第94話 夜道
「それじゃあ、そろそろ帰るね。遅くまでごめんね」
クマサンが、少し申し訳なさそうに微笑む。時計の針は22時半を回ろうとしていた。
「いや、遅くさせたのは、俺が生配信を計画したせいだから……。俺の方こそごめん」
告知ではクマサンの部屋から配信する予定だったが、彼女がそれを断り、結局俺の部屋で配信することになった。
その結果、こんな時間まで引き止めてしまった。
当たり前だが外はもう真っ暗で、静まり返っている。
「もう夜遅いし、家まで送るよ。自転車でついていくことしかできないけど」
免許はあるが車はない。結局、ボディガードのつもりで併走するくらいしかできない自分が、少し情けなかった。
「そんなのいいよ! 悪いし! それに……ほら、近いし」
クマサンは手を振りながら、少し慌てたように拒否をする。
……だよね。
俺は彼女の住んでいる場所を知らない。
それに、過去のことを考えれば、警戒するのも当然だ。
少しは信頼してもらっているかも、なんて期待した自分が急に恥ずかしくなる。
思えば、彼女の部屋に配信設備を整えようという提案も、同じ理由で断られたのかもしれない。
それでも、彼女が夜道を一人で帰るのを見過ごせなかった。もし何かあったら――そう考えた瞬間、ここで引き下がるという選択肢は消えていた。
「だったら、部屋まではついていかないから。途中までだけでも送らせて。それでもダメかな? クマサンを一人で帰らせるのは、心配で落ち着いていられなくなりそうだし……」
粘る俺に、クマサンは不思議そうな顔で首を捻った。しかし、すぐに何かにハッと気づいた表情に変わる。
「違うって、そういう意味で言ったわけじゃ……ふぅ、わかったよ。お言葉に甘えるね。よろしくお願いします」
クマサンは言いかけた言葉を途中でやめ、少し恥ずかしそうに頭を下げる。
「こちらこそお願いします」
つられるように俺も頭を下げていた。
なぜ頭を下げているのか自分でもわからないが、とにかく彼女を送る役目を任されたことだけは確かで――それが、妙に誇らしかった。
夜の空気は、いつの間にかすっかり涼しくなっていた。
静かな夜の街を、俺とクマサンの二人の自転車が並んで駆けていく。
部屋の中では賑やかだった会話も今はほとんどなく、時折クマサンが進行方向を示す声と、それに応じる俺の短い返事が交わされるのみ。
夜も更けた街で、大きな声を出すのははばかられた。
それ以上に、この状況に妙に緊張していた。
女の子と並んで自転車を漕ぐ――そんな高校の頃に憧れた光景そのままで、頭の中がそわそわしてしまう。
いつもは軽く話しかけてくるクマサンも、今は特別静かで、ただ自転車のチェーンの音だけが、やけに大きく二人の間に響いていた。
俺は彼女の住んでいるところを知らない。
だから、どこまで送り届ければいいのかも、彼女に委ねるしかなかった。
どこかで彼女の方から「ここまででいいよ」と言ってもらえるだろうと思いながら、ただ無言でペダルを漕ぎ続ける。
「あそこのマンションだから」
クマサンがハンドルから片手を放し、指さした先に見えたのは、俺が住んでいるところより少し立派なマンションだった。高級というわけではないが、どこか落ち着いた雰囲気のある建物だ。
あそこまででいいということだな――俺はそう理解する。
俺達はそのマンションの前で並んで自転車を止めた。
「じゃあ、俺はここでお役御免だね。あとは一人だから気をつけてね」
「さすがに駐輪場から部屋までなら大丈夫だよ」
……ん?
俺は彼女の返事に、なんだか違和感を覚えた。何か俺は思い違いをしていないかと。
「部屋に寄っていく? 喉が渇いているなら、飲み物くらい出すよ?」
部屋?
その言葉で、さすがの俺も違和感の正体に思い至る。
「もしかして……ここがクマサンの住んでるマンションなの?」
「うん、そうだよ。ここの202号室」
彼女はあっさりと答えた。
てっきり途中までで送る役目が終わると思っていたのに、どうやら最後まで任せてもらえていたらしい。
しかも、部屋まで教えてくれるなんて――
心臓が、どくん、と一際大きく跳ねた。
「で、どうする? 寄っていく?」
「だ、大丈夫、喉は渇いてないから! それにもう夜も遅いし!」
彼女の問いかけに、慌てて首を振る俺。
そんな俺を見て、クマサンは小さく笑って手を振った。
その笑顔が、ほんの少しだけ寂しそうに見えた気がした。
「そっか。それじゃあ、またの機会に、だね」
「お、おう」
頭の中が熱く、まともな言葉も浮かばず、俺はただぎこちなく返事をした。
彼女と手を振り合い、名残惜しい気持ちを胸に、その場を後にする。
帰り道、静寂に包まれた夜の街を一人自転車で走りながら、俺はだんだんと冷静さを取り戻す。
徐々に、先ほどの状況が頭の中で反芻され、ふと気づいてしまった。
「……待てよ。あれって、生まれて初めて女の子の部屋に入るチャンスだったんじゃないのか?」
そう気づいた途端、顔が一気に熱くなる。
なんであのとき断ったんだ――そんな後悔が、遅れて押し寄せてきた。
深いため息が、胸の奥から漏れた。
帰り道のペダルがやけに重い。
冷たい風だけが、さっきの後悔を何度もなぞっていく。




