第243話 嵐の夜のあと
朝、目を覚ますと、すでにクマサンは起きていた。
着替えも済ませたようで、昨日この部屋に来たときと同じパーカーとショートパン姿に戻っている。
下着は俺が渡したボクサーパンツなのか、それとも昨日までのものなのか――ふと頭によぎった疑問を、慌てて打ち消す。……さすがに本人に聞けるわけもない。
「あっ、やっと起きた?」
寝る場所を確保するため横にどけたテーブルの上に何かを並べていたクマサンが、こちらに顔を向けた。むくみ一つない整った顔立ち。
一晩同じ部屋で過ごしたはずなのに、いつも通りの様子で接してくる。
……本当に俺、男として認識されてないんじゃないか?
危機感を覚えた瞬間、香ばしい匂いが鼻腔をくすぐった。
「キッチン、借りたからね」
視線を向けると、テーブルには白い皿に乗ったハムエッグ。隣には湯気を立てる味噌汁と、白いご飯が盛られた茶碗。
昨夜炊いたご飯がまだ炊飯器には残っていたが、ハムエッグも味噌汁も作り置きした覚えはない。
「……クマサンが作ってくれたの?」
「泊めてもらったし、せめて朝ごはんくらいはと思ってね」
――――!
女の子、しかもクマサンの手料理!
思わず手を合わせて拝みたくなった。
我が人生において、母親と友達のお母さん以外の女性が作ってくれた料理を口にしたことなんて、一度もない。
……いや、一度だけ、昔、何人かと友達の家に遊びに行ったときに、その友達の妹が作ったチーズケーキをみんなで食べたことがあったっけ。
その微妙な経験が唯一の俺に、まさかこんな神イベントが訪れるなんて……。
「ありがとう。……クマサンって料理できたんだね」
言った瞬間、彼女の顔がわずかにムッとするのを見て、失言に気づく。
寝起きで頭が回ってなかった。
「これでも一人暮らしで、自炊もしているんだけど?」
「あ、いや、決して料理できないと思っていたわけじゃなくて……」
今まで俺が作ってばかりだったから、つい口をついた言葉だった。けれど何を言っても言い訳にしか聞こえない気がして、俺は逃げるように立ち上がった。
「ちょっと顔を洗ってくる!」
俺は分が悪いと判断し、そそくさと洗面所へと向かっていった。
――正直に言おう。
クマサンの作ってくれたハムエッグも味噌汁も、本気で旨かった。
ハムエッグは黄身の半熟加減が絶妙で、口の中に入れるとまろやかさが広がり、ハムの塩気と混ざって絶品の味になる。シンプルな料理なのに、この値段の素材で生み出せる最高峰のハーモニーではないだろうか?
味噌汁のほうも、インスタントの味噌汁の素を買っておいたが、それとは根本的に味が違った。つまり、わざわざ出汁から作ったということになる。カツオの出汁の香りが実に香ばしい。
着替えもばっちりだったし、一体彼女は何時に起きたのだろうか?
「ごちそうさまでした」
手を合わせ、心からの感謝を込めてその言葉を口にする。かつて、これほど気持ちを込めて「ごちそうさま」を言ったことがあっただろうか? いや、ない!
もしかすれば、これが俺にとって最初の最後の「女子の手料理」になる可能性だってあり得る。いくら感謝してもしすぎるなんてことはないはずだ。
「おそまつさまでした」
クマサンが小さく微笑んで返してくれた。
「……今まで食べた旨いものランキングの一位が更新されたよ」
「お世辞を言っても何も出ないからね。……でも、また作るくらいならしてあげる」
お世辞でも冗談でもないのだが……まあ、少しは嬉しそうにしてくれているから、まぁいいか。
でも……いつか、彼女とこんな朝を当たり前に過ごす相手が現れるかもしれない。そう考えると少し切ない。だが、その相手が俺だという可能性だってゼロじゃないはずだ。
たとえ今のところ男だと認識されていなくても、彼女と近しいところにいるのは間違いない。これからの頑張り次第で、未来はいくらでも変わる――と信じたい。
そんなことを考えている間に、クマサンは食器を重ね、当然のように台所へ運ぼうとしていた。
「あっ、クマサン、食器は俺が洗っておくから!」
「いいよ、別に。作るだけが炊事じゃないんだから」
その言葉に思わず唸る。
たまに聞く話だが、休みの日のパパさんが、「今日は自分が飯を作る」なんて言って料理をするのはいいが、作った時点でやりきったみたいな顔をして、鍋やフライパン、食器はそのまま放置――なんてことがあるらしい。
だが、クマサンは違う。今のは、最後まで責任を持つ、ちゃんと料理を作っている人の言葉だ。
――でも、今はその気持ちだけで十分。
「自分の部屋のことも心配だろ? 泊まるつもりなく出てきたんだし」
「それはそうだけど……」
外はすでに台風一過の青空。被害が出るほどの風や雨ではなかったはずだが、やはり自分の部屋が気になるだろう。ここは紳士的に早く送り出してあげるべきだ。
……なぜか物足りなさそうな顔を向けられているのは、きっと気のせいだろう。
そんなわけで、嵐の夜を過ごした俺は、無事にクマサンを送り出し、一息つく。
部屋に残った彼女の香りが、まだ感じられる気がした。
もしかしたら、俺の部屋に女の子が泊まるなんて、もうないかもしれない。でも、その唯一の相手がクマサンだっていうのなら、それだけで十分だ。
そんなふうに思っていたのだが――
次の生配信の日、クマサンはやけに大きな荷物を持って俺の部屋に現れた。
小道具を使う配信の予定なんてなかったはずだ。
その存在感のあるバッグに、俺は思わず目を丸くした。
「……クマサン、どうしたの、その荷物?」
「この前の台風のとき、急に泊まることになったでしょ? あのとき、いろいろ足りなくて困ったから。今度からは大丈夫なように、持ってきたの」
「持ってきたって……何を?」
俺は呆気に取られ、首をひねる。
「たとえば、ほら、コップとか」
クマサンが取り出したのは、クマの絵が描かれた可愛らしいコップだった。
……そういえば、ある夜は俺のコップしかなくて、彼女にはティーカップを使ってもらったっけ。
俺の反応も待たず、クマサンはそのままコップを持って洗面所へ行ってしまった。
「この前の歯ブラシ、残しておいてくれたんだね。じゃあ、歯ブラシはこのままでいいか」
洗面所からそんな声が聞こえてきた。
前回はクマサン用に新品の歯ブラシを下ろしたが、捨てるのはもったいないし、俺が使うわけにもいかないので、そのままにしておいた。泊まりはせずともまた口をゆすぐことくらいあるだろうと思ってのことだったが……まさか、クマサン用のコップと歯ブラシが俺の洗面所に並ぶことになるなんて……。
呆然としている俺のところへ戻ってきたクマサンは、今度はバッグの中からやや大きめの箱を取り出した。
「……それは?」
「お泊まりセットを入れてきたんだ~」
お、お泊まりセットだと!?
なんだ、その響きは! 破壊力ありすぎだろ……!
「下着も入ってるけど、新品だから見ても意味ないからね」
「…………」
新品かどうかなんて、この際関係ない。
そもそもそれが「クマサンの下着」であるという事実だけで、男にとっては刺激が強すぎるんだって!
俺の動揺にはまったく気づかない様子で、クマサンはなぜか楽しそうに部屋の片隅にお泊まりセット入りの箱を置く。
その自然さが、余計に心臓に悪い。
――クマサンが俺の部屋に泊まるなんて、もう二度とないと思っていた。
なのに、彼女はまるで「また泊まる気満々」のようじゃないか……。
もうすぐ『アナザーワールド・オンライン』の大型アップデートもあるっていうのに……頼むから、俺をこれ以上ドキドキさせないでくれよ!
 




