第242話 夢
落ち着け、俺!
クマサンの言葉は、まるで「一緒のベッドで寝ないのか?」と言っているように聞こえたが、そんなはずがない。
状況的に考えて、「一緒の部屋で寝ないのか?」という意味に決まっている。
「俺と一緒だと、気を使ってゆっくり寝られないだろ?」
「それはそうかもだけど……洗面所で寝てもらうほうが、余計に気を使うよ……」
あー、そういう考え方もあるか。
たしかに風呂場の件でもあれだけ気を回せる彼女のことだ。部屋の主である俺を洗面所に追いやって、自分だけベッドで寝るなんて、受け入れづらいのだろう。
「でも、俺と一緒だと……イヤじゃない?」
彼女は小さく首を振った。
「……イヤとかは……ないよ」
その言葉はとても嬉しい。
……けど、もしかすると、男として認識されていないだけかもしれない。
それだと妙に悔しいが……まぁ、寝返りも打てない狭い洗面所で寝なくて済むなら助かるのは確かだ。
「じゃあ、一緒に寝ていいかな?」
「…………」
なぜか返事はすぐに返ってこなかった。
クマサンは顔を逸らし、小さく息を飲み込んでから、ゆっくりとうなずく。
「……うん」
その間が、少しだけ気になった。けれど、本当は嫌なのに無理をしている様子はない。
もしかしたら、やっぱり少し恥ずかしいのかもしれない。だが、安心してくれ、それは俺も同じだ。
照れ隠しのように、俺はいつになく張り切った調子でテーブルを動かし、寝る場所を広めに確保する。これなら左右どちらにも寝返りが打てるというものだ。
「……えっと、何してるの?」
クマサンが、戸惑いをにじませた声で問いかけてきた。
「テーブルどけたほうが、俺の寝るスペースが広くなるからさ」
「……ベッドで寝ないの?」
「ん? ベッドはクマサンに使ってもらうからな」
「――――? 一緒に寝るんでしょ?」
「ああ。だから、一緒の部屋で寝られるようにスペース確保したんだけど?」
「――――!! 一緒ってそういう……」
クマサンが急に膝を抱え、顔をうずめて悶えだした。
……な、なんだ? 急にどうした?
俺が首をかしげている間も、彼女は膝に顔を埋めたまま、肩を震わせていた。きっと女の子には、男にはわからないいろいろがあるんだろう。
「……だったら私が床で寝る」
ようやく復活したクマサンが、拗ねたような声でそんなことを言ってきた。
「……俺を、女の子に床で寝させて、自分だけベッドで寝るような男にしないでほしいんだけど」
「…………」
返事はないが、理解してもらえたようだ。
「クマサン、電気消すけど、常夜灯をつけたままでもいいかな?」
俺は真っ暗だとどうにも眠れない。明るい電気をつけたままのほうが寝やすいくらいだ。完全な暗闇は、夜中に何かあったときに安全に動けないという不安があって、どうにも落ち着かない。
「……いいよ。……それと、ありがと」
一瞬、何のお礼かと思ったが、すぐにベッドを譲ったことへの感謝だと気づく。
こういうところが、やっぱり可愛い。
俺はクマサンがベッドに移動するのを確認し、電気を薄暗いオレンジ色の常夜灯に切り替えた。
「それじゃあ、クマサン、おやすみ」
テーブルをどかして確保したスペースに、ブランケットを羽織って寝転ぶ。
「……おやすみなさい、ショウ」
誰かに「おやすみ」と言ったのも、言ってもらったのも、随分と久しぶりだ。
今の俺にかかっているのはただのブランケットだけ。けれど、クマサンからかけてもらった「おやすみなさい」という言葉は、どんな高級羽毛布団よりも暖かで心地よかった。
…………
いざこうやって横になってみると、今さらながらにクマサンが俺のベッドを使っていることが気になってくる。
何しろ、昨日まで毎日俺が寝ていたベッドだ。シーツはたまたま今朝替えたばかりだが、布団はしばらく干していない。もし「くさい」なんて思われたら……ダメージがでかすぎる。
「……クマサン、汗臭かったりしない? 大丈夫?」
「……大丈夫。……ショウの匂いがするだけ」
……いや、それって遠回しにくさいって言ってないか?
いやいや、きっと気を使って表現をやわらげてくれたんだろう。……ごめんよ、クマサン。
せめてこのブランケットを使ってもらえば良かったのかもしれないが、こちらはこちらで押し入れにしまいっぱなしだったので、少々カビ臭い。
せめて浅めに布団を被って匂いをできるだけ感じないようにしてほしいが――冷え性なのか、彼女は深めに布団を被っているようだ。
……今回は台風というイレギュラーな状況。申し訳ないが、クマサンには我慢してもらうしかあるまい。
そんなふうに、クマサンはちゃんと眠れるだろうかと気にかけていたが――いつの間にか俺は眠りに落ちていた。
その夜、俺は夢を見た。
クマサンが寝ている俺の隣に座り込み、じっと顔を覗きこんでいるのだ。
彼女ならベッドで寝ているはずだから、こんなのは夢に違いない。
「おーい、ホントに寝てるの?」
そう言いながら、俺の頬を指先でつついてくる。
何か反応すればこの夢から醒める――そんな気がして、俺は敢えてそのままされるがままにしていた。クマサンの行動が可愛らしくて、このまま見ていたいというのも正直なところだ。
「私はかなり勇気を出したし……場合によっては覚悟も――」
彼女の指が、ぐりぐりと強めに頬を押す。
……クマサンや。夢じゃなかったら、起きるぞ、これは。
しばらく頬を突かれたあと、やがて彼女の指が離れた。
「……どうやら、ホントに寝てるみたいだね」
意識はあるけど、これ自体が夢なら、やはり俺は寝ていると言っていいのだろう。
そんなことを考えていたとき――頬に、一瞬だけ柔らかい感触が触れた。
指先よりもずっと柔らかく、温かで、かすかな感触。
……はて? 今のは何だった?
そもそも俺は今寝ているのだ。目で見えているはずがない。
さっきまではクマサンの姿が見えていた気がするが、それだって俺が勝手に想像していただけのことかもしれない。
所詮、夢なんてそんないい加減なものだ。
「……おやすみ」
聞こえてきたのは再び彼女の「おやすみ」の声。
何度聞いてもいいものだ。夢の中だとしても。
 




