶が出来て、偉いわね」
「えへへー」
…………そう。いつの間にか再婚して、また家庭を作っていたのね。
私はその可愛い男の子を見て、急に虚しさを覚えた。ベルナデットさんが必死になって、命懸けでお金を稼いでいた頃、この人は新しい幸せを手にしていたのだ。
……あの雪の夜、ベルナデットさんがやってきて、私達夫婦の仲を裂いた。今度は私が彼の幸せを砕く番だと思っていたのに……私の復讐に、罪の無い子供を、新たに巻き込むというのか。
しかも自分は手を汚さずに、ベルナデットさんと、その娘を利用して。
そんなこと……耐えられない。
そんな重荷を心に抱えたまま生きていくなんて、私には出来ない。
でも、でも、もう止まれないのだ。私はこの人を、絶対に許さないと決めたのだから。
「……ベルナデットさん。どうするかは貴方次第よ。煮るなり焼くなり、好きになさい。何があっても、私が責任を持つわ」
最後まで悪女らしく生きて、この人の死を見届ける。
見届けてから……私も惨めに死んでやるわ。
「……っ、クラウス、様」
「ひぃっ!?」
……ベルナデットさんは……血液鑑定の書類をくしゃりと音を立てて握りしめた。そして――
「僅かな間でも、貴方の妻として過ごせて、私は幸せでした。貴方の事を、この世界で一番、愛していました……!」
「……!?」
「もう二度と……金輪際、貴方には関わらないと誓います。……さようなら。どうか、お幸せに」
――それだけ言って、背を向けて歩き出してしまった。
ロベリアちゃんは一瞬戸惑っていたが、母親が泣いていることで何かを察したのか、何も言わずに手を握って一緒に歩き出した。そして父親の方を振り返ることは、一度としてなかった。
……そっか。それでいいのね、ベルナデットさん。
私は張り詰めたものが消えていくのを胸の内に感じながら、クラウスにバレないよう、小さく溜息を付いた。
「……どうやら私のしてきたことは、全部無意味だったようですね。最後の最後に、らしくないことをしました」
「エ、エリス……?」
「私もベルナデットさんと同じ気持ちです。どうか今の家族を、大事になさってください。私が貴方を許すことは一生ありませんが、それでも貴方を見習って、前を向いて生きてみることにします。では、失礼」
「待ってくれっ!」
…………。
「僕は……僕は、君たちにだったら、殺されてもいい!!僕はそれだけのことをしたと思う!!殺してくれ!!君たちがそれで幸せになれるというのなら!!」
体が反射的に動いた。私は生まれて初めて握り拳を作り、彼の左頬を思いきり殴り飛ばした。
「はあ……!はあ……!」
「エリス……!!」
「二度と……二度と殺されて良いだなんて言わないで!!それを聞いたアドルフ君が、どう思うか考えられないの!?」
「!!!」
「いい加減に自覚なさい!!貴方はもう父親なの!!父親なのよ、クラウス!!」
私は死なないでと泣きじゃくるアドルフ君と、呆然としたまま頬を腫らすクラウスを置いて、ベルナデットさんの元へ走った。
……馬鹿だわ、私達。本当に……馬鹿ばっかりだ。
アドルフ君の泣き声が聞こえなくなった辺りで、私はベルナデットさんに追いついた。静かに、しかし決意に満ちた涙を流す彼女は、最初に出会った頃よりもずっと美しかった。
「……ありがとう、ベルナデットさん」
「……え?」
「貴方のお陰で、大事なことに気付けたわ。あんなつまらない男に、いつまでも拘ってちゃ駄目だってことよね」
「……そんなんじゃ、ないです。私はただ……もう終わりにしたいと思っただけ。娘には父親が必要なのに、自分の感情を優先してしまっただけです。私は、駄目な母親です」
ロベリアちゃんは、不思議そうに首をかしげていた。もしかしたらこの子は、それほど父親を必要としていないのではないか?
「悪いけど、私は母親になったことがないから、よくわからないわ」
「……すみません」
「でも貴方はきっと、より良い選択をしたわ。貴方にとっても、ロベリアちゃんにとっても」
そしてきっと、私にとっても。
「そうでしょうか……」
ベルナデットさんの暗い表情は、「くちゅん!」というロベリアちゃんのくしゃみによって、少しだけ晴れたように見えた。
「すっかり体が冷えてしまったわね。さあ、早くうちに帰って温まりましょう。私と貴方の再婚に向けて、婚活の準備しなくちゃいけないしね」
「こんかつ?ってなに?」
「あ、あはは……私はまだしばらく、独り身でいいかなと……」
「???」
馬車へ乗り込むまでの足取りは、不思議とここに来る時よりも軽いような気がした。
それから再び季節は巡った。何度も、何度も。
あの小さかったカレンにも婚約者が出来て、まだ10歳にも満たないはずのロベリアちゃんが、母親と肩を並べて「吸血のロベリア」と呼ばれ恐れられるようになった頃。私宛に、一通の手紙が届いた。
「……ふーん」
「どうしましたか、エリス様。また婚約の申し込みですか」
「いえ、知人が一人亡くなったみたい」
「葬儀のご案内でしたか。お悔やみ申し上げます。いつ、ご出席なさいますか?」
私は首を横に振り、案内状を丁寧に破り捨てた。存在も忘れかけていた使用人の顔が思い浮かんだが、それだけだ。
手紙にはやんわりと末路が書かれていたが、まあ、彼女らしい妥当な最期だろう。いずれ私も、似たような最期を迎えるのかも知れないが。
「そんなことよりカレン、結婚式はいつなの?」
「それなんですが……エリス様が再婚されるまで待とうかと思います。順番的にも、そうあるべきだと思いますし」
「あらあらー私の再婚が遅いと言いたいのかしらー?売れ残ってて可哀想ってことー?言うようになったわねーカレ~ン?」
「そ、そんなことは!?」
「ぷっふふっ……あははっ!冗談よ、冗談。でも私の再婚を待っていたら、愛しい彼をいつまでも待たせかねないわよ?さっさと結婚して、私に子供自慢でもして見せなさいな。そしたら羨ましくなって、再婚したくなるかもしれないでしょ」
「エリス様……あの、結婚した後も、子供が生まれた後も、引き続きここで働きたいのですが……」
心配そうに上目遣いをするカレンは、もうすっかり大人になったというのに、とびきり可愛らしかった。思わずその頭を、くしゃくしゃと撫でてやりたくなるほどに。
「貴方を必ず傍に置くと、あの日に誓ったでしょう?悪いけど、妊娠中も傍で働いてもらうわよ。貴方はそそっかしくていけないから」
「……ありがとうございます、エリス様。もう一つだけよろしいでしょうか。たぶん今じゃないと、気恥ずかしくて言えなくなる気がしますので」
「何かしら」
「私はずっと、エリス様の事を、もう一人のお母さんだと思ってきました。だからこれからも、ずっとお仕えしていきたいと思っております。エリス様がご再婚された後も、ずっとです」
「……あら、そう」
「はい」
「私だけじゃなかったわけね」
「……えっ?それって……」
「さあ、そろそろお茶を用意してくれないかしら?もちろん、貴方も入れて4人分よ。あの母娘がそろそろ帰ってくると思うからね」
「は……はい!ただいまご用意いたします!!」
途中ちょっと転びそうになりながらも、ティーセットを用意する彼女を横目に、私は窓から外を覗き込んだ。白く、厚い雲に覆われた冬空は、今夜にも雪が降ることを予感させた。
「ま……そのうち現れるでしょ。こんな悪女でも拾ってくれる、素敵な王子様が……ね」
玄関から母娘の笑い声が聞こえてきたのは、私が苦笑いを浮かべたのと、ほぼ同時だった。
(自称)悪女に幸あれ。