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第241話 一緒に寝ないの?

 浴室の中に入った瞬間、むっとした温かさと湿り気を帯びた空気に包まれ、この空間がいつもと違うことを実感する。

 一人暮らしの俺は、いつも自分が一番風呂だった。浴槽の蓋を開けるまでは、お湯の生み出す熱気を感じることもない。だが今、この湿気に満ちた空気が、俺の前に誰かがここを使ったことをはっきりと物語っていた。

 今さらながらに、俺の部屋の風呂をクマサンが使ったんだと思い知る。


「さっきまでここにクマサンがいたんだよな……しかも裸で……」


 気づいたときには、この場の空気を胸いっぱいに吸い込んでいた。

 こんなことをしているのがクマサンにバレたら軽蔑されかねないが……二度とないかもしれない機会だ。このくらいは許してほしいと心の中で言い訳をする。


「……あれ?」


 ふと足元に違和感を覚えた。

 浴室用の樹脂製すのこの上に立っているのに、足の裏に水気をほとんど感じないのだ。

 普段なら自分が一番風呂だから当たり前だが、今日は違う。先にクマサンが入っているんだから、もっと濡れているはずだ。

 しゃがんで確かめると、湿り気はあるものの水滴は残っていない。……きっとクマサンが出る前に拭いてくれたのだろう。

 思い返せば、浴室前のバスマットもほとんど濡れていなかった。つまり彼女は、濡れたすのこの水滴を拭っただけでなく、浴室の中で一度身体を拭いてから出てきたことになる。次に使う人――俺のために。


「……クマサンって、そういう人なんだよなぁ」


 その気配りに思わず感嘆する。

 浴槽の蓋を開ければ、湯面は誰かが入った後にしては随分澄んでいて、髪の毛一つ浮いていない。これもきっと、湯舟から出たあと、彼女が目につく髪の毛や汚れを取り除いてくれたからだろう。


「……逆に気を使わせちゃったかなぁ」


 良かれと思って先に入ってもらったが、失敗だっただろうか?

 ……いや、クマサンならきっと後から入っても同じことをしただろう。

 それならば、やはり一番風呂に入ってもらった方がいい。俺の選択は正しかったはずだ。

 そう自分に言い聞かせながら身体を洗い、綺麗な湯船にゆっくりと身を沈めた。


「ふぅ~」


 深い息が自然と漏れる。

 浴室に入ったときには少々邪な気持ちもあったが、今は違う。彼女の心遣いを感じたあとでは、下品な考えなど抱けるはずがない。それよりも、彼女の優しさと、同じお風呂を使っているという共有感に、ただ嬉しさを覚える。


「今日の風呂は、いつもよりずっと気持ちいい気がする」


 一番風呂ではないのに、こんなにも心地いい。

 それは、この部屋で初めて「一人じゃない」と実感できたからかもしれない。


 しっかり汗を流し、軽く掃除をしてから浴室を出る。

 そして気づく。


 ――しまった。慌てて洗面所に飛び込んだから、着替えを持ってきてない。


 普段なら裸のまま部屋に取りに行けばいいのだが――今日だけは、そうはいかない。クマサンに裸を見られるのも恥ずかしいが、それよりも、よからぬことを考えていると誤解されるのが恐ろしい。

 何しろ彼女はあの事件で危ない目に遭っている。男性恐怖症になってもおかしくないのに、今こうして俺と親しくしてくれているのは、助けた時のこともあって、俺を信頼してくれているからだろう。

 だから、あの出来事を思い出させるような真似をするわけにはいかない。


 ――そんなわけで、俺は一度脱いだ服を再び着直して、クマサンのいる部屋へと戻った。


「あれ? また同じ服?」


 俺の姿を見たクマサンが首をかしげる。

 できれば気づかれずに着替えを取って洗面所に戻りたかったが、そうはいかなかった。


「いやぁ、着替えを持って行くの忘れちゃってさ」


 この状況ではごまかしようもなく、頭をかきながらそう答えるしかなかった。

 クマサンは一瞬きょとんとした後――


「もう、何やってるのよ」


 くすくすと笑い出した。

 正直、そこまでおもしろいことではないと思うのだが――怖がらせるのではなく笑顔にできたことに、胸の奥がふっと軽くなる。


 その後、二人でテレビを見ながら取りとめのない会話を続けていたが、やがてクマサンが小さくあくびを漏らした。

 気づけばすでに日付は変わっている。生配信の疲れもあるだろうし、そろそろ休ませてあげないと。


 だが――この部屋にベッドは一つしかない!

 必然的に二人でその一つのベッドを使うことに――なんて期待しているわけはない。


「クマサン、そろそろ寝ようか」


 声をかけると、一瞬、クマサンの肩がぴくりと震えた気がした。

 ……ん? 今の反応って、授業中に眠気で身体がびくっとする「ジャーキング」ってやつか?

 もしかしたら彼女は限界ギリギリまで眠気をこらえていたのかもしれない。


「……そうだね」


 返ってきた声は、少し低くて硬い。

 緊張しているようにも聞こえるが、きっと疲れか眠気のせいだろう。……もっと早く寝かせてあげればよかったかな。

 俺もクマサンみたいに、人のことを気遣える人間にならなきゃな。


「じゃあ、クマサンは俺のベッド使って。枕カバーは替えてあるけど、気になるならタオルでも敷いてくれていいから」


 そう言って立ち上がり、押し入れからブランケットを取り出す。俺はそのまま洗面所へ向かおうと歩き出した。


「……ベッドはそっちじゃないよ?」

「……え?」


 思わず足を止めて振り返ると、不思議そうな表情を浮かべたクマサンと視線が合った。

 一緒のベッドで寝るなんてのは論外だが、同じ部屋の中に異性がいるだけでも、クマサンは安心して眠れないだろう。

 とはいえ、壁と扉で隔てられた空間は、洗面所、浴室、トイレの三つだけ。浴室とトイレはさすがにあり得ないので、必然的に俺が寝るのは洗面所しかない。

 だから、洗面所にベッドがあるはずはないのだが……それを伝えていなかったせいか、俺の行動が奇妙に見えたようだ。


「あー、安心して。俺は洗面所で寝るから」

「え……一緒に寝ないの?」


 彼女の小さく可愛らしい唇から紡がれた言葉に、俺の心臓はドクンと大きく跳ねた。


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